#5:更なる試練
王宮の中でもひときわ大きく、豪華な私邸。その邸宅こそが、宰相であるベンダル・ルーファウスの邸宅であった。
そこは、ベンダルの兄であり、現王、ベルジット・ルーファウスの邸宅に引けを取らないほどの富貴と腐敗に塗れていた。
その邸宅の一室、食堂という名を冠した、大広間と言われても差し支えないほどの広さを有したこの一室に、朝の光が穏やかに差し込んでいた。
しかし、それと同時に、そこは、食事を愉しむ場所ではなく、誰かを処刑するための舞台のような冷気に包まれていた。
アリス・ルーファウスは、豪奢な長椅子の真ん中に腰を下ろすと、目の前に並べられた料理を一瞥した。
その横では、深夜の失態を取り戻そうと必死な形相のゼシードが、揉み手をして、下卑た笑いを浮かべながら、彼女の顔色を伺っていた。
ルーク・グランジニアスは、給仕服に身を包み、震える手で最後の一皿をテーブルに置いた。
その瞬間、アリスの唇から、剃刀のような鋭い言葉が放たれた。
「……出すのが遅すぎるわ。ゼシード、あいつの頬を二十回叩きなさい」
食事の内容を確認することすらしない。それがアリスのやり方だった。
彼女は料理そのものを見ているのではない。
『理不尽』を突きつけられた時の、いわば、対象の「魂の揺らぎ」を観測しているのだ。
「はっ! 畏まりました、お嬢様!」
ゼシードは、昨日アリスに蹴り飛ばされた腹いせをぶつける場所を見つけたと言わんばかりに、下卑た笑みを浮かべてルークに歩み寄った。
「この、のろまがっ!」
パァンッ!
乾いた衝撃音が静かな食堂に響き渡る。
十歳のルークの白く柔らかな肌は、最初の一撃で瞬時に赤く腫れ上がった。
(……一。……二。……三)
ルーク、 脳に伝わる痛みを精神の深層で遮断し、代わりに肉体には「十歳の子供が受けるべき反応」を完璧に演じさせる。
「ひっ……ううっ、ごめんなさい……!」
ルークは膝をつき、床に伏した。ボロボロと大粒の涙をこぼし、怯えた弱々しい表情を浮かべる。
その無様な姿を見て、ゼシードの嗜虐心はさらに加速したようだった。
「ほら、立て! まだ終わってねぇぞ!」
十回、十五回。 叩かれるたびにルークの体は木の葉のように舞い、床に転がった。
ゼシードの拳は次第に熱を帯び、その拳に全力を投じているような重みを伴っていた。
二十回が終わった瞬間。
アリスの手が、目の前のスープ皿を払った。
ガシャンッ!!
皿はルークの額を直撃し、床で無惨に砕け散った。鋭い破片がルークの肌を切り裂き、鮮血が黒髪を汚して床に滴り落ちる。
「……馬の餌並みの料理だわ。とても食べられたものではないわ。あいつに三日間、食事を与えないで」
アリスは立ち上がり、ルークの泣き叫ぶ声を背に、一瞥もくれず部屋を出ようとした。
そこへ、扉を押し開けて一人の男が入ってきた。
中背だが、豪華な服に身を包み、不快な香水を放つ、肥え太った男。
この国の宰相、ベンダル・ルーファウスであった。アリスの父であり、この国の腐敗の源泉の一人。
もし、この世界に、源泉徴収などというものがあるとしたら、真っ先に徴収されるのは、きっと彼本体のはずだ。
「どうしたのだ、アリス。朝から不快そうな顔をして。.....何だ、この惨状は....!!」
ベンダルは、床で泣き崩れ、血を流しているルークを見下ろした。
アリスの機嫌が悪い原因がこの少年にあると察した瞬間、ベンダルの肥大した欲望と傲慢さが、暴力となって爆発した。
「汚らわしいクズが! わしの娘を不快にさせよって……!!」
ドォッン!
ベンダルの豪華な革靴が、ルークの腹部を容赦なく蹴り飛ばした。
「ギャッ……!!」 短い悲鳴と共に、ルークの体は数メートル後方へと吹っ飛び、壁に激突して止まった。
「ご……ごめんなさい……! 助けて……!! 誰か、助けてぇっ!!」
喉を掻き切るような、か細いルークの絶叫。
「ゼシード、あと十発だ。このゴミを教育し直せ」 ベンダルは吐き捨てるように言うと、不機嫌そうに背を向けた。
「はっ! 仰せの通りに、閣下!」 ゼシードは深々と頭を下げ、去りゆくベンダルの背中を見送ろうとした。
(....ベンダル....教育というのは、誰に対しても平等に与えられなければならない....教育基本法だったかな....)
ルークの瞳の奥で冷たい炎が揺らめいた。 床に伏したまま、指先を微かに動かす。
【氷魔法(極級)】 で、ゼシードの足元、その一歩先の大理石を、摩擦係数ゼロの極薄の氷で覆う。
【風魔法(極級)】 で、ゼシードの背中を軽く、そしてそっと後押しする。
それは、ゼシードが踏みとどまれない程度の力であり、かつ自然と体勢を崩したように見える絶妙な加減。
「どわぁぁぁあああ!!?」
背中を押されたゼシードが、前のめりに倒れ込む。
その先には、ちょうど背を向けて去ろうとするベンダルがいた。
「な、何を――ぶぎゃっ!!」
ゼシードの爪が、必死に何かを掴もうとして、ベンダルの高価な絹の服に深く食い込んだ。
バリバリバリッ!!
凄まじい音と共に、ベンダルの上着とシャツが完全に引き裂かれた。
露わになったのは、民から搾り取った贅沢で肥え太り、びっしりと不快な毛に覆われたベンダルの背中だった。
「…………貴様ぁぁぁあああ!!!」
静寂の後、獣のような咆哮が食堂を揺らした。
自身の権威を何よりも重んじるベンダルにとって、使用人の前で醜態を晒し、背中を露わにされることは死にも勝る屈辱のようだった。
「閣下! 違います! 私は、何かに押されて――」
「黙れぇ! 殺してやる、殺してやるぞ!!」
ベンダルは鬼の形相でゼシードの髪を掴み、床に叩きつけた。
ドスッ、バキッ、ボカッ。
十発、二十発。ベンダルの怒りは収まらず、ゼシードが泡を吹いて失神してもなお、その肉体を蹴り続けた。
ようやく気が済んだのか、ベンダルは肩を激しく上下させながら、破れた服を必死に手で隠し、足早に部屋を後にした。
残されたのは、血塗れのルークと、気絶したゼシード。
メイドたちが怯えながら入ってきて、ゴミを片付けるようにゼシードを運び去っていく。
ルークは、誰もいなくなった食堂で一人、静かに立ち上がった。 【回復魔法(極級)】 瞬時に、痛みだけを消し去る。
傷や腫れだけは魔法の出力を調整して「演出」として残した。
(平等万歳...っと)
ルークは、再び「無能な子供」の表情を張り付かせる。
食堂での騒動から数十分後。 ルークは一人のメイドに引きずられるようにして、アリスの私室へと連行された。
扉が開くと、そこには整然とした、だが重圧感のある空間が広がっていた。
アリスはソファに深く腰掛け、その隣には白いローブを纏った老人が立っていた。 その老人がルークを見た瞬間、ルークの全身を、毛穴を針で刺すような不快な感覚が襲った。
(……鑑定か。それも、それなりに位が高い奴だな)
ルークは内心、鼻で笑った。
自身のステータスは、すでに【隠蔽(極級)】によって、完璧に偽装されている。
「……何も持っていませんな。武術も魔法も、何一つ」
白いローブの男—―セードルが、確信に満ちた声で告げた。
アリスは紅茶のカップを置かずに、視線だけでセードルを射抜く。
「信憑性は?」
「このセードル、この国一の鑑定ランクを自負しております。対象が『上級』以上の隠蔽を持っていない限り、私の目を逃れることは不可能です。……と言っても、奴はグランジニアス家の『汚点』。上級以上のランクを持っているなど、天地がひっくり返ってもあり得ませんな」
セードルは、ルークを侮蔑の眼差しで見下ろした。
ルークは、その言葉に傷ついたかのように、肩を微かに震わせ、拳を握りしめた。 目に涙を溜め、屈辱に耐える少年の姿を演じた。
アリスは頭が良い。原作の中でも、常に、学園での成績は1位だった。
アリスは、あえて、セードルに言わせたのだ。ルークに才能がないと。
すなわち、侮辱されたときの反応を試しているのだ。
(アリスならこの演技に気づくはずだ。……だが、それでいい)
アリスは、他人の「感情を読む力」に長けている。
彼女はこれまでの人生で、数多の本心を見抜いてきた。
しかし、だからこそ「読めない感情」を極端に恐れ、同時に執着する。
ルークは、そこに、さらに、「読みやすい偽の感情」を提示することで、アリスの関心を留めることにした。
「ガハハハハッ! アリス様、ご覧ください。このクズ、自分の無能さを突きつけられて泣いておりますぞ……!!」
セードルが下卑た笑い声を上げた、その時だった。
ドォォォォンッ!!
爆圧が走り、セードルの老体がアリスの部屋の扉を突き破って廊下まで吹き飛んだ。
壁に激突し、骨が砕けるような音が響く。
アリスの【風魔法】だ。彼女の瞳には、一切の情けがなかった。
「……もう、あんたに用はないわ。出て行って。私の部屋を無能な声で汚さないで」
セードルが呻きながら逃げ出した直後、廊下から再び騒がしい足音が聞こえてきた。
現れたのは、顔を腫らし、目に涙の跡をわずかに残したゼシードだった。
「お、お嬢様! 何事ですか……!!」
彼はアリスの言葉が聞こえていないかのように、ルークの襟首を乱暴に掴み上げた。
「お嬢様、こいつのせいですね!? 私が閣下に叩かれたのも、すべてこいつの不吉なオーラのせいです! きちんと教育し直して参ります……!!」
ルークは再び涙目になり、必死に首を振る。
「そ、そんなぁぁ! 僕……僕じゃないです……! 助けて、アリス様……!!」
「消えなさい」
アリスの声が、極低温の氷のように部屋に響いた。
「今すぐ私の目の前から消えなさい」
「……! 勿論です、お嬢様!! さあ来い、この死に損ないがっ!」
ゼシードがルークを引きずろうとした瞬間。
「ゼシード、あなたのことよ」
ドォォォォンッ!!
今度はゼシードが、先ほどのセードルと同じ、あるいはそれ以上の威力で吹き飛ばされた。
ゴンッ! という鈍い音がして、ゼシードの頭が対面の壁にめり込み、ゼシードはそのまま白目を向いて完全に伸びてしまった。
アリスは、騒ぎを聞きつけて飛んできた執事やメイドたちに、冷たく言い放った。
「こいつを運び出しなさい。それと、こいつに、食事を、一切与えないこと。....そうね、2日くらいでいいわ.....」
使用人たちが戦慄しながらゼシードを運び去り、部屋にはアリスとルークの二人だけが残された。
アリスは、壊れた扉を忌々しげに見つめ、それから無表情のままルークに向き直った。
「……帰ってくるまでに、この扉を完璧に直しておきなさい」
その声には、一切の感情が籠もっていなかった。
「は……はい……」 ルークは怯えたように俯き、消え入るような声で答えた。
「私は、クレアのところへ行くわ」
「どうやって....」
アリスは、ルークを無視して、優雅な足取りで部屋を後にした。
クレア・ルーファウス。
アリスの妹であり、性格破綻者のアリスとは対照的に、「慈悲深い天使」と評判の少女だ。
アリスがクレアと同年齢であったためか、クレアはアリスのもとへよく遊びに来るらしい。
アリスも、特別大事にしているというわけではないが、それ相応の頻度で、クレアのもとへ足を運んでいた。
一人残されたルークは、静かに顔を上げた。
アリスが、修復するように命じた扉は、魔法によって特殊な強化が施された最高級の材質だ。
普通の職人が道具を揃えて一晩かけて直せるかどうか、という代物である。
それを「完璧に」直せという命令。
そして、アリスは一時間もすれば戻ってくるはずだった。
(試されているな。……一時間で直せば、『無才』という鑑定結果が嘘であることを自ら証明することになる。直さなければ、あるいは直せなければ、それは期待外れの『石ころ』として処分される……か)
ルークは、部屋の隅にある小さな工具箱を眺めた。 今の自分にとって、この扉を直すことなど、呼吸をするよりも容易い。
【鍛冶(極級)】、【錬金(極級)】、【強化(極級)】を組み合わせれば、数秒で元通りどころか、以前よりも強固に、かつ美しく修復することが可能だった。
しかし、それは「才能」の顕現に他ならない。
前世で、冬馬が嫌というほど学んだ教訓。 才能を晒した者は、必ず他人の醜い欲望に晒される。 武術の才を見せれば、家門は、常に卑劣な手で、自分を支配下に置き、利用した。
それは、この世界でも同じであることは容易に想像できた。
この腐敗しきった王宮で「使える駒」だと判断されれば、ベンダルのような豚共に利用され、骨の髄までしゃぶられるだろう。
しかし、アリスは、どこか違うような気がした。原作でのアリスは、まさに「悪役令嬢」そのものだった。
しかし、アリスは、セードルに鑑定をさせた。 「ルークには才能がない」と言わせた。
それは、ルークの自尊心を挫いた時の反応を見るためでもあるが、言い方を換えれば、 「自分を侮辱し、過小評価する世界」に対し、ルークがどう立ち振る舞うかを見るためだったとも言えた。
アリスは、ルークが自分と同じ「仮面」を被っている同類であることを、その野生的な直感で確信しようとしたのではないか。
ルークには、そんな気がした。
もし、アリスが仮面を被っていて、その仮面の中身が、醜い欲望に支配されていないとしたら、アリス・ルーファウス、もしかしたら、彼女は、この国の平和を創る欠片なのではないか。
たとえ、アリスがどちらだったにせよ、ルークはアリスの命令を遂行すべきかどうか、逡巡していた。




