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裏窓

作者: Ono
掲載日:2026/03/07

 八月の熱波はニューヨークの石造りのアパートを巨大な竈へと変えてしまったようだ。すべての部屋の窓という窓が開け放たれ、どこからか陽炎のようなソウルミュージックが漏れ聞こえてくる。中庭の乾いたコンクリートに音が跳ねた。

 ウエスト・ヴィレッジの古びた集合住宅、その一室でジェシー・ゴドフリーは車椅子に乗せられたまま、うんざりしながら背中を伸ばした。


 左脚はギプスで固められ、膝から足首までを白い石膏の筒に包まれている。自身の体温で蒸れ、痒みが痛み以上のストレスをもたらした。

 六週間前、カリフォルニアの砂漠地帯での撮影中に崖の縁に張り出した岩盤が崩れた。落下の瞬間もジェシーはシャッターを押し続けていた――後になって同行したアシスタントが言ったことには、岩が崩れる音がしてからシャッター音が止むまでの間に少なくとも三枚は撮っていたはずだ、と。

 それがジェシー・ゴドフリーという男の性分だった。

 骨折は全治三ヵ月。フリーランスのカメラマンとして十二年、世界各地の紛争地帯や被災地、また人里離れた秘境を駆け回った男が、今は蒸し風呂のような狭いアパートに縛りつけられている。


 長い療養生活の唯一の慰めは、裏窓から見える景色だった。

 寝室の窓からコの字型に配置されたアパートの中庭と、向かいの棟の窓々が一望できる。この酷暑のせいで住人たちは皆が部屋の窓を開けており、さながら劇場の舞台が見本として並べられているかのように、四角い枠の中で日々の幕が上がるのだ。

 ジェシーはいつも手の届くところに双眼鏡を置き、暇さえあればその()()を覗いていた。


 三階の左端に住むのは彼が「ミス・ロンリー」と呼んでいる女性の部屋だ。三十代半ばだろうか。一人きりでいるのに食卓には二人分の食器を並べ、昼と夕とでどちらか一方を片づけるという、見ていて胸が痛くなる習慣を持っている。

 その隣は皮肉なことに新婚カップルの部屋だった。ハウスウォーミングパーティーの大騒ぎが収まったのはほんの一週間前のことで、まだいちゃつきたい盛りらしく、夫のほうが仕事から帰ると窓越しに目を覆いたくなるほどの情熱的な出迎えが待っている。今夜も薄いカーテン越しに二つのシルエットが絡み合うことだろう。

 角部屋に、ジェシーが「中国人ピアニスト」と勝手に呼んでいる痩せた青年が住んでいる。実際に中国人なのかどうかは知らなかった。

 専門学校の学生か、それとも自称ミュージシャンか、神経質そうなアジア人の彼は毎晩遅くまで電子ピアノを弾いており、ヘッドフォンをしているので音は聞こえないが、白い指がシルバーの鍵盤の上を激しく走るのが窓から見えた。


 そして二階の右から二番目が、ジェシーが最も楽しみにしている「ミス・トルソ」の部屋だ。ロシア系の血を引くと思しき、長身で肢体の美しいバレリーナ。

 彼女は日に何度もバーレッスンを行う。汗ばんだ肌が陽光に透けるレオタードを纏い、窓から吹き込む微かな風が開けっぱなしのドアへと通り抜けてゆく。栗色の髪を揺らしながら踊る姿は、見ているジェシーの喉を渇かせた。

 トルソというあだ名は彼女の胴体の美しさに由来するわけではなく、彼女の身体の上半身だけ、つまりバーを握りながら上半身の動きを鏡に映して練習しているのが、ちょうど窓枠に切り取られて見えるのだった。

 実のところジェシー自身も、この名前の由来を後で考え直して少々恥ずかしくなったが、一人でつけたあだ名だから誰にも言わなければいいことである。


 一階、花壇の近くには中年の男女が住んでいる。亭主のほうは存在感が薄く、妻のほうが主導権を握っているのが一目で分かるような夫婦だ。

 やけに恰幅のいい妻が熱愛しているのは夫ではなく、黒と白のブチ模様を持つブルテリアだ。名前は窓越しに呼ぶ声から推測するに「ペッパー」らしい。このペッパーがまた中庭の花壇を掘り返すのが趣味という、アパートの中でも図抜けて厄介な隣人だった。

 妻は花壇の周りに土が散らかされるそのたびに「まあ、ペッパーったら!」と甲高い声をあげながら、呑気に尾を振る犬を叱れずにいた。


 最後に、一階の右端にある退役軍人の部屋を見る。

 ジェシーが初めてこの部屋に目を留めたのは、軍人が窓辺に置かれたベッドで眠る女性にスプーンで何かを食べさせているのを見た時だった。女性は白い肌掛けに包まれ、青白い顔を天井に向けていた。寝たきりらしかった。

 夫らしい軍人は短く刈り込んだ白髪頭を持つ、六十代の頑健な体格の男だった。窓に映る彼が妻に向ける眼差しには、いつも疲労と……何か別のもの、怒りとも倦怠ともつかない感情が滲んでいるように、ジェシーには見えた。


 裏窓の向こうで繰り広げられる数々の舞台。これが彼の世界だった。

 双眼鏡を置くと、車椅子の肘掛けに頬杖をついて、ジェシーは静かに息を吐き出した。


 ***


 ドアフォンが鳴ったのは夕方の五時を過ぎた頃だった。

「こんにちは、ゴドフリーさん」

 聞き慣れた声に、ジェシーは車椅子を玄関に向ける前に無意識に姿勢を正していた。


 エリサ・フリーマンは訪問看護ステーションから週三回派遣されてくる看護師だ。二十八歳の闊達な女性。小柄だが動作はきびきびとしており、白衣の下には強靭な精神が宿っている。少なくともジェシーはそう観察していた。

 彼女が初めてこの部屋を訪れた時、散らかり放題の床とゴミ袋の山を見渡し、「なるほど」とだけ言ってにこやかに掃除を始めた。

 その「なるほど」の含意するところがジェシーにはうまく読めず、それ以来、彼女がくる曜日になると事前に部屋をできるだけ片づけておくようになった。


「開いてる」

 ジェシーの応答の直後にドアが開き、白い帆布のトートバッグを提げたエリサが入ってくる。ベージュのチノパンとストライプのシャツ。髪は短いボブカットで清潔に整えられており、額にかかる一筋の前髪をときどき指で払う癖がある。

 蒸しますねと言いながら彼女は部屋を見回した。

「窓、開けっ放しですか。エアコンつければいいのに」

「電気代がかかる」

「せめて扇風機は?」

「うるさくて神経に障るんだ」

 エリサは呆れたように笑い、トートバッグをテーブルに置いた。


「足を診ますね」

「ああ、頼むよ」

 歩く代わりのマッサージをエリサが施してくれる間、ジェシーはぼんやりと窓の外を見ていた。

 エリサの指は力強く的確で、痺れたような感覚が続く足首のあたりを揉みほぐされると、思わず安堵のため息を吐き出してしまいそうになる。

 その無防備な息遣いをジェシーは理性で呑み込んだ。


「ミス・トルソが踊ってるよ」

「また覗いてるんですか?」

 エリサは熱心に手を動かしながら、視線は上げなかった。

「観察さ。職業柄の習性」

「へーえ。カメラマンの習性って、窓から他人の生活を盗み見ることなんですね」

「さよう。消えゆく刹那の日々を脳に記録することだ」

「ロマンチックな言い換えですねえ」

 彼女がくすりと笑う息が足に当たった気配がして、ジェシーは思わず彼女の顔を見た。俯いたまま彼の足首を揉んでいるエリサの頬に穏やかな微笑の名残りが浮かんでいる。


 彼女はいつも笑顔。それはただ仕事だからだ。

 ジェシーはそう自分に言い聞かせた。愛想のいい看護師は患者に好感を持たれやすく、患者の精神状態は回復速度に影響する。

 看護師なら誰しもそうであり、親密さはエリサのプロとしての態度に過ぎない。

 彼女が常に話題を豊富に持ち、ジェシーの話をよく聞き、適切なタイミングで笑うのも――その笑顔がジェシーの心を和らげるのも――すべてが厳格な訓練の結果なのだ。


 ジェシー・ゴドフリーは、カメラのレンズを通じて何百人もの人間の表情を記録してきた。感情の演技と本物の感情の違いくらい、見分けられるつもりだった。

 彼女は、仕事だから優しいだけだ。


 デリバリーされた夕食はチリコンカン、二人揃ってテーブルで食べた。エリサは勤務後の訪問なので食事を一緒にとることが多く、ジェシーも彼女がくる日は決まって二人分を注文した。

 これも互いの習性だ、とジェシーは自戒する。一人で食べるより会話があるほうが喉を通りやすい、それだけのことだ。回復を目指す患者と看護師の習性。

「ゴドフリーさん、アフリカってどんなところでしたか」

 トルティーヤにサワークリームを乗せながらエリサが聞いた。ジェシーが骨折前の最後の取材、南スーダンの難民キャンプでの話をしたのはもう二週間前のことだったが、彼女はその続きをまたいずれ話すと言ったのを覚えていたようだ。

「乾いて干からびそうになるよ。でも人は優しかった」

「私も行ってみたいな」


 何気ない彼女の呟きを聞いて、ジェシーはスプーンを置いた。

「やめておけ」

「え?」

「過酷すぎる。衛生状態も悪いし、女性が一人で歩き回れるような場所じゃない」

 エリサの表情が僅かに変わった。笑みが消え、代わりに失望、あるいは傷ついたような感情がちらりと過ぎった。

「一人じゃないですよ。一緒に行きたいなって話じゃないですか」

「僕についてきても邪魔になるだけだ」

 沈黙が落ちた。


 エリサはしばらくチリコンカンを見つめてから、「そうですね」と静かに言った。

 それ以上この話題には触れず、適当に天気の話をして食事を終えると、彼女はそそくさと帰り支度を始めた。

 玄関で彼女が「次は木曜日に」と言った時、いつもの明るい声より少しだけトーンが低かったのをジェシーの耳は聞き逃さなかった。

 ドアが閉まり、アパートの廊下を歩く足音が遠ざかってゆく。


 ジェシー・ゴドフリーめ、彼女の気分を害したな。

 チリコンカンが半分くらい残っていた。暑さのあまり食欲が失せてしまったのだ。

 彼は眠気でも払うように首を振り、窓の外に視線を戻した。向かいの棟の灯りが夜の中庭に四角い光を落としている。

 仕方ない。彼女にあんな旅ができるはずがない。これは現実的な問題だ。


 ミス・ロンリーの部屋では、女性がカーテンを引いたところだった。


 ***


 深夜、ジェシーはどうにも眠れず、車椅子に座ったまま窓辺で夜風を浴びていた。残念ながら空気はじっとりと滞って動かない。額に汗をかきながら、向かいの棟の暗い窓を数えて夜をやり過ごそうとする。

 新婚夫婦の部屋の灯りがようやく消えたのは一時過ぎ。ピアニストの部屋はまだうっすらと明るい。


 時計が午前二時を示した頃、うとうとしつつあったジェシーの耳にそれが飛び込んできた。

「やめて!」

 鋭い女の悲鳴だった。ジェシーは身を乗り出すように窓へともたれる。叫び声は向かいの棟のどこかから、おそらく一階の右端、軍人の部屋の方向からきたように思えた。続いて何かが割れる音。ガラスか、陶器か。

 それから、沈黙が訪れた。

 ジェシーは必死で双眼鏡をつかんだ。軍人の部屋はとうに暗い。窓は相変わらず開いているが、中は見えなかった。それでもベッドに横たわっている妻の姿が月明かりに照らされる――はずだった。

 しかし今夜は窓辺のベッドに姿が見えない。あの妻が出かけられるわけもないのに、いつも必ずそこにあった顔がないという事実はジェシーを激しく動揺させた。


 十分ほど経って、軍人の部屋に灯りがついた。

 グレーのスーツを着込んだ男が立っている。深夜に、まるで出張の準備をするような格好だ。手にはキャリーケース。大型の、旅行用のものを携えている。

 男は部屋を見回し、何かを確認するように頷いてから灯りを消した。

 ジェシーは双眼鏡をおろし、窓から隠れるように上半身を逸らす。奴に見られてはいけない。そんな気がしてならなかった。

 やがて中庭の出入り口、アパートの正面玄関に続く通路を、スーツ姿の軍人がキャリーケースを引きながら歩いてゆくのが見えた。その姿は間もなく闇に溶けていった。


 ジェシーはしばらく動かなかった。動くことができなかった。額の汗が顎を伝って落ちる。

 叫び声。ガラスの割れる音。そして、真夜中に荷物を持って姿を消す男。

 何でもないことかもしれない。ただの夫婦喧嘩。妻が怒って物を投げた。夫が頭を冷やしに出かけた。

 しかし――。

 あの男が妻に示してきた眼差しを、ジェシーは覚えていた。疲労の奥に潜む、底知れない暗い感情を。


 ゆっくりと音を立てないように車椅子をベッドに向かわせながら、ジェシーは明日、もう一度よく考えようと決めた。


 ***


 翌朝、明るい陽のもとで見ても軍人の部屋に妻の姿は見つからなかった。ベッドは窓辺から消えており、部屋は整然と片づいている。まるで長期不在の準備を整えたような。

 軍人は早朝から起きており、台所で何かをしていたが、午前十時頃に窓辺に座り、手元の作業を始めた。

 彼の手の中にあるのは、刃渡り二十センチほどのサバイバルナイフと手鋸だった。丁寧に、布を使って刃を磨いている。表情には何も浮かんでいない。ただ機械的な動作で刃の汚れを落としている。


 刃の汚れ。


 ナイフと手鋸の刃に付着していた汚れが何色だったか、動揺して確認できなかった。ジェシーはそのことを後でひどく後悔することになる。


 午後になって件の軍人は運送業者を呼んだようだった。

 ジェシーはあらかじめ双眼鏡を構えていたので、はっきりとその目で見た。業者の男二人が、軍人の部屋から大型のトランクを運び出す場面を。木製の蓋がついた、かなり大きなトランクだ。

 業者は重たそうなそれを台車に乗せて、軍人は玄関先まで慎重な目つきで見送った。トランクの蓋には大仰な鍵がついていた。


 エリサがきたのは夕方だった。前回帰り際の沈んだ様子などどこへやら、いつものように「こんにちは、ゴドフリーさん」と明るく入ってきた彼女に、ジェシーは窓の向こうでの出来事を話した。

 彼女は手際よく血圧計を出しながら聞いていたが、「ええ、夫婦喧嘩じゃないですか」と言った。

「かもしれない。しかし、あのナイフと手鋸は」

「工作が趣味の人なんていくらもいるでしょう」

「あの大きなトランクは」

「不用品を処分したとか」

 不用品。何気ない言葉が不気味な響きを持って脳裏に染み込んでくる。

「あの寝たきりの妻はどこに消えたんだ」


 エリサはちらりとジェシーを見た。

「ゴドフリーさん、他人の生活に踏み込みすぎですよ。プライバシーってものが」

「僕は外から見ているだけだ」

()()()だから見ちゃだめなんですよ」

 ジェシーは言い返さなかった。代わりに窓の外を向いた。軍人の部屋は静かで灯りもない。男は今夜はどこにいるのか。


 マッサージを終えた後、エリサは荷物を片づける前にジェシーの隣に並んで窓の外を見た。

「あの部屋ですか?」

「そうだ」

 しばらく黙って見ていて、「確かに、奥さんがいなくなってるんですね」と小さく言った。

「気にならないか」

「……気になりますね」

 ジェシーは彼女を見た。エリサは窓の外を見つめたまま、眉を少しだけひそめていた。


 ***


 胸のつかえがとれず、ジェシーはニューヨーク市警の刑事、ティム・デールに電話した。大学時代の友人で、今はマンハッタン北部署の殺人課に所属している男だ。

 どうせ足をやったのを口実に仕事を減らしてゆっくりしているんだろう、そんな軽口を叩くデールに、ジェシーは向かいの軍人について打ち明けた。

 電話の向こうで、長い沈黙があった。そしてデールは軍人の正体をジェシーに告げる。名前はルイス・ソーヤー、陸軍を退役した後は社会福祉関係の職に就いていたらしい。


「ジェシーよ」

 デールはゆっくりと言った。

「お前さんは今、骨折して動けなくてきっと暇を持て余してるんだろう」

「それは関係ない」

「大いに関係あるさ。窓の外から聞こえた叫び声とナイフと大きなトランク――そんなことで俺は令状を取れないぞ」

「せめて調べてくれるだけでいいんだよ、ティム」

「調べるって、何を? そいつは名誉勲章を持ってる上等な紳士だぜ。近所でも評判のいい、ちゃんと税金も払ってる善良な市民だ。根拠もなく犯罪者扱いしたら俺の首が飛んじまう」

「根拠ならある。ナイフと手鋸を磨いていた」

「俺も昨夜カミさんにどやされて台所のナイフを磨いたぞ」

「手鋸も?」

「ガレージの工具入れで埃を被ってる」


 ジェシーは歯嚙みした。

「ティム。分かるだろう。絶対におかしいんだよ」

「お前さんがもっと具体的な証拠を持ってきたら考える。頼むから、他人の家のことはほっとけ。お前には足を治すっていう大事な仕事があるじゃねえか」

 憐れむような声音を残して電話は切れた。


 翌日の昼過ぎ、中庭に異変が起きた。

 また悲鳴があがったのだ。しかし今度は出所がはっきりしていた。あの過剰な愛犬家の夫人が、中庭の花壇の近くで狂ったように叫んでいる。

「ペッパー! 私のペッパーが!」

 ジェシーはすぐに双眼鏡を向けた。花壇のそばの地面に黒と白のブチのブルテリアが横たわっている。ぴくりとも動かない。

 夫人の叫び声に何事かとアパートの住人たちが次々と窓から顔を出した。

 新婚夫婦の夫が心配そうに覗き込み、ミス・トルソが壁にもたれかかりながら冷たく眺め、ピアニストは苛立たしげにヘッドフォンを外して身を乗り出した。ミス・ロンリーは窓枠に両手をついて、祈るように目を閉じている。


 ジェシーは視線を動かした。ソーヤーの部屋。窓は閉まっていた。

 他の住人が全員窓から顔を出しているのに、あの部屋の窓だけが閉じられ、真冬かのようにしっかりとカーテンが引かれている。

 野郎、怖いんだな。

 ジェシーは心の中で言った。あの犬っころがしょっちゅう地面を掘り返すのをこの辺の誰もが知っていた。だから怖いのだ。

 夫人のヒステリックな泣き声が中庭に響き続けた。


 ***


 エリサは昼前にやってくるようになっていた。ジェシーはすぐに彼女に計画を話す。

「中庭で犬が死んでたんだ。奴がいつもひっくり返してた花壇の近くで。ソーヤーは花壇を掘り返されるのを恐れて、犬を殺したに違いない」

 しばしジェシーを見つめて考え込んでいたエリサは今日は白衣を着ており、いつものトートバッグよりも大きな医療用のバッグを持っていた。

「じゃあ、花壇に……奥さんを?」

「可能性がある。だから確かめたい。ソーヤーを外に連れ出している間に、花壇を調べてほしいんだ」

「私が?」

「君にしかできない」

 ジェシーが悔しげに親指で車椅子を指すと、エリサは窓の外に視線を移した。

「すでに犬が死んでいるということは」

 そう、彼女は静かに続けた。

「もし本当に何かあるなら、危ないですね」


 普段の彼女とは違い、白衣で沈黙に沈むエリサの横顔は冷静な判断をくだす前の、プロの医療従事者のそれだった。浮ついた感情ではなく、リスクと必要性を天秤にかける顔だ。

 ジェシーを振り返ると、彼女は真剣な顔で「分かりました」と頷いた。

「でも、私が花壇を調べている間に何かあったら、すぐ警察に電話してくださいね」

「もちろんだ」

 舞台の裏側に侵入することの危険は重々承知していた。巻き込むからには、エリサを決して傷つけてはならないと固く決意するのだった。


 ジェシーはソーヤーの部屋に電話をかけた。番号はデールに頼んで調べてある。証拠もないのに捜査はできないと言いながら、友人としてこれくらいはと教えてくれたのだ。

 数回のコールの後、低い男の声が答えた。

「はい、ソーヤー」

 いた。あの軍人の男。ジェシーはシャッターチャンスに狙いを定めきった時のように心臓の音を止めた。

「フェデックスです。ソーヤーさん、本日大型荷物のお届けがありますが、ご不在の場合は再配達になります。受け取りにきていただくことは可能ですか?」

「今すぐか?」

「はい、今お届けにきておりまして、少々お時間をいただくのですが……」

 短い沈黙のあと、通話口の向こうでため息が聞こえた。

「分かった、少し待っててくれ」

 電話が切れると同時にジェシーはエリサに合図を送った。


 すでに中庭に降りていたエリサが花壇のほうへと歩いていった。彼女の動作は落ち着いており、まるで日課の散歩をしているように自然な姿だ。ふと愛らしい花に目を留めた仕草で花壇の前に立ち、かがんで土を調べ始める。

 たった五分ほどが経過するのをジェシーは祈りながら数えた。

 裏窓の向こうでエリサがゆっくりと立ち上がり、ジェシーを見上げて重々しく首を横に振った。

 ――何も見当たらないわ。

 撫でるように手を動かして、土に掘り返した跡さえないことを伝えてくる。ジェシーは絶望的な気分で額に手を当てた。では花壇ではない。では、あのトランクの中には――。


 向かいの棟の窓を、一階から三階まで見渡した。自分でも何を探せばいいのか分からなかった。彼の視線に気づいてエリサも中庭から同じように見つめる。窓の数々を。そして、アパートへ通じる外階段を。

 ソーヤーは外に出た。じきに戻ってくるだろうが、三十分ほど部屋は無人のはずだ。エリサの視線はじっと外階段に注がれていた。

「エリサ」

 咎めるようにジェシーは窓から彼女の名前を呼んだ。考えていることは分かる。焦りでどくどくと心臓が嫌な音を立てていた。

 正義のために、証拠が必要だ。しかしあそこに入ったら不法侵入だ。もしソーヤーが戻ってきたら。

「ゴドフリーさん」

 窓の外でエリサがジェシーを見つめている。双眼鏡を使わなくてもそのまっすぐな輝きをよく知っている。

「私は医療の仕事をしています。もし本当にあの部屋で何かが起きているなら、それを確かめるのは……正しいことです」


 正しいかどうかの問題じゃない。君が危ない――。

「エリサ!」


 ***


 ジェシーは窓からエリサの姿を追った。

 彼女は中庭を横切り、向かいの棟の外階段に躊躇いなく足をかけた。一段一段、確かな足取りでのぼってゆく。一階の窓の前を通り過ぎ、二階へ。

 ソーヤーの部屋は一階だ。エリサは真上から一階の開いた窓に近づき、軽業師のようにするりと窓枠を跨いで室内に消えた。

「ちくしょう……」

 やはり巻き込むべきではなかったんだ。いざって時に彼女を止めることもできないくせに。

 ジェシーは拳で膝を叩いた。


 エリサが部屋の中を動き回っているのが、開いた窓越しに見えていた。抽斗を開け、戸棚を確認し、ジェシーの部屋を片づけるのと同じ手際の良さで()()を探している。

 三分、五分。心臓の鼓動が時計の針に同調していくようだった。

 ジェシーは中庭の出口を確認する。人影はない。もう少しだけ――しかしその時、出口の向こうに人影が現れた。

 がっしりとした体格に白髪頭が乗っている。ソーヤーが戻ってきた。

「エリサ!」

 ジェシーは窓から叫んだが、向かいの部屋までは中庭を挟んで距離がある。彼女には届かないかもしれない。


 必死の思いで電話をつかみ、911番を押した。

警察(Police)です! 不審者侵入の通報で……いえ、違います、聞いてください――向かいの棟の軍人が――妻を殺したかもしれない――窓から侵入した女性が今そこにいて、危険なんです」

 オペレーターが住所を確認する声が聞こえたが、ジェシーの視線はソーヤーの動きに釘づけだった。男がアパートの入り口から消えた。

 間もなく、窓の向こうで二つの人影が動いた。エリサとソーヤーが部屋の中で向き合っているのだ。

 あの夜に聞いた悲鳴がもう一度頭の中で響く気がした。「やめて!」既視の不安に張り裂けそうになり、ジェシーは電話を握りしめた。

「急いでくれ。お願いだ、早くしてくれ!」


 二分後。体感では数時間も経ったように長く感じた。中庭にパトカーのサイレンが鳴り響き、警官が二名、ソーヤーの部屋の前に立つ。

 しばらくしてエリサが部屋から連れ出されてくるのが見えた。手錠こそかかっていないが、警官に挟まれている。彼女は外に出ると左手を軽く動かし、何かをジェシーに向かって示してみせた。

 双眼鏡を覗くと、エリサの指の間に何かが光っていた。小さな指輪だ。おそらくは女性用の。


 パトカーに乗せられるエリサを見送ったあと、肌が粟立つような気配を感じてアパートに視線を戻す。

 ソーヤーが、こちらを見ていた。


 ***


 家宅侵入の嫌疑でエリサが警察署に連れて行かれた。ジェシーはデールに電話したが、彼は不在だった。留守番電話に「急いで折り返してくれ」とだけ告げ、電話を置く。

 部屋が静かだった。窓の外でも、さっきまでの喧噪が嘘のように向かいの棟はすっかり沈黙している。ソーヤーの部屋の電気はついており、カーテンが少し開いているが、男の姿は見えなかった。


 電話が鳴った。

「ティム?」

 沈黙。

「ティム、聞こえるか? エリサ――うちの看護師が、ソーヤーの部屋に入って指輪を見つけたんだ。奥さんの指輪だと思う。結婚指輪を外してたんだぞ。つまり、ソーヤーが――」

 沈黙は続いた。ちりちりとした感覚がジェシーの首筋に走った。

「もしもし?」

 電話は静かに切れた。


 ジェシーは受話器を見た。デールなら何か言うはずだ。「もう少し待ってくれ」でも「まだ言ってるのか」でもいい、何かを。何かを言うはずだ。

 あの電話は、デールではない。

 廊下で足音がした。


 ***


 足音はアパートの廊下の奥からゆっくりと近づいてきた。ジェシーの部屋を探しているようだった。規則正しく、重い足音。

 ジェシーは急いでカメラバッグに手を伸ばした。ニコンの一眼レフは修理に出したままだが、予備のコンパクトカメラが一台ある。ドアのノブに視線を固定したままバッグを引き寄せる。

 部屋の前で足音が止まった。

 一、二、三秒。空気に意識を張り巡らせるようにチャンスを窺う。


 ドアが開かれた。室内の電気は消えており、窓からの街灯の光だけが薄く差し込んでいる。玄関にがっしりとした人影が立っていた。

 ジェシーには顔が見えなかったが、見る必要などなかった。ソーヤーだ。「ゴドフリーさん」と男は言った。低く重たく、静かな声だった。

「妻のことで、あなたは何か誤解しておられるようだ」

 ジェシーは答えなかった。窓の脇、街灯から逃れた影の中で右手のコンパクトカメラを構える。

「フェデックスと偽って電話をかけてきたのもあなたですな」

 ソーヤーが一歩踏み出した。

「お聞かせましょう。すべて話しますよ」

 また一歩。


 撃鉄を起こすかのごとく。ソーヤーがもう一歩を踏み出した時、ジェシーはシャッターを切った。強烈なフラッシュが暗い部屋を白い光で塗り潰す。

 ソーヤーは呻き、顔の前に手をあげ、よろめいた。

 ジェシーは続けざまにシャッターを切った。二度、三度、四度。フラッシュのたびに室内が白く染められ、目が眩んだソーヤーは部屋を右往左往した。そして五度目のフラッシュを焚いた時、ソーヤーの手が窓の外を掻くように揺れた。

 男は何事か喚いた。何を言ったか、ジェシーには聞き取れなかった。ただ窓から身を乗り出した男の体がゆっくりと傾き、重心を失って――窓の外へ、消えていった。


 大した高さではない。しかし、下はコンクリートの中庭だった。重い衝撃音の後には不気味な静寂が漂っていた。

 ジェシーは震える手でもう一度電話をつかみ、911番を押した。

警察(Police)、いや……救急車(Ambulance)を……。ソーヤー、ルイス・ソーヤーが窓から落ちた。窓だ。中庭にソーヤーが……」


 やがてサイレンが近づいてきた。

 ソーヤーはただちに搬送された。頭部を強打しており意識がないようだった。ほとんど同時に警官が駆けつけ、ジェシーは事情を話した。デールも遅れて到着し、夜明けになってようやくすべての確認が終わった。

 家宅侵入と暴行未遂の容疑のもとで逮捕状が出ていたが、それが執行される前に――ルイス・ソーヤーは病院で意識を回復しないまま息を引き取った。

 窓から転落したのはソーヤー自身の過失による事故であり、ジェシーに直接の責任はないと判断された。

 エリサは保釈されて戻ってきた。こうしてすべては終わったのだった。


 ***


 九月になり、焼けるような熱波が去って朝晩には秋の涼しさが訪れていた。

 ジェシーのギプスは取れており、今は松葉杖をついてリハビリを進めている。裏窓の向こうにも、少しずつ日常が戻ってきていた。


 ブルテリアの夫妻は新しい仔犬、ペッパーよりひと回り小さい耳の垂れた茶色の雑種を手に入れ、ペッパーがしていたように花壇の土を前足で掘り始めたのを見ながら、夫妻は顔を見合わせて笑っていた。

 新婚夫婦は先週、初めて本格的な口論をしたようだ。妻が皿を投げつけ、夫がドアを蹴った。それから二時間後には二人のシルエットが抱き合っているのがカーテン越しに見えた。

 ミス・トルソは三週続けてバーレッスンを怠っている。レッスンのスケジュールが変わったか、あるいはどこか体を痛めたか。毎夜、外から帰ってくる彼女の足取りが重く見えるのは気のせいではないだろう。中庭を歩く彼女の全身は線が崩れつつあった。美貌は永遠ではない。それはカメラを通じて幾度も見てきたことだ。

 ミス・ロンリーはピアニストと付き合い始めたようだった。二人が中庭で並んで歩いているのを目撃し、ジェシーは不思議な感慨に捉われた。孤独な女と孤独な男が、窓を越えて出会った。

 軍人の部屋は改装中で、大工の音が中庭に響いている。


 秋の入り口を思わせる、乾いた風の吹く昼下がりだった。

 ジェシーはソファに横になり、松葉杖を脇に置いてうとうとしていた。隣でエリサが文庫本を読んでいる。

 事件を経て、患者と看護師という線は曖昧になっていた。署から戻ってきたエリサが「怖かった」と一言、ジェシーが何も言わずに手を伸ばして彼女の肩を引き寄せた。ただそれだけのことだった。

 後にデールからソーヤー夫妻のことを聞かされ、ジェシーの脳裏には時々、自分がソーヤーを突き落としたのではないかという曖昧な記憶が現れる。エリサが素直に恐怖心を露わにするたび、彼は現実を取り戻して安堵できるのだった。


 半分眠りに落ちかけたジェシーの視野の端に、エリサ・フリーマンの手が映る。女性らしく嫋やかで、しかし看護師らしく職務に荒れた頼もしい手。その手は今、クリスティの『(Sad )の柩(Cypress)』を開いている。

 あれはどういう物語だったか。確か寝たきりの老夫人が死ぬのだ。タイトルはシェイクスピアからきていた。

“去れ、去れ、死よ

 悲しき桧の木の下に私を葬れ

 去れ、去れ、息よ

 私は美しい残酷な乙女に殺されたのだ”


 電話が鳴った。ジェシーは目を閉じて、彼女がソファを立つ気配を感じた。

「はい、エリサです」

 彼女の声を聞きながらジェシーは眠気に体を任せる。

「……ええ、そう。バタバタしちゃって。あなたも聞いてるわよね、いろいろ」

 明るく過剰ではない笑い声。

「ええ。でも、おかげさまで落ち着いてきたわ」

 また彼女が笑う。今度はより小さく、しかしどこか含みのある。

「そうなの。旦那様があんなことになってお気の毒に……奥様がお気を落とさなければいいのだけれど」

 ジェシーは半分微睡んだ意識の中で、エリサの声の調子が変わったのを感じた。仕事の話をする時の抑制された声だ。

「そちらに入院されてるのよね、ソーヤーさん。大変だわ……」

 声が遠のく。


 ジェシーは眠りに落ちる手前で、ぼんやりと思った。エリサの仕事仲間が電話してきたのか。ソーヤーの妻のことを話している――。

 意識が溶けるように消える直前、ジェシーは窓の外を吹き抜けてゆく風の音を聞いた。


 ***


「……折を見て、お見舞いに行くわ。同じアパートの隣人ですもの」

 電話口の友人が病院の状況を話すのを聞きながら、エリサの表情は彼女が電話に出た瞬間のままだった。眦は穏やかで、友人への心遣いが滲む。

 廊下の窓から差し込む午後の光がジェシーの寝顔を淡く照らすのを見てエリサは微笑んだ。


 ルイス・ソーヤーの妻は、彼女の友人が勤める施設に入院しているようだった。エリサはそれを知っていた。


 エリサは友人に「ご苦労様、無理はしないでね」と言い、電話を切った。

 部屋の空気は静かで、ジェシーの寝息だけが満ちている。エリサは少しの間、その場に立っていた。


 ソーヤー夫人は施設に移っていた。骨折から肺炎を起こして、緊急入院したらしい。夫は知らせを受けて夜中に急いで出て行った。

 ナイフと手鋸は? 押し入れに大工道具が大量にあった。ルイスの年齢もあって夫人はそのまま施設で余生を過ごすことになった。彼女のベッドを片づけるのに使ったのだ。

 大きなトランクは? 夫人の荷物がすべて詰め込まれていた。彼女の人生を恙無く施設へ移すためにソーヤーが用意したものだった。


 では、ジェシーが聞いたあの悲鳴は?


 あの夜、叫び声がした時。エリサはジェシーの部屋の外の廊下に立っていた。そして叫び声をあげ、廊下の花瓶を叩きつけて割ったのだ。

 退役軍人であるソーヤーの部屋は他と違って夏でもきちんと窓が閉められていた。寝たきりの妻の安全のためだった。あの部屋から、ジェシーの部屋まで声が聞こえるはずもない。

 ()()()()はエリサが作り出した幻だった。

 指輪は? 部屋の抽斗の奥に入っていた、ソーヤー夫人の名前が刻まれた古い結婚指輪は――殺人の証拠でも何でもなかった。おそらく寝たきりで妻の指が細くなってしまったので、外して仕舞っておいただけのものだろう。

 エリサはそれをポケットに入れた。窓から見守っていたジェシーに指輪を見せた。

 ただそれだけで、すべては動いた。


 ***


 エリサは眠るジェシーの隣に、彼を起こさないようにそっと腰をおろした。ジェシーの寝息は穏やかで、足の傷は癒えつつあり、松葉杖もいずれ不要になるだろう。次の撮影旅行にはエリサもついていく約束をしていた。

 伏せていた『杉の柩』を拾い上げ、続きを読み始める。ジェシーの肩が彼女の太腿に軽く触れており、彼は眠りの中でそれに気づかないまま、体の重心を彼女に預けた。

「お気の毒だったわ、ソーヤーさん。奥様も一緒に連れていかれたらよかったのだけれど……私、自分で殺人を犯すのは嫌だもの」

 窓の外、秋の風が中庭の木の葉を優しく揺らす。エリサの表情は心から幸福そうだった。

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