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私のアイドル

作者: Ono
掲載日:2026/04/18

 一ノ瀬いちご。身長150センチ、体重非公表。永遠の17歳を地で行く童顔の、実年齢は35歳、アイドル歴18年の大ベテランだ。

 そろそろマジで引退しません? そう訴えたのは30歳の誕生日のことだった。けれどありがたいのか厄介なのか、私の顔面はいつまで経っても衰えることなく、体型も歌声も運動能力も、びっくりするほど時間というものに見放されていた。

 私の真剣な辞意に対して事務所は「まだ全然現役だからねえ」と真顔で言ってのけ、マネージャーは次の出演番組の資料束をめくりながら「引退する説得力がないんですよね」と宣った。

 何の説得力だ、と思う。人気の低迷か。老いの実感か。体力の限界か。あるいは結婚の兆しとか。確かにどれも私にはないものだった。こんなにも多くを持っているがために。

 結局やめる理由より続ける理由のほうが多く積み上がって、引退を考えたあの日からさらに5年経った今も私は現役のアイドルだ。


 ただ若年層の新規ファンはともかくとして、デビューから追いかけているような古参のファンの膝と腰と心肺機能には時の流れが平等に訪れていた。私が本当に17歳だった頃、彼らの大半は私よりも年上だった。

 だから周年ツアーのセットリストには昔よりバラードを増やした。やたら跳ぶ曲は減らした。MCの時間を少し長くするためにトークスキルを磨いた。私が息を整えるための時間じゃない。立ちっぱなしの彼ら彼女らファンが、笑顔で最後まで私を見ていられるように。

 そういう工夫を自然に考えてしまうくらいには、私はこの仕事を愛していた。


 私はアイドルであることに誇りを持っている。

 だから恋だの愛だのに軽々しく飛びつくわけにはいかない。フィクションみたいに自分の感情で、ある日いきなり誰かの腕の中に転がり込んだりはしない。

 私は現実で数多の人の想いを汲んだ商品で、偶像で、職業人だ。夢を売る者には、夢との距離感が必要だ。

 ――なのに。


 私にはアイドルがいた。推しなんて軽い言葉では到底足りない。それは信仰そのものだった。

 毎朝うちのマンションの前の通りをごついハーレーが通るのだ。お腹の底を叩く三拍子の轟音。私はそれを聞くために、コンビニに行くふりをしてマンションを出る。目覚ましのカフェラテ一本を買いに行くふりをして、帽子を深くかぶり眼鏡をかけ、朝の空気の中へ飛び立つ。

 ハーレーを軽く乗り回す彼の身長は190センチくらいありそうだ。シープスキンの厚いコートに使い込まれたカウボーイブーツ、レイバンのサングラス。ただでさえハーレーダビッドソン、なんて時代錯誤なファッション。

 だけど彼の周りだけその時代錯誤が法になる。東京の朝のアスファルトの上に、彼のいる半径2メートルだけ60年代アメリカが鮮明に現れるのだった。


 朝っぱらからこんな住宅街でハーレーのエンジンを吹かすのだから、きっとご近所さんとは何度も揉めているに違いない。そんなことなど素知らぬ顔で彼は爆音を轟かせる。まさにBORN TO BE WILD、彼の辞書に“ご近所さんへの配慮”なんてしおらしい単語はない。あるのは風とガソリンと夜明け前の道路だけだ。

 彼は娼婦の恋人の胸で眠るか、そうでなければどこかのガレージに転がり込んでブーツを履いたまま夜を明かす。時々は夜通し愛車に跨って、冷たい風を感じながら朝を迎えるのだ。そういう人生があまりにも似合う人だった。

 何を買ったかも覚えてないコンビニ袋を提げたまま、彼が走り抜けていくのを見るたびに胸のどこかがぎゅっとなる。もちろん、そんなことは誰にも言わないけれど。


 私はバイクが好きだ。中でもハーレーが大好き。あの威圧と暴力、反骨の塊みたいなシルエット。社会をぶっ壊して荒野を駆ける男の魂。イージー☆ライダーはもちろん私の聖典だ。

 でも私は、バイクに乗ることはなかった。アイドルにハーレーは似合わないからだ。ううん、ハーレーに、アイドルが似合わないから。

 ライダースーツを着てみたところで私じゃ精々「コスプレ」でしかない。かっこいいと言ってもらうためのかっこよさ。もしマイクの前でハーレーへの愛を語れば「意外なギャップ」として消費される。そういう“属性”にされるのがたまらなく嫌だから、この趣味は誰にも話していなかった。

 ハーレーは私の憧れ、崇拝すべき偶像、そしてそれは一ノ瀬いちごのキャラクターではなく私の胸の内で完結するべきものだった。


 ***


 打ち合わせを終えて、後輩である夜埜森(ヨルノモリ)ちゃんと一緒に事務所を出た夕方。私は危うく悲鳴をあげるところだった。

 目の前の横断歩道にあの“イージーライダー”がいたのである。信号待ちで止まっている。近すぎる。十数年前、ステージの最前列に詰め寄ることが暗黙のうちにまだ許されていた頃くらいの近さだった。

 陽の傾いた街の中で彼のレイバンだけが古いスクリーンのような光を反射していた。

 そして私の隣にいた夜埜森ちゃんは、この現代日本にそぐわない光景に露骨に表情を歪めていた。

「うっわ」

 彼女は正真正銘の実年齢17歳のアイドルだ。ダウナー系でやたら周囲に毒を吐く、コアな人気はあるけれどニッチな売り方をしている。自宅に帰って寝室に入るまでそのキャラクターを絶対に崩さない、本物のプロフェッショナルでもあった。

 とはいえガチ清純派とは絡ませにくいから、わりと何を付け足しても許されるだけの固い地盤のある私と“化学反応”をさせるためによくコラボを組まされる。私は夜埜森ちゃんの毒舌をにっこりスルーして、だから彼女も私とはやりやすいらしかった。


 その夜埜森ちゃんが、ハーレーの三拍子を聞きながら本気の不快を示して言った。

「ああいう油臭いおっさん、マジ無理。年齢考えろよ、痛すぎんだろ」

「うん。そうだよね」

「時代に取り残された老害、きっついわ」

「うん。そうだよね」

 その「年齢考えろ老害」という真理が私に向けられたことはないので、夜埜森ちゃんはたぶん根っこのところがとてもいい子だった。

 私もまたプロのアイドル。時代錯誤のロックンロールに表向き眉をひそめるくらいはしてみせる。だけど内心では彼女の一言を舌の上で転がしていた。


 油臭いおっさん……。


 なんて甘美な響きだろうか。そう、そうそうそう、そうなのよ。きっと彼はいつもオイルまみれでガソリンの匂いがするのだ。手には機械油が染みついて、爪の隙間まで真っ黒に汚れている。

 うざがられても嫌がられても、周囲に迷惑かけまくって街に騒音と排気ガスを撒き散らしても自分の生き方を貫いて、最後も自分らしい死に方であっさり退場していく人。

 私のビリー。あるいはワイアット。


「いちご先輩、今日マネさんが言ってた握手会のことなんすけど」

「アイドルは膝を折って崇め奉るもの。近づこうなんて烏滸がましいのよ」

 夜埜森ちゃんがなぜかぽかんと口を開けていた。

「せ、先輩? それファンに言わんでくださいね?」

「……え、ごめん。なんか声に出てた?」

 夜埜森ちゃんは容赦なくドン引きした顔で私を見たあと、やれやれとため息を吐いた。

「疲れてるんすか」

「そうかも」

 違うよ。酔っているだけ。唯一無二のハーレーの、音と匂いに。


 ***


 翌朝も私はコンビニに行くふりをしてマンションを降りた。

 もし私が身長190センチの大男だったら好きなだけ筋肉をつけて、ハーレーに乗るに相応しい人間になっただろう。

 サングラスの似合う輪郭、太い顎に髭を生やして、埃まみれのシープスキンのコートや穴だらけのカーキのブルゾンを着こなしただろう。でも、そうではないからそうしない。

 清楚可憐で小柄な女、かわいいが似合うアイドル。かっこよさを演出するにもフォーマルな麗人が限界値。自分の欲望だけで跨ったって、ハーレーの魅力は充分に輝かない。

 理想を見つけた。それは幸運だ。だからこそ、自分が理想になれないことも知っている。私が交わることで理想は壊れる。

 あのイージーライダーみたいに、そのために生まれてきた男でなければいけないのだ。


 今朝、ハーレーのリズムはいつもより近くで刻まれた。足元から脳天まで揺さぶられる。

 たぶん寝惚けてでもいるんだろう。幻覚は私の目の前でヘルメットを取った。レイバンの奥の視線がまっすぐこちらを見ていた。ぼさぼさの髭は紳士的なものじゃない。演出のために作った無精髭でもない。

「あんたさぁ」

「……」

「こないだ見かけたな」

 幻が誰かに話しかけている。しかし振り向いても誰もいない。

「聞こえねえのか?」

 他人の耳に心地好く響かせようなんて一ミリも考えていない、ドスのきいた濁声。これは、私に向けられている気がする。どうやら幻覚ではないっぽい。

「あんた、なんか有名な人だろ。広告で見たぜ」

 瞬く間に私は絶望した。

 知られていた。アイドルだってことを。


 仕事に誇りはある。でも彼には知られたくなかった。だって彼はアイドルなんかに興味のない人間でなければならないし、でも彼の無関心を事実として突きつけられたらそれはそれで傷つくのだ。なんと面倒くさい35歳の乙女心か。

 彼はジャケットのポケットから、何かきらりと光るものを投げて寄越した。慌てて受け止める。夜埜森ちゃんがつけていたクロムハーツのチャームだった。彼女はおっさんのロックを毛嫌いするけれど、自分は中二病をしっかり通っている。そんなところもかわいいのだ。

「ツレの嬢ちゃんが落としてたぜ。届けてやんな」

「あ、あっ、あり、ありがとうございます! あの、」

 お礼を。連絡先を。せめてお名前を。そう言いかけた瞬間、彼はもうヘルメットを被っていた。ハーレーは遮るように馬鹿でかいエンジンを吹かして去っていった。


 ああ。危うく余計なことを口走るところだった。

 偶像は崇拝するもの。交わってはいけない。


 ***


 その日から、気のせいでなければ彼はたまに私を見るようになった。

 毎朝ってわけじゃない。二日に一度、三日に一度、もしくは一週間に一度。ちらりと視線を感じることがある。私はコンビニの袋を持ったまま、いかにもたまたま外にいましたという顔を保つ。向こうも向こうで、気づいていないみたいな顔をしている。

 滑稽だ。

 私は彼のことを知らない。名前も職業も年齢も。恋人がいるのか、結婚しているのか、どこで眠るのか、何を食べるのか、何が好きで何が嫌いなのか。何も知らない。知ってはいけない。

 機械に触る人の手をしていることだけは分かった。いつもとは違う道で見かけた時、グローブを外した指先を見たのだ。黒いオイル汚れが残っていた。想像通りで嬉しくなった。そんな自分にうんざりもした。


 いい年をして、朝の数十秒の邂逅に浮かれきっている。アイドルのくせに恋愛じみたときめきを感じてしまっている。

 私はアイドルだ。私自身が誰かの偶像だった。

 ステージではその場にいる全員のものであり、握手会では目の前にいるファンだけのものであり、ラジオでは若手を立てるものであり、後輩の炎上をさりげなく消火するものであり、生き方自体が他人のために存在するものだ。

 たかが毎朝近所を通るバイクひとつ男ひとりに心を乱されるなんて、どうかしている。

 どうかしているから、恋なのかもしれなかった。それを認める気にはなれなかったけれど。


 ツアーの初日が近づいている。衣装合わせの最中、マネージャーが言った。

「いちごさん、今回のMCで今後の活動について少し触れてもらえませんか」

「今後?」

「はい。最近また引退説が勝手に回ってるので」

「そりゃ回るよねえ、事実、年齢が年齢だもん」

「年齢相応に見えないのも事実です」

 鏡の中の私は相変わらず17歳みたいな顔をしていた。照明のせいでもメイクのせいでもない。肌は夜埜森ちゃんと並んでアップになっても鑑賞に耐える張りを持ち、輪郭はシャープなまま、浅いほうれい線すらなかった。一体どうなってるんだ。アイドルになるために生まれてきたかのような身体性。

 一ノ瀬いちごは美容に気を使い、エステに通っている。本当は何もしなくてもこれを保てていた。でも「なんにもしてないんです」と言えば反感を買うから努力を重ねていた。そのせいでより一層、肌が輝きを増すのだった。


 唯一、目だけは昔より静かになったかもしれない。18年分の景色を見た人間の目をしている。それがまた奇妙な魅力になってしまっていた。

「……やめ時がこない」

「でしょうね」

「30でやめるつもりだったのにぃ」

「知ってます」

「でも、ここまでくるともう、やめる理由も続ける理由もどっちも同じくらい重くなっちゃった」

「だったら今は続ける理由のほうだけ持っててください」

「簡単に言う~」

「簡単じゃないです。こちらも18年付き合ってるんですから」

 マネージャーはデビュー当時よりだいぶ老け込んでいた。

 私というアイドルを作ってるのは、天性の才能だけじゃない。周りの忍耐と愛情と諦めの悪さ。私は一人でここにいるわけじゃない。


 だからこそ、私は自分の立場を崩すような真似はしたくない。熱愛発覚なんて安っぽい見出しで18年を汚したくなかった。


 ***


 深夜、マンション下の自販機で水を買ってエントランスに戻ろうとした時、ハーレーの音がした。反射的に振り向く。どうしてこんな時間に。

 ヘルメットを取った彼の顔が自販機の青白い明かりに照らされる。夜だから、サングラスをかけてない。思っていたより目が優しかった。ビリーにもワイアットにも似ていないのに私の胸のドラムロールが止まらない。

「よお」

「ここここんばんは」

「珍しいな。朝じゃねえのにコンビニか。……ああ、自販機か」

「あなたも、珍しいです。朝じゃないのに」

 人間一年目みたいな拙い返事に自分でびっくりしてしまう。18年磨いてきたトークスキルが行方不明だ。

 でも彼はふっと笑った。いくつくらいだろう。四十代かもしれないし、もっと若いかもしれない。風雨で削られた岩みたいな顔立ち。


「仕事帰り」

「……何の、お仕事を?」

「修理屋」

 やっぱり、と思った。顔がにやけそうになる。夜埜森ちゃんが思いきり顔を顰めるようなオイルの匂いが香ってくるようだった。

「バイクの?」

「まあな。カスタムもやる」

 私は一瞬、自分の目が輝いたのを自覚した。たぶん隠せていなかった。だから彼がまた笑う。

「あんた、好きなのか」

「……え?」

「バイク」


 ここで好きですと言えば何かが変わる気がした。でも変えていいのかが分からない。ううん、変えてはいけないことを分かっていた。

 私はアイドルだ。この趣味を自分の“意外な一面”として売りにはしたくない。そして彼に対してだけ特別に自分を見せるなんて、ファンに対して不誠実だ。

 でも――だから、慎重に言葉を選んだ。

「嫌いでは、ないです」

「ふうん」

 彼はそれ以上踏み込まなかった。特に興味もなさそうな様子に安堵して、同じくらい寂しい。


「今度、ライブやるんだろ」

 不意にそう言われて私は息を呑んだ。

「知ってるんですか」

「広告が流れてた」

「興味、あるんですか。アイドルに」

「別に」

 胸がちくりとした。分かってたくせに。そうでなければいけないとさえ思ってるくせに。でもやっぱり、ちょっと打ちのめされる。でも彼はさらに続けた。

「毎朝同じ時間に同じ顔見てりゃ、覚える」

 私は返事ができなかった。それはつまり、私が彼を見ていたように、彼も私を見ていたということだろうか。


「頑張れよ」

 ぶっきらぼうに言って、彼はヘルメットを被った。返事をする前にまたハーレーのエンジンがかかる。彼は去っていく。その背中を見送りながら、私はどうしようもなくなっていた。

 私はバイクが好き。ハーレーが大好き。ライダーは相応しくなければならない。そして、あの男が乗っているハーレーでなければならない。


 ***


 ツアー初日。会場はいつも通り満員だった。初めて会場が埋まった時に「大相撲みたいに『満員御礼』の垂れ幕を吊るのはどうかな」と提案したらマネージャーに「は?」で叩き伏せられたことを思い出した。

 袖から眺める客席。新規も古参も、男の子も女の子も、昔のグッズを持っている人も、真新しいうちわを持ってる人もいる。会場が暗くなる前のざわめきは何度聞いても熱くなる。

 ステージに立てば、私生活も実年齢もハーレーの三拍子もぜんぶ消える。そこにいるのは「一ノ瀬いちご」という商品であり、みんなの夢であり、誰かの青春そのものだ。

 私はこの仕事に誇りを持っている。

 照明が落ちて、歓声が上がる。最初の一歩を踏み出した瞬間、私は自分の身体に何ひとつ無駄がないことを確かめる。18年ずっと歌とダンスを続けてきた人間の呼吸、間、視線。


 ボルテージをあげる最初の三曲のあと、MCが入る。

「私、よく“何歳までアイドル続けますか”って聞かれるんだけどさ」

 いつもの年齢ネタに会場が笑う。

「私にも、正直分かんないの。引退した大先輩たちは今でもみんなきれいでかわいくて、でも、みんなアイドルはやめたんだよね。……何歳まで続けるんだろう。だけどここに立つたびに、みんなの顔を見たら、まだやりたいなって思うんだ」

 拍手が起こる。無数の想いが集約されて、一ノ瀬いちごの名が会場のあちこちで叫ばれる。

「私、アイドルが好き。だから何歳になっても、何が起きても、簡単には降りないよ」


 その時だった。客席の後方、照明の届かない辺りに背の高い影が見えた気がした。会場でサングラスをかけるファンはいないだろうに、私の背後からのスポットライトが一瞬跳ね返ってきた。気のせいかもしれない。今度こそ私の願望が作った幻覚かもしれない。

 大体、もし彼がきていたのだとしても、それは私のためではないかもしれない。夜埜森ちゃんが目当てかもしれないし、他の後輩たちに刺さる子がいたのかもしれない。ロックを売りにしている子も、カントリーポップ風の子もいるし。

 それか友達に付き合わされたのかもしれない。そんなことは分からない。なんにも分からない。分からないままでいい。

 私は目の前の客席ぜんぶに向かって微笑んだ。アイドルは誰か一人のために歌うわけじゃない。


 時に、一ノ瀬いちごの奥にある視線が誰か一人に届いてしまうことはあるけれど。


 ***


 終演後、中打ちも終わって裏口から出ると、夜風が汗ばんだ首筋を撫でた。スタッフに囲まれながら車へ向かおうとして足を止めた。

 道路を挟んだ公園の前に、馬鹿でかいハーレーが停まっていた。彼は公園入口の柵に座って空を見上げ、相変わらずそこだけ映画のスクリーン。現実感が薄い。

 マネージャーが怪訝そうに私を見たけど、私は「ちょっと」と目で伝えた。長年の付き合いでそのくらいは通じる。


 車がきてないのを確認して、私は道路を走った。心臓がアンコールみたいに鳴っている。こんな程度で息が切れるわけないのに。

「……きてたんですか」

「ああ」

 彼は今やっと私に気づいたようだった。向かいに裏口があることも、その建物がライブ会場と一続きであることもあまりよく分かっていない様子だった。

「興味ないんじゃなかったんですか、アイドル」

「ねえよ」

「じゃあ、どうして?」

「頑張れって言ったろ。言ったからには、見届けねえと言葉が軽すぎんだろ」

 妙な律義さに笑ってしまう。彼が見届けにきてくれたこと、私が気づくとも限らなかったのに。


 彼はポケットから小さな紙袋を差し出してきた。何も考えずに受け取って中を見ると、真鍮製のキーホルダーが入っていた。羽を広げたハクトウワシ。なんてこった。足にオリーブの枝と矢束じゃなくてイチゴの枝を握っている。

 ステージ終わりに疲れることなんてなかったのに、目眩がした。

「店で余ってたやつ。いらなきゃ捨てていい」

「……修理屋さんのお店の、ですか?」

「そう」

 本当に売り物だろうか。どう見ても端材で作った感がある。

「あっ、ありがとうございます。大事に使います」

「別に」

「……あの」


 名前を聞きたい。どこに店があるのか知りたい。もっと話したい。バイクのこと、ハーレーのこと、本当は大好きだと伝えたい。朝ごとマンションの外に出ていたのはコンビニに行くためじゃないと、白状してしまいたい。

 でも、それを言った瞬間に何もかもが決定的に変わることを分かっていた。

 私はアイドルだ。簡単には降りない。今日ステージでその誓いを打ち明けた中に、彼もいたのだから、なおのこと。


 彼は黙りこくってしまった私を見て、あの周囲への配慮のない濁声で言った。

「あんた、そういう顔もすんだな」

「え。どういう顔ですか」

「客には見せねえ顔」

 見抜かれているようだった。ここにいるのがステージに立つ一ノ瀬いちごではないことを。

「……私、アイドルだから。職業柄、ファンに全部を見せるけど、見せたもの全部が私ってわけじゃない」

「ふうん」

「あなたもそんな感じでしょ?」

「ああ……まあな」

 彼は私の手の中にあるハクトウワシを見つめながら笑った。


 誰もいない公園に遠くの道路の音が響く。そろそろ車に乗らないと待ってるスタッフに迷惑をかけてしまう。私は紙袋を握りしめたまま、ようやく言った。

「私、あなたの……ハーレーが好きなんです」

 それが今の私の限界だった。でもきっと彼の柔らかくて鋭い視線は見抜いていた。

「知ってる。目が、バイク乗りの目だ」

「そんなに分かりやすかったですか。……私、免許も持ってないんですよ」

「身体で乗ってなくても好きにはなるだろ。毎朝出てくるくらいだしな」

 顔が熱くなる。18年前、これがデビューシングルの予定だって、でろでろに甘ったるい乙女チックなラブソングの仮歌を聞かされた時みたいに。


「今度、うちの店に寄ればいい。見るだけならタダだし、乗れそうなもんがありゃ、免許をとれよ。あんた鍛えてるみてえだから、乗れるだろ」

 今ならちょうど中古のドラッグスターがあるしな、と古くから私を知り尽くしているかのようなことを彼は言う。

 これは一体、どういうお誘いなのだろう。もちろんデートであるわけがない。通りすがりの知人から友人になる約束でもない。未来を保証するようなものでは決してない。でもただのお店の宣伝というにはちょっとだけ踏み込んでいた。

 私が彼の店に行けばそこから何かが始まるかもしれないし、あるいは何も始まらないかもしれない。バイクの話をして終わるだけかもしれない。私は65年型のハーレーを崇め奉りながら現実にはドラッグスター250に乗るために教習所へ行くかもしれない。

 私はその未定の曖昧さにむしろ救われた。恋愛だとか言い切らないでいられる余地が私と彼の間には依然としてあった。


「……考えておきます」

 私はそう答えた。彼は「おう」とだけ言って立ち上がり、彼の愛車に跨った。

「じゃあな、ワイルドなアイドルさん」

 思わずキーホルダーを落としそうになってしまった。馬鹿にしている響きはない。職業としての私をそのまま受け取った呼び方だった。ワイルドっていうのは、初めてくっつけられた形容詞ではあったけれど。

 ワイルドとアイドルは、ちょっと似ているかもしれない。耳に馴染んだエンジン音が轟いて彼はいつものように呆気なく去っていく。

 追いかけるわけじゃない。呼び止めもしない。連絡先も聞かなかった。……連絡先、聞いてない。店に寄るって、どこにあるの。聞き損ねた。馬鹿。

 と思ったら、キーホルダーが入っていた紙袋に住所が殴り書きされていた。


 ああ、私はあの人が好きなんだ。

 ただハーレーだけに憧れているんじゃない。あの轟音の向こう側にいる、不器用で時代錯誤でぶっきらぼうで、でもこちらの境界を乱暴に踏み越えてこない、野生の自由を持つ男に、私は確かに惹かれている。

 この恋がどうなるのかは分からない。

 私はまだまだアイドルを続けるだろうし、彼は今も私が押しつけた理想の輪郭をまとった遠い人。距離が縮まれば幻滅することもあるだろう。私の職業が彼の自由を煩わせる日もくるかもしれない。

 彼に奥さんがいる可能性だって、恋人がいる可能性だって、まだちゃんと残っている。けれど。


 疲れて寝ていた夜埜森ちゃんと気遣いまくるスタッフさんと、無言で圧をかけてくるマネージャーの待つ車に乗り込む。マンションへ送ってもらう道すがら、私は真鍮のハクトウワシが握ったイチゴの枝をそっと指でなぞってみた。

 明日の朝も私はコンビニへ行くふりをするだろう。

 偶像を崇めるだけだった私は今日、理想が模る幻覚の向こうにいる一人の男をちょっとだけ見てしまったけれど。でもやっぱり、明日の朝もハーレーの音を聞きに行くだろう。

 私はアイドルだ。簡単にはステージを降りない。そして彼は私のアイドルだ。膝を折って崇め奉るべきものに、自分から手を伸ばすなんて烏滸がましい。

 だけどもしいつか、ステージの照明が遠くなったいつの日か、一ノ瀬いちごが舞台を去ってただの私が彼の店の扉を押す時は。

 ハーレーよりもやかましいこの胸の鼓動を彼に聞かせて、あのどこまでも格好よく胸をえぐるエンディングを変えてしまっても、それはそれでいいかと思う。

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