#3:脆弱な仮面の裏で
グランジニアス家次男、ジャック・グランジニアスだった。
脂ぎった顔を歪め、勝ち誇ったような荒い鼻息を漏らしながら、彼はベッドの上で丸まっているルークを見下ろしていた。
ルークはわざとらしく肩を跳ねさせた。 「あ……う……に、兄上……?」
「兄上だと? 気安く呼ぶなと言ったはずだ、この泥棒猫の息子が!」
ジャックの太い腕が、風を切って振り下ろされた。
パチィィィンッ!
乾いた衝撃音が室内に響き渡る。 十歳の少年の細い体は、その暴力に抗う術もなくベッドから転がり落ち、冷たい石畳の床へと叩きつけられた。
(……ちっ。衝撃の角度、力の分散。完璧に受け身をとったとしても、今の肉体ではこの程度でも脳が揺れるのか……)
床に這いつくばったルークの脳内では、前世の暗殺術を身に着けた冬馬としての冷徹な分析が走っていた。
しかし、表に出すのは「絶望」と「恐怖」と「卑屈な諦念」だけに留めた。
ルークは頬を押さえ、涙を浮かべた瞳でジャックを仰ぎ見る。
唇を小刻みに震わせ、言葉にならない悲鳴を喉の奥で鳴らした。
その姿は、どこからどう見ても、虐げられ、心を折られた哀れな子供そのものだった。
「ひ……ひぃ……ご、ごめんなさい……」
「フン、相変わらず不愉快なツラをしやがって。いいか、アリス殿下の使者の方が一階でお待ちだ。父上……いや、当主様からの直々の伝言だ。『明日から王宮へ上がれ』とな」
ジャックは床に唾を吐き捨てるように言った。
ルーファウス王国の王族であり、宰相の娘、アリス・ルーファウス。
原作ゲーム『異世界戦記』において、ルークを最終的に戦場へ使い捨ての駒として送り込んだ元凶の一人であった。
そして、理論上、日付が変わった瞬間からルークの身分はアリスの護衛(奴隷とも言えるだろう....)に切り替わっている。
彼女が深夜だとしても、日付が変わった今、ルークを呼び出すことに、法的な落ち度はなかった。
「……わかりました。すぐに、支度を……」
「さっさと動け! 殿下の使者様をいつまでお待たせするつもりだ!」
ジャックは動けないルークの脇腹をさらに一蹴りすると、満足げに鼻を鳴らして踵を返した。
ルークは震える手で簡素な服を身に纏い、俯きながらジャックの後を追った。
廊下に出ると、ジャックは大きな背中を向け、我が物顔で階段へと向かっていく。
(...兄想いの弟による、ダイエットのお手伝い...!!…受け取ってね、ジャック お・兄・様...)
ルークは歩きながら、指先を微かに動かした。
発動したのは【氷魔法(極級)】。
対象は、三歩先にある階段の一段目。
そこには目に見えないほど薄く、そして鉄よりも滑らかな「極低温の氷の膜」が瞬時に形成された。
「おい、ぐずぐずするな。貴様のような……」
ジャックが振り返りざまに、階段に足を踏み出した、その瞬間だった。
「どわぁぁあああああ!!?」
凄まじい絶叫が屋敷に響き渡った。
ジャックの足が氷の上で面白いほど滑り、彼の巨体は重力に従って階段を猛スピードで転がり落ちていった。
ゴツッ、ガシャン、ボキッ、という嫌な音が、静まり返った深夜の屋敷に連続してこだまする。
「兄上!? 何事です!」
騒ぎを聞きつけ、三男のゲイリー・グランジニアスが寝巻き姿で飛び出してきた。
階段の下で、ジャックが手足を奇妙な方向に曲げて呻いているのを見て、ゲイリーの顔は、瞬く間に青ざめた。
「セ、セバス! セバスを呼べ! 早く!!」
執事のセバス。彼はこの屋敷でも数少ない、実戦レベル(中級)の【回復魔法】の使い手だ。
瞬く間に騒がしくなる屋敷。使用人たちが右往左往し、ルークは階段の上で「何が起きたか分からず怯える少年」の芝居を完璧に維持したまま、じっと待機していた。
やがて、一階の応接間で待っていたアリスの使者が、苛立ちを隠さずに、その姿を現した。 原作のルークの記憶では、この男はアリスの前では常に平伏し、媚びへつらっている卑屈な男だったはずだ。
しかし、今の彼は違った。ジャックの転落を冷笑しながら、ルークをゴミを見るような目で見下していた。
「……ふん、全く。名門グランジニアスの次男坊が階段で転ぶとは。殿下をお待たせしているという自覚が足りないのではないですか?」
ダンダンダンダン。 騒ぎを聞きつけた当主、ゲイル・グランジニアスが、階段を駆け下りてきた。
彼は転がっている息子を一瞥することさえせず、不機嫌そのものの表情でルークの前に立った。
「この愚図が……貴様のせいで我が家の面汚しがまた一つ増えた」
パァンッ!!
ジャックの時よりも重い平手打ちが、ルークの反対側の頬に叩き込まれた。 ルークはわざとよろけ、使者の足元まで転がった。
「申し訳、ございません……父上……」
「誰が父だと言った? 出て行け。殿下の犬として、せめてその命くらいは役に立ててこい」
ゲイルの冷酷な言葉を聞き、使者は「ククク」と下卑た笑みを漏らした。
「では、お連れしますよ。ゲイル殿」
使者はルークの襟首を乱暴に掴むと、まるで荷物でも運ぶかのように、ずるずるとルークを引きずって屋敷の外へと連れ出した。
背後では、セバスの叫び声が聞こえる。 「いけません! ジャック様の脚は複雑骨折しています! 私の魔法では骨を繋ぐのが精一杯です! 王宮から腕の良い神官様を呼んでください!」
慌ただしく数人の衛兵が屋敷を出ていくのを、ルークは使者の馬車の窓からぼんやりと眺めていた。
(……少し、やりすぎたか? いや、死んではいないだろう。ただ、当分は歩けないはずだ)
馬車の中は、アリスの使者の独壇場だった。 彼はどれだけ自分がアリス殿下に信頼されているか、どれだけ王宮で権力を持っているかという、中身のない自慢話を延々とルークに聞かせた。
ルークは、それを「すごすぎますっ!!」という羨望と恐怖の入り混じった表情で聞き流す。 その実、ルークの意識はすでに別のところにあった。
(アリス……あの女が、今の僕に何をさせるつもりなのか。それを見極めるのが先決だ)
王城に到着すると、馬車から降りた瞬間に使者の態度が豹変した。
それまでの傲慢な態度は霧散し、背中を丸め、手のひらを何度も擦り合わせるような、卑屈な小悪党の姿に戻っていた。
城の門前。 そこには、深夜だというのに、月明かりを浴びて高慢な笑みを浮かべる美少女が立っていた。 白銀色の髪、冷徹な青い瞳。
「遅かったわね、ゼシード。私の忍耐を試しているのかしら?」
「ひ、ひぃ! 申し訳ございません、アリス殿下! 実は、グランジニアス家の次男が不慮の事故で……」
ゼシードが言い訳を口にする。 だが、アリスの反応は冷酷だった。
ドスッ!
「あがっ!?」 アリスの尖ったブーツが、ゼシードの腹部に深々と突き刺さった。 ゼシードはその場にうずくまって悶絶する。
「理由なんて聞いていないわ。私の命令は『零時ちょうどに連れてこい』だったはずよ。時間は守るためにあるの。違うかしら?」
「も、申し訳……ございません……」
「私の命令は絶対。次はないわよ」
アリスはさらにゼシードの顔面を蹴り飛ばすと、汚れを払うようにスカートを整えた。
そして、その冷たい視線が、震えているルークへと向けられた。
「さあ、私の新しい『護衛』さん。中へ入りなさい」
アリスはルークの返事も待たず、優雅な足取りで城の中へと入っていく。
ルークは彼女の後ろを、怯えた小動物のように追いかけた。
豪奢な廊下、磨き抜かれた大理石。 アリスは階段を上がり、二階の大きな扉の前で止まった。
「ここが私の部屋よ」
アリスが扉を開け、ルークを部屋の中へ促す……かと思われたその時。
「そこで止まりなさい」
階段の最上段。アリスがルークの正面に立ち、その瞳に邪悪な光を宿した。
「……ルーク。あなたは、自分がどれだけ価値のない存在か、分かっている?」
「え……?」
「教えてあげるわ」
ドンッ!!
アリスの両手が、ルークの胸を突き飛ばした。 不意を突かれた(ふりをした)ルークは、重力に従って、今度は自分が長い階段を転がり落ちていった。
ゴロゴロゴロ……。
背中、腰、頭。硬い大理石の角が、何度もルークの肉体を打つ。
一階の踊り場まで落ちたところで、ルークはピクリとも動かなくなった。 そのまま、意識を失ったふりをする。
(……衝撃は緩和した。骨へのダメージはない。内臓は無事。……よし、これでいい)
「あはっ! あはははは! 見た!? まるでゴミ袋が落ちていくみたいだったわ!」
上からアリスの、鈴を転がすような狂気に満ちた高笑いが降ってくる。
「それを馬小屋にでも放り込んでおきなさい。明日から、そいつには馬車馬のように働いてもらうから」
ルークの体は、やってきた衛兵たちによって、荷物のように引きずり出された。
運ばれた先は、城の片隅にある、悪臭の漂う馬小屋だった。 藁の上に放り捨てられ、衛兵たちが去っていく。
完全に一人になったことを確認し、ルークは静かに目を開けた。
「……ふぅ。原作通り、いい性格をしているな、アリス……」
ルークは起き上がり、まず【回復魔法(極級)】を自身の体に施した。
全身の打ち身と痛みが、温かな光と共に瞬時に消え去る。
次に、彼は周囲の気配を【隠蔽(極級)】で遮断した。
これで、外から誰かが覗いても、馬小屋の中には「気を失って寝ているルーク」しか見えなくなる。
そして、【闇魔法(極級)】によって、自分の正確なコピー、「分体」を創り出す。
分体を藁の上に寝かせ、本物の自分は【亜空間魔法(極級)】を発動させた。
空間が歪み、一歩足を踏み出すと、そこには音も光も遮断された、自分だけの「絶対安全圏」が広がっていた。
「……さて、夜はまだ長い。鍛錬を始めるとするか」
ルークは凄まじい勢いで腕立て伏せを開始した。 一、二、三……。 その動きは、十歳の少年のものとは思えないほど速く、正確だった。
「魔法に関しては、最後は『気力』が決める」
前世での原作の経験から、ルークは知っていた。
この世界で最も重要なのが「気力」という概念だった。
魔力と気力は異なる。
魔力というのは人間にとって、あくまで媒介するものに過ぎない。人間に、いわゆる”MP”と呼ばれる数値は存在しないのだ。”MP”を持つのは、魔力を直接、摂取し、運用できる魔物や魔族という種族だけであった。
すなわち、人は、魔法スキルを使う時、魔力を気力に変換して使用するのだ。
勿論、魔法使用時に放出されるのは、魔力なのだが、魔法を使用した本人は気力が減るのだ。
つまり、理論上は、魔力が空気中に無限にあるため、気力が無限にあれば、無限に魔法スキルを使えるということになる。
気力。根性、あるいは精神力とも呼ばれるそれは、限界値も現在値も可視化されない。
そして、肉体を極限まで追い込み、その限界を何度も叩き壊すことでしか、その器は広がらない。
「気力」は、言うなれば、「体力」のようなものだ。
魔法を使えば気力が減る。 気力を使い果たせば、めまい、吐き気、筋肉痛、および最後には死が待っている。
だからこそ、効率的に気力を伸ばすことが重要だった。
ルークは、自分の気力が「あと一歩で底を突く」瞬間を完璧に見極めながら、鍛錬を繰り返した。
筋肉が悲鳴を上げ、汗が滝のように流れる。
【回復魔法】で肉体を癒しながら、ギリギリのラインで鍛錬を続ける。
これが、最も効率よく「気力の最大値」を伸ばす方法だった。
数時間の猛烈な鍛錬。 東の空が白み始める頃、ルークは亜空間から出て、分体を消去し、再び藁の上に横たわった。
馬小屋は壁がなく、深夜の冷たい風が吹き込んでいた。
普通なら凍えて眠ることすらできない環境だが、ルークは【火魔法】と【風魔法】を極めて微弱に、かつ精密に発動させ、自分の周囲にだけ「見えない断熱の空気層」を作り出した。
春の陽気のような暖かさに包まれ、ルークは数分間の深い眠りに落ちた。
……午前三時。
バシャァァァァンッ!!
頭から氷のような冷水を浴びせられ、ルークは飛び起きた。
「ひ、ひえぇぇっ!? つめたっ、つめたい!!」
情けない声を上げ、ガタガタと震える芝居を打つ。
目の前には、松明を掲げたゼシードが立っていた。 彼は、ルークを人間とは思っていないようだった。
「起きろ!このノロマが!アリス殿下の朝食を準備する時間だ!」
ゼシードはルークの襟首を掴み、濡れたままの彼を強引に引きずっていく。
「殿下は、お食事には大変厳しい方だ。この国一と言われた料理人たちでさえ、殿下の口に合わずに処刑されたこともある。……せいぜい、わずかな命を楽しむことだなっ!」
ゼシードの言葉を、ルークは震えるふりをしながら、心の中で反芻した。
(原作通りか。だが、俺は知っている。これはアリスは食事に拘っているわけではない。俺が、食事に何を込めるか、それを把握するために、この試練を課すのだ)
アリス・ルーファウス。
彼女こそが、ルークにとっては、最大級の脅威であり、同時に、ルークが『死』の運命を回避するための最大のピースであった。
まずは、アリスの懐深くに入り込み、その信頼を勝ち取る必要があった。
すなわち、アリスの本心を知り、自身がどう生きていくのかを決めるためである。




