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相棒はカンフー童女  作者: ユーカリの木
きわめて人工的で人間的なあなた
86/86

終章:愛は最良の教師である

 意識の浮上と共にまぶたを開くと、そこそこ見慣れるようになった自室だった。どうやら無事に帰ってくることができたらしい。


 甘い匂い。右を見ると、ペルテテーが寝息を立てていた。ぱっと顔が赤くなるが、どうにも腹部が重くて気分が落ちる。布団を軽く引っぺがすと、フェンが胴体を掴んで寝ていた。時折ちょわ~とか寝言を言っているから、夢の中で映画でも見ているに違いない。


 とりあえずこの竜を蹴り飛ばしたかったが、心配をかけたはずだから、しばらくはこうしていよう。


 カーテンの隙間から朝日が覗いている。随分と眠ってしまったらしい。そういえば空腹も感じている。やはりフェンを投げてしまおうか。


 フェンの扱いに悩んでいると、童女がむくっと顔を上げた。


「おお、ぬしよ。起きたか」


「ごめん、心配かけたかな?」


「うむ、危うく暴れかけるところだった」


「……何も壊してない?」


「案ずるな。何も壊しておらん」


「なら良かった。賠償請求が頭によぎったよ……」


 うむ、とフェンがハルキの腹に頬を寄せた。なんだかむず痒い。


「起きたならどいてくれないかな?」


「しばらく好きにさせい。ぬしがおらんくなると我は暴れることが分かったのでな」


 なんとも言えない気分になって、ハルキはフェンの頭を撫でた。むほほ、という声を出す童女が気持ち悪い。


 ぐるぐるるる~、とフェンの腹が鳴る。ばっ、と顔を剥がした童女が満面の笑みを浮かべた。


「我、腹減った!」


 フェンが布団を蹴り上げ、その隙間から軽業師のようにベッドから退いて床に降り立つ。朝くらいは静かにしてほしい。あと埃が舞う。


「朝ごはん~」


 とててて、とフェンが部屋を出ていった。


 ハルキは少しずれた布団を引っ張ってかけ直す。身体を右に向けてペルテテーと対面した。彼女はまだ起きる様子はない。


 まじまじとペルテテーの顔を眺める。やっぱり可愛い。いや、綺麗だ。どっちも同居している。


 できればこう、もうちょっと色々見たいのだが、ペルテテーが起きるまでのんびり待つとしよう。


 三十分くらい経っただろうか。ペルテテーの目がぱちんと開いた。


「ハルキ?」


「うん、おはよう」


 にへら、とペルテテーが笑う。


「ハルキだー」


 すぅ、とペルテテーが近づいて首筋に額を当てた。微妙に角が当たってちょっとくすぐったい。


「ごめん、心配をかけたね」


「大変だったんだからね。フェンなんかもうカンカンだったよ」


 暴れかけたとか言っていたが、実は暴れたのではなかろうか。後日になって請求書が来てはたまらない。


「なにも壊してないよね? 請求書とかないよね?」


「ん、大丈夫。ハルキがいなくなって泣いてただけ」


 あのフェンが泣いた? いや、確かに涙腺は脆い方だ。ゲームで負けて泣くし。でも、思ったよりあの竜に心配させてしまったようだ。高いお菓子を買ってこよう、と深く心に誓う。


「フェンになに買えばいいかな? どら焼きは昨日食べたし。ケーキ? それとも新作?」


「羊羹は? どら焼きと同じ小豆を寒天で固めたお菓子。美味しいよ?」


「聞いたことがないお菓子だ。買いに行こう」


「デートしてくれるの?」


「もちろんだ。さて、善は急げだ。早速準備をしよう」


 布団から抜け出し、洗面所へ行く。身だしなみを整えてリビングに入ると、水色が走ってきた。そして、目の前でうずくまった。新しい挨拶だろうか。


「……ノア?」


「申し訳ありません。もはやなんとお詫びして良いのか私には分かりません。ですが、いまはただ謝罪をさせてください。母の愚行により人生を狂わせてしまったこと、誠に申し訳ありません」


「うん? 別に君がなにかした訳じゃないんだし、謝罪する必要はないんじゃないかな?」


「ですが母が……」


「それは君のお母さんの罪さ。ノアはなにも悪くない。むしろあのときは守れなくてごめん」


「なぜ、ハルキさんが謝るのです」


「そりゃ悪いことしたと思ってるからさ。新人を守れなかった先輩にはお仕置きが必要なんだよ」


 こつん、とテーブルが叩かれる。椅子に座って見ていたオライオンが嫌な笑みを浮かべていた。


「よし、いまお仕置きが必要って言ったな? 言質取ったぞ?」


「ちょっと待とうか。色々と誤解がある気がするんだ」


「おいおい、勝手に人質になって勝手に色々押し付けたんだぜ? そりゃもう、報復のひとつもしたくなるのが人情ってもんだろ」


「僕らは仲間じゃないか。苦労って分かち合うものだと思うんだよ」


 ははっ、とオライオンが笑う。


「ペルテテー連れてホテル行ってこい。明日まで絶対に帰ってくんな。明日のこの時間まで敷地内に入れると思うなよ?」


「この家は僕が買ったんだけど……。それに、ホテル? なんで?」


 これだから恋愛偏差値ゼロは困る、とオライオンが肩を竦めた。非常に苛立つ言葉だ。


「ペルテテーの目的を果たすのに一番いい場所がそこだ。いいからさっさと行けって」


 なんだ、なんの話だ。思考を回し、ようやく思い至る。


「ああ、初夜の話?」


「しょ、しょや⁉」


 ノアが素っ頓狂な声を上げる。


「あ、え……は、ハルキさんと、ペルテテーさんが……ほ、ホテルとは、まさか……」


 そのとき、急に姿を表したナーガがノアを抱き上げる。


「ほれ、ノアはんちぃっとばっか耳塞いどきぃ? 一回部屋もどろかぁ」


 ノアがナーガに連れ出されてリビングから消えた。なぜだ。


「で、なぜホテル?」


「それはペルテテーに聞け」


「無策で初夜はちょっと怖いんだけど」


「ペルテテーに聞け」


 反応がそれしかこない。情報が足りない。生殖行為という情報だけで一体どう戦えばいいのだろう。いや、確か勝負ではなかったはずだ。そもそも、生殖行為とはなにをする? 分からないことだらけだ。


「オライオン、ゴムとやらは必要なんじゃないかな? メルダーがそんなことを言ってた気がするんだ」


「お前車中でどんな会話してたんだよ……ペルテテーに聞けよもう」


 ぱたぱたと足音がして、リビングにペルテテーが入ってきた。髪をまとめて普段の装いとなった彼女が、オライオンの顔を見て首を傾げた。


「なに? なんかあった?」


 オライオンは疲れたようにため息し、何も言わずマグカップを仇のごとく睨み始めた。話す気がなくなったようだ。


「オライオンがペルテテーとホテルに行けって言うんだよ。しかも明日になるまで帰って来るなって言うんだ。ひどいよね?」


 途端、ペルテテーが真顔になったかと思ったら、その場で足をばたつかせ始める。


「オライオン! あんたナイス!」


「いいから行け。さっさと行け。この恋愛偏差値ゼロ男を連れていけ」


「待って! うんと御洒落したい! 十分……じゃない、五分だけ待って!」


「はいはい、分かったからあとは任せる」


 ペルテテーが風のように消えた。意味が分からない。もはや縋る相手はフェンしかいない。童女は席に座り、大量の焼いた食パンを食べていてさっきから一言も話していない。


「フェン、一体どういうことなのかな?」


 頬を膨らませるまで食パンを詰め込んだフェンが、ハルキを見て口の中身を一気に吞み込んだ。そして、なぜか遠い目をして穏やかな微笑みを浮かべた。


「あのハルキがのぉ……大人になったものよ」


 こいつも答える気がないらしい。


 ディアナを探す。いない。昨日から仕事で外泊しているのか。なんてことだ。


 バンッ、とリビングのドアが開く。びっくりして振り返る。普段露出の少ないペルテテーの肌がこれでもかというくらい目に入った。肩も太ももも全部見えている。なんなら胸の谷間もだ。


「行ってくりゅ!」


 腕を掴まれたハルキは、ペルテテーのものすごい力に引きずられる。


「ペルテテー! せめて事前説明を求める!」


 ふっ、とペルテテーが耳打ちする。


「ホテルで教えるから」


 ぼん、と頭が火を噴いた気がした。




 ◇◆◇




 中身が空になったマグカップを見て、オライオンはなんとも言えない気分になって重い息を吐く。


「やっと行ったやっと行った」


 ことん、とマグカップを置いたフェンが愉し気な顔で見てくる。


「なんぞ、羨ましいか?」


「どうだかな。あいつと同じ立ち位置であいつと同じことをできる気はしない」


「なに、別にぬしがハルキになる必要はあるまい」


 マグカップを持ったままひょこ、と椅子から降りたフェンが、とてててと冷蔵庫へ向かう。中身を物色してカフェオレの紙パックを取り出した。


「昨日はああ言うてしもうたが、我はぬしらを気に入っておる。皆が皆、別の方向で突出した者どもよ。ならば、力を合わせるというやつをやればよかろう」


 ふん、とフェンが椅子に座ってマグカップにカフェオレを注ぐ。空になったオライオンのものを小さい手で掴んで中身を入れる。


「サンキュ。エガリゼ曰く、俺は交渉事が似合わないってよ」


「それはハルキが担当すればよい。やつも言うておったろう、企業を繋ぐことに長けていると」


「分かってるよ。ただ、出自を考えるとどうにも情けなくなってくる」


「なんぞ、かけられた金ならハルキの方が上だろう?」


「ひでえ比較の仕方をしやがるな、フェン」


「我には、ぬしの影は好かん。もっと出会った当初のごとく快活であれ。そのほうが、我にとってはぬしらしい」


「代表になると悩みが増えるんだよ」


「ならその悩みを言うてみよ。我らがなぎ倒してやろう」


 喉の奥から笑いがこぼれた。さすが、竜の言うことは面白い。


「そうだな、目下厄介なのはエガリゼへの連絡だ。なぎ倒してくれねえか?」


「ふむ、我ならば戦略的撤退よ」


 がくん、と頭が落ちた。首が痛い。


「ならナーガにでも頼むか。あいつも元マフィアだし、できるだろ」


「無理やわぁ。わい交渉とかできへんでぇ」


 やはりいきなり現れたナーガがブドウジュースを飲みながら言った。隣にはノアもいる。


「代表は、できると思うのです……! 私はオライオンさんが頑張っていることを知っています」


 ノアの一生懸命な言葉が心に染みる。やはり彼女を雇って正解だった。


 ふぉっふぉっふぉ、とフェンの老子の笑い声。


「ユニオンを相手取ると決めたのだろう? なればこそ、マフィアの幹部くらい丸め込んでしまえ」


「元用心棒にとっては楽しい楽しい戦場やぁ。期待しとるで代表はん」


 はあ、と微妙な息を吐いて、カフェオレを煽る。甘すぎる液体が脳を活性化させていく。


「んじゃま、代表らしい仕事でもするか」


 オライオンは椅子から立ち上がって一度伸びをする。肩を回しながら自室へ戻り、ノートPCを起動してメールを作る。面倒ではあるが、シュタインバウへ渡りを付けなければならない。約束を反故にされたエガリゼの対応などまっぴらだ。


「建築に金融業界の序列一位にマフィアを繋げるのが俺の仕事かよ。最悪な組み合わせじゃねえか。正義の欠片もねぇな」


 正義だけで生きていけるほど、この街は優しくない。しかし、ユニオンへマフィアを紹介することがどう考えれば正義に繋がるのかは謎だ。


 深い思考はやめだ。


 最終的にユニオンを潰す。それが叶うなら、多少の悪とて抱えてみせよう。


 とりあえずの目標はクリスタルライン。実家の不正をつまびらかにして世間に公表し、暗部を潰す。ユニオンという巨人軍団の中でも最強格だ。


「ほんと、なんでそんな奴らに敵対しようとしてんだろうな」


 答えはいつだって胸の内にある。いくら叩きのめされ、跪こうが、どうやっても消えない炎は存在する。


 この熱を原動力に、アッシュ・クリスタルライン――オライオンはずっと走ってきたのだ。




 ◇◆◇




 会議を終えて、クリスタルライン現CEOのファスキアは、ひとつの嘆息を落とした。彼にとっては、この短期間でプランが二つも潰された形になる。人工アヴェスター計画、人工マナ操作種計画、このどれもが目標手前で頓挫した。


 マナ結晶の供給の細さは、クリスタルラインにとっては巨大な急所だ。この供給が止まれば、ケイオス市は文字通り崩壊する。それを塞ぐべく動けば何者かによって潰される。企業連合体ユニオンが動かしている裏の事業がだ。


 探りを入れれば北セクターを縄張りとするマフィアT3が浮上する。更に調査を重ねれば、絶縁したアッシュが関係している。そして、86番――ハルキ。頭の痛い問題だった。


 アッシュはいまや、市内でも有名なオライオン奈落探偵事務所の代表だ。元クリスタルラインの御曹司でありながら市井に下り、短期間で小奈落を続々と制覇していく様は、ケイオス市ではある種の希望にも見えるのだろう。


 フォスキアは背中を椅子に深く沈める。


「景久、現状をどう見る?」


 部屋の影に佇んでいた武人が、足音も立てずにフォスキアの脇に立つ。白銀の毛並みに、羽織に着流し姿がよく映える狼のベスティアは、快活に笑った。


「息子に振り回される父の図よ。俺の目にはなかなかに楽しく映る」


「ああ、お前はアッシュを息子同然に思っていたな」


「計画のひとつやふたつくれてやれ。それが親の甲斐性だろう」


「凄まじい損失額だ。過去現在未来も含めてね。いくら息子であろうと、そろそろおいたを止めたいところだ」


 景久がにやりと笑う。


「俺を抜くか? それもいいだろう」


「お前を暗殺者にしないとして雇った。そう簡単に契約は反故にしない」


「俺は俺の仕事をする。刃の向け先は貴様が決めい」


 武人の言葉はいつだって切れ味が鋭い。その刃がいずれこの身に及ぶのではないかと考えていた。


 アッシュがクリスタルラインの暗部を知ったあの日。死体置き場へ飛び込んだあの日。フォスキアは覚悟をしていたのだ。


「私はあの日、お前が刃を向ける先は私だと思っていたよ」


「阿呆、俺は主君を一度たりとも裏切ったことはない。堕ちたこの身を救い上げた貴様をどうして裏切れようか」


 忠義の言葉を受けて、フォスキアは目を細めた。


「私はクリスタルライン全従業員とその家族を預かる身だ。誰に何を言われようとも、これを守る義務がある。ケイオス市を発展させる責任がある。それらが叶うのなら、あの悪魔であるエーテル研究所とも手を組む」


「悪を自覚し悪を成す。それもよかろう。なに、主君が歩む道ならば、俺はどんな道であろうと共に歩む。案ずるな、物理的な災いは俺が取り除いてやる」


 ふっ、とフォスキアは笑みを落とす。武人の言葉は時に優雅だ。


「お前はお前で矛盾を抱えているな。アッシュを見逃したかと思えば私の傍にいる。いるかと思えば私よりもアッシュのことを考えている」


「なに、それが一番人間らしいだろう?」


 矛盾こそが人。道理だった。人は矛盾を抱えずには生きていられない。


「先の妖精種の女に聞かせたい言葉だ」


「あれは好かん。やれというならば無料で斬ってやるぞ?」


「あの女は正真正銘のクズだが、研究者としては最高峰だ。沙汰はルミナス工房に譲れば良い。お前の刀を汚す価値はない」


「ならば因果応報が巡るようお天道様に祈るとしよう」


「さあ、茶でも飲むか。極東の菓子を用意させている。お前もどうだ?」


「ご相伴に預かるとも。やはり歳を食うと故郷の味が恋しくなる」




 ◇◆◇




「とまあ、オライオンもペルテテーもナーガも、大概にやらかしておるということだ。こやつらに比べればノアよ、ぬしの罪悪など風に吹かれる木の葉のようなものよ」


 代表が部屋に引っ込んで一時間以上は経っただろうか。師が過去の話を終えてそう締めくくった。


「フェンはんに言われたないわぁ。電柱破壊何回止めた思うてるねん」


「結果良ければすべてよし!」


「わいの腹、痛かったなぁ」


 ナーガが腹をさすりながら師を恨めしそうに見ていた。師はリビングのテーブルに用意されたお菓子を嬉しそうに頬張っていて気づいてすらいない。


 この光景が、ノアには眩しく見えた。すべてをさらけ出してなお一緒にいられるこの場所は、人と人の縁が作り出した奇跡だ。


「この場にいられることは、私にとっての幸いです」


「なに、威厳たっぷりな我の背中を見てすくすくと育つが良い!」


 師の口からお菓子の破片がぽろぽろと落ちる。ナーガがそれをティッシュで拭っていく。


「師よ、お菓子はもうちょっと落ち着いて食べた方がいいと思うのです」


「せやなぁ。足元をちぃっと見てほしいなぁ。こぼしてる端から片づけてるわいも悪いんかなぁ」


「ナーガさん、しつけとは自律した生活を送れるようにしなければなりません。きっと、甘やかすばかりではいけないのです」


 なるほど、とナーガがひとつ頷く。


「自分で尻拭かせるのも大事やなぁ」


 ばっ、と師が椅子の上で立ち上がる。


「待つのだ! 話題の方向が何かおかしかろう? 我子どもじゃない!」


「師よ、椅子に立っては危ないです」


「我は竜ぞ?」


「では転んだら床が傷ついてしまいます」


「我いまは重くない!」


「では師よ、大人な姿を見せて下さい」


 一度まぶたをぱちんとした師が、ふしゅーっ、と鼻息を荒くした。目が左右に惑い、肩をわなわなと震わせている。


 なにやらナーガがくつくつと身体を上下させているが、いまは置いておこう。ノアは両手を胸の前で組んで師へ熱いまなざしを注ぐ。


「私は師を敬愛していたいのです」


 そのとき、師の時が止まった。


 ふんぬっ、と力強く鼻を鳴らした師が、ゆっくりと椅子に腰を落とし、ティッシュを掴むとテーブルを綺麗にし始めた。


 なんと荘厳な光景か。


「ああ、師よ。きっとあなたの気高さは、たとえ谷の影を歩もうとも、いつの日も私の胸に届くのです」


 しつけの結果がここにある。鐘を打てば鳴るように、注いだ敬愛は熱く返って来るのだ。


「だろう? そうだろう? 我、威厳たっぷり!」


「それ言わな威厳たっぷりやったなぁ」


 台無しである。


 それでも、威厳を落っことしてばかりの師がノアはいいのだ。


 それはそれとして、しつけは継続していかなければならない。副代表兼参謀であるハルキと約束したのだ。神の御名の下、この家に平和をもたらすと誓ったのだ。


 人は完全ではない。みなどこかしらに欠点を持っていて、それを補って生きていくのだ。そうあれかしとノアは心で祈る。


「なんだ、なにやってんの?」


 代表が首を回しながらリビングにやって来る。目をしばたたかせて、どっさりと椅子に座る。口元を緩めたナーガがぼんやりと答えた。


「フェンはんが掃除してはったんやぁ」


「え? 奇跡?」


 ぐぬぬ、と喉を鳴らしたフェンが一瞬ノアに視線を向けると、ぐっと奥歯を噛んで唸り声を収めた。


「わ、我もそれくらいするとも」


「うそだぁ。いっつも散らかしっぱなしじゃねえか。寝床だってハルキがいつも整えてるだろ」


 フェンが笑う。妙に頬が引きつっているが、きっと微笑んでいるのだ。


「そ、そうかの? 今日から、そうとも、今日から我はやるのだ」


「三日続けば御の字だな」


 いいえ、とノアは割って入る。


「師がやると仰っています。必ずやります。師はそういうお方です。我々が信じず誰が信じるというのですか」


 こくり、とオライオンが息を呑んだ。


「そ、そうだな。フェンならやれるな。信じるぞフェン」


「せやなぁ。フェンはんならやれるでぇ。わいも信じるでぇ」


 師が二人を見て、そしてノアと視線がぶつかる。心持ちびくびくしているように見えるが、きっと武者震いだ。師の心が信頼を受けて昂っているに違いない。「え、あ、ノアよ、その……」


 ノアは師へ向けた祈りを強く念じた。


 そうあれかしと。


 師はなぜか渋面を作り、両手で頭を抱えてうんうんと鼻を鳴らしていたが、ふっと何か憑き物が取れたような悟った表情で顔を上げた。


「我の背中を見て育つがよい」


「ええ、私はいつでも師の背中を追い続けましょう」


 代表は嬉しそうだ。ナーガも暖かく笑っている。


「あれは内心でめっちゃ泣いとるでぇ? 信頼で縛られるとつらいわぁほんま」


「言うな。ノアを信じろ。それですべて解決。世はなべてこともなしってやつだ」


「それ、たぶん意味ちゃうでぇ?」


「分かってる。だから黙っとけって」


 会話の内容は分からないが、きっとこの先うまく行くはずだと願っているのだろう。なんと尊いことか。この家に神はいなくとも、それを超えるほどの高潔さがここにある。


「では我、しばし修行の時間であるがゆえ。ゆめ、邪魔せぬよう」


 すっ、と恭しく右手を掲げた師が、そそそ、とマグカップをシンクに入れてから部屋に戻っていった。


 ならば私も祈ろう。今日も生きているこの瞬間の感謝を神へと捧げよう。


「ど、どうしよう! わ、我やばい状況に陥ってる! ま、まずい、まずいぞ!」


 聞こえないふりをしよう。代表とナーガがなにやら笑っているが、これも気づかなかったふりをしよう。


「我の自由! 自由が無くなるッ! 恋焦がれた人間界での自由がああああ!」


 菓子をこぼし、寝床を荒しても掃除せず、ものを破壊する。これが自由とは……。


「もはや家出しかないのか! で、でも快適な生活がッ! なんたる二律背反!」


 なんだろう、無理な気がしてきた。ノアは目を閉じ祈りながら、ちょっと泣きたくなってくる。


「掃除したくないぃ! モノは勝手に壊れよるぅ! 我、なんて不憫!」


 おお、どうやら師は悲劇のヒロインに到達したようだ。


 ふたりがテーブルをべしべし叩いている。ちらっと片目だけ開く。フェンの部屋のドアはほんの少しだけ空いている。


 残念ながら幻聴ではない。


「もうカンフー映画見るもんね! 見ちゃうもんね! 新しいサブスク入っちゃうもんね! ひゃっふー!」


 どうしよう。師が現実逃避を始めた。


 ぽん、と肩に手を置かれる。両目を開ける。代表がなんとも残念な笑い顔で告げる。


「あれがフェンだ。諦めろ」


「……諦めます」


 ああ、本当に世はなべてこともなしだ。




 了

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