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#8:それぞれの思惑 

屋敷のきらびやかな喧騒から切り離された、庭のはずれ。  

冬の乾いた風が吹き抜ける馬小屋の中で、ルークは独り、藁の上に座り込んでいた。  

アリスに撃ち抜かれた衝撃、そしてわざと受けた魔法の傷跡。

口端にこびりついた血の味を感じながら、彼はただ静かに思考を巡らせていた。

呼吸を整え、肉体のダメージを精神から切り離す。

「痛みは、所詮、信号に過ぎない。痛みが多ければ、赤を示し、痛みがなければ、緑になる。鈍い痛みなら黄色だろう。いずれにせよ、信号はただの通過点であることに変わりはない。赤だろうと渡る奴は渡る。痛みを感じているうちは、未熟者だ。精神は常に緑であれ」

これが、榊原家の家訓の一つだった。

勿論、現実的には、赤信号は止まらなければならないから、この家訓は精神論だということを再度断っておかなければならないが、それにしても、この家訓は現実的でないだろう。

なにせ、精神的な痛みの排除は、すなわち、感情の排除である。こと武術においては、感情というものは、時に人を狂わせる。

喜びや怒り、悲しみは、人に力を与えることもあれば、理性を失わせることもある。

その中で、最も厄介なのは、過信と恐怖だ。

過信というのは、たいてい失敗してから出ないと気づかない。恐怖も同じく、遭遇して初めて気づく。

そして、恐怖と過信というのは紙一重でありながら、神と人ほど差があるのだ。

自信というのは自身を信ずることだが、その「信」の程度が低ければ、恐怖を生み、高ければ、過信を生む。

()に「信」を置けば、喜びや悲しみ、憎しみや怒りを生む可能性を秘める。

すなわち、感情の排除とは、「信」を置かないこと、自他ともにである。

果たして、それは可能であろうか。もし、それが可能ならば、きっとその人は、人でなくなっているだろう。

人は、生まれた時は、一人ではないのだから。そして、アーサー・レイモンド、あの男は果たして人なのだろうか.....


その時、馬小屋の古びた扉が、ギィと音を立てて開いた。  

逆光の中に浮かび上がったのは、アリス・ルーファウスの妹、クレア・ルーファウスの姿だった。

「……大丈夫ですか?」

鈴を転がすような、透き通った声。  

クレアは小走りにルークへ駆け寄ると、その小さな手を差し伸べた。  

彼女の瞳には、傷ついた者を(いた)わる、純粋な悲しみとやさしさが宿っていた。

ルークが答える間もなく、彼女の手のひらから柔らかな淡い光が溢れ出した。

「ランクが、あまり高くないので……完全には治せないかもしれませんけど」

申し訳なさそうに微笑みながら、彼女は回復魔法を紡ぐ。

温かな魔力がルークの傷口を塞ぎ、鈍い痛みを和らげていく。

やがて魔法の光が消えると、クレアはぺこりと丁寧に頭を下げた。

「無理をなさらないでくださいね」

それだけ言い残すと、彼女は再び小動物のような愛くるしい足取りで、母屋の方へと走り去っていった。


その背中を見送りながら、ルークの瞳からは一切の感情が消え、底冷えするような冷徹さが戻っていた。  

クレア・ルーファウス。  

世間的な彼女の認識は「天使のような慈愛の持ち主」である。

傲慢極まりない姉のアリスでさえ、この妹にだけは、手を上げない。

同じ血を引きながら、太陽と月のように対照的な姉妹—―それが表面上の真実だった。


しかし、ルークは知っていた。 原作における彼女の本性を。彼女が抱く、ルーファウス王国の玉座を奪わんとする果てなき野望を。  

原作でルーク・グランジニアスが命を落とすことになった反乱。

その裏で糸を引いていたのは、民衆を「被害者」として扇動し、悲劇のヒロインを演じきったクレア本人であった。

アリスを含め、王族や四大家門を擁護しつつ、民に食糧を配給し、裏では、手先に、王族の名のもと、略奪を行わせた。


彼女は、己の愛くるしさすらも「強力な武器」として利用していた。  

特に恐るべきは、その異常なまでの「勘」の鋭さだ。

自分自身が常に演技を続けているがゆえか、彼女は、他人(ひと)の本心を見抜く力に特化していた。

原作の終盤、彼女は民意を操るいわば”教祖”のような立場に君臨し、言葉一つで国を動かしていた。


(……最も危険な相手だ。この女と関わることは、自分の演技どころか、リーシャを救うという目的すら見抜かれかねない)

ルークは、クレアが治してくれた箇所をそっと指でなぞった。  

今の親切すら、彼女にとっては「未来の信奉者」を作るための撒き餌に過ぎないのかもしれない。


しかし、ルークはそれでも今回、そのクレアの眼前で、あえて大きな賭けに出た。  

アリスが自分に、期待と疑念を抱き始めていることを逆手に取り、「見え透いた戯言」をあえて吹き込んだのだ。

アリス・ルーファウスという女は、決して愚かではない。  

ルークが提示した「扉の修理に三日かかる」という嘘が、あまりにも稚拙であることには気づいているはずだ。

だが、彼女はルークの要求を呑んだ。  

それは慈悲ではない。ルークが「扉の修理」という口実の裏で、一体何を企んでいるのかを突き止めるためだ。


ルークは意識を集中し、屋敷の周囲を探った。  

案の定、馬小屋から少し離れた木々の陰や屋根の隙間から、複数の視線を感じる。

直接的な拘束ではなく、遠巻きにルークの動向を監視する配置。


ルークの計画には、重大な制約があった。  

今回の魔族襲撃の間、彼は「護衛としてのルーク」を維持しなければならなかった。

【闇魔法】による分体を作ることは容易だが、分体は複雑な命令を遂行できないという致命的な欠陥があった。  

もしアリスが分体に向かって「今すぐ私の肩を揉め」だの「難解な魔術式を解け」だのと言い出せば、その瞬間に化けの皮が剥がれるだろう。

そうなれば、”アリスの護衛”としての「身分」を失い、家門の「地位」も失う可能性があった。


そこでルークは、アリスに「監視」を付けさせるように誘導した。  

監視をつけさせることによって、アリスからの直接的な指示を排し、分体が何かをさせられることはない。

そして、「ルークは確かに馬小屋の奥で作業を続けています」と監視が報告すれば、アリスが直接足を運ぶリスクは、ほぼ消滅する。  

そして、なにより、聖夜の日に、ルークの真の目的があることを、アリスは悟っているはずだった。

アリスの力をもってすれば、扉の素材くらい、クリスマスを待たずとも、取り寄せることは可能だった。

すなわち、アリスは、ルークの真意を探るために、明後日までは、何の命令も下さず、好きなようにやらせる、つまり、直接的には”干渉しない”であろうというのがルークの目論見だった。


アリス・ルーファウスが、自身の護衛に三日の猶予を与えた。  

その噂は、瞬く間にルーファウス家、そして王都の市井にまで広まった。

人々は驚愕し、様々な憶測が飛び交った。


その日の午後、ルークのもとに一通の手紙が届いた。  

差出人は、実父であるゲイル・グランジニアス。  

封を解くと、そこには簡潔に一文だけが記されていた。

「安心して任を果たせ」


普通の親子であれば、これは父から子への労いの言葉に見えるだろう。

だが、ルークにとってのゲイルの真意は、ガラスのように透けて見えていた。

(「任を果たせば、家門に箔がつく。任を果たせずとも、後任の用意はできている。勿論、その場合は、お前は用済みだが。ゆえに、安心せよ」か....)

ゲイルにとって、ルークは、王家との繋ぎを維持するための部品に過ぎない。

アリスから解雇される、あるいは彼女の怒りを買って命を落とすことは、部品の損耗と同じだ。

「後任はいくらでもいるから、安心して死んでこい」—―。

実父の非情さと狡猾さを体現した命令、それがこの手紙の真意だった。


一方で、アリスの父であるベンダル・ルーファウスからは、何の接触もなかったらしい。  

彼は金勘定の権化だ。娘が護衛をどう扱おうが、ルーファウス家の権威に傷がつかない限り、あるいは多額の損失が出ない限り、彼は執務室で帳簿を捲り続けるのだろう。


ルークはゲイルの手紙を馬に食べさせた。

一応、調理(極級)で味をチモシー風味に味変させ、きちんと消化できるように、錬金(極級)でセルラーゼを創造し、混ぜ込んでおいた。

仕上げに、密かに回復魔法(極級)をかけておく。これで大丈夫なはず....?  


家族。絆。

そんな温かな概念は、この世界におけるルークには一切存在しない。

あるのは、利害関係と踏み潰すか踏み潰されるかの力関係だけであることを、ルークは既に悟っていた。


同じ頃、自室に戻ったアリス・ルーファウスは、揺らめく暖炉の火を見つめていた。  

彼女は、先ほど血を吐きながら(こうべ)を垂れたルークの姿を思い出した。

(……あの男。何かが、致命的におかしい)

ルークの流した涙。それは一見、極限状態に追い込まれた者の悲痛な叫びに見えた。  

しかし、幼い頃から周囲の阿諛追従と偽善に晒されてきたアリスの直感は、それを「自然体の模倣」だと告げていた。


今朝、ルークが用意した食事もそうだった。  

不味くはないが、驚くほど普通だった。豪華さも、媚びた形跡も、料理人の個性を主張するスパイス一つなかった。

今までの護衛たちは、何とかしてアリスの気を引こうと、あるいは恐怖から逃れようと、その感情を皿の上に溢れさせていた。  

だが、ルークにはそれがなかった。彼の差し出すものには、感情の「熱」が一切宿っていなかった。


そんな男が、初めて感情を剥き出しにした。

「扉を直すために三日ほしい」と。  

三日。それは、あまりに出来すぎた日数だった。

「三日....ちょうど「聖夜」の日まで....あいつの瞳は、いつになく真剣だったわ...きっと「聖夜」の日があいつの目的ね。あいつの感情の正体....それさえわかれば、用済みね...」


アリスは、ルークを泳がせることにした。  

アリスはルークとの勝負に勝ったつもりでいた。

ルークは三日の自由を勝ち取ったと悦に浸っているだろうが、それは違う。

この三日間は、アリスが彼を生かしておく価値があるかどうかを判定するための、いわば最終試験なのだ。

そう、アリスは思っていた。


夜が明けて、朝が来ると、アリスは、ルークの代わりに執事のゼシードに雑務をすべて押し付け、馬車馬のように働かせた。

ゼシードは、ルークと違い、泣き言を言い、メソメソしていたので、何発か蹴りをくらわせた。

ゼシードは、そのたびに、気味の悪い笑みを浮かべながら、泡を吹いていた。

醜い欲を見せないルークのことを考えていると、いつのまにか、醜い欲を露わにする者をより嫌悪するようになっていた。

ルークの「感情」を露わにさせようとしていたはずなのに、その露わにさせようとしていた「感情」の一例はここまで醜いものだったのかと、気味が悪くなる。

(ルーク、貴方の感情が醜いものでなかったら、きっと私は....)

「お嬢様、浮かない顔をされておりますね....!このゼシードがっ.....」

アリスが手を振り払うと同時に、ゼシードが壁に吹き飛ばされる。

すぐさま、メイドたちが駆けてきて、”ゴミ”を引きずるようにして運んでいく。


そうこうしているうちに夜が更け、深い静寂が屋敷を包み込む。


深夜零時。  

日付が変わり、いよいよ「聖夜」当日となったその刻限。  

アリスは、微かな気配を感じて目を覚ました。

それは、今まで感じたことのない、生理的な嫌悪感を呼び起こすような不気味な気配だった。  

暖炉の火は消えかかり、月明かりが窓から青白く差し込んでいる。


「……誰?」

アリスはベッドの上で、振り向かずに静かに問いかけた。  

答えはない。  

ただ、窓のすぐ外側、本来なら誰も立ち入れないはずの虚空に、何かが蠢いているような濃密な殺気が漂っている。


アリスはそっと、風魔法を構築する。


バサバサッ。

奇妙な、巨大な鳥が羽ばたくような音が静寂を切り裂いた。  

アリスが勢いよく窓を振り返った時、そこにはもう、何者もいなかった。

ただ、凍てつくような冷気だけが室内に残されていた。

 

空が白み始め、冬の太陽が水平線から顔を覗かせる。

「聖夜」の朝が、幕を開けようとしていた。  

それは、世界が祝福に包まれる日であり—―ルークにとっては、一千の『呪秘』を手に入れるための、血塗られた虐殺の始まりとなるはずの日であった。


馬小屋の中で、ルークはゆっくりと目を開けた。  

その瞳には、すでに人間としての温もりはなく、ただ獲物を待つ獣のような鋭い光が宿っていた。

「……時間だ」

ルークの小さな呟きと共に、運命の歯車が、狂おしいほどの速さで回転を始めた。


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