#15:見抜かれた演技
王宮の西側に位置するルーファウス邸。
そこは権力と贅沢が凝縮された、美しくも歪な箱庭であった。
ルークは、泥と瘴気に汚れた姿のまま、白亜の巨大な門をくぐった。
「……おお、アリス! 私のアリス! 無事だったのだなっ!」
重厚なエントランスの扉が内側から弾け飛ぶように開き、一人の男が転がるように現れた。
ベンダル・ルーファウス。アリスの父であり、王弟であり、そして宰相の座に君臨するその男は、自身の体重で波打つ脂ぎった腹を揺らし、脂汗を滴らせながら娘へと手を伸ばした。
アリスの眉間に、深い不快感の皺が刻まれる。
「……お父様......汚れてしまいますわ.....触れないでくださる?」
アリスの声は、氷の刃のように冷徹だった。
ベンダルが伸ばした、脂ぎった太い手を、瞬時に硬直させた。
ベンダルにとってアリスは愛娘である以上に、自らの地位を盤石にするための「最高の資産」であり、その美貌は将来の政略における「至宝」であった。
彼は娘の無事を喜んでいるのではなかった。
自らの栄華を象徴する結晶に傷がつかなかったことに、安堵の溜息を漏らしているのであった。
ゆえに、アリスが「汚れる」と言えば、彼はどんな時でも、アリスの命令に従うのであった。
「ああ、そうだな、すまないアリス。……だが、無事で何よりだ。お前を失えば、私は、生きていけなくなるところであった。よく顔を見せてくれ、アリス。見るだけだ。触りはしない。......よし、やはり、傷はないな.....うむ....腕も足も大丈夫なようだ....どこも怪我はないだろうな.....そなたは、私の……いや、我が家の全員にとって、大切なのだから....これからは、ちゃんと、行き先を伝えてくれ....頼んだぞ....」
ベンダルの言葉には、親としての愛情ではなく、商人としての計算が透けて見えた。
そんな男のねっとりとした視線が、アリスの背後に控えるルークへと向けられた。
「さて……次は、貴様だ!このゴミ虫が!無能なお前のせいでアリスが危険に晒されたのだ! お前のような無能は、今ここで私が肉塊に変えてやろうっ!死ねぇ!!」
ベンダルの太い右足が、ルークの腹部を目掛けて乱暴に振り抜かれようとしていた。
ルークは、その鈍重な動きの着弾点を予測し、衝撃を逃がす準備を整えた。
(……やれやれ……さっさと、吹っ飛ぶ準備でもしておくか.......)
しかし—―その必要はなかった。
「—―お父様……お止めください」
アリスの声が空気を切り裂くように、それでいて冷徹に響いた。
ベンダルが、数センチしか上がっていない足をピタリと止める。
屋敷の者たち全員が驚いているようだった。
それは、天地がひっくり返ったかのような光景だった。
アリスが、父を、「ゴミ」と見捨てられ、「無能」と蔑まれている従者のために制したからであった。
「その手を放してくださる? お父様と言えど、"私の無能な従者"に勝手に手を出すことは許しませんわ」
アリスは冷静に、はっきりと告げた。
「アリス……? ど....どうして、こんな無能のゴミを庇うんだ……?」
ベンダルは、娘の豹変に目を白黒させながら問いかけた。
「庇っているのではありませんわ。ただ、私の『所有物』に勝手に手を出されることが、嫌いなのです。……この「無能のゴミ」を、どのように扱うかは、私だけが決定できるのです。お父様が口を挟む余地はありませんわ」
アリスはそう言うと、ベンダルをじっと見据えた。
「……そ、そうか。そなたがそう言うなら……。.....うむ.....お前の所有物だから、お前だけが命令できる.....うむ.....そうだな....その通りだ。……」
「それとお父様、シンシアという少女を我が家に置きますわ。貴族ではないですから、お父様のためにはならないかもしれませんが、私の精神の安定に必要ですわ。許可してくださいますか?」
アリスのその”許可”は、”命令”であるように思えた。
ベンダルは、「そうだな....そなたのためになるのだからな.....」と繰り返すように呟きながら、首をブンブンと縦に振った。
「行くわよ。ついてきなさい」アリスはそう言うと、さっさと歩いていく。
ルークは、ベンダルにペコリと一礼すると、アリスを追いかけた。
「あ、あ、アリス様~、待ってください....」
ゼシードを始め、屋敷の者たちは、皆、衝撃的な光景にただ茫然と立ち尽くしているようだった。
玄関を潜り、階段を上り、廊下を進み、ルークが魔法板で補修した自室の扉の前に立ったアリスは、ふと足を止めた。
「……ふん。なかなかじゃない。……って……いえ、全然ダメね。不格好だし、装飾のセンスも欠片も感じられないわ」
彼女は扉の継ぎ目をなぞり、吐き捨てるように言った。
「……まあ……今回だけは許してあげるわ。次はないわよ、ルーク。分かった?」
「……お、仰せの通りに。申し訳ありません、お嬢様....」
(「お前」から「ルーク」呼びになっただけでも、大きな進歩だな....しかし、アリスが俺を助けるとは....人は変わるものだな....)
ルークは小さく笑った。
その日の夜。アリスは自身の部屋にルークとシンシアを呼びだした。
アリスの部屋には、豪華な銀の皿に盛られたステーキの香りが漂っていた。
なんと、豪華な銀の皿に盛られたステーキが二つあった。
「アリス様.....まさか.....」
「勘違いしないでくれる?これは、シンシアの分よ....」
「え!?よろしいんですかぁ、アリス様!?」
シンシアの嬉しそうに驚く顔が今は、妙に憎らしく思える。
「あのぉ....アリス様....僕は....何を...」
アリスは優雅にフォークを動かし、ステーキを口にする。
「ルーク、お前はサラダを食べていいわ。ただし、私と食べなさい...」
「へ!?あ....ありがとうございます....」 「お前」呼びに戻されたルークは意味がわからなかったが、とりあえず、感謝を伝えた。
「シンシア、貴方はゼシードに大広間に案内してもらいなさい。そこに食事が山ほどあるから....」
「わぁ!ありがとうございますっ、アリス様!」そう言うと、シンシアは駆けていった。
「あの....じゃあ....僕もぉ....」ルークはそう言うと、サラダを片手に部屋を出ようとする。
「ねえ、死にたいのかしら....?私と食べろと命じたのだけど....?」
ルークはすごすごと席に着く。
その頃、シンシアは、ゼシードに絡まれていた。
「シンシアちゃん、僕が大広間よりもおいしい食事を....」
「ごめんなさいっ!知らないおじさんとキモいおじさんにはついていかないように言われてますっ....」
「そ...そ...そっか....そうだよね....僕はさっきも名乗ったけど...知らない人で...わりとイケメン(自称)だけど...キモくて....さっきはお兄さんだったのに...今は...おじさん...そうだよね...皆、女性たちは、僕を相手にしてくれないんだね.....女の子までも....くっ...そ....ぐすん...」
ゼシードはだいぶ食らっていたようだった。
さて、アリスの部屋には、アリスが食事をする音だけが響いていた。
ルークはサラダに手を付けずに、アリスの真意を探ろうとしていた。
アリスは突然話し始めた。
「……ルーク....あの森で、私を助けたのは自分ではないと言い張るのね?」
「……はえ? な、なにを、でしょうか……。僕はただ、震えていただけです」
ルークは、鼻水をすするような情けない演技を続ける。
アリスはそんなルークを、じっと見つめていた。
彼女は確信していた。
あの時、魔族を消滅させたのは、シンシアの後ろで糸を引いていたルークであることを。
しかし、彼女はそれ以上追及しなかった。
(……ルークは、何かを隠したがっている……もし私がそれを暴いてしまったら……。きっと、私の前から消えてしまうわ……いいわ、貴方の演技に付き合ってあげるわ....どこまでもね....)
それは、王族として、あらゆるものを手に入れてきたアリスが、初めて抱いた「喪失」への恐怖だった。
ルークという存在を失うくらいなら、彼女はこの「騙し合い」に一生付き合ってもいいとさえ思い始めていたのだ。
彼女はそれほどまでにルークが気になっていたが、その感情の正体が何なのか、彼女にはよくわからなかった。
「……ルーク。……貴方は私の護衛よね?」
「……仰る通りでございます」
「……私が解雇しない限り、ずっとよね?」
「……仰る通りでございます……。....あの……仰りたいことがございましたら、はっきりと……」
アリスは小さく、ぼそっと何かを呟いた。
「……え? ….あ、申し訳ありません。拝聴できませんでした。……僭越ながら、もう一度……」
アリスは突然ガタンと立ち上がり、扉の前まで早歩きで歩いていく。
彼女は、扉のノブを掴んだまま、顔を朱色に染めて叫んだ。
「……だ……だからっ……! 一生、私の護衛でいなさい……! いいわねっ、この大無能っ!」
扉を勢いよく開け、逃げるように部屋を出ようとするアリス。
「アリス様……! まだお夜食の肉が残っておりますが……!」
「……バカっ! そんなの……知らないわよっ!」
アリスの手から風魔法が放たれた。
「どわぁぁっ!?」
ルークはあえて正面からその突風を受け、後方の壁まで派手に吹っ飛んでみせた。
アリスがドタドタと廊下を走っていく音が聞こえる。
「どうされましたか……! お嬢様っ!」
廊下で控えていたゼシードが声をかけたようだった。
「うるさいっ……! 死になさい……!」
ドゴッ、という重い音。 「ガハッ……」
どうやら、外でゼシードが蹴り飛ばされたようだ。
ルークは壁からズルズルと這い出し、再びテーブルへと戻った。
「……ふぅ。やれやれ、王族の相手も楽じゃないな」
彼は、残されたサラダを口に運んだ。
「……うん、なかなか美味いな。馬小屋とは天と地ほどの差だ」
それから、二年の歳月が流れた。
ルークは十二歳になり、アリスからの雑用をこなし続けていた。しかし、依然と違い、アリスはどこに行くにも、ルークを連れ出し、食事も常にルークと食べるようになっていた。 ルークの背丈は伸び、幼かった顔立ちは、冷徹な理性を隠し持つ美少年のそれへと変わりつつあった。
シンシアもまた、十二歳。 彼女は邸内で「アリスの妹分」として敬われるまでに成長していた。あどけない昔の面影は少し影を潜め、可憐な美少女と言った方がふさわしいように思われた。
そして、アリス・ルーファウス。
彼女は、その美貌にさらに磨きをかけ、「冷徹なる真珠」と社交界で囁かれるほどの美貌の持ち主になっていた。
だが、そのアリスの影には、いつも一人の少女がいた。
アリスの妹、クレア・ルーファウス。
姉と同い年の彼女は、常にアリスの後ろで、じっと獲物を狙う蛇のような瞳で姉を見つめていた。
「アリス、クレア。二人とも、準備はいいか」
脂ぎった顔をテカらせながら、ベンダルが告げた。
「三日後、貴族会が開催される。……主催は王家と我ら四大家門。……序列を示す、負けられぬ場だ。十二歳以上となったお前たちは、当然、参加してもらう。……アリス、お前の婚約者選びも兼ねてな」
アリスは不快感を隠しもせず、鼻を鳴らした。
「婚約者など、私が決めますわ。お父様!」
「....せめて、会ってから、決めてくれないか....」 ベンダルが宥めるように言う。
アリスは、終始、低姿勢のベンダルを一瞥すると、「ふん」と鼻を鳴らした。
「お姉様、楽しみですね!」 クレアが笑顔で言う。
笑顔の裏に隠された、姉への劣等感と憎悪は完璧な「演技」で塗り固められているようだった。
ルークも同様に、貴族会に参加する予定になっていた。
「お前もグランジニアス家の端くれだ。一応、参加しろ。ただし、隅っこでじっとしてろ」
父、ゲイルからの手紙にはそう書いてあった。
父としての愛情は欠片もない文面であったが、少なくとも、貴族会には、アリスの護衛としてではなく、グランジニアス家の四男として参加しろということらしい。
(とにもかくにも、これで、アリスという厄介者から一時的に逃れられるわけだ....)




