エピローグ①後世における3人のWiki
完結済みにするとエピローグが投稿できないことを知りませんでした。
混乱を招いてすみませんが、ご寛恕いただけると幸いです。
石橋湛山 (いしばし たんざん)
石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年〈明治17年〉9月25日 - 1973年〈昭和48年〉4月25日)は、日本のジャーナリスト、経済学者、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位菊花章頸飾。
第XX代内閣総理大臣(在任期間:1941年 - 1946年)。「昭和の国難」と呼ばれる対米英開戦の危機を回避し、戦後日本の礎となる「昭和の改憲」を成し遂げた宰相として知られる。
その政治手法と歴史的功績から、しばしば「静かなる革命家」「黄昏の宰相」と評される。
生涯
ジャーナリスト時代
東京府出身。早稲田大学を卒業後、毎日新聞社に入社するも、徴兵問題に関する社説で軍部の不興を買い退社。その後、東洋経済新報社に入社し、主幹として健筆を振るう。
この時代、湛山は一貫して「小日本主義」を提唱。満州をはじめとする海外領土の放棄、軍縮、そして国際協調に基づく自由貿易を主張した。そのラディカルな主張は、軍国主義が台頭する当時の風潮とは相容れず、軍部や右翼からは「国賊」「臆病者」と激しく非難された。しかし、その経済合理性に裏打ちされた論説は、一部の知識人や財界人に、深く静かな影響を与えていた。
内閣総理大臣
1941年(昭和16年)7月、第二次近衛内閣が日米交渉の行き詰まりから総辞職。次期首班には陸軍の強い推薦を受ける東條英機が確実視されていた。しかし、対米開戦を断固として回避する意思を持っていた昭和天皇は、内大臣・木戸幸一の進言を退け、在野の一ジャーナリストであった石橋湛山に組閣の大命を下すという、歴史的な「御聖断」を下した。
これは、日本政治史上、最大のサプライズ人事であり、政界・軍部に激震が走った。当初、湛山内閣は「数日も持たない」と揶揄された。
湛山は、常人には考えられない人事をもって、この危機を乗り切る。陸軍の巨頭であった東條英機を副総理に、国粋主義者の重鎮である平沼騏一郎を内務大臣に起用。自らの政敵とも言える二人を懐に抱き込むことで、奇妙な安定と権力基盤を確立した。この「石橋・東條・平沼」による三頭政治は、以後数年間の日本を動かすことになる。
湛山の最初の仕事は、陸軍主戦派が画策したクーデター計画を、東條と平沼を使い、逆に鎮圧・粛清させるという荒業であった(九・三〇事件)。この事件により、陸軍の暴走は完全に抑え込まれ、対米開戦の危機は回避された。
その後、湛山は外交に辣腕を振るう。「日英蘭経済協定」を締結してABCD包囲網に風穴を開け、上海の租界問題を逆手に取って列強の足並みを乱すなど、老獪な外交術で日本の国際的孤立を回避した。
対外的な危機が去った後、湛山は生涯最大の事業に着手する。帝国憲法(明治憲法)の改正である。
彼は、統帥権の独立という最大の欠陥にメスを入れ、内閣の権限強化、人権保障の拡充などを盛り込んだ草案を提示。当初、このタブーへの挑戦は激しい抵抗に遭ったが、平沼・東條を「改憲の功労者」として立て、天皇の支持を取り付けることで、国民的な大論争を巻き起こした。
最終的に、国民各層の意見を反映した改正案が、1946年(昭和21年)に帝国議会で可決。その直後、湛山は「私の役割は終わった」と潔く宰相の座を去り、平沼騏一郎に後を託した。
晩年
政界引退後、湛山は一切の公職に就かず、鎌倉の私邸で、読書と庭いじりに明け暮れる静かな余生を送った。しかし、歴代の内閣総理大臣や財界人が、しばしば「ご意見番」として彼の元を訪れたという。
1973年(昭和48年)、老衰のため88歳で死去。その死に際し、国家への多大な功績を称え、大勲位菊花章頸飾が追贈された。
評価
肯定的な評価
絶望的な状況下で対米開戦を回避し、日本を破滅から救った救国の宰相として、高く評価される。
「昭和の改憲」を成し遂げ、日本の立憲民主主義と戦後の平和・繁栄の礎を築いた国父の一人とされる。
その政治手法は、理想(小日本主義)を掲げつつも、現実(三頭政治、権謀術数)を直視し、目的のためには清濁併せ呑む、リアリストとしての一面が再評価されている。
否定的な評価・批判
九・三〇事件後の粛清や、平沼・東條といった権力者と手を組んだ手法は、権謀術数に過ぎるとの批判が、特に左派の論客からなされることがある。
彼が作り出した「国家警察予備隊」は、後の政権において、しばしば政府による国民監視の道具として濫用される危険性を内包していたとの指摘もある。
大陸権益を一部維持し、国共内戦を誘導した外交政策は、中国やアジア諸国との間に、新たな禍根を残したとの批判も根強い。
こぼれ話
「鬼と鬼との対話」
最後の難関であった東條英機との交渉において、湛山は一切の策を弄さず、腹を割って「戦争が怖い」という一個人の感情を吐露して説得したと伝えられる。この会談は、後に歴史家によって「鬼と鬼との対話」と呼ばれ、思想信条を超えた人間同士の信頼関係の重要性を示す逸話として、しばしば引用される。
功績を譲る宰相
生涯最大の功績である憲法改正について、湛山は、その功績を全て平沼と東條に譲り、自らは黒子に徹した。公の場で、自らが改憲の発案者であることを語ることは、終生なかった。この無欲な姿勢が、逆に彼の歴史的評価を不動のものとしている。
引退後の口癖
政界を引退し、鎌倉で隠居生活を送っていた湛山の口癖は、「やあ、実にいい天気だ。戦争がないというのは、素晴らしいことだね」であったという。破滅の淵を覗き込んだ男の、平和への深い実感と愛情が滲み出る言葉である。
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東條英機 (とうじょう ひでき)
東條 英機(とうじょう ひでき、1884年〈明治17年〉12月30日 - 19XX年〈昭和XX年〉XX月XX日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍大将。位階は正二位。勲等は大勲位菊花大綬章。
石橋内閣において副総理を務め、対米開戦を回避。その後、初代国防軍大臣として、戦後の日本の安全保障体制の基礎を築いた。
陸軍の「破壊者」でありながら、同時にその「再生者」でもあったという、極めて二律背反な評価を持つ人物。「鞘の中の刀」「最強の番人」と称される。
生涯
陸軍軍人時代
岩手県出身。陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。関東軍参謀長、陸軍次官などを歴任し、陸軍内の統制派の重鎮として頭角を現す。「カミソリ」と評されるほどの切れ者で、厳格な規律を重んじる人物として知られた。
第二次近衛内閣で陸軍大臣に就任。日独伊三国同盟を推進し、対米英強硬論の筆頭と目されていた。そのため、1941年(昭和16年)の近衛内閣総辞職後、次期首相の最有力候補と目されていた。
石橋内閣・副総理
しかし、昭和天皇の「御聖断」により、組閣の大命は石橋湛山に下る。誰もが東條の反発を予想したが、彼は、天皇の意思を絶対のものとして受け入れ、驚くべきことに、石橋内閣の副総理への就任を受諾した。この決断は、彼のその後の運命を決定づけるものとなった。
副総理として、彼は、自らが信じる「陛下への忠誠」を、従来とは全く異なる形で示すことになる。
九・三〇事件
陸軍内の主戦派がクーデターを計画した際には、石橋首相、平沼内相と連携。自らの古巣である陸軍の機密情報を内閣に提供し、反乱分子を炙り出して、その粛清を断行した。この行為は、陸軍内からは「裏切り者」と激しく非難されたが、結果として陸軍の暴走を内部から止め、対米開戦を回避する最大の功労者の一人となった。
国家警察予備隊
内務省管轄の「国家警察予備隊」創設にあたり、その副長官を兼務。陸軍からの装備・人員の移管を主導し、陸軍の力を削ぐ一方で、新たな実力組織の育成に深く関与した。これは、陸軍の力を「内」から「外」へと移し替える、彼の深謀遠慮の表れであった。
昭和の改憲と初代国防軍大臣
石橋内閣が進めた「昭和の改憲」においても、東條は重要な役割を果たした。当初は懐疑的であったが、石橋との個人的な信頼関係と、天皇の意向を受け、改憲の強力な推進者となる。陸軍内部の反対派を「陛下の御心に背くもの」として抑え込み、新憲法下での軍の新たな役割を受け入れさせた。
1946年(昭和21年)、新憲法(日本国憲法)の施行と同時に発足した第一次平沼内閣において、彼は陸軍大将の階級を返上し、文民として初代国防軍大臣に就任した。
大臣として、彼は、旧陸海軍を解体・再編成し、文民統制を徹底した、新生「国防軍」の創設に尽力。その組織は、専守防衛に徹し、国内政治には一切関与しない、プロフェッショナルな実力組織として、その後の日本の安全保障の礎となった。
晩年
国防軍大臣を退任した後も、政界に留まることはなく、一切の公職から退いた。晩年は、戦没者の慰霊と、国防軍の若手幹部の育成に、私財を投じて静かに尽くしたと伝えられる。
評価
肯定的な評価
国家存亡の危機において、私情や派閥の論理を捨て、天皇への忠誠を貫き、対米開戦を回避した英雄として評価される。彼の「転向」がなければ、日本の破滅は避けられなかったとする見方が支配的である。
旧態依然とした帝国陸軍を、一度「破壊」し、近代的な文民統制下の「国防軍」として「再生」させた軍制改革の父とされる。
自らの信念を貫き通す厳格さと、一度信じた相手には絶対の信頼を置く人間性を併せ持つ、最後の武人として、その人格を評価する声も多い。
否定的な評価・批判
石橋内閣以前の、陸軍大臣としての対米強硬路線や、三国同盟推進の責任を問う声は根強い。彼を「結果的に国を救った、危険な賭博師」と評する歴史家もいる。
九・三〇事件における陸軍内部の粛清は、あまりに冷徹であり、多くの有為な人材を失わせたとの批判がある。「同胞を売って、己の地位を守った」という非難は、特に旧陸軍関係者の間で、長く語り継がれた。
国家警察予備隊の創設に関与したことは、国内における治安維持能力の強化に貢献した一方で、平沼騏一郎と共に、強力な国内統制システムを作り上げた張本人であるとの批判も存在する。
こぼれ話
無言の墓参り
初代国防軍大臣に就任した日、東條は、誰にも告げずに一人、九・三〇事件で粛清され、非業の死を遂げたかつての部下や同僚たちの墓を訪れ、夜通し無言で立ち尽くしていたという。彼の胸中にいかなる思いがあったのか、知る者はいない。
石橋湛山との関係
思想信条も、性格も、全く正反対であった石橋湛山との関係は、日本政治史上、最も奇妙で、最も成功したパートナーシップの一つとされる。東條は、生涯、公の場で石橋を批判することは一度もなかった。私的な場では、石橋のことを「あの人は、俺とは違うやり方で、国を愛した男だ」と、静かに語っていたと伝えられる。
国防軍士官学校での訓示
国防軍大臣退任の際、士官学校の卒業式で行った訓示の最後の一節は、彼の生涯を象徴する言葉として有名である。「諸君、覚えておきたまえ。真の強さとは、刀を抜く勇気ではない。国家と国民のため、命じられた時に、その刀を、黙って鞘に収める勇気のことである」
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平沼騏一郎 (ひらぬま きいちろう)
平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、1867年〈慶応3年〉10月28日 - 1952年〈昭和27年〉8月22日)は、日本の裁判官、検察官、政治家。男爵。
石橋内閣において内務大臣を務め、新憲法(日本国憲法)施行後の初代内閣総理大臣に就任(在任期間:1946年 - 1950年)。
国粋主義者の巨頭でありながら、軍部の独走を挫き、法の支配を再建した人物として、その評価は毀誉褒貶が激しい。「法の番人にして、最大の権謀家」「闇の宰相」など、多彩な異名を持つ。
生涯
司法官僚・国粋主義者として
岡山県出身。帝国大学法科大学を卒業後、司法省に入省。検事総長、大審院長、司法大臣を歴任し、司法官僚として頂点を極める。
その一方で、国家主義団体「国本社」を設立・主宰し、国粋主義者の巨頭として、政界に絶大な影響力を持っていた。天皇親政を理想とし、政党政治や自由主義思想には、一貫して批判的な立場を取っていた。1939年(昭和14年)に内閣総理大臣に就任するも、独ソ不可侵条約の締結に際し、「欧州の天地は複雑怪奇」との声明を残して、短期間で総辞職した。
石橋内閣・内務大臣
1941年(昭和16年)、石橋湛山内閣に内務大臣として入閣。自由主義者の石橋と、国粋主義者の平沼の組み合わせは、世間を大いに驚かせた。
内相として、平沼はその権謀術数の才能を、遺憾なく発揮する。
九・三〇事件
陸軍主戦派によるクーデター計画に際し、内務省が持つ全国の警察網、特に特高警察の情報網を駆使。反乱分子の動向を事前に察知し、クーデター発生と同時に、電光石火の早業で首謀者たちを一斉に検挙・鎮圧した。この「法の力による軍の制圧」は、彼の名を「国を救った英雄」として、国民の記憶に刻みつけた。
国家警察予備隊の創設
事件後、内閣直属の実力組織「国家警察予備隊」の創設を主導し、その初代長官に就任。これは、陸軍に対抗しうる、内務省の、ひいては平沼自身の強力な権力基盤となった。
闇の根回し
「昭和の改憲」に際しては、その辣腕を振るい、水面下で反対派議員の不正の証拠を突きつけるなど、脅迫まがいの手法で、議会の賛成を取り付けた。彼の暗躍なくして、改憲の実現は不可能であったと言われる。
初代総理大臣
1946年(昭和21年)、石橋湛山の退任を受け、新憲法下の初代内閣総理大臣に就任。
組閣にあたり、彼は、かつての国本社系の側近ではなく、賀屋興宣(大蔵大臣)や、芦田均(外務大臣)といった、実務能力に長けた官僚出身の政治家を重用した。
平沼内閣は、新憲法の精神に則り、以下の政策を推進した。
国内法の整備
公職選挙法、政治資金規正法、刑事訴訟法など、新憲法に付随する各種近代法の制定を完了させ、日本の法体系の基礎を固めた。
警察制度改革
国家警察予備隊を、文民統制をより徹底した「国家公安軍」へと改組し、その権限を国内の治安維持と災害救助に限定。自らが作り上げた権力装置に、自ら法的な枷をはめた。
行政改革
戦時中に肥大化した行政機構の整理・縮小に着手した。
その政治手法は、極めて権威主義的であったが、独裁に陥ることはなく、常に「法」をその権力の根拠とした。4年の任期を務め上げ、日本の戦後復興のレールを敷いた後、高齢を理由に政界を引退した。
晩年
引退後も、枢密院議長時代の経験から、天皇の相談役として、終生、宮中に大きな影響力を持ち続けたと言われる。1952年(昭和27年)、老衰のため、84歳で死去。
評価
肯定的な評価
軍部の暴走という未曾有の国難に対し、法と情報、そして権謀術数を駆使して立ち向かい、法治国家の崩壊を防いだ守護者として高く評価される。
初代総理大臣として、新憲法体制を軌道に乗せ、戦後日本の法制度と行政の基礎を築いた稀代の実務家であったという評価。
自らの国粋主義的な思想と、現実的な国家運営を切り離して考えることができる、冷徹なリアリストとしての一面が評価される。
否定的な評価・批判
その政治手法は、特高警察の活用や、政敵への脅迫など、民主主義の理念とは相容れない暗黒面を多分に含んでいた。彼を「近代日本のマキャヴェリスト」と呼び、その権力志向を批判する声は多い。
彼が築いた強力な内務官僚機構と警察組織は、後の時代において、国民の人権を抑圧する危険性を常にはらむものであったとの指摘は根強い。
そもそも、戦前に軍部の台頭を許した一因は、彼のような国粋主義者が、政党政治を攻撃し、政治を混乱させたことにある、という自己矛盾を指摘する声もある。
こぼれ話
「法の支配か、人か」
検事総長時代、部下から「法とは、結局、それを使う人間次第ではないですか」と問われた際、平沼は「違う。人間は間違う。だからこそ、人は、自らが作った法に支配されねばならんのだ」と答えたという。彼の、法に対する、厳格で、ある種、非人間的なまでの信頼を示す逸話である。
石橋湛山への評価
平沼は、生涯、公の場で石橋湛山を論評することはほとんどなかった。しかし、一度だけ、ごく私的な席で、「あの男(石橋)は、理想の城を、泥と汚水で建てることを、何とも思わん男だった。…そして、わしは、その泥と汚水の役を、喜んで引き受けただけだ」と、自嘲気味に語ったと伝えられる。
最後の言葉
臨終の床で、彼の意識が混濁する中、平沼は、かすかに目を開け、「…法の、外に、国なし」とだけ呟き、静かに息を引き取ったという。彼の生涯を貫いた、信念とも、あるいは業とも言える言葉であった。
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