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#1:反逆の狼煙

冷たい雨が、全てを拒絶するように降り注いでいた。  

視界は霞み、遠くで上がる勝鬨の声が、まるで別世界の出来事のように遠く聞こえる。


ルーク・グランジニアスは、泥濘でいねいの中に膝をついていた。  

全身を覆う鎧は無数の剣傷でひび割れ、内側からは体温が急速に奪われていく。  

目の前に広がるのは、数千、数万の敵軍。彼らが掲げる松明の列は、闇夜を焼き尽くす巨大な蛇のように蠢いていた。


「…ぐっ……」

 ルークは震える手で、刃のこぼれた長剣を杖代わりに立ち上がろうとした。  

もはや指先に感覚はない。ただ、冷たい雨だけが、傷ついた肉体を容赦なく叩き続ける。  

なぜ、こうなったのか。  四大家門の筆頭、建国の盾と称えられたグランジニアス家の末子が、なぜ盾一枚持たされず、ただの「捨て石」としてこの地獄に置き去りにされているのか。


「何を、ボサっとしているのよ! ルーク!!」

 背後から、鼓膜をつんざくような不快な悲鳴が響いた。  

アリス・ルーファウス。この国の宰相の娘であり、ルークが「護衛」という名目で差し出されたあるじだ。  

彼女は泥を跳ね上げながら、豪華なドレスの裾を苛立たしげに翻し、力尽きかけたルークを冷たく見下ろした。

「死ぬなら私の前で死になさい! 私が安全な場所へ逃げ切るまで、一歩も引かずにあの兵共を食い止めるのが、あなたの家の役目でしょう!? ほら、早く立ちなさい! 剣を振りなさい! 私を誰だと思っているの、この無能が!」


ルークはゆっくりと首を巡らせた。  

そこにあったのは、共に死線を越える仲間への情愛などではなく、ただの「便利な盾」が壊れかけていることへの苛立ち。  

ルーク・グランジニアスという一人の人間は、彼女の目には、すり減った靴の底ほどにも価値がないものとして映っていた。

「……あ……」

 ルークは何かを言おうとしたが、言葉は冷たい雨にかき消された。  

次の瞬間、無数の矢が空を覆い、雨と共に降り注ぐ。  アリスの悲鳴が遠ざかる。

彼女はルークの背中を盾にして、闇夜へと逃げていく。  


意識が薄れゆく中、ルークはただ、猛烈な「虚無」を感じていた。  

守ってきたもの、誇ってきた家系。その全てが、ただの砂上の楼閣であったことに、死の寸前で気づかされたのだ。    

俺は...俺は...何のために生きてきたのだ....これが、運命(さだめ)なのか....

深く、暗い淵へと沈んでいく感覚と共に、ルークの世界は暗転した。

 ***

「……ギャァァァアアア....!!」

ルークは、飛び起きた。  

肺が焼けるような激しい呼吸。心臓の鼓動が、耳のすぐそばで鳴っている。  

手を見る。傷一つない。冷たい雨の感覚も、凍えるような寒さも消えていた。  

白く、細く、それでいて気品さえ漂う、十歳の子供の腕だ。

「……夢……では、ないな」


ルーク――いや、今は『榊原冬馬さかきばら・とうま』としての自覚が強かった。  

混在ではない。榊原冬馬がルークとして転生したのだ。転移ではない。  

今まで十年間、「ルーク」という名前で生きてきたのは、二十一世紀の日本という世界で十七年を生きた榊原冬馬であった。

すなわち、零歳のルークという名前の男に転生した冬馬が、十歳にして、そのことを思い出し、前世の冬馬としての記憶を取り戻し、自我を持った瞬間であった。


そして、ルークとして十年見続けた悪夢の意味を冬馬は思い出したのだ。  


前世の榊原冬馬は、二十一世紀の日本という平和な時代において、ある種の「異物」として生を受けていた。  

榊原家は、数百年続く古流武術の宗家であり、父は狂気的なまでの求道者だった。  

「武の家系に生まれたからには、呼吸一つまでが実戦でなければならぬ」  

それが父の口癖だった。  

冬馬に与えられたのは、温かな家庭の団欒ではなく、骨を削るような稽古と、死線を彷彿とさせる真剣の重みだった。  

三歳で歩法を学び、五歳で急所を覚え、十代になる頃には、冬馬は古今のあらゆる武術を本質から理解し、修得する「稀代の天才」となっていた。

武術が好きだったわけでもない。ただ、生きるためだった。武術をやらなければ、衣食住は保障されなかった。


だが、その才能を振るう場所は、平和な日本には存在しなかった。  


冬馬は自分の力を「無意味」だと感じていた。  

どれほど速く突きを放とうとも、どれほど鮮やかに刃を捌こうとも、それはただの空虚な舞に過ぎない。  


そして何より、彼は周囲の人間が嫌いだった。    

他人と歩調を合わせ、空気を読み、望まぬ会話に愛想笑いを浮かべる。  

「共闘」や「同調」という美名の下で、個の魂を削り取ろうとする社会の仕組み。  

他人との同調を貴び、群れることを強要するあの世界は、冬馬にとって生存を脅かす牢獄そのものだった。    


彼は孤独を愛した。  

正確には、誰にも邪魔されない「自分の生存」だけを愛した。  

他人との会話を極限まで排するための盾として、彼は「ゲーム」を選んだ。  

ゲームをしていれば、誰かが話しかけてきても「今、これに集中しているから」と拒絶する正当な理由が得られるからだ。    

榊原家の本棚には、まともな小説や哲学書などは一冊もなかった。  

並んでいるのは、カビ臭い兵法書、江戸時代の剣術指南書、解剖図、そして殺傷能力を高めるための医学書。  

音楽が入っていると思われる古いCDには、演武のような厳めしい曲が延々と入っている。

もはや、高校生が自然に所持できるものは、この家にないように思われた。

しかし、たった一つだけ、家政婦が忘れていったのか、異彩を放つモノがあった。  

それが、唯一の高校生らしきものであり、唯一の「会話拒絶ツール」となったゲーム――『異世界戦記』だった。    

舞台は、現実世界と少し似通った生活水準の世界。シャワーはあるけど、風呂はない。石鹸や各種調味料はあるけど、冷蔵庫や洗濯機、テレビはない。暦は地球と同じだし、言語も日本語。でも、スマホやPCはないし、銃や核兵器もない。そんな少し歪な世界。

冬馬はそれを何百周、何千周と周回した。  

別に面白かったわけではないし、やりたかったわけでもない。  

かといって、やるものが他に何もなかったため、ゲームを隅から隅まで、ストーリーの一言一句をそらんじるほどに叩き込んだだけだった。  

そして、その「暗記した世界」の登場人物として、彼は今、十歳のルークとして覚醒したのだ。


ルーク・グランジニアス。

ルーファウス王国の四大家門の一つ、グランジニアス家の四男。

グランジニアス家は、王国の建国の際の武功から、今でも、王族の護衛を司っている騎士家門の頂点であった。加えて、この国の軍事を全て牛耳っている家門でもあった。

ルークは、無才であった。剣術も魔法もからっきしであった。

そんなルークは、現国王の弟であり、この国の宰相でもあるベンダル・ルーファウスの長女、アリス・ルーファウスの護衛の任につく。

彼は、家門から与えられた任を、家門への誇りと国への忠誠から、全うしようと死力を尽くした。護衛だけでなく、清掃や調理、洗濯などの雑事まですべてこなした。

しかし、その先に待ち受けていたのは、仕えた主からの非情な一言であった。


「……反吐が出る。本当に、同じ轍を踏めとでも言うのか」


ルークは部屋の中を見渡した。  

四大家門の一つ、グランジニアス家の屋敷。  

豪華な装飾、金の縁取りが施された家具、最高級の絨毯。  

一見すれば栄華を誇る名門だが、ルークの目には、その全てが「腐臭」を放っているように見えた。


かつてのグランジニアス家は、国境を守る鉄壁の盾だった。  

しかし、数世代にわたる平和は、この家から牙を抜いた。  

現在(いま)の騎士たちは、平和に甘んじ、鍛錬もせず、賭博に興じている。  

剣はもはや敵を斬るための道具ではなく、宝石を埋め込んだ「権力の象徴」へと成り下がっていた。    


家門の腐敗は、ルークの父、現当主ゲイル・グランジニアスに凝縮されている。  


「執務室で、旦那様が呼んでいます。すぐ来てください」 

執事のセバスが、音もなく入室していた。  

その目は冷たく、ルークを主人としてではなく、単なる「四男という名の余り物」として扱っているのが丸分かりだった。  

 

ルークは答えず、ただ無機質な視線をセバスに向けた。  

それだけで、セバスの背筋に冷たいものが走った。  

いつもなら「すぐに行きます」と怯えたように答えるはずの少年が、今は、ただ自分の「急所」を見定めているような気がしたからだ。


「……すぐに行きます」 ルークは、怯えたような表情をつくった。

セバスは、ほっとしたような表情を一瞬、浮かべていた。

(今は、まだ、逆らうべきではない....俺は、まだ弱いのだ...)

 

ルークは着替えを済ませ、廊下に出た。  

屋敷の廊下には、歴代当主の肖像画が並んでいる。  

初代、二代目は、荒々しい戦士の顔をしていた。 だが、代を下るごとに、その顔は丸みを帯び、贅肉がつき、瞳から闘志が消えていった。  

現当主ゲイルにいたっては、もはや剣を持つことさえ不可能なほど肥え太り、その脂ぎった顔には強欲さと傲慢さがべったりと張り付いている。


執務室の大きな扉の前に立つ。  中からは、金貨を数えるような乾いた音が聞こえてくる。  

ルークはノックをすると、扉を開いた。

 

豪華な執務机に座るゲイル・グランジニアス。  

彼はルークを見ようともせず、手元の書類を睨みつけていた。  

それは、軍への物資納品書だ。

本来、最前線の兵士に届くべき高品質な鋼鉄製の剣や盾。

ゲイルはそれを裏ルートで他国へ高値で売り払い、代わりに安価で脆い鉄屑を「正規支給品」として偽装して納入していた。  

兵士たちの命を、自らの私腹を肥やすための「材料」に変える。  

これが、「王国の盾」と呼ばれる家の当主が日々行っていることだった。


ルークは、ゲイルの言葉を待って、しばらく立っていた。


「ふん、来るのが遅いわ」 

ゲイルは椅子を鳴らして立ち上がった。  

その腹は、民から搾り取った贅沢品で膨らみ、首元は金の首飾りで窮屈そうなほどであった。  

「明日から貴様は王宮へ上がれ。アリス殿下の直属護衛騎士だ。これは栄誉ある任だぞ」

ゲイルは下卑た笑いを浮かべながら、仰々しく告げた。


ゲイルは、ルークをアリスの護衛に差し出すことで、王家との繋がりを深め、より大規模な横領の隠蔽を図ろうとしていた。  


アリスがどれほど性格破綻者であり、過去に何人の護衛が使い捨てにされてきたかを知っていながら、実の息子をその「生贄」に捧げることに、何の躊躇もない。

それが、ゲイルという男であり、権力欲に囚われた男の末路であった。


「アリス様に気に入られろ。そのためなら、その細い足を折られようが構わん。貴様の役目は、グランジニアスの繁栄のために、あの我儘娘の『動く盾』になることだ。分かったな」

 ゲイルはルークの頬を、脂ぎった手で叩く。 バチン...!!  

「返事が遅いわ...!!」

「……も..申し訳ありません....拝命.....い....いたし..ました...」 ルークは片膝をつき、恭しく(こうべ)を垂れた。

  

廊下を歩きながら、ルークは心中で冷たく嘲笑った。  

(繁栄、か。笑わせるな....)


冬馬の前世の記憶によれば、このグランジニアス家も、アリスの暴挙に同調した結果、最後に滅ぶことになる。  


ルークは自室に戻ると、すぐに準備を始めた。  まずは、この弱々しい肉体の改造だ。  

座禅を組む。瞑想に入る。魔力を循環させる。榊原流の呼吸法で全筋肉と全神経を強制的に拡張させていく

全身を激痛が襲う。「ぐはっ....!」ルークは口から血を吐いた。不純物を取り除き、武術と魔法を極めるのに最適な肉体を手に入れるためだった。


ほどなくして、彼はその肉体を手に入れた。


アリス・ルーファウス。原作の悪役令嬢であり、ルークの仕えた(あるじ)だった。

彼女は、ただの”自己中”であった。

ア-サー・レイモンド。原作『異世界戦記』の主人公であり、アリスの想い人である。

アリスはアーサーに恋したが、アーサーは、ヒロインであるマリア・カールトンと結ばれる。それは、ルークの死と同じように、原作で決まっていた運命(さだめ)であった。


ルークの生涯(生涯といえるほどの多くの描写はない。むしろ、終盤だけ登場するキャラ....)を、ゲームを通して知った時、冬馬は何も思わなかった。

誰かに欺かれたり、何かに裏切られたりするのは、どの世界でも起こりうることだった。

誰も信じないし、何にもすがらない。自分だけを頼って生きていく。

それが冬馬が選んだ道であり、ルークに転生した今も、それは、変わらないはずだった。


しかし、死という運命(さだめ)は決まっていた。

自分が何をどれだけしようと、結末は決まっているのだ。

彼にとって、それは忌避すべきものだった。すなわち、信じようと信じまいと、すがろうとすがらなかろうと、何も変わらない。誰かに定められたレールの上を歩かされている。


それは榊原家という家門のしきたりに縛られ、生きてきた過去の呪縛を引きずっているようなものだった。

同調を基とする日本という世界は、武を基とする榊原家という家門は、彼にとって、あまりに生きづらいものであった。


抗ってみよう。そんな気持ちが芽生えた。彼は、冬馬であり、ルークではなかった。

死という運命(さだめ)を変えられるのではないか、ふと、そう思った。


彼は、榊原家という家門を忌避したが、その武術は、今、ルークに転生した彼の”武器”であった。そして、『異世界戦記』という彼が、日本で世逃れの道具としたゲームは、今や、彼の”盾”であった。


アリスも、家門も、この国も、すべて俺が変えてやる。俺が生きやすい世界に変えてやる。


昼の陽光が、窓に反射して、彼を眩しく映し出していた。


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