#4:悪役令嬢の本心
夜の帳が王宮を完全に支配していた。
文字通り、「一寸先は闇」という言葉が似合う、そんな深淵まで続く、果てしない闇が窓の外には広がっていた。
王族や一部の高官、すなわち四大家門の者たちは、心ゆくまで、その身を休めることができた。
しかし、この国の多くの者たちーそこに該当しない者たちは、きっとこの国の1小隊3つ分程であろうーはその身をすり減らし、心を無に帰し、命を削っている、そんな時分。
アリス・ルーファウスは一人、姿見の前に立っていた。
そこには、十歳という幼さには不釣り合いなほどに完成された美貌を持つ少女がいた。
月の光に溶けそうな銀糸の髪、深海の底のような静謐さを湛えた青い瞳。
世の男たちが「奇跡の宝石」と誉めそやすその容姿を、アリス本人は「政治的な価値を持つだけの殻」としか見ていなかった。
アリスは、自身の部屋の重厚な沈黙を楽しんでいた。
この部屋にあるものは、すべてが最高級品だった。
名匠が手がけた調度品、失われた古代の知恵が記された魔導書、そして父である宰相ベンダルが娘の機嫌を取るために買い与えた数多の宝石。
しかし、それらはすべて、象徴としての飾り者を閉じ込めるための、黄金の檻の装飾に過ぎないことを、彼女は知っていた。
(……つまらない、本当に。反吐が出るほど、この世界は退屈だわ)
鏡に向かって呟いた言葉は、乾いた砂のように虚空に消えた。
アリスの知性は、十歳にしてすでに成人した学者をも凌駕していた。
この国一の知恵者と呼ばれた宮廷魔術師ですら、わずか一年前、アリスに教えるべきことが何一つ残っていないことを認め、白旗を挙げて去っていった。
知性は、時として呪いとなる。 他人の思考の先が見えてしまう。言葉の裏にある汚らわしい欲望が透けて見える。微笑みの下に隠された殺意や、称賛の陰にある嫉妬。
それらが色付きの霧のようにアリスの視界を埋め尽くしていた。
そんなアリスの日々に、今日、一つの「異物」が放り込まれた。
ルーク・グランジニアス。 王国の盾と称される名門、グランジニアス家の四男。
アリスは、窓辺に腰を下ろし、ルークが押し込められた馬小屋の方角へ視線を向けた。
深夜、理由もなく彼を呼び出した。それは、今まで数え切れないほど繰り返してきた、アリスなりの「検品」だった。
今まで、護衛という名目で送られてきた「貢者」たちは、星の数ほどいた。
ある者は王家への忠誠を誓い、ある者は自身の出世を夢見て、またある者はアリスの美貌に目を輝かせてやってきた。
だが、その全員が、アリスの突きつける理不尽な要求の前に、いとも容易く、そして醜く、壊れていった。
「そこで立ちなさい」と言えば、彼らは命令に従う。
「そこから飛び降りなさい」と言えば、彼らは躊躇う。
「私のために、あなたの誇りを捨てなさい」と言えば、彼らは醜く足掻く。
数多の挑戦者がいた。
だが、最後は皆、一様に同じ言葉を口にする。
「お暇をいただくことをお許しください」と。
どんなに勇ましく着飾った騎士候補生も、三日と持たなかった。
アリスは、彼らの心の中に眠る「下卑た粗野な醜い欲望」を掘り起こし、それを鏡のように突きつけることで、彼らの精神を徹底的に破壊してきた。
逃げ帰った彼らには、もはや騎士団にも社交界にも居場所はない。
「役立たず」の烙印を押され、家門の汚点として扱われる。
それゆえに、どの家門も、アリスのもとに送ってくるのは三男や四男といった、いわゆる「捨て駒」の末子ばかりだ。
彼らが失敗すれば、翌日には「病死」や「行方不明」として処理される。
家門の誇りを守るために、彼らは家門に消されている。その事実をアリスは知っていた。
自分が護衛の任を解かなければ、自分が「検品」しなければ、そんな出来事は起こらなかった。それを踏まえても、悲哀や同情、後悔などといった感情が生まれることはなかった。なんの感情も生まれなかった。
ただ、周りが「欲」を持つように、彼女にも「欲」があった。
それは、「希望」あるいは「願い」とも呼ぶことができた。
アリスは、数時間前の出来事を反芻する。
階段の最上段から、ルーク・グランジニアスを突き飛ばしたときの感覚。
普通の人間—―それも、十歳の子供であれば、驚愕し、絶叫し、無様に命乞いをするはずだった。
しかし、彼は悲鳴一つ上げなかった。
階段を転がり落ちる衝撃の中でも、彼の瞳からは一欠片の感情も漏れ出さなかった。
その後、彼を馬小屋へと追いやった。
騎士の家門に生まれた少年が、家畜の糞尿の臭いが漂う場所での宿泊を命じられれば、それは死にも勝る屈辱のはずだった。
しかし、彼は淡々と、まるで最初からそこが自分の居場所であったかのような足取りでそれを受け入れた。泣き言一つ、恨み言一つ吐かずに。
(感情がないのかしら……。それとも、とっても固く『隠蔽』されているだけ? あるいは、最初から欠落しているのかしら?)
ルークは、妙に落ち着いていた。
アリスにとって、落ち着いている者というのは、想定外のことに対しては、必ず慌てる素振りを、幾分か見せるものだった。
アリスにとって、その微かな「慌て」こそが相手の欲望を曝け出す糸口になる。
だが、ルークにはその欠片もなかった。 媚びを売るわけでも、誘惑しようとするわけでもない。誇り高いようにも、諦めているようにも見えなかった。
今までアリスが出会った人々は、父も含めて、自身に対して、あるいは自身の背後にあるものに対して、興味を抱き、あるいは執着して、手に入れようとする、あるいは利用しようとした。
そんな数多の人々を見てきたアリスにとって、ルークは初めての存在だった。
(……きっと、あの人は、人に興味がないのだわ.....)
アリスはそう直感した。
自分という存在、あるいはその背後の権力に対しても、彼は無関心なのだろう、そんな気がした。 確証はなかった。
その「読めなさ」が、アリスの心に、これまでにない苛立ちと、それ以上の「好奇」を植え付けていた。
だからこそ、アリスは新たな試練を与えた。 「朝食を明朝までに作れ」という無理難題。
好みも知らない他人に、不慣れな王宮の厨房という場所で、限られた時間内に料理を創作させる。
周りの料理人や使用人たちは、失敗するであろうルークに連座することを恐れ、誰一人として手を貸したりはしないだろう。
ルークはどの選択をするだろうか。 ルークがどの選択をするかによって、ルークという人物が幾分か見えるはずだった。
自分の個性を前面に押し出した料理か。アリスの好みを必死に予想した料理か。王都や他国で流行っている無難な流行品か。あるいは、自分の得意料理か。
そして、どの選択をしたとしても、アリスには文句をつける準備ができていた。
「こんなものが私の好みに合うと思ったの?」 「流行を追うだけの薄っぺらな感性ね」 「私の口に入るものを、自分の得意不得意で決めるなんて慢心だわ」
悪態をつくのは容易いことだった。
言葉で人を刺し、その反応を見て、また一つ失望を積み重ねる。
それがアリスの日常だった。
アリスは、自分が恵まれていることを痛いほど自覚していた。
腐敗を極めた父、ベンダル・ルーファウス。現王、ベルジット・ルーファウスの弟であり、この国の宰相でもある。
そして父や伯父ら、一部の者の富貴を満たすためだけに存在しているような末期的な国。
その頂点に位置しているからこそ、自分は自由を謳歌し、他人の人生を弄ぶことができる。
護衛を壊していくことが楽しいわけではない。
ただ、自分に阿る者が反吐が出るほど嫌いだった。
今まで、誰一人としてアリスに真心を向けてくれた者はいなかった。
皆、アリス・ルーファウスという少女の裏にある、美貌や父や宰相、王族という「下卑た力」を欲していただけだ。
縁談もすべて断った。父はアリスに甘い。
それは父にとって、アリスが自身の権力の象徴であり、完璧な美しさと知性を備えた「自慢の最高傑作」だからだということをアリスは理解していた。
父を褒めれば、父は喜ぶ。
娘から称賛されることが、あの権力欲の塊である男にとって最高の栄誉なのだと知っていた。
だからアリスは、意識的に「完璧な娘」を演じてきた。
父の喜ぶ言葉を投げかけ、父の権威を飾る。そうすることで、自身の自由を買い取ってきたのだ。
十歳になり、父は同年代の男の子を頻繁に連れてくるようになった。
見合い目的であることは明白だった。
彼らは皆、気に入られようと、必死に称賛の言葉を並べ立てるか、不快な誘惑を試みるか、あるいは己の家門を傘に着て高圧的な態度を取った。
アリスは、その全員を泣かせた。
アリスは「泣く」という行為を憎んでいた。
泣いても、何も変わらない。 特に、この腐敗しきった国では、涙は無価値な液体に過ぎない。
真心を向けてほしいという願望が叶わないということは七歳になった頃には悟っていた。
それは、身分制度があり、貧富の差が激しく、なにより、欲望に塗れた父や伯父がいるこの国においては尚更だった。
しかし、その願いが叶わないまでも、せめて、その「下卑た粗野な醜い欲望」を、最後まで隠し通せるだけの矜持を持ってほしかった。
だから、目の前で醜い欲望を開花させ、無様に崩れ落ちた者は、徹底的に壊した。
それはアリスなりの、この世界への復讐でもあった。
アリスは、この国が壊れてしまえばいいと思っていた。
別に正義感に燃えているわけではないし、民を憐れんでいるわけでもない。
ただ、嫌いだった。
大した能力もなく、努力もせず、特権にあぐらをかいて醜い欲望を垂れ流しているこの国そのものが。
自分は「天才」と言われた。
だが、アリスは知っている。
才能とは、絶え間ない努力を伴わなければ、いとも容易く失ってしまう。
「ガラスの天才」は数多いる。 「正真正銘の天才」は、きっと、誰も見ていないところで血の滲むような努力をしてきたのだと思った。
だから、アリスは、あらゆる知識を詰め込み、あらゆる魔法を研究した。武術は、習わせてくれなかったが、それでも、魔法で敵わなければ、自害する程度の矜持はあった。
最も、自害させるような事態を回避するために、武術に優れた護衛が、彼女にはついているのだが、今や、それも、形だけであった。
この世界の武術家たちからすれば、アリスの護衛など、きっと武術の初歩にも到達していないであろう。
そんなことは、アリスの素人目から見ても、明らかだった。
己の身は己で守る。その力を持たなければ、この伏魔殿で、自我を持つことはできなかった。
そんな裏での努力も知らない連中が、自分を「天賦の才」だと誉めそやし、会ったこともない他人が自分を「高慢な令嬢」だと噂する。
(この国は、いずれ滅びるわ....)
それが民の蜂起なのか、他国からの侵略なのかは分からない。
今ある平和が、薄氷の上に築かれた砂上の楼閣であることだけは、確かなように思えた。
国の汚職、軍の腐敗、王家の弱体化。
すべては、破滅へと向かう確実な一歩となっていた。
(……この国が壊れたとき、私は誰かに護ってもらえるのかしら?)
「下卑た欲望」すらも隠し通せるだけの人物、それはすなわち自分の背中を預けられる相手でもあった。
自分の背中を護れるだけの圧倒的な「武」と、揺らぐことのない強固な「心」を持った相手。
この伏魔殿のような王宮で、人を試しすぎて悪いということはない。
慎重に、慎重を期して、泥の中から真珠を探し出す必要がある。
(ルーク・グランジニアス。……貴方は、泥の中の真珠なの? それとも、ただの頑丈な石ころかしら?)
ルークの瞳。
あの、すべてを見透かしているようで、何も映していない無機質な瞳が、アリスの脳裏に焼き付いて離れなかった。
微かな期待と揺るぎない諦念。
それは、この十年という永い歳月で育まれた深淵にわずかな光が差し込んでは失せていく、そんな感覚だった。
アリスは窓の外を見つめ続けた。
馬小屋から厨房へと明かりが移動するのを見届けた後、アリスは数時間だけ目を閉じた。
眠りの中でも、彼女は計算を止めていなかった。
ルークが提示するであろう料理、そしてそれに対する自分の返答。何百通りものシミュレーションが、暗闇の中で明滅する。
もし期待外れなら、今日中に追い出せばいい。
もし万が一、面白いものを見せてくれるなら、もう少しだけ、この退屈な日々を続けてあげてもいい。
そんな程度の思いだった。
東の空が白み始め、窓から差し込む光がアリスの銀髪を神々しく照らした頃。
部屋の扉が、静かに、おそるおそる叩かれた。
アリスは、自身の仮面を確認する。
冷徹な知性、優雅な仕草、そして誰も寄せ付けない高潔さ。
扉の向こうから、聞き慣れたゼシードの声が響く。それは、神経を逆なでするような下卑た媚びるような声だった。
「お嬢様、朝食のご用意ができました」
その声には、微かな嘲笑が含まれているように聞こえた。
きっとルークが無様な料理を出したと決めつけているのだろう。
ゼシードのような小者は、いつだって他人の失敗を栄養にして生きている。
アリスは、シャワーを浴び、淡々と着替えを済ませた。
心臓がわずかに、本当にわずかに、かつてないリズムで跳ねているのを彼女は感じていた。
「知っているわ」
アリスは、迷いのない足取りで扉へと向かった。
(さあ、私の世界を壊してみて。……もし、貴方にその力があるのなら)
アリスは、扉を開けると、朝日が射し込む廊下を、優雅に、そして力強く歩き始めた。




