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黄昏の宰相(2話中の2話目です)

望外の高評価をいただきましたので、後半を投稿します。

だいぶ尻すぼみになってしまい、申し訳ありません。

素人がAIと作った小説ですので、ご寛恕給われれば幸いです。


反乱と粛清の嵐が過ぎ去って一月。帝都は、熱病に浮かされたような興奮と、深い疲労感の入り混じった奇妙な静けさに包まれていた。世論の激しい対立は未だ収まらず、検挙された将校たちの処遇を巡って、新聞紙上では連日インクの弾丸が飛び交っていた。


しかし、その喧騒とは裏腹に、霞が関の権力の中枢では、新たな秩序が冷徹に構築されつつあった。

十月下旬、大本営政府連絡会議が、あの粛清劇以来、初めて再開された。


会議室の空気は、以前とは全く異質のものに変わっていた。かつて会議を支配していた陸軍参謀本部の将帥たちの席は、多くが空席のままだった。陸軍大臣代理として出席した寺内寿一元帥は、老残の身をかろうじて椅子に預けているだけで、その顔には陸軍という巨象が崩壊したことへの絶望の色が濃く浮かんでいた。


その静寂を破ったのは、首相・石橋湛山の静かだが、鋼のような芯の通った声だった。


「諸君。先の一件は、国家にとって痛恨の極みであった。しかし、我々は過去を嘆いてばかりはおりません。この瓦礫の上にこそ、新たな日本の礎を築かねばならぬのです」


湛山は居並ぶ閣僚と各省の長を見渡し、一枚の分厚い資料を掲げた。

「本日、政府が提案するのは、先の『帝国国策遂行要領』に代わる、新たな国家の羅針盤――『第二次帝国国策遂行要領』であります」


ざわめきが走る。だが、それは以前のような怒号や反発ではなく、緊張と固唾を呑む音だった。


「要点は、以下の通りです」

湛山は、よどみなく説明を始めた。


「第一、対米交渉は、期限を設けず粘り強く継続する。戦争回避こそが、我が国の至上命題である」

これは、内閣の基本方針の再確認だった。


「第二、支那事変は、これ以上の戦線拡大を断固として行わない。むしろ、防衛に有利なラインまで戦略的に転戦し、長期持久の態勢に移行する。これにより、現地軍の負担を軽減し、国力の消耗を防ぐ」

「転戦」という言葉に、寺内元帥の肩がかすかに震えた。それは事実上の「戦線縮小」であり、陸軍にとっては屈辱以外の何物でもなかった。だが、誰も反論はしない。


「第三、米国の禁輸措置に対抗するため、英国、オランダ領東インドとの経済協議を開始する。石油、ゴム、ボーキサイト等の重要資源の安定供給路を、外交努力によって確保する。これは、南方への武力進出の必要性を、根本から覆すものです」

これは、海軍穏健派と財界が望んでいた道だった。企画院総裁の小林一三が、満足げに深く頷く。


そして、湛山は最も爆弾的な項目に触れた。

「第四、以上の国策転換に伴い、陸海軍の予算を抜本的に見直す。特に陸軍予算は、大幅に削減する」


寺内元帥が、うめくように顔を上げた。しかし、湛山はそれに構わず続けた。

「ただし」

その一言に、全員が息をのんだ。

「削減した予算の一部は、『陸軍再配置予算』として新たに計上する。これは、大陸からの転戦部隊を国内の重要拠点に再配置し、国土防衛体制を強化するための予算である。また、海軍の艦艇建造及び航空機開発予算は、重点的に拡充する」


それは、あまりにも巧妙な飴と鞭だった。海軍大臣・及川古志郎の表情が、明らかに和らいだ。海軍の悲願であった予算増額が、ここに実現するのだ。

そして、平沼騏一郎内務大臣の唇の端に、かすかな笑みが浮かんだ。「陸軍再配置予算」――それが、彼が進める警察予備隊創設の隠れ蓑となる資金源であることは、この場にいる三人の共犯者だけが知る秘密だった。


最後に、湛山は小林一三に向かって語りかけた。

「そして、歳出の大部分は、国内のインフラ整備、及び満州における長期持久戦のための資源開発に重点的に投資する。戦争ではなく、経済で国を富ませる。これぞ、企画院と財界が最も望む道のはずです」


全てのピースが、完璧に嵌った。

陸軍の力を削ぎつつも、「再配置」という名目で東條の面子を立て、警察予備隊の予算を確保する。

海軍と財界には、望み通りの「アメ」を与える。

そして、その全てが「戦争回避」という一点に収斂していく。


重い沈黙が、会議室を支配した。

やがて、口火を切ったのは、副総理・東條英機だった。彼は、腕を組んだまま、静かに、しかし決定的な一言を放った。


「…異存ない。大陸からの転戦と、新たな国土防衛体制の構築は、陸軍の再建にとって急務である。この要領は、そのための現実的な方策だ。陸軍は、政府決定に全面的に従う」


それは、粛清を経て陸軍を完全に掌握した男の、最終通告だった。寺内元帥は、力なく目を閉じ、うなだれた。

もはや、帝国陸軍に、政府の方針に逆らう力は残っていなかった。


採決は、満場一致で可決された。

怒号も罵声もなく、ただ冷徹な政治力学だけが支配する中で、日本の新たな航路が定められた。


会議室を退出した湛山の肩を、乾いた秋風が撫でた。隣には、能面のような表情の東條と、老獪な光を瞳に宿した平沼が並び歩いている。

思想も信条も、目指す国家の姿も違う三人の男。彼らを繋ぐのは、「戦争回避」という一点の目的と、血腥い謀略を共有した共犯者意識だけだった。




『第二次帝国国策遂行要領』が決定された数日後の午後。

三宅坂の陸軍省は、まるで巨大な墓標のように静まり返っていた。粛清の嵐が吹き荒れた後、かつての活気は失われ、廊下を行き交う将校たちの顔には、不安と疑心暗鬼の色が濃くこびりついている。


陸軍大臣室。

臨時の大臣代理を務める寺内寿一元帥は、執務机に積まれた書類の山を前に、ただ深くため息をついた。かつて帝国陸軍の威信を一身に体現した老将の双肩には、今や組織崩壊の重圧だけがのしかかっている。


「元帥閣下、お疲れのところを失礼いたします」


静かに部屋に入ってきたのは、副総理・東條英機だった。彼は陸軍の先輩でもある老元帥に対し、深々と一礼した。

「いえ、東條君…いや、副総理殿。よくお越しくだされた」

寺内は、力なく顔を上げる。その憔悴しきった表情に、東條は痛ましげな眼差しを向けた。だが、その瞳の奥には、氷のように冷たい計算が潜んでいた。


「閣下、先日の連絡会議でのご決断、陸軍の将来を思うからこその苦渋の選択と拝察いたします。私も、陸軍に籍を置いた者の一人として、胸が張り裂ける思いであります」

東條は、まず寺内の労をねぎらい、味方であることを強調する。

「しかし閣下、我々が真に恐れるべきは、予算の削減ではありますまい」


東條は声を潜め、寺内の顔を覗き込んだ。

「先の不祥事…。もし、万が一にも、このようなことが再び起これば、我々陸軍は、いよいよ陛下からの御信頼を完全に失うことになります。そうなれば、組織の解体さえ論じられかねません」


「陛下の信頼」――その言葉は、老元帥の最も痛い部分を的確に突いていた。寺内の顔が、苦痛に歪む。

「…分かっておる。だからこそ、夜も眠れんのだ」

「そこで、閣下にご提案がございます」

東條は、本題を切り出した。

「今回の事件の根は、二つあると存じます。一つは、過激な思想にかぶれた一部将校の存在。そしてもう一つは、長きに渡る大陸での派兵で、兵士たちの間に鬱積した不満と士気の低下です。この二つが結びつけば、いつ第二、第三の反乱が起きるとも限りません」


その分析は的確であり、寺内も深く頷くしかなかった。

「では、どうすれば…」

「膿は、出し切らねばなりません」

東條の声に、剃刀のような鋭さが宿った。

「血の気の多い不穏分子は、いっそ大陸の第一線に転属させるのです。有り余る気力を、国のために存分に発揮させればよろしい。これは、彼らにとっても本望でしょう」


それは、過激派の一掃という、寺内にとっても魅力的な提案だった。

「そして…」と東條は続けた。

「その代わりに、派兵が長期化し、心身ともに疲弊している部隊を、内地に帰還させるのです。故郷の土を踏ませ、家族と再会させる。兵の士気を回復させ、組織の結束を固める。これこそが、陸軍再建の第一歩ではありませんか」


寺内は、はっとしたように東條の顔を見た。その提案は、理にかなっているように思えた。過激派を遠ざけ、忠実な兵士を休ませて士気を高める。それは、崩壊しかけた組織を立て直すための、有効な一手に見えた。


「これは、単なる人事異動ではありませぬ。陸軍の綱紀を粛正し、陛下の赤子たる兵を労い、もって御聖慮にお応えするための、組織を挙げた大改革でございます。これを示すことこそが、失われた信頼を取り戻す唯一の道と信じます」


東條は、あくまで陸軍の再建と天皇への忠誠を語る。まさかその真の目的が、帰還させた部隊の兵員と装備を、内務省管轄の「警察予備隊」へと横流しするための、壮大な『実弾補充計画』であることなど、老元帥が知る由もなかった。


「……」

寺内は、しばし目を閉じ、深く思案していた。やがて、彼は重々しく口を開いた。

「…東條君。君の言う通りかもしれん。もはや、この老いぼれには、それくらいしか出来ることが残っておらんようだ」

その声には、東條の提案にすがるような響きがあった。

「よろしい。君の案で進めよう。人選と部隊の選定は、君に一任する。頼んだぞ」

「はっ。謹んでお受けいたします。必ずや、閣下のご期待に、そして陛下の御心にお応えしてご覧にいれます」


東條は再び深々と頭を下げ、静かに大臣室を辞した。

廊下に出た彼の顔からは、先ほどの痛ましげな表情は消え、目的を達した狩人のような、冷徹な光だけが宿っていた。


これで、駒は揃った。

あとは、帰還する部隊を、いかにして「陸軍」から「警察」へと、誰にも気づかれずにすり替えるか。

東條の描く謀略の歯車は、また一つ、大きく音を立てて回り始めた。



同じ頃、霞が関の一角にある大蔵省は、近年稀に見る活気に満ち溢れていた。

長年、陸海軍の青天井の要求に屈し、「予算編成」というよりは「軍の要求の追認」に甘んじてきた大蔵官僚たち。彼らにとって、『第二次帝国国策遂行要領』による軍事費の大幅削減は、まさに干天の慈雨であった。


「主計局長!これでようやく、内務の治水事業に回せるぞ!」

「いや、文部だ!我が国の将来は教育にかかっている!」


省内のあちこちで、目を輝かせた官僚たちが、何年ぶりかに手にした「財源」の配分を巡って、熱のこもった議論を交わしている。それは、国家の財政を司るという本来の矜持を取り戻した者たちの、喜びのときの声でもあった。


その喧騒の真っただ中にある大臣室に、首相・石橋湛山が姿を現した。

「やあ、総理。お待ちしておりました」

出迎えたのは、賀屋興宣かや おきのり大蔵大臣。戦時統制経済にも理解を示す、大蔵省きっての実務家である。彼の後ろには、主計局長をはじめとする省の幹部たちが、緊張した面持ちで控えていた。


「賀屋君、省内は随分と賑やかじゃないか。結構なことだ」

湛山は、柔和な笑みを浮かべた。しかし、賀屋たちの表情は硬い。

「これもひとえに、総理が身を挺して軍を抑えてくださったおかげです。我々大蔵省一同、心より感謝しております」

賀屋は深々と頭を下げた。それは偽らざる本心だった。だが、彼はすぐに顔を上げ、厳しい表情で続けた。

「感謝しているからこそ、申し上げねばなりません。総理、例の『陸軍再配置予算』、あれは一体何ですかな?」


厳しい詰問だった。後ろに控える主計局長たちの視線が、槍のように湛山に突き刺さる。

「何年も軍の無理無体に耐え、ようやく捻出した貴重な財源です。それを、使途のあいまいな、しかも陸軍という金の亡者の懐に戻すような予算に回すなど、我々には到底承服しかねます」


彼らは、経済と財政のプロフェッショナルである。石橋湛山が同じ「経済人」であるからこそ、その追及は一切の妥協を許さない。これは、感情論ではなく、数字と論理の戦いだった。


「…諸君らの言い分は、もっともだ。私が諸君らの立場でも、同じことを言うだろう」

湛山は、椅子に深く腰掛け、天を仰いだ。

「私とて、好きで陸軍に金を渡したいわけではない。私の持論を知っているだろう。『小日本主義』、軍備などという不生産なものに金を使うことこそ、最大の浪費だと考えている男だ」

その言葉に、嘘はなかった。大蔵官僚たちは、黙って次の言葉を待つ。


「しかし…」

湛山は、ゆっくりと顔を戻し、賀屋たち一人一人の顔を見つめた。

「一度だけだ。来年度の予算、この一度だけ、私を信じて、この『再配置予算』を認めてはくれんだろうか」

その声は、懇願に近い響きを持っていた。

「な…、総理。それは理屈になっておりません。我々は、国家の財政に責任を負う者です。信用だけで億単位の予算は動かせません」

主計局長が、たまらず反論する。


すると、湛山は誰もが予想しない行動に出た。

彼は両手で顔を覆い、声を震わせた。

「頼む…!この石橋湛山、一生の頼みだ!」


まるで芝居がかったような、しかし真に迫った泣き落としだった。百戦錬磨の大蔵官僚たちも、一国の宰相のその姿に、思わず言葉を失う。

「この予算がなければ、私が命を賭して止めたあの歯車が、また逆回転を始めてしまうやもしれんのだ。そうなれば、この国は本当に終わる。諸君らが守ろうとしている財政も、国家そのものがなければ意味がないではないか!」


顔を上げた湛山の目には、うっすらと涙さえ浮かんでいるように見えた。

「来年度限りだ。来年度以降は、必ず、この予算の真の使途を諸君らに打ち明けよう。そして、もし私の判断が間違っていたならば、この首を差し出したとて構わん。だから…だから、この一度だけは、騙されたと思って私に乗ってくれ!」


宰相の、魂からの絶叫だった。

それは、秘密を守るための苦肉の策であり、同時に、この国を救うための真摯な叫びでもあった。


大臣室に、重い沈黙が落ちた。

賀屋興宣は、目の前の小柄な首相の姿を、じっと見つめていた。軍という巨大な権力を相手に、たった一人で渡り合い、そして勝利した男。その男が、今、自分たちに頭を下げている。

その涙の裏にあるものが、単なるごり押しでないことくらい、彼らにも分かっていた。そこには、まだ明かせない、しかし国家の命運を左右するほどの重大な秘密が隠されているのだ。


やがて、賀屋は深く、長く息を吐いた。

「……分かりました、総理」

その声に、主計局長たちが驚いて大臣を見る。

「一度限り…ですな?」

「ああ、約束する」

「…承知いたしました。この賀屋興宣、大蔵大臣の名において、責任をもって『陸軍再配置予算』を認めましょう。ただし…」

賀屋は、厳しい目で湛山を見据えた。

「来年、必ずや我々が納得できる説明をお願いいたしますぞ。それがなければ、我々は、今度こそ総理、あなたと戦うことになります」


それは、大蔵省の最後の矜持だった。

「…感謝する。賀屋君。諸君らの愛国心に、心から感謝する」

湛山は、深く頭を下げた。


承知いたしました。

大蔵大臣室での密約の直後、賀屋興宣が省内をまとめ上げる、プロフェッショナルとしての矜持に満ちたシーンを描きます。




首相・石橋湛山が慌ただしく大臣室を辞した直後、堰を切ったように省内幹部たちの不満が爆発した。


「大臣!なぜあのような理不尽を認められたのですか!」

「左様です!あれでは、軍の言いなりになっていた頃と何も変わりませんぞ!」

主計局長、理財局長らが、口々に賀屋興宣に詰め寄る。彼らの顔は、尊敬する上司への不信と、財政規律を汚されたことへの怒りで赤くなっていた。長年、軍部の恫喝に耐え、ようやく掴んだ予算編成の主導権。それを、宰相の「泣き落とし」一つで手放すなど、彼らのプライドが許さなかった。


賀屋は、幹部たちの激しい言葉の雨を、黙って浴びていた。彼は椅子に深く腰掛け直し、指でこめかみを揉む。やがて、部屋の喧騒が一段落したのを見計らい、静かに、しかし有無を言わせぬ声で口を開いた。


「…諸君らの言い分は分かる。私も、腹の中は煮えくり返る思いだ」

その低い声に、幹部たちは押し黙る。

「だが、一度『賀屋興宣』が、そして『大蔵大臣』が『了』としたことを、覆すわけにはいかん。それは、我々自身の信頼を失墜させる行為だ。首相が去った後で決定を覆すなど、卑怯者のすることだ」


彼の言葉には、微塵の揺らぎもなかった。それは、一人の政治家として、そして大蔵省という組織を率いる長としての、絶対的な矜持だった。


「…しかし、大臣!」

なおも食い下がろうとする主計局長を手で制し、賀屋は続けた。

「考えてもみよ。あの石橋湛山という男が、ただの感傷や人気取りで我々に頭を下げたと思うか?あの男は、我々と同じ、数字と経済で物事を考える人間だ。その男が、己の信条を曲げてまで懇願したのだ。そこには、我々がまだ知る由もない、国家の存亡に関わるほどの理由があるはずだ」


賀屋は立ち上がり、窓の外に広がる帝都の空を見つめた。

「石橋総理は、命を賭けた。軍という化け物と刺し違える覚悟で、我々にこの『自由』をもたらしてくれた。その男が、『一度だけだ』と魂で叫んでいる。…ならば、我々も一度だけ、その賭けに乗ってみるのが筋というものではないか」


彼の背中は、決して大きくはない。だが、そこに宿る決断の重さに、幹部たちは何も言えなくなった。


賀屋は、くるりと振り返り、厳しい表情で彼らを見据えた。

「話は終わりだ。『陸軍再配置予算』は、要求通り、満額を計上する。異論は認めん」

その声は、大臣としての最終決定を告げていた。そして、彼は厳しい表情をわずかに緩め、ニヤリと口の端を上げた。


「だが、いつまでも陰鬱な顔をしておるな。仕事は山積みだぞ」

彼は、執務机の上の分厚い資料の束をポンと叩いた。

「我々の戦場は、ここからだ。陸軍にくれてやる予算は、もはや確定した。ならば、残りの浮いた貴重な財源を、いかにしてこの国のために使うか。それこそが、我々大蔵官僚の腕の見せ所だろう!」


彼の目に、再び鋭い光が戻った。

「主計局長!各省から上がってきている要求を全て洗い出し、優先順位をつけろ!治水、教育、社会資本の整備…この数年、我々がやりたくても出来なかった政策を、徹底的に審査、査定するのだ!一銭たりとも無駄にするな!これこそが、軍に対する我々の意趣返しだ!」


賀屋の檄に、それまで不満の表情を浮かべていた幹部たちの顔に、徐々に光が戻ってきた。そうだ、戦いは終わっていない。むしろ、ここからが本番なのだ。自分たちの手で、この国の未来を築く予算を作り上げる。その誇りと使命感が、彼らの心を再び熱く燃え上がらせた。


「はっ!直ちに!」

主計局長が、力強く応える。その声に応えるように、他の局長たちも一斉に頭を下げた。

大蔵大臣室の空気は、完全に変わっていた。不満と疑心は消え、国家再建へ向けたプロフェッショナル集団の、熱気に満ちた戦場のそれに変貌していた。


賀屋興宣は、再び静かに椅子に腰を下ろすと、満足げに目を閉じた。

(…総理、これは一つ貸しとします。来年、必ずや返していただきますからな)

心の中でそう呟きながら、彼は、これから始まるであろう、眠れぬ予算編成の日々に思いを馳せるのだった。



湛山の次なる戦場は、永田町の国会議事堂だった。

大政翼賛会のもとで骨抜きにされ、今や「衆議院倶楽部」という一つの会派にまとめられた議会。しかし、その水面下では、旧政友会、旧民政党といった派閥が、かつての領袖たちを中心に根強く生き残り、虎視眈眈と権力の分け前に与る機会を窺っていた。


彼らはある意味で軍部以上に唾棄すべき存在だった。いたずらに私利党利に走り、足の引っ張り合いに明け暮れた揚げ句、軍部の台頭に易々と迎合し、自ら議会政治の命脈を絶った者たち。その記憶は、ジャーナリスト時代の湛山の脳裏に、怒りと共に鮮明に刻まれている。


だが、宰相・石橋湛山は、その感情を完璧な仮面の下に隠し、議事堂内の一室に足を踏み入れた。そこには、旧二大政党の領袖たちが、ふんぞり返るように待ち構えていた。白髪を撫でつける元首相経験者、金縁の眼鏡の奥で値踏みするような目を光らせる党人派の巨頭。彼らの纏う空気は、失われた権力への郷愁と、新たな権力者への侮りに満ちていた。


「おお、総理。ようこそお越しくださった。いやはや、議会を無視しては、何事も進みますまいな」

領袖の一人が、先制攻撃とばかりに尊大な口調で言う。

湛山は、おくびにも出さず深々と頭を下げた。

「先生方には、日頃から国政にご尽力いただき、感謝の言葉もございません。本日は、来年度の予算編成にあたり、是非とも先生方のご指導を賜りたく、馳せ参じました次第です」


その過剰なまでの低姿勢に、領袖たちは満足げに頷く。在野から来た経済学者など、所詮は自分たちの協力がなければ何もできまい、と高を括っているのが見て取れた。


「して、ご用件は?」

「はい。ご承知の通り、先の不祥事を経て、来年度は長年国家財政を圧迫してきた軍事費を大幅に削減できる見込みとなりました」

湛山がそう切り出すと、領袖たちの目の色が一斉に変わった。「財源が浮く」という言葉は、彼らにとって最も甘美な響きを持つのだ。


「この貴重な財源は、国民生活の安定と、疲弊した国内産業の振興にこそ使うべきだと考えております。ついては、先生方のお知恵をお借りしたい。例えば、長年懸案となっておりました治水事業、港湾の整備、あるいは地方への鉄道敷設…。先生方の地元からも、多くのご要望が上がっていることと存じます」


それは、露骨なまでの利益誘導の示唆だった。軍事費という「聖域」に切り込むことで生まれた果実を、議会に、ひいては彼らの選挙区に還元するという、抗いがたい提案だった。領袖たちは互いに目配せし、口元に隠しきれない笑みを浮かべる。


「ほう、それは結構なことだ。総理も、ようやく議会の重要性にお気づきになられたようだ」

「うむ。我々も、国のため、国民のために、政府に全面的に協力させていただこうではないか」

話は、あまりにもあっさりと決まるかのように見えた。だが、彼らはただでは転ばない。


「ただし総理。一つだけ懸念がある」と、別の領袖が口を挟む。「例の『陸軍再配置予算』とかいうものですな。あれは、どうにも金の使い道がはっきりしない。陸軍に、まだそのような不明朗な予算を認めることには、議会としても抵抗がございますな」

それは、より多くの見返りを引き出すための、計算され尽くした揺さぶりだった。


湛山の顔から、すっと笑みが消えた。

「…先生方。仰ることは、ごもっともです。しかし…」

部屋の空気が、一瞬で張り詰める。

「先の不祥事は、なぜ起きたか。軍部の暴走を、なぜ誰も止められなかったのか。陛下は、もちろん臣民も、その責任の所在を、厳しく見ておられますぞ」


その声は静かだったが、領袖たちの胸に冷たい刃のように突き刺さった。軍部に迎合し、翼賛選挙に協力した自分たちの過去。それは、彼らが最も触れられたくない弱点だった。


「この国難の折、もし議会が、またしても目先の利に囚われ、国政の足を引っ張るようなことがあれば…」

湛山は、言葉を切った。その沈黙が、何よりも雄弁に脅しを伝えていた。粛清の嵐は、まだ完全には止んでいない。その矛先が、いつ議会に向かうとも限らないのだ、と。

「…今、この国に必要なのは、政府と議会が一体となって、戦争への道を完全に断ち切ったという断固たる姿勢を、内外に示すことです。この予算案は、そのための試金石であります。これにご賛同いただけぬということは…」


領袖たちの顔から、余裕の色は完全に消え失せていた。目の前の小柄な経済学者は、自分たちが考えていたような、おだてれば言うことを聞く御しやすい宰相ではなかった。アメとムチを巧みに使い分ける、冷徹な政治家だった。


重い沈黙の後、最初に口を開いたのは、最も長老格の元首相だった。

「……総理の憂国の情、しかと拝聴いたしました。分かりました。この上は、我々も小異を捨てて大同につき、政府案に全面的に賛成することといたしましょう。これも、全ては陛下と国家のためであります」


その言葉を皮切りに、他の領袖たちも次々と同意を表明する。

「…ありがとうございます。先生方のご英断に、心より敬意を表します」

湛山は、再び深く、深く頭を下げた。


部屋を辞し、議事堂の長い廊下を歩きながら、湛山は込み上げてくる吐き気をかろうじて抑え込んだ。

(…腐臭がする)

国家の存亡よりも己の利権を優先する者たち。彼らに頭を下げ、取引をしなければ、この国は動かせない。

(だが、今はこれでいい…)

湛山は、自らに言い聞かせる。

(この腐った土台の上にでも、まずは平和の礎を築く。話は、それからだ)

秋の冷たい空気が、彼の燃えるような内面をわずかに冷ましてくれるのだった。





石橋湛山が、大蔵省や議事堂という「表」の舞台で、道化を演じ、泥水を飲みながら予算編成に奔走していた頃。

もう一つの戦いが、闇の中で静かに、しかし冷酷に進められていた。


主役は、内務大臣・平沼騏一郎。

彼の執務室には、連夜、信頼する腹心の部下である内務省の古参官僚たちが、人目を忍んで出入りしていた。彼らが手にしているのは、予算書でもなければ、政策案でもない。分厚い表紙に「極秘」の印が押された、数多の個人ファイルだった。


「…男爵。旧民政党のAは、陸軍の兵器調達に絡み、B商会から多額の献金を受け取っております。これがその証拠の念書です」

「ほう。政友会系のCは、満州での阿片取引に関与した疑いが。これは、憲兵隊からの内々の情報ですが…」


平沼の部下たちは、内務省が長年培ってきた情報網、特高警察が掴んだスキャンダル、さらには満州や朝鮮に渡った元内務官僚からの極秘報告に至るまで、あらゆる情報を駆使して、政財界の要人たちの「不正の証拠」を収集し、整理していた。それは、法治国家の守護者である内務省が、自ら法の支配を脅かす凶器を研ぎ澄ますに等しい行為だった。


平沼は、部下たちの報告を、表情一つ変えずに聞いていた。彼の瞳には、正義感もなければ、罪悪感もない。ただ、目的を遂行するための駒を、冷徹に仕分けるかのような光だけが宿っていた。


「よろしい。引き続き、証拠の裏付けを固めよ。ただし、この件は、私の許可なく誰一人として動かすことを許さん。分かっておるな」

「はっ」


腹心たちが退出した後、平沼は執務室に一人、腕を組んだ。

彼の机の上には、たった一枚の紙片だけが置かれている。そこには、『国家警察予備隊法案(仮称)』とだけ記されていた。法案の条文は、まだ彼の頭の中にしかない。しかし、彼は、この法案が議会を通過することを、すでに確信していた。


数日後。

平沼は、議事堂の奥深くにある、普段は使われない小会議室に、旧政党の領袖たちを一人ずつ呼び出した。表向きは、「治安維持に関する意見交換」という名目だった。


「これはこれは、平沼男爵。直々のお呼び出しとは、一体いかなるご用件かな」

尊大な態度で入ってきた領袖に対し、平沼は茶を勧めながら、穏やかに切り出した。

「なに、大したことではござらん。ただ、先生におかれましては、近頃、地元の建設会社との関係が少々深すぎるのではないかと、老婆心ながら心配しておりましてな…」

その一言に、領袖の顔色が変わる。

「な、何を…!」

「おっと、お間違えなきよう。これは、内務大臣として、国家の綱紀を預かる者としての、単なる世間話でございますよ」


平沼は、微笑を崩さない。だが、その目は笑っていない。彼は、懐から一枚の写真を取り出し、テーブルの上に滑らせる。そこには、領袖が建設会社の社長から分厚い封筒を受け取る瞬間が、鮮明に写っていた。


領袖の顔から、血の気が引く。

「さて」と平沼は続けた。「来たる議会で、予算案と同時に、一つの重要な法案を提出するつもりでおります。法案の名称も中身も、今はまだ申し上げるわけにはまいりません」

「……」

「しかし、その法案は、先の反乱のような不祥事を二度と起こさぬため、この国の秩序を盤石にするための、極めて重要な法案であります。つきましては、先生には、その法案が上程された折には、何ら異議を唱えることなく、速やかなるご賛成を賜りたい」


それは、脅迫以外の何物でもなかった。

「もし…もし、私が否と言ったら…」

「いいえ」と平沼は、領袖の言葉を遮った。「先生は、否とは仰らない。あなたは、国を憂える、立派な政治家でいらっしゃるからだ。そうでしょう?」

平沼は、写真を指で軽く弾く。それは、お前の政治生命は、この一枚の紙切れにかかっているのだ、という無言の宣告だった。


領袖は、額に脂汗を滲ませ、震える声でかろうじて答えた。

「……承知、つかまつった」


同じことが、他の領袖たちに対しても、次々と繰り返された。ある者には不正献金の証拠を。ある者には、愛人とのスキャンダルを。平沼は、相手に応じて凶器を使い分け、彼らの魂に、決して消えない「賛成」の烙印を押していった。


こうして、まだ存在すらしない法案への「賛成」は、議会が開かれる前に、水面下で、そして闇の中で、完全に固められていった。


石橋湛山が光の当たる場所で頭を下げ、恥をさらしている一方で、平沼騏一郎は闇の中で脅し、人の弱みを握る。

一人は理想のために、一人は権力のために。

水と油のような二人の男の暗闘によって、来年度予算と、それに付随する禁断の法案は、その成立をほぼ確実なものとしていた。




年が明け、昭和十七年(1942年)の帝都は、束の間の静けさに包まれていた。

反乱と粛清の熱狂は過去のものとなり、国民の関心は、日々の暮らしと、遅々として進まぬ日米交渉の行方に移っていた。しかし、その穏やかな日常の裏側で、国家の進路を決定づける巨大な歯車は、きしみを上げながら最後の回転を続けていた。


陸軍省、三宅坂。

組織の空気は、未だに重く沈んだままだった。粛清によって参謀本部の中枢を根こそぎ失った陸軍は、寺内元帥と東條副総理のもと、必死の組織再建に追われていた。空席となったポストに新たな人材を配置し、崩壊した指揮系統を立て直す。その作業だけで、省内は手一杯だった。


「…それで、内務省の件はどうなっている?」

陸軍省の一室で、新たに作戦部長に就任したばかりの佐官が、情報部の部下に問い詰めていた。

「はっ。依然として、掴めておりません。ただ、平沼大臣の周辺で、何やら大掛かりな法整備が進められているのは確かなようです。特高や地方の警察組織に、妙な動きが見られます」

「妙な動き、だけでは話にならん!石橋内閣になってから、内務の連中はやけに強気だ。奴らが何を企んでいるか、早急に突き止めろ!」


陸軍情報部も、内務省の不穏な動きは察知していた。しかし、それは霧の中の影のように朧げだった。かつては、憲兵隊を使って内務省の動きを牽制し、情報を探ることもできた。だが、今やその憲兵隊も、先の粛清で平沼に弱みを握られ、かつての力を失っていた。組織の立て直しという内向きの課題に忙殺される陸軍には、もはやライバル官庁の動向を徹底的に調査し、対抗策を講じるだけの余力は残されていなかった。

「…まあ良い。いずれにせよ、彼らが何を企んでいようと、東條副総理が黙ってはおるまい」

彼らは、最終的に東條の存在に一縷の望みを託すしかなかった。まさかその東條こそが、内務省と通じている黒幕の一人であるなど、夢にも思わずに。


一方、首相官邸。

石橋湛山は、分厚い予算案の最終稿を、感慨深げに眺めていた。

道化を演じ、頭を下げ、時には涙さえ見せて勝ち取った、血と汗の結晶。それは、単なる数字の羅列ではない。戦争から平和へ、破滅から再建へと、国家の舵を切り替えるための設計図だった。


「総理、帝国議会の召集日が、二月二十五日に正式決定いたしました」

秘書官の報告に、湛山は静かに頷いた。

「そうか。…いよいよだな」

全ての手は尽くした。大蔵省も、議会も、根回しは済んでいる。予算案の可決は、ほぼ間違いない。

だが、湛山には一抹の不安が残っていた。


それは、平沼騏一郎が進める、もう一つの法案だった。

平沼は、その法案の名称すら、未だに湛山に明かしていない。『国家の秩序を盤石にするための法案』。その言葉だけを繰り返し、議会対策は全て自分に任せるようにと告げるのみだった。

(…あの男、一体何を考えている…)

平沼という、思想も信条も相容れない男と手を組んだこと。それは、この国を救うための必要悪だったと自らに言い聞かせる。しかし、その男が手に入れようとしている「力」が、いずれ自分自身や、この国の自由を脅かす新たな怪物になるのではないかという危惧を、湛山は拭い去れずにいた。


だが、今はもう後戻りはできない。予算案と、平沼の謎の法案。二つは、運命共同体として、議会という舞台に同時に上程されるのだ。


そして、運命の二月二十五日。

春の訪れを間近に控えた帝都に、帝国議会召集のサイレンが鳴り響いた。

議事堂には、モーニングコートに身を包んだ議員たちが、続々と吸い込まれていく。彼らの多くは、これから始まる議会で何が起きるのか、その本当の意味を理解してはいなかった。ただ、政府と軍が対立することなく、平穏に予算が通過するだろう、と楽観視している者さえいた。


その日の午後、衆議院本会議場。

議長席からの開会宣言の後、ついに首相・石橋湛山が、緊張の面持ちで演壇に立った。

傍聴席は満員。新聞記者たちが、一斉にペンを走らせる。

閣僚席では、東條英機が鋼のような表情で腕を組み、平沼騏一郎が老獪な光を瞳に宿して、静かにその時を待っていた。




昭和十七年二月二十五日、衆議院本会議場。

議場の空気は、異様なほどの静けさと、水面下に渦巻く緊張感に満ちていた。粛清の嵐の記憶が生々しい中、議員たちは固唾を飲んで演壇を見つめている。


やがて、議長の紹介を受け、首相・石橋湛山がゆっくりと演壇に立った。小柄なその体躯が、巨大な議場の中心で際立って見える。彼は、満場の視線を一身に受けながら、深く一礼し、静かに口を開いた。


「本日、政府がここに提出いたしまするは、単なる一会計年度の予算案にあらず! それは、万世一系の国体を護持し、皇国の礎をより強固なものにするための、未来への第一歩であります!」


力強い第一声だった。それは、これから始まる議論が、単なる数字の付け替えではないことを、満天下に宣言するものだった。

湛山は、軍事費の大幅削減と、その財源を国内産業の振興と国民生活の安定に向けるという、予算の骨子をよどみなく説明していく。その言葉は、経済学者らしい論理的な明晰さと、国家の未来を憂う政治家としての熱情に満ちていた。


「…無益な軍拡競争から脱却し、国力を内に蓄え、民の暮らしを豊かにすることこそ、真の富国強兵への道であると、私は信じて疑いません!」


根回しが効を奏し、野次は散発的だった。しかし、ある一点に差し掛かった時、議場の空気が変わった。


「…また、大陸より帰還する将兵たちの再配置と、国土防衛体制の強化のため、『陸軍再配置予算』を計上いたしました。これは、疲弊した兵士たちを労い、陸軍組織の綱紀を粛正するための、不可欠の措置であります」


湛山がそう説明を濁した瞬間、議場の一角から鋭い声が飛んだ。

「議長!質問があります!」

声の主は、斎藤隆夫。かつて反軍演説で軍部の怒りを買い、議員除名されたこともある硬骨の士だった。

「石橋総理にお尋ねする!その『再配置予算』なるものの、具体的な使途が全く不透明であります!先の反乱の反省もなく、またしても陸軍に、国民の血税を無条件で渡すというのですか!総理の口から、明確な説明を求めたい!」


議場が、一瞬にして緊張に包まれる。斎藤の追及は、誰もが心の内で抱いていた疑問を代弁するものだった。湛山は、額に滲む汗を意識しながら、冷静に答えた。

「斎藤先生のご懸念は、もっともであります。しかし、これは軍備の増強では断じてない。あくまで、部隊の配置転換と、それに伴う施設の整備に充てられるものであり、その使途については、政府が責任をもって監督いたします」


苦しい答弁だった。だが、それ以上は何も言えない。斎磯はなおも食い下がろうとしたが、事前に手を打たれていた議長が、巧みに議事を進行させた。結局、散発的な反対はあったものの、事前の多数派工作通り、予算案は賛成多数で可決された。


議場が安堵の溜息と、ざわめきに包まれる。

だが、本当のクライマックスは、ここからだった。


間髪をいれず、湛山と入れ替わるように、内務大臣・平沼騏一郎が演壇に立った。

その老獪な政治家の登場に、議場は再び水を打ったように静まり返る。議員たちは、この男が何を語るのか、固唾をのんで見守っていた。彼らの多くは、事前に平沼から闇の取引を持ちかけられ、得体の知れない法案への「賛成」を約束させられていたのだ。


平沼は、ゆっくりと議場を見渡した。その視線が、まるで魂を見透かすかのように、一人一人の議員の顔の上を滑っていく。脅された議員たちは、思わず目を伏せた。


やがて、平沼は重々しく、しかし腹の底から響くような声で演説を始めた。

「ただ今、聖代未曾有の予算案が可決されました。これにて、我が国は戦争への道を断ち、国家再建への大いなる一歩を踏み出したのであります。しかし…!」

平沼の声が、雷鳴のように議場に響き渡った。


「しかし諸君! 平和は、ただ願うだけでは訪れない! 秩序は、ただ待つだけでは築かれない! 法の支配が力によって脅かされる時、それを守るためには、法自身が、剣を持たねばならんのです!」


その言葉に、議場がどよめいた。

「先の九月三十日の不祥事を、我々は決して忘れてはならない! 国家の中枢が、一部将兵の暴力によって、いとも容易く麻痺させられたあの悪夢を! このような事態を二度と繰り返さぬため、政府は、内閣が直接指揮し、国家の秩序と国民の生命・財産を守るための、実力組織を創設する必要があると決断いたしました!」


実力組織――その言葉に、陸軍大臣代理の寺内元帥が、驚愕に目を見開いた。閣僚席の東條は、相変わらず鋼のような表情で微動だにしない。


「本日、私がここに提出いたしまする法案は、その名も『国家警察予備隊法案』! これは、軍人にあらず、警察官としての身分を持ち、内務大臣の指揮のもと、国内の治安維持、災害救助を主たる任務とする、全く新しい組織を創設するものであります!」


ついに、その全貌が明かされた。

議場は、驚きと混乱の渦に叩き込まれた。「第二の陸軍ではないか!」「内務省の独裁を許すのか!」という野次が飛ぶ。

しかし、平沼は動じない。彼は、演壇を強く叩きつけた。


「静粛に! この組織は、軍の統帥権の埒外にある! 故に、これは軍備にあらず! これは、乱れたる国家の秩序を回復し、法の支配を、この帝都に、断固として打ち立てるための、正義の剣なのであります! この法案に反対する者は、すなわち、法の支配よりも、暴力による支配を是とする者と断ぜざるを得ない!」


それは、論理の飛躍であり、恫喝だった。しかし、その気迫と、事前に仕込まれた「弱み」によって、議場の大多数は沈黙するしかなかった。

反対の声を上げたのは、斎藤隆夫ら、ごく一部の議員だけだった。だが、彼らの声は、事前に固められた「賛成!賛成!」の分厚い壁の前に、かき消されていった。


採決の結果は、圧倒的だった。

『国家警察予備隊法案』は、その中身も十分に審議されぬまま、賛成多数で可決された。


光の演説と、影の演説。

石橋湛山の理想と、平沼騏一郎の権謀術数。

二つの全く異質な力が一つになった時、日本の歴史は、誰も予想しなかった新たな段階へと、決定的に足を踏み入れたのだった。





『国家警察予備隊法案』が、圧倒的多数で可決された瞬間、衆議院本会議場の空気は凍りついた。

多くの議員は、自らが何に賛成したのか、その歴史的な意味を測りかねて、呆然と立ち尽くしていた。ただ、何かとてつもない、後戻りのできない扉が開かれたことだけを、肌で感じていた。


閣僚席では、陸軍大臣代理・寺内寿一元帥が、蒼白な顔でわなわなと震えていた。

(…騙されたッ!)

陸軍再配置予算、派兵部隊の内地帰還…。東條が囁いた組織再建のための甘言が、全てはこのための布石だったことに、老元帥はようやく気付いた。だが、もう遅い。陸軍という巨象は、自らの手足を、自らの意思で、新たな怪物の餌として差し出してしまったのだ。


その喧騒と混乱の余韻も冷めやらぬ、まさにその日の夕刻。

首相官邸では、緊急の臨時閣議が招集されていた。


席に着いた閣僚たちの前に、一枚の紙片が配られる。議題は、たった今成立したばかりの『国家警察予備隊』に関する人事と組織編成についてだった。

議長役の石橋湛山が、疲労の色を隠しながらも、事務的に読み上げた。


「…只今成立いたしました『国家警察予備隊法案』に基づき、ここに、国家警察予備隊の最高指揮官人事を決定する。内閣の指名により、初代長官には、平沼騏一郎内務大臣が、同副長官には、東條英機副総理が、それぞれ現職と兼務する形で就任するものとする」


閣僚が息をのんだ。

平沼が長官に就くことは、内務省の管轄である以上、予想の範囲内だった。しかし、副長官に東條の名が挙がったことに、閣僚たちは戦慄した。

内務省の「剣」を、陸軍を掌握した男が握る。それは、二つの巨大な暴力装置が、事実上、この二人の下に統合されることを意味した。石橋湛山をトップとする内閣の、その下に、さらに巨大な「政府内政府」が誕生する瞬間だった。


「ご異議は、ないな?」

湛山の問いに、誰も答えることはできない。寺内元帥は、もはや怒る気力さえ失い、唇を噛んでうつむいている。


そして、湛山は、最後の、そして最も決定的な命令を読み上げた。

「次に、組織編成について。昨日付をもって内地に帰還し、原隊復帰を待つ旧満州派遣軍及び支那派遣軍の一部、計三師団・約五万名は、本日をもって陸軍の任を解き、国家警察予備隊に編入するものとする。装備・兵器は、陸軍省より同隊へ、速やかに移管すべし」


決定的な一撃だった。

まさに昨日、兵士たちの士気回復と再編のためという名目で、東條の手によって日本に帰還させられたばかりの精鋭部隊。彼らは、陸軍の軍服を脱ぐ間もなく、新たな組織の制服に着替えさせられるのだ。

人員も、装備も、全ては陸軍から「合法的」に強奪される。しかも、その命令を下しているのは、他ならぬ内閣、そしてその一員である東條自身なのだ。


陸軍省には、もはや抵抗する術も、大義名分も、何一つ残されていなかった。

謀略は、完璧に完成した。


閣議が終わり、閣僚たちが退出していく中、湛山、平沼、東條の三人が、部屋に残った。

「…見事な手際だったな、平沼君」

東條が、初めて感情のこもった声で、平沼を称えた。

「いや、これも東條君が、都合よく『実弾』を用意してくれたおかげだ」

平沼もまた、老獪な笑みを返す。


二人のやり取りを、湛山は黙って見ていた。

(怪物を、生み出してしまった…)

戦争という怪物を屠るために、彼は、別の怪物を解き放ってしまったのかもしれない。平沼の権謀術数と、東條の軍事的背景。この二つが結びついた時、自分がその手綱を握り続けられるのか。宰相としての重圧とは別に、一人の自由主義者としての深い危惧が、彼の心を冷たく締め付けた。


だが、今はただ、この新たな力を使って、目前の危機を乗り切るしかない。

「両君、ご苦労だった。だが、我々の仕事は、まだ始まったばかりだ」

湛山は、自らを鼓舞するように言った。

「この新たな力で、日米交渉を妥結させ、この国の平和を盤石なものにする。それこそが、我々に課せられた使命だ」


その言葉に、平沼と東條は、それぞれの思惑を秘めたまま、静かに頷いた。

こうして、帝国史上、最も奇妙で、最も危険な三頭政治が、その真の姿を現した。

宰相・石橋湛山。

副総理兼国家警察副長官・東條英機。

内務大臣兼国家警察長官・平沼騏一郎。

彼らの手によって、日本の歴史は、誰も見たことのない未知の荒野へと、大きくその舵を切ったのだった。




昭和十七年(1942年)春。

富士の裾野に設けられた演習場では、真新しい制服に身を包んだ一団が、号令一下、機敏な動きを見せていた。彼らは、昨日まで陸軍の軍服を着ていた者たち。今や「国家警察予備隊」の隊員として、内務大臣の指揮下で再訓練に励んでいた。


この国内初の「内閣直属の実力組織」の誕生は、日本の権力地図を、そして外交のゲーム盤を、根底から塗り替えた。

これまで、政府が外交交渉のテーブルに着くたび、その背後には常に陸軍という「抜き身の刀」の脅威がちらついていた。政府の穏健な提案は、しばしば陸軍の強硬論によって覆され、外交官たちは「本国政府を説得できない」という無力感に苛まれてきた。


だが、今は違う。

粛清と警察予備隊の創設によって、陸軍は完全に牙を抜かれた。彼らはもはや、政府の方針に公然と異を唱えることも、クーデターという最終手段に訴えることもできない。石橋内閣は、初めて「背後の脅威」を気にすることなく、一枚岩として外交交渉に臨める体制を整えたのだ。


この変化は、ワシントンD.C.の空気を微妙に変えた。

駐米大使の野村吉三郎は、もはや本国の顔色を窺う弱腰の交渉人ではなかった。背後には、国内を完全に掌握した政府がいる。その自信が、彼の言葉に、これまでにない重みと粘り強さをもたらした。


「ハル国務長官。我が国が求めているのは、あくまで経済的な生存権の確保であり、侵略の意図はありません。この点は、我が石橋内閣が、その存亡を賭けて国民に約束しているところであります」

国務長官コーデル・ハルは、日本の態度の変化に戸惑っていた。中国からの撤兵問題など、要求は依然として厳しい。しかし、以前のように「軍部が…」という言い訳が消え、交渉相手としての一貫性が生まれたことで、対話のテーブルそのものを閉ざすわけにはいかなくなっていた。対米交渉は、遅々としてではあったが、破局を避け、加速し始めた。


そして、石橋内閣は、もう一つのカードを切っていた。

それは、米国一辺倒だった外交からの脱却――ロンドンと、ハーグのオランダ亡命政府へのアプローチだった。

『第二次帝国国策遂行要領』に基づき、日本は、武力による南方資源地帯の確保ではなく、外交による資源の安定供給を目指す方針を明確にしていた。


ロンドンでは、駐英大使の重光葵が、英国外務省と粘り強い交渉を重ねていた。

「我が国は、貴国及びオランダ領東インドから、石油、ゴム、ボーキサイトを、正当な対価を支払って輸入したい。これは、貴国にとっても、戦時経済下での大きな利益となるはずです」

ナチス・ドイツとの戦争で疲弊しきっている英国にとって、日本の提案は魅力的だった。極東で新たな戦争の火種を抱え込む余裕はない。本国を失ったオランダ亡命政府も同様だった。


交渉は、驚くべき速さで進展した。

そして、昭和十七年七月。対米交渉が依然として中国問題を巡って膠着する中、世界を驚かせるニュースがロンドンから発信された。


「日英蘭経済協定、暫定妥結」


それは、歴史的な合意だった。日本は、仏印からの段階的な兵力削減を約束する見返りに、英国とオランダから、ボルネオやスマトラ産の石油やゴムを、数量限定ながらも輸入する権利を得たのだ。


この一報は、ワシントンに衝撃を与えた。

米国が主導してきた対日経済封鎖網「ABCD包囲網」。そのB(British)とD(Dutch)が、事実上、抜け駆けする形で日本との取引を再開したのだ。日本を経済的に締め上げ、音を上げさせるという米国の戦略は、その根幹が揺らいだ。

南進論の最大の拠り所であった「資源確保のための自存自衛」という大義名分は、その輝きを失った。


首相官邸でその吉報に接した石橋湛山は、深い安堵のため息をついた。危険な賭けだった国内改造が、具体的な外交的勝利となって結実した瞬間だった。

破滅への崖っぷちから、日本はまた一歩、後退することができた。


しかし、湛山の表情はすぐに引き締まった。

ふと、官邸の窓から、皇居の向こうに広がる国家警察庁の屋根が見える。その奥には、平沼と東條が君臨する、国家警察予備隊という名の、巨大な「城」が築かれつつある。


戦争という怪物を押し留めるために作り出した、もう一つの怪物。

外交という盤上の戦いで優位に立った今、盤外に控えるこの巨大な力を、自分は本当に制御しきれるのだろうか。

石橋湛山の、次なる孤独な戦いが、静かに始まろうとしていた。




日英蘭経済協定妥結の一報は、兜町の証券取引所を、そして丸の内や日本橋の財閥本社ビルを、熱狂の渦に叩き込んだ。

これまで「戦争か、屈服か」という不確実性の淵に立たされ、投資を手控えてきた財界にとって、石橋内閣がもたらした「第三の道」は、まさに旱天の慈雨だった。


「見たか!戦争などせずとも、商売はできるのだ!」

「日英蘭とのパイプが繋がれば、うちの海運も息を吹き返すぞ!」


企画院庁舎の総裁室。

小林一三は、官邸から届いたばかりの協定妥結の電文を手に、満足げに笑みを浮かべていた。実業家としての彼の嗅覚は、石橋湛山が描く国家経営の青写真が、単なる理想論ではなく、莫大な利益を生む「黒字事業」であることを、いち早く見抜いていた。


その日の午後、小林は三井、三菱、住友、安田といった四大財閥の首脳たちを、内幸町の帝国ホテルの一室に極秘に集めた。


「皆様、ご覧の通りです。石橋総理は、我々の期待に見事に応えてくれましたな」

小林がそう切り出すと、それまで固い表情だった財閥の首脳たちの顔が、わずかに緩んだ。

「うむ。小林さんの言う通りだった。あの宰相、なかなかのソロバン勘定だ」

三井財閥の総帥が、感心したように言う。


彼らは、石橋内閣が発足した当初、その動向を注意深く見守っていた。急進的な自由主義者である湛山が、財閥解体のような過激な政策に乗り出すのではないかという警戒感があったからだ。

しかし、湛山は現実的だった。彼の『第二次帝国国策遂行要領』は、軍事費を国内産業とインフラ整備に振り向けるという、財界にとって魅力的な提案に満ちていた。

そして何より、彼らを軟化させたのは、大陸権益に対する湛山の柔軟な姿勢だった。


「石橋総理は、確かに『小日本主義』を唱えてはいる。しかし、彼は、朝鮮半島や満州国における我々の権益には、一切手をつけようとはしていない」

三菱の総帥が、分析的に語る。

「それどころか、支那事変で確保した華北や沿岸部の経済基盤さえも、『長期持久』の名の下に、事実上、我々の活用に任せるという。これは、戦争を継続するリスクを負うことなく、大陸の果実を得られる、またとない好機だ」


彼らにとって、満州事変以降に築き上げた大陸の利権は、もはや手放すことのできない生命線だった。石橋内閣は、その生命線を保証するどころか、国家の支援付きで安堵してくれたのだ。

戦争という不確定要素の大きい投機事業から手を引き、国内のインフラ整備と、安定した大陸経営という堅実な事業に切り替える。経営判断として、どちらが賢明か、答えは明らかだった。


「決まりですな」と小林が言った。「我々、財界は、石橋内閣を全面的に支援する。企画院も、総力を挙げて、彼の経済政策をバックアップする。これこそが、国を富ませ、我々の利益を守る、唯一の道だ」

異論を唱える者はいなかった。

湛山の孤独な戦いに、企画院と財界という、最も強力な経済的支援者が付いた瞬間だった。


この変化は、即座に世論にも影響を及ぼし始めた。

財閥系の資本が入った大手新聞社――朝日、毎日、読売――の論調が、少しずつ、しかし明らかに変化していったのだ。


これまで、国民の好戦的な気分を煽り、部数を伸ばしてきた新聞各紙。彼らは、先の反乱と粛清事件の後も、「悲劇の将校」に同情的な記事を掲載するなど、政府に批判的なスタンスを取ることが多かった。

しかし、大株主である財閥の意向が働くと、そのペン先は巧みに方向を変えた。


「日英蘭との経済協定は、石橋内閣の現実的外交の賜物である」

「戦争に頼らぬ資源確保の道が開かれた今こそ、国民は冷静になるべきだ」

「国内産業の振興こそ、焦土と化す欧州に代わり、我が国が世界のリーダーとなるための礎石である」


あからさまな政権擁護ではない。しかし、経済の安定と平和の価値を説く記事が、日増しに紙面を大きく飾るようになっていった。主戦論や精神論は徐々に隅に追いやられ、それに代わって、国民の関心は新しい自動車やラジオ、豊かになる暮らしといった、より身近なテーマへと誘導されていった。


ペンは剣よりも強し。

世論という巨大なうねりを、財界とメディアという強力な装置が、ゆっくりと平和の方向へと押し戻し始める。


首相官邸で、それらの新聞に目を通していた石橋湛山は、小さく笑みを漏らした。

(ソロバンとペンは、正直なものだ)

彼は、財閥もメディアも、心から信頼してはいなかった。彼らはただ、利益という餌に群がっているに過ぎない。

だが、今はそれでいい。

彼の孤独な戦いに、経済という強力な味方が加わった。残るは、平沼と東條が握る、警察予備隊という名の「剣」を、いかにして制御するか。まだまだ予断は許されなかった。




昭和十七年(1942年)夏、ワシントンD.C.の空気は、湿った熱気と、焦燥感に満ちていた。

大統領執務室――オーバルオフィス。

フランクリン・D・ルーズベルト大統領は、車椅子の上で、ヨーロッパの戦況地図と太平洋の地図を、苦々しい表情で見比べていた。


(…完全に、読み誤った)


彼の脳裏には、この数ヶ月の外交的失敗が、走馬灯のように駆け巡っていた。

長引く大恐慌の影。鳴り物入りで始めたニューディール政策は、失業率をわずかに改善したものの、米国経済を完全に立て直すには至っていなかった。国内には不満が鬱積し、国民の目を外に逸らすための、強力な起爆剤が必要だった。


その起爆剤として白羽の矢が立ったのが、極東の日本だった。

石油の全面禁輸という最後通牒にも等しい強硬策。それは、資源に乏しい日本を追い詰め、自暴自棄に陥らせ、南方へ、そしてフィリピンへと、無謀な戦争に打って出させるための、計算され尽くした「焚き付け」のはずだった。

日本が暴発すれば、米国は「卑劣な奇襲を受けた被害者」として参戦できる。戦争は、巨大な軍事需要を生み、停滞する経済を活性化させ、軍産複合体を潤す。そして、国民を「正義の戦い」の名の下に一つにまとめることができる。完璧なシナリオのはずだった。


しかし、日本は暴発しなかった。

土壇場で、まるで奇術のように政権がひっくり返り、軍部は粛清され、戦争への道を寸前で踏みとどまった。そればかりか、禁輸措置の最大の弱点であったはずの英国とオランダを巧みに籠絡し、ABCD包囲網に風穴を開けてしまった。

日本は、米国の引いたレールの上を走ることを、見事に拒否したのだ。


そこへ、国務長官コーデル・ハルが、重い足取りで入室してきた。

「大統領閣下…。日本の野村大使から、新たな提案が」

「聞かなくても分かるよ、ハル君」ルーズベルトは、疲れたように手を振った。「中国からの段階的撤兵と引き換えに、満州権益の黙認と、通商航海条約の再締結、だろう?」

「…その通りです」


それは、もはや「最後通牒」ではなく、対等な国家間の「交渉」だった。日本は、もはや米国が一方的に要求を突きつけられる相手ではなくなっていた。


「日本に、これ以上かかずらわっている時間はない」

ルーズベルトは、きっぱりと言った。彼の視線は、もはや太平洋ではなく、大西洋を睨んでいた。

「ヒトラーは、ソ連の奥深くまで侵攻し、破竹の勢いだ。もし、英国が持ちこたえられなくなれば、我々は、大西洋の制海権をナチスに明け渡すことになる。そうなれば、国家の安全保障そのものが脅かされる」


国内の事情も、待ったなしだった。

軍需産業は、政府からの発注を待ちわびて、生産ラインを遊ばせている。失業者たちは、仕事を求めて街に溢れている。日本との小競り合いに時間を浪費している余裕は、どこにもなかった。


「ハル君、方針を転換する」

ルーズベルトは、決断した。その声には、選択を迫られた指導者の苦渋が滲んでいた。

「日本との交渉は、継続する。ただし、我々の主戦場は、もはや太平洋ではない。ヨーロッパだ。我々の敵は、ナチス・ドイツと、ファシスト・イタリアだ」


それは、アメリカの世界戦略の、180度の転換を意味した。

日本を挑発して戦争に引きずり込む「太平洋先攻策」から、ナチス・ドイツの打倒を最優先とする「ヨーロッパ第一主義」への大転換。


「日本の提案を、部分的に受け入れよう。全面的な石油禁輸は、段階的に解除する。その見返りに、中国大陸沿岸部からの兵力引き揚げを確約させる。満州の件は…」

ルーズベルトは、一瞬言葉を切り、忌々しげに呟いた。

「…当面は、黙認せざるを得んだろう」


それは、屈辱的な妥協だった。しかし、ナチスという、より大きく、より差し迫った脅威の前には、やむを得ない選択だった。

軍産複合体の巨大な要求を満たすためには、アジアでの限定的な戦争よりも、ヨーロッパでの全面戦争の方が、はるかに効率が良い。その冷徹な計算が、ルーズベルトの決断を後押しした。


「レンドリース法(武器貸与法)の適用範囲を、英国とソ連に拡大する。我が国の工場を、デモクラシーの兵器廠とするのだ。国民には、ナチズムの脅威を、繰り返し訴えかける」

ルーズベルトの目は、再び力強い光を取り戻していた。新たな敵、新たな目標が定まったのだ。


ホワイトハウスの誤算。

それは、結果的に日本の破滅を回避させ、世界の歴史の流れを大きく変えることになった。

日本を叩き潰そうとした米国の拳は、その矛先を変え、ヨーロッパの独裁者たちへと向けられようとしていた。

太平洋には、束の間の、しかし極めて不安定な凪の時間が訪れようとしていた。そしてその時間は、日本、アジアの情勢を、さらに複雑な段階へと進めていくことになるのだった。




昭和十八年(1943年)初頭、日本はつかの間の安息を得ていた。

ワシントンで締結された「日米暫定協定」。それは、石油禁輸の部分的解除と引き換えに、日本が中国沿岸部からの兵力引き揚げを約束するという、痛みを伴う妥協の産物だった。しかし、これにより、国家破滅の引き金となりかねなかった米国との全面戦争は回避された。


国内では、日英蘭経済協定と国内産業振興策が功を奏し、経済は活気を取り戻しつつあった。「鬼畜米英」の旗は降ろされ、街にはアメリカの音楽が再び流れ始めた。国民は、戦争の危機が去ったことを実感し、安堵の息をついていた。


しかし、首相官邸の空気は、決して楽観的なものではなかった。

石橋湛山と閣僚たちの前には、依然として巨大な問題が、まるで終わりのない泥沼のように横たわっていた。

日中戦争を、どう終わらせるか。


「…総理。華北駐留軍からの報告です。八路軍のゲリラ活動は、依然として活発。占領地の維持だけで、兵力と物資がすり減っていきます」

陸軍省から出向してきた連絡将校が、重い口調で報告する。

対米協定に基づき、上海や広東といった沿岸部からは兵を引き揚げた。しかし、北京、天津を中心とする華北、そして満州国境に接する広大な占領地には、依然として数十万の将兵が釘付けにされている。


そこは、もはや輝かしい戦果を挙げる戦場ではなかった。終わりなきゲリラ戦、治安維持、そして現地住民の抵抗。兵士たちの士気は低下し、膨大な戦費だけが、国家財政に重くのしかかっている。


「重慶の蔣介石は、我々との直接交渉に、依然として応じる気配がありません」

外務省の担当者が、力なく首を振る。

米国との関係が改善されたことで、米国の支援を受ける蔣介石政権への圧力は弱まった。彼は、日本が完全に大陸から撤兵しない限り、和平には応じないという強硬姿勢を崩していなかった。


閣議は、重い沈黙に包まれた。

「いっそ、華北からも完全に手を引き、満州国境まで撤退してはどうか」

穏健派の閣僚から、そんな意見が出る。

しかし、それに強く反対したのは、他ならぬ東條英機だった。


「それは、断じて認められん! 華北は、対ソ連、対共産主義の防壁である! また、これまで幾万の将兵が流した血の対価として得た、帝国の大陸における重要拠点だ。これを放棄することは、戦死した英霊に顔向けができぬ!」


彼の主張は、陸軍内の穏健派や、大陸に利権を持つ財界の意見を代弁するものでもあった。戦争は回避したが、大陸で築いた権益まで手放す気は、彼らにはなかった。

平沼騏一郎も、国家主義者の立場から、安易な撤退には反対だった。

「東條君の言う通りだ。一度手にした国土を、易々と放棄するのは、国家の威信に関わる」


再び、内閣の意見は割れた。

戦争という共通の敵が去った今、石橋、東條、平沼という三頭政治の、それぞれの思想と利害の違いが、露わになり始めていた。


閣議が終わった後、湛山は一人、執務室で地図を睨んでいた。

(…やはり、この泥沼からは、一足飛びには抜け出せんか)

彼自身の理想である「小日本主義」に従えば、満州さえも放棄し、即時完全撤兵を断行すべきだった。しかし、そんなことをすれば、ようやく安定した国内のパワーバランスは、再び崩壊するだろう。東條や平沼、そして財界も、敵に回すことになる。


彼は、新たな、そしてより困難な「次の一手」を模索し始めた。

それは、正面からの和平交渉ではない。もっと迂遠で、もっと複雑な、多角的なアプローチだった。


数日後、湛山は、企画院総裁の小林一三と、財界の重鎮たちを、再び官邸に招いた。

「諸君にお願いがある。華北の経済開発に、全力を挙げていただきたい」

「と、申されますと?」

「鉄道を敷き、工場を建て、鉱山を開発する。そして、そこで、日本人だけでなく、現地の中国人を、積極的に雇用し、高い給料を払ってほしい」

「なんと…」

「戦争で富は生まれん。富は、経済活動からしか生まれんのだ。武力で支配するのではなく、経済の力で、華北を、日本と切り離せない関係に作り上げる。現地の人々の暮らしが豊かになれば、抗日の気運も自ずと弱まるはずだ」


それは、「大東亜共栄圏」の理念を、軍事ではなく、経済で実践しようという試みだった。


さらに、湛山は外務省を通じて、もう一つの策に取り掛かった。

日中戦争という泥沼は、正面突破も、大胆な奇策も通用しない。もっと深く、もっと静かに、水面下で根を蝕むような、繊細で狡猾な工作が必要だった。


数日後、首相官邸の一室に、再び三頭政治の主役たちが顔を揃えた。湛山、平沼、東條。部屋の空気は、彼らだけが共有する秘密の重さに満ちていた。


「華北からの撤兵は、断念する」

湛山の切り出しに、平沼と東條は黙って頷いた。

「しかし、手をこまねいていては、大陸の泥沼に国力が吸い取られるだけだ。そこで、新たな手を考えた」

湛山は、一枚の企画書をテーブルの上に滑らせた。そこには、『華北における新党結成に関する基本構想』と記されていた。


「これは…?」

東條が、鋭い目で湛山を促す。


「我々自身が、ごく秘密裡に支援し、華北に新たな政党を立ち上げる。その名は、仮に『中国社会党』とする」

「社会党、だと?」

平沼が、眉をひそめた。その名称に、左翼的な響きを感じ取ったからだ。


「いかにも」と湛山は続けた。「だが、これは共産党ではない。あくまで『社会主義』を標榜する、穏健な大衆政党だ。貧しい農民や労働者たちの不満の受け皿となることで、彼らがより過激な共産党へと流れるのを防ぐ、防波堤の役割を担わせる」

「なるほど。毒を以て毒を制す、か」

東條が、その意図を正確に読み取った。


「それだけではない」と湛山は、さらに核心部分を語り始めた。「この新党は、表向きは抗日でもなければ、親日でもない。『中国人のための、中国人による政治』を掲げさせる。しかし、その党首には、我々が息のかかった、穏健で現実的な人物を据える。そして、党の運営資金は、帝国が極秘裏に、全面的に支援する」


それは、傀儡国家・満州国建国の手法を、政党という、より巧妙な形で再現する試みだった。

自分たちでコントロール可能な「第三勢力」を中国国内に作り出し、重慶の国民党と、延安の共産党に対抗させる。華北の民衆を、この新党の旗の下に集わせることで、抗日ゲリラ活動の根を断ち、同時に、国民党と共産党の影響力を削いでいく。


「そして、この『中国社会党』が華北で一定の勢力を確立した暁には、我々は、彼らを『華北における民意の代表』として交渉相手に指名する。彼らとの間で、華北の自治を認める形での和平協定を結ぶのだ。そうなれば、我々は、蔣介石を無視して、事実上の『停戦』を既成事実化できる」


壮大で、そしてどこまでも欺瞞に満ちた計画だった。

平沼の目が、老獪な政治家特有の光を帯びた。

「…面白い。実に面白いことを考える。その党首には、心当たりがあるのかね?」

「元北京大学の教授で、日本への留学経験もある男が一人。思想は穏健だが、名利欲が強い。我々が用意する『党首』という椅子と、十分な活動資金は、彼にとって抗いがたい魅力のはずだ」

湛山は、すでにそこまで手を打っていた。


東條もまた、深く頷いていた。軍人としての彼は、ゲリラ戦の困難さを誰よりも理解していた。武力で民衆を抑えつけることには限界がある。ならば、政治と経済の力で彼らを懐柔し、分断する、という湛山の策は、極めて合理的だと思えた。

「よかろう。その計画、乗った。予備隊の将兵を、治安維持という無益な戦いでこれ以上すり減らすわけにはいかん。その工作に必要な資金と人員の移動は、私が陸軍に圧力をかけ、全面的に協力させよう」


こうして、三人の間に、再び秘密の盟約が結ばれた。

彼らは、日中戦争という巨大な舞台で、新たな人形劇を始める傀儡師となった。

財閥がカネとモノを出し、湛山が経済政策でアメを与え、平沼と東條が帝国陸軍や国家警察予備隊の力でムチを振るう。その全てが、新党『中国社会党』を背後から操り、育てるための力となる。


華北の大地で、新たな劇場の幕が、静かに上がろうとしていた。

それは、銃声の聞こえない、もう一つの戦争。

情報と金、そして人間の欲望が複雑に絡み合う、深層工作の始まりだった。



対米協定に基づき、上海の港から、日章旗を掲げた日本の輸送船が、続々と兵士を乗せて引き揚げていく。その光景は、上海の街に複雑な感情を呼び起こしていた。中国人にとっては屈辱の時代の終わりであり、一部の者にとっては日本の庇護を失うことへの不安の始まりだった。


しかし、この「撤兵」は、単なる退却ではなかった。それは、石橋湛山が仕掛けた、巧妙で悪辣な外交的罠の始まりだった。


撤兵が完了した直後。

日本の外務省は、米国、英国、フランスなど、上海に租界を持つ列強各国に対し、丁重な、しかし極めて挑発的な覚書を送付した。


「今般、我が帝国は、日米暫定協定の精神に則り、上海より完全に兵を撤収いたしました。これにより、上海の平和と秩序を維持する責任は、本来の姿である、租界を管理する列強各国の共同責務へと帰することになります」

ここまでは、儀礼的な挨拶だった。問題は、その次の一文だった。


「つきましては、各国におかれましても、自国民の生命・財産、及び租界の権益を、中国国民党軍や共産党ゲリラの脅威から守るため、速やかに、必要な規模の兵力を派遣されますよう、強く要請いたします」


この覚書を受け取った各国の外交官たちは、一様に絶句した。

ワシントンの国務省、ロンドンの外務省で、緊急の会議が開かれる。

「なんだこれは!日本人は何を考えている!」

「罠だ!我々を、彼らが作った泥沼に引きずり込む気だ!」


外交官たちの怒号が飛び交う。彼らは、即座に日本の意図を理解した。これは、巧妙な「踏み絵」だった。


もし、この日本の要請に応じ、各国が軍隊を上海に派遣すれば、どうなるか。

それは、自らが「中国の主権を侵害する侵略者」であることを、世界に対して認めることになる。これまで日本を「侵略国家」と非難してきた舌の根も乾かぬうちに、自分たちがその後釜に座るのだ。中国の民衆の怒りは、日本ではなく、米英仏へと向かうだろう。蔣介石も、自国に駐留する新たな「占領軍」を、黙って見過ごすわけにはいかない。


では、逆に、派兵を拒否すれば、どうなるか。

広大な租界は、無防備なまま放置される。それを、蔣介石の国民党軍や、神出鬼没の共産党ゲリラが見逃すはずがない。「失地回復」の大義名分のもと、彼らは必ずや租界に侵攻し、各国の銀行、企業、そして国民を、その支配下に置くだろう。長年かけて築き上げた、莫大な経済的利権を、みすみす中国に明け渡すことになる。


派兵すれば「侵略者」の汚名を着る。

派兵しなければ「権益」を失う。

どちらに転んでも、損をする。日本は、自分たちが抱えていた厄介事を、そっくりそのまま列強各国に押し付けたのだ。


特に、米国の焦りは深かった。

「ふざけるな!我々は、日本を撤兵させるために圧力をかけたのだ。我々が、その代わりに兵隊を送るなど、本末転倒も甚だしい!」

ホワイトハウスでは、ルーズベルトが激怒した。

しかし、上海のアメリカ人商工会議所からは、「即時派兵なければ、我々のビジネスは崩壊する」という悲鳴のような電報が、連日打ちつけられていた。


数週間にわたる苦悩と協議の末、列強各国は、屈辱的な決断を余儀なくされた。

「…やむを得ん。最小限の兵力を送るしかない」


かくして、上海の港には、奇妙な光景が繰り広げられた。

日本の輸送船が去った埠頭に、今度は星条旗を掲げた米国の海兵隊を乗せた巡洋艦が、ユニオンジャックを翻す英国の陸戦隊が、そして三色旗を付けたフランスの植民地兵が、次々と上陸してきたのだ。


彼らは、口を揃えてこう言った。

「これは、あくまで自国民保護のための、限定的かつ一時的な措置である」と。


しかし、その言い訳が、誰の耳にも空々しく響くことは、彼ら自身が一番よく分かっていた。

上海の街角では、昨日まで日本の軍靴の音に怯えていた人々が、今度は、異なる言語を話す、新たな外国兵たちの姿を、冷ややかな、あるいは敵意のこもった目で見つめていた。


この報に接した首相官邸で、石橋湛山は、静かに紅茶をすすっていた。

彼の仕掛けた罠は、完璧に機能した。日本は、泥沼から足を洗い、その泥を、かつて自分を非難した者たちの顔に、見事に塗りたくったのだ。

中国という巨大な舞台で、主役は日本から、米英仏へと移った。そして、彼らが新たな「悪役」として、終わりのない紛争の泥沼に足を取られていくのを、日本は高みの見物を決め込むことができる。


外交とは、力と力のぶつかり合いだけではない。時には、退くことこそが、最大の攻撃になる。

石橋湛山は、そのことを、世界の列強に、痛烈に知らしめたのだった。


米英仏が、屈辱に顔を歪めながら上海に部隊を派遣した、まさにその直後。

ワシントン、ロンドン、パリの日本大使館から、それぞれの外務省に、第二の、そしてさらに悪質な「要請書」が届けられた。


各国の外交官が、その差出人の名を見て、我が目を疑った。

そこには、日本の名と並んで、オランダ、そしてポルトガルの名が、連名で記されていたのだ。


「…これは、一体どういうことだ?」

国務省の極東課長は、眉間のシワをさらに深くした。

オランダは、本国をドイツに占領され、ロンドンに亡命政府を置く身。アジアの広大な植民地(オランダ領東インド)を維持するだけで手一杯で、上海に送る兵力など一兵たりともいない。

ポルトガルは、中立を保ってはいるものの、ヨーロッパの強国に囲まれた小国であり、その国力は脆弱。マカオの権益を維持するのが精一杯で、上海の小さな権益を守るために軍を動かすことなど、論外だった。


この二国は、軍事的には全くの無力。しかし、だからこそ、彼らは、この外交ゲームにおいて、最強の「盾」となり得た。


要請書の内容は、丁寧な言葉遣いの裏に、剥き出しの恫喝を隠していた。

「…我々(日本、オランダ、ポルトガル)は、上海における共通の権益と、そこに在住する自国民の安全について、深く憂慮するものである。ついては、上海に部隊を派遣された米英仏の三カ国に対し、我々三国の権益と国民をも、貴国の兵力をもって、一体として保護されるよう、強く要請するものである」


米英仏の外交官たちは、怒りを通り越して、もはや眩暈さえ覚えた。

ただでさえ、自国の権益を守るための派兵で、国内外から「侵略者」との非難を浴びているのだ。その上、なぜ自分たちが、日本や、何の関わりもないオランダ、ポルトガルの権益まで守ってやらねばならないのか。それは、彼らの兵士を、無関係な国々のための「傭兵」として使えと言っているに等しい。


しかし、要請書は、冷酷な最後通牒で締めくくられていた。

「万が一、この共同保護の要請が満たされない場合、自力で権益を保護する術を持たないオランダ及びポルトガル両国政府は、甚だ遺憾ながら、地理的に最も近く、かつ、アジアの安定に責任を持つ友好国である日本に対し、両国の権益保護のための派兵を、正式に要請せざるを得ないであろう。その結果、上海の国際情勢が、再び予期せぬ緊張状態に陥ることは、我々の望むところではない」


完璧な脅しだった。

もし、米英仏が共同保護を拒否すれば、どうなるか。

オランダとポルトガルは、待ってましたとばかりに、日本に「助け」を求めるだろう。そうなれば、日本は、「か弱き友好国の悲痛な要請に応える、正義の騎士」として、再び、今度は大義名分を持って、上海に軍隊を戻すことができるのだ。

「我々は帰りたくなかった。しかし、友人が困っているのを、見過ごすわけにはいかない」と。


そうなれば、米英仏の派兵は、全くの無意味と化す。日本を追い出したはずが、自分たちが作った空白地帯に、日本を「招待」する結果になる。それは、外交的敗北以外の何物でもない。


「…あの日本人どもめ…!それに加えて、オランダや、ポルトガルも…!悪魔に魂を売り渡したか!」

ルーズベルトは、報告を聞き、怒りに震えた。

石橋湛山という男は、ただの経済学者ではなかった。国際法と、国家間の力関係の隙間を突き、相手が最も嫌がる手を、平然と打ってくる、冷徹なゲームプレイヤーだった。彼は、オランダとポルトガルという「弱者」を巧みに懐柔し、最強の外交カードへと変えてみせたのだ。


結局、米英仏は、この「悪魔の囁き」に屈するしかなかった。

彼らは、不承不承ながら、オランダとポルトガルの権益も保護することを、日本側に回答した。


上海の街角では、さらに奇妙な光景が展開された。

星条旗が掲げられた検問所を、オランダ人の商人が、我が物顔で通過していく。英国兵が守る銀行の前で、ポルトガル人の家族が、安心して記念写真を撮っている。

そして、その光景を、日本領事館の窓から眺めていた総領事が、本国の外務省に、満足げな電文を打った。


「件ノ要請、受諾セラル。列強、我ガ意ノママニ動ク。上海ハ、今ヤ、帝国ノ手ヲ汚スコトナク、帝国ノ利益ヲ守ル劇場トナレリ」


石橋湛山の仕掛けた罠は、二重、三重に張り巡らされ、列強の首を、よりきつく締め上げていた。日本は、血を流さず、カネも使わず、ただ言葉と知恵だけで、魔都・上海を、事実上、その支配下に置き続けることに成功したのだった。



上海の列強管理体制が始まった直後、東京・霞が関の外務省の一室、そしてポルトガルのリスボン、オランダのロンドン亡命政府との間で、極秘の外交文書が交わされた。それは、歴史の表舞台には決して現れることのない、三国の「暗黒同盟」とも言うべき密約だった。


【日・蘭・葡 三国間相互権益保護に関する秘密協定】


その骨子は、シンプルかつ強力だった。

一、平時より、三国の権益を、現地民及び「英米仏等、その他の列強からの不当な圧力」から守るため、暗に陽に協力しあうこと。

二、上海の租界管理に関する重要事項は、必ず事前に三国間で協議し、常に共同歩調を取ること。


この密約により、上海の租界を管理する「参事会」は、完全に機能不全に陥った。

会議の席上、負担の大きいインフラ整備や治安維持の案件が出ると、米英仏は、当然、全当事国の公平な負担を主張する。しかし、日本、オランダ、ポルトガルは、事前に打ち合わせた通り、一枚岩となって反対する。

「我々は、そのような過大な負担を受け入れる用意はない」

「そもそも、治安の悪化を招いたのは、貴国(米英仏)の無分別な派兵が原因ではないか」


議論は紛糾し、結局、治安維持のコストやインフラ整備の負担は、派兵している米英仏、特に国力の大きい米英が、その大半を被ることになった。


しかし、その負担から生まれる「果実」――新規事業の許認可権、関税収入の配分、土地のリース権など――を決定する段になると、形勢は逆転する。

日・蘭・葡の三国は、結束して自国の利益を主張する。時には、ヴィシー政権下のフランス代表に、「貴国の負担だけは軽くしてやろう」と耳打ちし、フランスを自陣営に取り込む。さらに、上海に権益を持つドイツの代表とも裏で手を結び、数で米英を圧倒する。


結果として、コストは米英が負担し、利益は日・蘭・葡・独・仏で山分けするという、極めて不公正な構図が常態化した。上海の租界は、米英の国富を、他の列強が合法的に吸い上げるための、巨大なストローと化したのだ。


当然、米英は激しく反発した。

「こんな馬鹿な話があるか!これでは、我々は君たちのために税金を払っているようなものだ!」

米国の代表が激昂すると、オランダやポルトガルの代表は、待ってましたとばかりに、悲しげな表情で切り返す。

「我々も心苦しい。しかし、我々には自衛の力がない。もし、貴国が我々の正当な権利を認めないというのなら…」

そして、彼らは決まって、あの常套句を口にするのだった。

「…もはや、我々の権利代理人として、友邦である日本帝国に、正式に駐屯を依頼せざるを得ませんな」


この脅し文句の前では、米国の代表も沈黙するしかなかった。日本を上海に戻すことだけは、絶対に避けなければならないからだ。


だが、石橋内閣の狡猾さは、それだけでは終わらなかった。

表舞台で米国を徹底的に追い詰める一方で、その裏では、財閥ルートを通じて、英国との間に、もう一つの秘密のパイプを築いていたのだ。


ロンドンのシティ。

三井物産のロンドン支店長が、英国外務省の次官や、英国東インド会社の重役たちと、高級クラブでグラスを傾けていた。

「上海での一件、貴国には大変なご負担をおかけしております。つきましては、これは我々三井からの、ささやかなお詫びの印でして…」

そう言って差し出されるのは、上海で得た利権の一部や、ボルネオの石油採掘権に関する優先的な情報だった。

「表向き、我々はオランダ、ポルトガルと歩調を合わせざるを得ません。しかし、本音を言えば、我々も貴国との伝統的な友好関係を、最も重視しております。上海で損をするのは、威張り散らしているアメリカだけで十分でしょう?」


英国の指導者たちにとって、これは悪い話ではなかった。表向きは米国と共同で日本を非難し、大義名分を保ちつつ、裏では、しっかりと実利を得る。最終的に、上海で馬鹿を見るのは、理想論ばかりを振りかざす米国だけ、という構図が、静かに作り上げられていった。


この見事なまでの二枚舌外交、三重構造の利益相反の創出。

ウィンストン・チャーチル首相は、MI6から上がってきた報告を読み、葉巻をくゆらせながら、感嘆とも呆れともつかぬ声で呟いたという。

「…あの東洋の小さな商人は、アヘンと紅茶を同時に売りつける気か。恐ろしい男だ」


日本の財閥本社では、連日、上海から送られてくる莫大な利益の報告に、首脳たちの高笑いが響いていた。

戦争という、国家存亡の危機は回避された。そして今、彼らは、血を流すことなく、かつてないほどの利益を、外交という名の静かな戦争で稼ぎ出していた。





上海で列強が外交の泥仕合に足を取られている頃、日中戦争の主戦場であった華北の大地でも、大きな地殻変動が起きていた。それは、銃声の代わりに、測量杭とプロパガンダのビラによって進められる、新たな形の戦争だった。


陸軍省、作戦会議室。

かつて大陸のどこまでも戦線を拡大することを夢見ていた参謀たちの席には、苦渋の表情を浮かべた現実主義者たちが座っていた。彼らの目の前の地図には、無情な赤線が引かれていた。


「…以上をもって、我が華北派遣軍は、現有の戦線を大幅に縮小。チャハル、河北、山東の三省に防衛線を再構築する。これ以上の突出部、および治安維持の困難な地域は、計画的に放棄する」

作戦部長が、決定事項を淡々と読み上げる。


参謀の一人が、悔しげに呟く。

「しかし、これでは、これまで将兵が流した血が無駄になる…」

「黙れ!」と作戦部長が遮った。「これ以上の出血こそが無駄なのだ!それに、これは単なる撤退ではない。戦略的再配置である!」


その言葉通り、新たな防衛線は、極めて合理的に設定されていた。

河北省と山東省では、黄河やその支流といった、自然の河川を「堀」として利用できるラインまで後退。渡河点を重点的に固めることで、最小限の兵力で最大限の防御効果を狙う。

内モンゴルに接するチャハル省では、険しい山脈地帯を「壁」として活用。隘路に要塞を築き、遊牧民兵を懐柔して監視させることで、広大な正面をカバーする。


それは、近代的な技術と地形を利用して築かれる、新たな「万里の長城」だった。この防衛線の内側で、日本は経済開発に専念し、外側で蠢くゲリラや中国軍は、この強固な壁に阻まれる。


この大規模な戦線縮小を、陸軍が受け入れたのには、二つの理由があった。

一つは、国家警察予備隊という、国内に誕生した「内なる脅威」。もし陸軍が政府方針に逆らえば、東條と平沼は、この新たな実力組織を使って、陸軍の予算と人員を、さらに削りにかかるだろう。

もう一つは、石橋内閣が用意した「大義名分」。これは敗走ではなく、あくまで「平和への貢献」なのだ、と。


その大義名分は、直ちに国際社会へと発信された。

東京から発せられるラジオ放送や、中立国の通信社を通じて、日本の新たな方針が大々的にアピールされた。


「日本政府は、対米協定の精神に則り、華北における段階的撤兵を自主的に開始した。これは、東アジアの平和を願う、我が国の揺るぎない意思の表れである」

「同時に、日本政府は、昨年、華北の民意を代表して結成された『中国社会党』と、同地域の将来の統治に関する協議を開始した。これは、中国人の手による、中国人自身の統治を尊重する、我々の基本姿勢を示すものである」


このプロパガンダは、巧みに計算されていた。

そして、その声明は、決定的な一文で締めくくられていた。


「我が国は、中国国内の情勢を、静かに見守る所存である。そして、華北以外の中国の過半の地域が、国民党か、あるいは共産党の、いずれかの安定した支配下に置かれることが確定した暁には、その正統な政府を交渉相手とし、満州国境の画定を含む、最終的な停戦協議に入る用意がある」


この一文は、重慶の蔣介石と、延安の毛沢東の双方に、悪魔の囁きのように届いた。

それは、暗にこう告げていた。

「さあ、内戦を再開せよ。日本を追い出す戦いは、もう終わった。これからは、中国の支配者の座を賭けて、お前たちで殺し合え。そして、勝った方と、我々は話をしてやる」と。


これまで「抗日」という共通の敵の前に、不承不承ながら手を結んでいた国共両党。その脆弱な「国共合作」の基盤が、この日本の声明によって、根底から揺さぶられた。

日本という脅威が後退し、目の前に「中国統一」という巨大な果実がぶら下げられた今、彼らが互いへの不信感と野心を抑えつけることは、もはや不可能だった。


重慶の蔣介石は、激怒した。

「日本人は、我々を無視する気か!断じて許せん!」

しかし同時に、彼は、この機に国内の最大の敵である共産党を叩き潰す好機と捉えた。


延安の毛沢東もまた、日本の意図を正確に読み取っていた。

「日本人は、虎(国民党)と狼(共産党)を闘わせ、自らは山の上から高みの見物と洒落込む気だ。だが、それも結構。人民の支持を得ているのは、我々の方だ」


日本の撤退によって生まれた広大な「力の空白地帯」。

その支配権を巡って、国民党軍と共産党軍との間で、散発的な、しかし血生臭い衝突が、頻発し始める。

国共内戦の再開。それは、もはや時間の問題だった。


石橋湛山は、華北の地図を眺めながら、静かに呟いた。

「これでいい。彼らが互いに争っている限り、矛先が我々に向かうことはない。時間は、我々の側にある」


日本は、自らが火をつけた日中戦争という大火事を、今度は、中国国内の内乱という、別の火事を起こさせることで、鎮火させようとしていた。

それは、どこまでも冷徹で、非情な戦略だった。華北の大地に築かれつつある新たな「長城」の内側で、日本は、中国人が流す血を対岸の火事として眺めながら、自らの国力回復に専念していく。

泥沼からの脱出は、他者を、より深い泥沼に突き落とすことによって、成し遂げられようとしていた。




昭和十八年秋、日本の国内外に、奇妙な「平和」が訪れていた。

上海では列強が互いの足を引っ張り合い、華北以外の中国大陸では国共が睨み合う。日本は、巧みな外交と謀略によって、自らが血を流す戦場から、見事に離脱していた。


しかし、首相・石橋湛山の心は、片時も休まることはなかった。彼の視線は、今や、国内に向けられていた。

そこには、彼自身が作り出した、新たな火種が燻っていた。

陸軍省と、国家警察予備隊。

旧来の権威と、新興の権力。二つの武装組織が、帝都で睨み合う。その緊張関係は、軍部の暴走を抑えるという当初の目的においては、狙い通りに機能した。しかし、それは、いつ内戦という最悪の事態に発展してもおかしくない、極めて危険なバランスの上に成り立っていた。


「総理、先日も、演習帰りの陸軍トラックと、警備中の予備隊の車両が、路上で小競り合いを起こしまして…」

秘書官が、憂鬱な顔で報告する。

「またか…」

湛山は、深くため息をついた。街のあちこちで起きる、二つの組織間の小さな摩擦。それは、巨大な地殻の歪みが発する、危険な前兆だった。このまま放置すれば、何かのきっかけで、取り返しのつかない断層の破壊――内戦――が起きかねない。


(潮時だな…)

湛山は、決断した。対外的な危機が去った今こそ、この国内の「二本の刀」を、きちんと鞘に収める時だと。そして、そのために、今度は抑えつけてきた陸軍に、手を差し伸べる必要があった。


その日の午後、湛山は、陸軍省に寺内寿一元帥を訪ねた。

先の粛清と組織改編を経て、陸軍はもはや反乱の牙を失っていた。しかし、そのプライドと、国家の防衛を担うという自負は、いささかも衰えてはいなかった。寺内は、やつれた表情の中にも、宰相に対する複雑な感情を隠さずに湛山を迎えた。


「元帥閣下、ご多忙のところを失礼いたします」

湛山は、丁寧な物腰で切り出した。

「先の対外情勢の安定は、ひとえに、陸軍が政府方針に従い、苦渋の戦線縮小に応じてくださったおかげです。国民を代表し、心より感謝申し上げます」

まず、相手を立てる。それが、交渉の鉄則だった。

寺内は、無言で湛山の言葉を聞いていた。


「しかし」と湛山は続けた。「そのために、陸軍の将兵たちが、国内で肩身の狭い思いをしていることも、私は承知しております。特に、国家警察予備隊との軋轢は、看過できないレベルに達している」

湛山が本題に触れると、寺内の眉がピクリと動いた。それは、陸軍にとって、今最も屈辱的で、腹立たしい問題だった。


「元帥。この混乱は、二つの組織の職掌と権限が、曖昧なままであることに起因します。このままでは、無用の対立が、国家の防衛力を、内側から蝕むことになりかねません」

湛山は、寺内の目をじっと見つめた。

「私は、この不健全な状況を解決したい。そして、そのためには、陸軍の、そして元帥閣下のお力添えが不可欠なのです」

「…総理は、一体、何をなさるおつもりか」

寺内が、ようやく重い口を開いた。


湛山は、懐から一枚の覚書を取り出した。

「私は、かねてよりの懸案であった、統帥権の解釈を、明確に定めるための法整備を行いたいと考えております」

その言葉に、寺内は息をのんだ。統帥権問題。それは、長年、軍部が政府に対して優位性を保つための、伝家の宝刀であり、聖域だった。


「その内容は、こうです」と湛山は続けた。「『陸海軍の統帥権は、海外における国防、及び、外国勢力による本土への実存的かつ明白な侵略の際において、最大限に尊重され、確立される』と」


それは、陸軍の存在意義を、明確に「対外防衛」に限定するものだった。しかし同時に、「国防」という彼らの本分においては、その権威を政府が公式に認める、というアメでもあった。


「そして、それと対になる形で、警察権力との線引きも明確にします」

湛山は、覚書のもう一つの項目を指さした。

「『一方、国内の治安維持、テロ・騒乱等の緊急事態への対応は、警察権力の範囲とし、国家警察予備隊をその中核とする。その指揮権は、完全に内閣に服するものとする』と」


つまり、「外」は陸軍、「内」は警察。

二本の刀の役割を明確に分け、それぞれの鞘を法的に定める。これにより、互いの領域を侵すことなく、無用な対立を避ける。

「この線引きを、閣議決定や勅令といった曖昧なものではなく、帝国議会の議決を経た、恒久的な法律として定める。元帥、私は、そのための骨の折れる仕事を、引き受ける覚悟があります。ついては、陸軍も、この『国軍の再定義』に、ご協力いただけないだろうか」


寺内は、目の前の小柄な宰相を、改めて見直していた。

この男は、力で押さえつけるだけではなかった。押さえつけた後、相手の面子を立て、新たな「定位置」を与えることで、秩序を再構築しようとしている。それは、破壊者ではなく、建設者の発想だった。


この提案は、陸軍にとって、決して悪い話ではなかった。

警察予備隊に国内の主導権を完全に明け渡すのは屈辱だ。しかし、その代わり、「国防」という聖域における統帥権は、法的に保証される。それは、失われた権威の一部を、形を変えて取り戻すことを意味した。何より、街角で警察官ごときに侮られるという、日々の屈辱から解放されるのだ。


「……」

寺内は、長く目を閉じていた。

やがて、彼は、ゆっくりと顔を上げた。その目には、諦観と、わずかな安堵の色が浮かんでいた。

「…総理。そのご提案、陸軍として、前向きに検討させていただこう。ただし、これは、平沼内相と、東條副総理を、完全に納得させることが前提ですな」


「無論です」

湛山は、静かに頷いた。

「彼らの説得こそが、私の次なる仕事です」


対外的な危機を乗り越えた宰相の、次なる戦いが始まった。

それは、自らが作り出した二つの怪物を手なずけ、日本の平和を、今度は国内の権力闘争から守るための、孤独で、しかし決定的な戦いだった。


承知いたしました。

湛山が次に、老獪な権力者である平沼騏一郎を、巧みな手管で懐柔していくシーンを描きます。甘言と実利を使い分ける、政治家同士の腹の探り合いです。




陸軍省を後にした石橋湛山が次に向かったのは、桜田門の内務大臣室だった。

そこに待ち構えるのは、平沼騏一郎。先の粛清劇の立役者であり、今や国家警察予備隊という新たな権力の頂点に君臨する、この国の影の実力者だ。彼との交渉は、寺内元帥とのそれとは、全く質の異なる、腹の探り合いになることを湛山は覚悟していた。


しかし、その日の内務大臣室の空気は、意外なほど和やかだった。

その数日前から、財閥系の新聞や雑誌が、一斉に「平沼待望論」とも言うべきキャンペーンを始めていたからだ。


「平沼内相の決断なくして、今日の平和はなかった」

「法治国家の守護神、陸軍の暴走から国を救った男」


もちろん、これは湛山が財界ルートを通じて、事前に仕込んだ世論操作だった。平沼という男が、名誉と権威に人一倍敏感であることを、湛山は見抜いていたのだ。

「これはこれは、総理。ようこそお越しくださいました。近頃は、新聞が騒がしくていかんですな。老いぼれをあまり持ち上げるものではありません」

平沼は、そう言って満更でもない笑みを浮かべた。用意された賛辞の舞台に、彼はすっかり上機嫌だった。


「いや、平沼男爵。世論は、真実を語っているだけです」

湛山は、その芝居に乗り、心からの賛辞を贈るかのように言った。

「あの国難の折、男爵の揺るぎない決断がなければ、今頃この国はどうなっていたか。私も、一人の国民として、心から感謝しております。あなたが、この国を救ったのです」

「はっはっは。総理にそう言っていただけると、苦労した甲斐もあるというものですな」


十分に相手を持ち上げたところで、湛山は、本題を切り出した。

「ところで男爵。そのあなたが守った国の秩序に、今、新たな懸念が生じているのは、ご承知の通りかと存じます」

その言葉に、平沼の笑みが消え、老獪な政治家の顔に戻る。

「…陸軍と、予備隊のことですかな」

「ご明察の通りです。このままでは、二つの組織の対立が、せっかく取り戻した国内の安定を、再び揺るがしかねません」


湛山は、陸軍省で寺内元帥に見せたものと同じ覚書を、平沼の前に差し出した。

平沼は、それにさっと目を通す。その表情からは、内心の動揺は一切読み取れない。


「…ほう。統帥権と警察権の、法的な線引き、ですか。面白いことをお考えになる」

その声は平坦だったが、湛山はその裏に潜む鋭い計算を感じ取っていた。

「総理は、我々警察が手にした権限の一部を、陸軍に返上せよ、と。そう仰るわけですな?」

平沼の目が、カミソリのように湛山を射抜いた。


「とんでもない!」

湛山は、力強く首を横に振った。

「これは、返上などという消極的な話ではございません。これは、警察権力を、恒久的な法律として、国家の制度に明確に位置づけるための、積極的な一歩なのです」

「と、申されますと?」


「男爵。考えてもみてください。今の国家警察予備隊の権限は、言ってしまえば、我々石橋内閣という、一時の政権の決定の上に成り立っているに過ぎません。もし、将来、再び軍部が息を吹き返すような内閣が生まれれば、その権限はいとも容易く覆されかねない」

湛山の言葉は、平沼の最も渇望する部分を的確に刺激した。平沼が欲しいのは、一時の権力ではない。永続する、制度化された権力なのだ。


「しかし、この法案が通れば、どうなるか。『国内の治安維持は、警察の専権事項である』ということが、帝国議会の議決を経た、国の最高法規の一つとして確立されるのです。もはや、いかなる内閣も、いかなる軍人も、その牙城を侵すことはできなくなる。それは、あなたが築き上げた功績を、歴史に、そして法に、永遠に刻み込むことに他なりません」


そして、湛山は、最後の一押しとばかりに、こう付け加えた。

「男爵。今は、あなたが最も力を持っている時です。陸軍は力を失い、国民はあなたを英雄と讃えている。この絶好の機会に、敢えて陸軍に譲歩するという度量を示す。それは、あなたの政治的権威を、さらに揺るぎないものにするでしょう。力で押さえつけるだけの男ではない、国家全体の調和を考える、真の指導者である、と」


譲歩によって、さらなる権威を得る。

失うものは、曖昧な権限のごく一部。得るものは、法的に保証された、永続的な権力。

平沼の頭の中のソロバンが、答えを弾き出すのに、時間はかからなかった。


やがて、平沼は満足げに深く頷いた。

「…なるほど。よく分かりました、総理。あなたの言う通りかもしれん。国家の百年、千年の計を考えるならば、目先の小さな権限に固執するのは、大局を見誤るということでしょうな」

彼は、すっかり「国家を憂う大政治家」の顔になっていた。

「よろしい。この平沼、その提案に乗りましょう。陸軍が暴走せぬよう、国内の治安が乱れぬよう、新たな法の礎を築くことに、全面的に協力させていただきます」


「ありがとうございます、男爵。あなたのご英断に、改めて敬意を表します」

湛山は、深く頭を下げた。


交渉は、比較的容易に進んだ。

湛山は、平沼という男の自尊心と権力欲を、賛辞と実利という二つの餌で満たすことで、見事に彼を説き伏せたのだ。


残るは、最も気難しく、そして最も危険な交渉相手。

副総理であり、警察予備隊副長官であり、そして陸軍の絶対的支配者でもある、東條英機。

彼を説得することこそが、この国内融和策の、最後の、そして最大の難関だった。


承知いたしました。

これまで権謀術数を駆使してきた湛山が、最後の難関である東條英機に対し、全く異なるアプローチで臨む、緊迫感と人間味が交錯するシーンを描きます。



平沼との交渉を終えたその日の夜。

石橋湛山は、全ての予定を断り、一人、官邸の私室に篭っていた。酒を飲むでもなく、本を読むでもなく、ただ静かに、これから訪れるであろう男のことを待っていた。


やがて、夜のしじまを破って、一人の男が、秘書官の案内もなく、静かに入室してきた。

副総理・東條英機。

軍服ではなく、簡素な国民服に身を包んだその姿は、一人の政治家というよりも、むしろ己の信念に殉じる求道者のような、厳しい空気を纏っていた。


「…お呼びと聞き、参上いたしました、総理」

その声には、何の感情も含まれていない。

「東條君、多忙のところを済まない。まあ、座ってくれ」

湛山は、テーブルを挟んだ向かいの椅子を勧めた。そこには、酒もなければ、茶もない。ただ、二人の男の間に、重い沈黙だけが存在していた。


これまでの交渉のように、計算された甘言も、用意周到な資料も、根回しもない。

湛山は、東條英機という男に対しては、敢えて無策無手で臨むと決めていた。

この男は、平沼のような名利で動く男ではない。財界のように、ソロバンで動く男でもない。彼の行動原理は、ただ一つ。「陛下への忠誠」と、彼自身が信じる「国家のため」という、純粋で、それ故に危険な信念だ。小手先の策は、この男の前では無意味であり、むしろ侮辱とさえ受け取られかねない。


腹を割って話すしかない。

あの反乱と粛清の夜、天皇を謀略の駒に使うという、万死に値する罪を共有した「共犯者」として。この国の平和のため、共に鬼となる覚悟を決めた「同士」として。


長い沈黙を破ったのは、湛山だった。

「…東條君。君には、感謝している」

その言葉は、何の飾りもない、率直なものだった。

「君があの時、陸軍を、そして自らの古巣を裏切るという、断腸の思いで決断してくれなければ、今の平和はなかった。この国は、破滅していた」


東條は、鋼のような表情を崩さず、ただ黙って湛山を見ていた。


「だからこそ、私は、君に問わねばならん」

湛山の声に、厳しい光が宿った。

「我々が、血を流し、罪を犯してまで守ろうとしたこの平和を、今度は我々自身の手で、内側から壊すようなことがあってはならん。陸軍と、警察予備隊の対立。あれは、もはや看過できん」


湛山は、寺内、平沼との間で交わした法整備の構想を、包み隠さず、ありのままに東條に語った。統帥権と警察権の線引き。陸軍の権威の回復と、その役割の限定。その全てを、無防備なまでに、正直に語った。


「…これが、私の考えだ。陸軍には国防という本来の務めに戻ってもらい、国内のことは、我々文民が責任を持つ。それが、この国の、あるべき姿だと私は思う」


語り終えた湛山の額には、脂汗が滲んでいた。

東條が、どう反応するか。もし彼が、「陸軍の力を削ぐ陰謀だ」と断じれば、全ては終わる。平沼を抑えたところで、東條が首を縦に振らなければ、この構想は絵に描いた餅に過ぎない。最悪の場合、東條は、警察予備隊の副長官という立場を利用し、陸軍と結託して、今度こそ本物のクーデターを起こしかねない。


東條は、まだ黙っていた。彼は、ただじっと、目の前の小柄な宰相の顔を見つめている。その剃刀のような瞳が、湛山の覚悟の底を、その魂の在り処を、探っているかのようだった。


やがて、東條は、低い、嗄れた声で、ぽつりと言った。

「…総理。あなたは、なぜ、そこまでして、この国を戦争から遠ざけようとするのですか」

それは、交渉とは全く関係のない、人間としての問いだった。

「あなたの言う『小日本主義』は、国家の発展を望まぬ、臆病者の思想だと、私はずっと思っていた。しかし、あなたのやり方は、臆病者のそれではない。むしろ、誰よりも危険な橋を、平然と渡っている」


湛山は、一瞬、虚を突かれた。しかし、彼はすぐに、正直に、自分の言葉で答えた。

「…臆病だからだよ、東條君」

「……?」

「私は、怖いのだ。この国が、国民が、私の知っている人々が、戦いで死んでいくのが、たまらなく怖い。私の故郷が、焼夷弾で焼かれるのが、恐ろしい。ただ、それだけだ。ジャーナリストとして、私は、戦争が、経済を、人の暮らしを、いかに無残に破壊するかを、嫌というほど見てきた。あれを、二度と繰り返したくない。その一心だよ」


その言葉には、何の理想も、大義名分もなかった。ただ、一人の人間としての、素朴で、切実な思いだけがあった。


東條の鋼のような表情が、その時、初めて、わずかに揺らいだように見えた。

目の前の男は、理解しがたい理想を掲げる学者ではなかった。自分とは全く違う価値観を持ちながら、しかし、自分と同じように、命がけで、己の信じる「国」を守ろうとしている、一人の男だった。


長い、長い沈黙が、再び部屋を支配した。

やがて、東條は、深く、息を吐いた。それは、彼がこの数ヶ月、胸の内に溜め込んできた、全ての葛藤と苦悩を、吐き出すかのような息だった。


「…分かりました、総理」

その声は、驚くほど、穏やかだった。

「あなたの覚悟、しかと拝見いたしました。その法案、よろしいでしょう。陸軍も、警察も、元はと言えば、陛下と、この国をお守りするためのもの。その役割が明確になるのであれば、それに異を唱える理由はない」

彼は、立ち上がると、部屋の入り口に向かった。

そして、去り際に、一度だけ振り返って言った。


「…総理。あなたのやり方は、好かん。だが…あなたの『怖れ』は、信じよう」


それだけを言うと、東條英機は、音もなく部屋を去っていった。

一人残された湛山は、椅子に深く身を沈め、大きく息をついた。全身から、力が抜けていくのを感じた。




昭和十九年(1944年)春。

桜の花が、先の動乱の記憶を洗い流すかのように、帝都の空を薄紅色に染めていた。

対外的には「奇妙な平和」が保たれ、国内では、陸軍と警察予備隊が小競り合いを続けていたものの、そのトップ同士が大枠を見据えたことで、分断は鎮静化した。日本は、つかの間の安定期を迎えていた。


しかし、首相・石橋湛山は、歩みを止めなかった。

彼にとって、これまでの全ての改革は、対症療法に過ぎなかった。この国を蝕む病の根源――それを根治しない限り、いつかまた、同じ悲劇が繰り返される。

その病根とは、帝国憲法(明治憲法)そのものに内在する、構造的欠陥だった。


官邸の一室に、再び、三頭政治の主役たちが集結した。湛山、平沼、東條。

彼らの前に置かれたのは、もはや覚書や法案ではない。日本の国体を定める、神聖不可侵の聖典――帝国憲法の条文だった。


「…今こそ、この国の、百年の礎を定め直す時です」

湛山の声は、静かだったが、部屋の空気を震わせるほどの覚悟に満ちていた。

「我々がこれまで直面してきた全ての混乱の根源は、この憲法の『曖昧さ』にあります。この曖昧さを払拭し、国体を、より明確で、より強固なものへと再生させる。これこそが、我々に課せられた、最後の、そして最大の責務です」


平沼と東條は、息をのんだ。憲法改正。それは、神をも恐れぬ所業であり、一歩間違えれば、国賊として断罪されかねない、究極のタブーだった。


しかし、湛山が示した改憲草案の骨子は、彼らの懸念を、驚きと、そして抗いがたい魅力へと変えていった。


【帝国憲法改正要綱(湛山私案)】

一、陸海軍の規定:第十一条(統帥権)に、「但シ、ソノ編制及ビ常備兵額ハ、法律ヲ以テ之ヲ定ム」との一文を追加。これにより、軍の編制(予算)に対する、議会と内閣の優越を明確にする。(軍政における内閣の優越)


二、軍権と警察権の規定:第十二条(軍の統帥)を改め、「外敵に対する国防」を軍の専権とし、「国内の治安維持」を内閣の指揮する警察の専権と、明確に分離する。


三、内閣の規定:国務大臣の輔弼責任(第五十五条)に加え、「内閣ハ、行政権ノ行使ニ付キ、一体トシテ議会ニ対シテ責任ヲ負フ」との条文を新設。行政府の長としての内閣の位置づけを強化する。


四、臣民の権利:第二章「臣民権利義務」に、「法律ノ定ムル範囲内ニ於イテ」という留保を可能な限り削除、または緩和。「思想及ビ良心の自由」「学問の自由」等の項目を加え、臣民の権利を段階的に保障する。


それは、明治憲法の骨格は維持しつつも、その欠陥を、外科手術のように的確に修正するものだった。統帥権の独立という最大の病巣にメスを入れ、議院内閣制への道を拓き、そして、国民の権利を拡大する。


「…これは、革命だ」

東條が、呻くように言った。

「その通りです。静かなる、しかし決定的な革命です」と湛山は応えた。「しかし、これは、国体を破壊するものではない。むしろ、陛下を、神輿として担ぎ上げる一部の者の暴走からお守りし、陛下と、全ての民草との間にあるべき、本来の関係を取り戻すための、『国体の再生』なのです」


そして、湛山は、決定的な一言を放った。

「私は、この憲法改正の創案者として、自らの名を歴史に残すつもりは、毛頭ない」

彼は、平沼と東條の顔を、真っ直ぐに見つめた。

「この歴史的偉業は、全て、天皇陛下の御聖断と、国を憂える平沼男爵と東條将軍の叡智によるものとして、後世に伝えられるべきだ。私は、ただ、そのための黒子に徹する」


功績の全てを、譲る。

その言葉に、平沼と東條の目の色が変わった。

平沼にとっては、「法治国家の守護神」としての名声を、憲法に刻む、またとない機会。

東條にとっては、陸軍の暴走を止め、国家に新たな秩序をもたらした「忠臣」としての評価を、不動のものとする好機。

「…よろしい。その話、乗った」

最初に口を開いたのは、平沼だった。

東條もまた、深く、重々しく頷いた。


この瞬間、日本の歴史は、新たな扉を開いた。

この三頭政治の合意のもと、内閣法制局と、枢密院の有志による、極秘の憲法改正草案の起草が始まった。

同時に、公職選挙法(婦人参政権の導入、制限選挙の緩和)、政治資金規正法(政治献金の透明化)、そして刑事手続適正化法(拷問の禁止、令状主義の徹底)といった、近代国家の根幹をなす法案群が、矢継ぎ早に準備されていった。


やがて、その「Xデー」は訪れた。

政府は、突如として、「帝国憲法改正草案」と、それに関連する一連の近代化法案の存在を、国民の前に公表した。


世間は、文字通り沸騰した。

「憲法改正だと!国体を変更する気か!」と激昂する右翼。

「ついに、真の議会政治が始まる!」と歓喜する知識人。

「婦人にも、選挙権が…?」と、半信半疑でニュースに見入る女性たち。

新聞は連日、賛成と反対の論説で紙面を埋め尽くし、ラジオは、一日中、有識者たちの討論会を放送した。


そして、その熱狂の渦の中で、政府は、国民に向けて、繰り返しこう説明した。

「この度の改正は、ひとえに、平和を願われる陛下の御心と、陸軍の行き過ぎを憂い、国家の将来を案じられた、平沼、東條両先生の、憂国の情の賜物である」と。


石橋湛山の名は、その背後に巧みに隠された。

彼は、自らが歴史の表舞台から消えることと引き換えに、この国に、真の近代化と、永続する平和の礎を、築こうとしていた。

日本中を巻き込んだ大論争の先に、果たして、どのような新しい国のかたちが待っているのか。それは、まだ、誰にも分からなかった。



昭和十九年秋、日本は、銃火なき内戦の季節を迎えた。

政府が「帝国憲法改正草案」を発表したその日を境に、列島は巨大な討論会場と化した。喫茶店、工場の休憩所、大学の講義室、そして家庭の茶の間まで、あらゆる場所で、人々は、自らの信じる「国のかたち」を、声を枯らして語り合った。


帝都の街角は、思想の万華鏡だった。


一、神保町の古書店街――憂国の右翼、国体護持の叫び


「断じて許せん!万世一系の国体を、易々と変更するなど、神武天皇以来の国辱である!」

学生服の襟を詰め、血走った目で叫ぶのは、国家主義団体の若者たちだ。彼らは、街頭でビラを撒き、憲法改正を「西洋思想にかぶれた堕落」と断じ、激しい反対の声を上げた。

「統帥権の独立こそが、陛下の軍隊たる皇軍の証し!それを、文民風情が縛ろうなどとは、言語道断!」

「平沼も東條も、魂を売ったか!あの石橋という赤化宰相の口車に乗せられおって!」

彼らにとって、憲法は神聖不可侵の経典であり、その一字一句を変えることは、国家の根幹を揺るがす冒涜だった。一部の過激派は、「君側の奸を討て」と、再びテロリズムの影をちらつかせ始めた。

もちろん彼らのすぐ裏では国家警察や特高警察が常に彼らを監視していた。


二、丸の内のオフィス街――財界人、ソロバンと期待


「まあ、落ち着きたまえ。これは、ビジネスにとっては、決して悪い話ではない」

財閥本社の一室で、重役たちは、冷静に事態を分析していた。

「軍部の無謀な戦争計画に、いつまでも我々の虎の子を差し出すわけにはいかんからな。予算編成権が、完全に内閣の手に戻ってくるのは、大いに歓迎すべきだ」

「政治資金規正法は少々厄介だが、これも、ルールが明確になる分、やりやすくなる面もあるだろう」

「何より、国内が安定し、欧米との貿易が円滑に進むことだ。戦争のリスクがなくなるなら、これ以上の利益はない」

彼らは、国体論争には深入りせず、あくまで経済合理性で判断した。石橋内閣がもたらす「安定」と「利益」を、彼らは高く評価し、傘下のメディアを通じて、静かに、しかし強力に、改憲支持の論陣を張らせた。


三、本郷の大学キャンパス――知識人、理想と警戒の交錯


「ついに来たか!日本のデモクラシーの夜明けだ!」

大学の講義室では、自由主義者の老教授が、感極まったように声を上げた。

「臣民の権利の保障!思想・良心の自由!これこそ、我々が長年求め続けてきたものだ!これで、日本も、真の近代文明国家の仲間入りができる!」

多くの知識人や学生は、今回の改憲を、軍国主義からの脱却と、民主主義への扉として、熱狂的に支持した。

しかし、その一方で、冷徹な視線も存在した。

「手放しでは喜べんぞ。石橋の背後にいるのは、平沼と東條だということを忘れるな」

社会科学の若き助教授が、冷静に警鐘を鳴らす。

「これは、結局、軍部の独裁が、内務官僚と新たな軍閥による、より巧妙な独裁に変わるだけではないのか?『国家警察予備隊』という、内閣直属の暴力装置の存在を、我々はもっと警戒すべきだ」

彼らは、改憲の先に、新たな形の国家統制が待ち受けているのではないかという、深い疑念を抱いていた。


四、銀座のカフェ、市井の茶の間――民草たちの戸惑いと希望


「ねえ、奥さん、聞きました?今度、私たちにも選挙権が与えられるんですって」

「まあ!私たちが、国会議員の先生を選ぶの?なんだか、実感が湧かないわねえ」

婦人雑誌の特集記事を囲んで、女性たちは、戸惑いと、かすかな期待を口にした。

「でも、もし、私たちの声が届くようになるなら…もう、うちの息子を、戦争にだけは行かせないでほしい、って。そう言えるようになるのかしら」

それは、イデオロギーではない、生活者としての、切実な願いだった。


町工場の工員たちは、仕事を終えた後、一杯飲み屋で議論を戦わせた。

「刑事手続の適正化だ?なんだそりゃ」

「特高の旦那に、理由もなく引っ張られて、ひどい目に遭うことがなくなるって話よ」

「そりゃ、ありがてえ!俺たちみてえな貧乏人には、お上が決めたことには逆らえねえと思ってたが、少しはマシな世の中になるのかもな」

彼らにとって、憲法は遠い存在だった。しかし、自らの暮らしや人権が、少しでも守られるようになるかもしれないという期待が、彼らの心を動かしていた。


熱狂、警戒、期待、戸惑い――。

日本中が、それぞれの立場で、それぞれの言葉で、自国の未来を語り始めた。

それは、これまで「上」から与えられるだけだった「国のかたち」を、初めて、国民一人一人が、自らの問題として引き受け始めた瞬間でもあった。


この沸騰する言論の坩堝の中で、日本の社会は、大きく、そして不可逆的に、変容を遂げようとしていた。

石橋湛山が投じた一石は、日本国民という巨大な水面に、かつてないほどの大きな波紋を広げ、新しい時代の到来を告げていた。


承知いたしました。

これまで無力感と堕落の中にあった衆議院が、改憲という国家的なうねりの中で、生き残りをかけて必死にもがき始める姿を描きます。


永田町、国会議事堂。

石橋湛山が内心「腐臭がする」と唾棄したその場所は今、かつてないほどの異様な熱気に包まれていた。それは、理想に燃える熱気ではない。崖っぷちに立たされた者が発する、焦りと、生存本能から来る、必死の熱気だった。


きっかけは、政府が憲法改正案を公表して以来、財閥系の新聞や雑誌で始まった、容赦のない「衆議院批判」キャンペーンだった。

「国難の折、党利党略に明け暮れ、軍部に迎合した議会の責任を問う」

「国民が国の未来を論ずる中、未だ利権の算段にのみ汲々とする代議士たち」

「このままでは、議会は国民から完全に見捨てられるだろう」


もちろん、これも湛山が財閥ルートを通じて仕掛けた、計算され尽くした世論操作だった。彼は、衆議院を、自らの改革案を追認するだけの存在に貶めるのではなく、自ら動かざるを得ない状況に追い込むことを選んだのだ。


この国民からの厳しい視線と、「見捨てられる」という危機感は、これまで惰眠を貪ってきた旧政党の領袖たちの尻に、強烈な火をつけた。

「いかん!このままでは、我々は、歴史の傍観者になるどころか、国賊として断罪されかねんぞ!」

「そうだ!政府案を、ただ黙って承認するだけでは、議会の存在意義が問われる!」

「我々も、我々の手で、憲法改正案を作るのだ!議会の名誉にかけて!」


衆議院倶楽部の派閥領袖たちの会合は、連日、深夜まで紛糾した。

彼らは、大慌てで、憲法学者や、かつて官僚だった代議士たちをかき集め、「衆議院独自の憲法改正草案」の策定に乗り出した。


その内容は、政府案を大筋で認めつつも、随所に「議会の復権」をにじませる、苦心と見栄の産物だった。

「内閣の議会に対する責任は、さらに明確化すべきだ!」

「予算の議決権だけでなく、監査権も、議会に与えられるべきだ!」


さらに彼らは、自分たちの存在意義を示すため、新たな法案を、次々と矢継ぎ早に起草し始めた。

【議会法案】

国政調査権を明記し、議会が政府を強力に監視できる権限を盛り込む。

【政党法案】

政党の法的地位を認め、政党への公的助成の道を拓く。


それは、自分たちの特権を守り、復権しようという、露骨な党利党略の産物ではあった。しかし、皮肉なことに、そのあがきは、結果として、日本の議会制民主主義の制度設計を、より豊かに、より多角的にするものとなっていった。


彼らの姿は、滑稽で、哀れですらあった。

昨日まで、軍部の顔色を窺い、翼賛選挙に唯々諾々と従っていた男たちが、今や、「議会の名誉」や「国民の信託」を、大声で叫んでいる。

しかし、彼らは必死だった。

この歴史的な変革の波に乗り遅れれば、自分たち政治家という存在が、天皇からも、国民からも、そして何より、歴史そのものから、完全に見捨てられてしまう。その恐怖が、彼らを駆り立てていた。


首相官邸で、その報告を受けた石橋湛山は、静かに笑みを浮かべた。

彼は、彼らの自己保身や党利党略を、冷ややかに見つめていた。しかし、それでいい、と湛山は思った。

健全な動機であろうと、不純な動機であろうと、構わない。

政府だけでなく、議会もまた、自らの頭で考え、動き始めた。様々な意見がぶつかり合い、競い合う。その混沌としたエネルギーの中からこそ、真に国民のためになる、より良い制度が生まれてくる。


湛山は、あえて彼らの動きを静観した。

「よろしい。議会の案も、大いに参考にしようではないか。政府と議会が、競って国のかたちを考える。素晴らしいことだ」

そう公言することで、彼は、彼らのプライドをくすぐり、さらにその動きを加速させた。


こうして、憲法改正という巨大なテーマは、もはや政府だけのものではなくなった。

国を憂う右翼も、利益を計算する財界も、理想を語る知識人も、そして、生き残りに必死な政治家たちも。

全ての国民が、それぞれの立場で、当事者として、この国の未来を形作るプロセスに、否応なく巻き込まれていった。

日本は、最も混沌とし、しかし、最も創造的な季節を、迎えようとしていた。



皇居、吹上御苑。

菊の香りが満ちる庭を散策する昭和天皇の表情には、近年見られなかった、深い思索と、かすかな期待の色が浮かんでいた。

彼の耳にも、市中で沸騰する憲法改正の大論告は、日々、詳細に届けられていた。


それは、まさに「降って湧いたような」議論だった。

即位以来、彼の治世は、常に軍部の独走と、それに引きずられる政治の混乱の中にあった。臣下たちは、彼の前で、常に「戦か、否か」「進むか、退くか」という、血生臭い二者択一ばかりを迫ってきた。国のかたちそのものを、根本から論じ合うなど、想像だにしたことのない事態だった。


天皇は、直接的な賛否を決してお示しにはならなかった。立憲君主として、政治の表舞台に立つべきではない。その自覚は、彼の行動を常に律していた。

しかし、彼の内心は、この予期せぬ春雷に、殊の外、心を寄せていた。


(…これで、よいのかもしれぬ)


木戸幸一内大臣を通じて届けられる、新聞の切り抜きや、各界の論調をまとめた報告書に、彼は丹念に目を通した。

右翼の激しい国体護持論。財界の現実的な計算。知識人の理想主義的な情熱。そして、生き残りをかけてあがく、政治家たちの滑稽で、しかし必死な姿。

それら全てが、これまで淀み、腐敗しかけていた、この国の空気を、かき回し、浄化していくように、彼には感じられた。


特に、彼の心を捉えたのは、かつての反軍演説で知られる斎藤隆夫のような、これまで軍部に睨まれ、異端とされてきた人物が、堂々と議会で持論を展開しているという報告だった。

多様な意見が、力で封殺されることなく、言論の場で戦わされる。それこそが、彼の祖父である明治天皇が、この国に与えようとした、立憲政治の、本来あるべき姿ではないのか。


ある日の午後。

天皇は、平沼騏一郎と東條英機を、個別に御文庫に召した。それは、公式の拝謁ではなく、内々の「下問」という形を取っていた。


「平沼。近頃、市中は、憲法のことで、随分と賑やかであるな」

天皇の穏やかな問いに、平沼は恐縮して頭を下げた。

「はっ。陛下の御宸襟を悩ませる事態となり、誠に申し訳ございません」

「いや」と天皇は、静かに首を横に振った。「朕は、悩んではおらぬ。むしろ、頼もしく思うておる」

その意外な言葉に、平沼は顔を上げた。


「臣民が、それぞれの立場で、国の将来を真剣に考える。これこそ、まことの忠義というものであろう。そなたは、法の守護者として、その様々な声をよく聞き、決して一部の者の声に偏ることなく、国家の百年を見据えた、揺るぎなき礎を築くことに、全力を尽くすように」


それは、直接的な命令ではなかった。しかし、平沼には、その言葉の裏にある、天皇の強い期待が、痛いほどに伝わってきた。改憲論議を、断固として進めよ、という、事実上の「御墨付き」だった。


東條に対しても、天皇は同様の趣旨を、少し言葉を変えて伝えた。

「東條。軍の中には、今回のことを、快く思わぬ者もおるやもしれぬ。しかし、真の強さとは、いたずらに剣を振り回すことではない。自らの役割を知り、分をわきまえることにある。そなたは、陸軍をよく諭し、彼らが、国民から信頼される、まことの『皇軍』として再生できるよう、しっかりと導いてやるように」


その「しっかりと」という一言に、万感の重みが込められていた。それは、もはや暴走することなく、新たな国のかたちの中に、陸軍を然るべき場所へと収めよ、という、天皇からの、東條個人に対する、絶対の信頼と、厳粛なる命令だった。


この天皇からの「諷意ふうい」――間接的な意思表示――は、平沼と東條にとって、何よりも強力な追い風となった。

彼らは、もはや、右翼のテロや、軍内部の反発を恐れる必要はなくなった。自分たちの進める改革は、「陛下の御心」に沿うものであるという、最強の大義名分を得たのだ。


「ありがたき幸せに存じます。この平沼(東條)、身命を賭して、陛下の御期待にお応えする覚悟でございます」

御文庫を退出した二人の権力者の胸には、それぞれの思惑とは別に、天皇からの信頼に応えねばならぬという、臣下としての、純粋な使命感が燃え上がっていた。




昭和二十年(1945年)二月。

日本近代史において、忘れ得ぬ一日が訪れた。

その日、宮内省を通じて、内閣に対し、一通の勅命が下された。


「朕、帝国憲法ヲ改正シ、以テ国家統治ノ基礎ヲ鞏固ニシ、臣民福祉ノ増進ヲ図ラントス。内閣ハ、速ニ其ノ草案ヲ審議シ、帝国議会ニ提出スベシ」


天皇による、憲法改正発議の大御心。

それは、日本中を駆け巡った、熱く激しい議論に、最終的な決着と、新たな始まりを告げる号砲だった。

これまで、政府案、議会案、民間案と、百花繚乱の様相を呈していた改憲論議が、この日をもって、正式な「国家事業」となったのだ。


この勅命を受け、石橋内閣は、直ちに「臨時憲法問題調査会」を設置した。

その構成は、前代未聞のものだった。

会長には、石橋湛山自らが就任。

副会長には、平沼騏一郎と東條英機が並んで座った。

そして、委員には、政府・内閣法制局の役人だけでなく、衆議院・貴族院の両院から、各会派の代表が参加。さらには、東京帝国大学の美濃部達吉、上杉慎吉といった、思想的立場を異にする憲法学者、そして、財界の代表、労働組合の代表、婦人団体の代表までが、名を連ねた。


それは、特定の誰かが作る「改憲」ではなく、国民のあらゆる層が参加する「創憲」への試みだった。


調査会の第一回会合で、石橋湛山は、こう宣言した。

「本日、我々は、歴史的な一歩を踏み出す。我々の目的は、単一の草案を拙速に決めることではない。政府案、議会案、そして民間の様々な意見。その全てを、このテーブルの上に乗せ、徹底的に議論し、磨き上げ、この国の未来にふさわしい、最良の憲法草案を練り上げることにある」

そして彼は、こう付け加えた。

「結論を急ぐ必要はない。一年後の春、熟議を尽くした最終草案を、帝国議会に提出することとしたい。それまでの間、国民的議論を、さらに深めることを、ここに要請する」


一年間の、国民的熟議期間。

この宣言は、日本中の議論の火に、さらに油を注いだ。


新聞各紙は、連日、調査会の議事録を詳細に報じ、社説で論戦を繰り広げた。紙面には、「憲法改正、私の一案」といった、国民からの投書欄が設けられ、農夫から、小学生に至るまで、様々な意見が掲載された。


ラジオ放送は、ゴールデンタイムに、調査会の委員たちを招いての討論番組を毎週放送。「統帥権の是非」「人権保障の範囲」といったテーマについて、専門家たちが、時に激しく、時に理知的に、言葉を戦わせた。全国の家庭が、その放送に、固唾をのんで耳を傾けた。


大学や学校では、憲法が、最も重要な科目となった。学生たちは、模擬議会を開き、自分たちなりの憲法草案を作り上げ、熱弁をふるった。


全国の市町村では、公会堂で、市民討論会が自主的に開かれた。地域の代議士や、地元出身の学者を招き、夜遅くまで、自分たちの暮らしと、国の未来が、どう結びつくのかを語り合った。


それは、混沌としていた。

時には、激しい罵り合いもあった。収拾のつかない議論もあった。

しかし、日本国民は、この一年間を通じて、かつて経験したことのない、貴重な訓練を積んでいた。

それは、民主主義の訓練だった。

自らの頭で考え、自らの言葉で語り、他者の意見に耳を傾け、そして、合意を形成しようと努力する。


石橋湛山は、官邸で、その国民的なうねりを、静かに、しかし深い満足感をもって見守っていた。

(これでいい…)

彼が本当に作りたかったのは、完璧な憲法の条文そのものではなかった。

国民一人一人が、この国を、自分たちのものとして考え、引き受ける。その「精神」こそが、いかなる条文よりも強固な、平和の礎となると、彼は信じていた。


一年後の春。

桜が、再び、帝都を彩る頃。

臨時憲法問題調査会は、無数の議論と、希望と、そして妥協の末に、ついに、一つの「最終草案」をまとめ上げる。

それは、もはや湛山の私案でもなければ、政府案でもない。

まさしく、昭和の日本国民が、その総力を挙げて生み出した、集合知の結晶だった。



昭和二十一年(1946年)春。

一年間にわたる国民的創憲の季節が終わり、桜の花びらが、新しい時代の到来を祝福するかのように、官邸の庭に舞っていた。

臨時憲法問題調査会が練り上げた「帝国憲法改正最終草案」は、ついに完成し、数日後に帝国議会での最終議決を待つばかりとなっていた。可決は、もはや疑いようのない事実だった。


その議決を控えた、ある夜。

首相官邸の私室に、再び、三人の男が、静かに顔を合わせていた。石橋湛山、平沼騏一郎、東條英機。

日本の運命を、陰に陽に動かしてきた三頭政治の、最後の会合だった。


テーブルの上には、最終草案の分厚い冊子が置かれている。その傍らで、湛山は、穏やかな、しかしどこか寂寥感を漂わせた表情で、二人に語りかけた。

「…長かったな。君たち二人には、本当に、骨の折れる仕事をさせてしまった」

その労いの言葉に、平沼も東條も、黙って耳を傾けていた。


「さて」と湛山は、姿勢を正した。「いよいよ、この草案も、議会を通り、新しい日本の礎となる。私の、宰相としての仕事も、これで終わりだ」

「…総理?」

東條が、鋭い目で湛山を見た。


「約束通りだよ」と湛山は、静かに笑った。「私は、明治憲法の時代と共に、身を引く。この古い時代の宰相が、いつまでも新しい時代の椅子に座り続けるのは、見苦しいだろう」

その言葉に、平沼と東條は、真に驚いた表情を浮かべた。彼らは、湛山の言葉を、政治的な駆け引きか、あるいは単なる謙遜と捉えていた節があった。しかし、湛山の瞳には、一片の迷いも、未練もなかった。


「総理、しかし、この新しい憲法のもとで、国を導くのは、あなたをおいて他に…」

平沼が、思わず口を挟む。

「いや」と湛山は、穏やかに、しかしきっぱりと首を横に振った。「私の役割は、火事場の火を消し、新しい家の設計図を描くことまでだ。この新しい家に、家具を入れ、家族の暮らしを営んでいくのは、君たちの仕事だ」


彼は、まず平沼に向き直った。

「平沼内相、この新しい憲法下の、初代内閣総理大臣として、国のかじ取りを頼みたい。法と秩序の番人である君こそが、この新しい国の、国内を固めるのに、最もふさわしい」


そして次に、東條の目を、真っ直ぐに見据えた。

「東條副総理、この新しい憲法の下で生まれ変わる、初代国防軍大臣として、国の守りを頼みたい。陸軍を、そしてこの国を、誰よりも知る君こそが、二度と、この国を過ちの道に進ませないための、最強の番人となれるはずだ」


内治の平沼、国防の東條。

それは、湛山が、自らの退場と引き換えに描いた、新しい日本の、権力継承の設計図だった。

自らが作り出した、二つの怪物。その二人に、国の未来を託す。それは、最後の、そして最大の賭けでもあった。


「…しかし、総理。あなたが去っては、我々を、誰がまとめるというのですか」

東條が、初めて、弱音とも取れる言葉を漏らした。思想も信条も違う自分と平沼。その二人を繋ぎ止めていたのは、石橋湛山という、奇妙な触媒の存在だった。


「まとまる必要など、ないさ」

湛山は、楽しそうに笑った。

「これからは、君たちが、議会で、国民の前で、堂々と議論し、時には争えばいい。それが、この新しい憲法が目指す、国の姿なのだから。私は、一人の国民として、君たちの政治を、楽しみに見物させてもらうよ」


その言葉に、平沼と東條は、何も言えなくなった。

目の前の小柄な男は、権力の頂点に立ちながら、それを、あっさりと手放そうとしている。その無欲さに、あるいは、その底知れぬ胆力に、二人の権力者は、改めて畏敬の念を抱かざるを得なかった。


「頼んだぞ。二人の『鬼』に、この国の未来を託す」

湛山は、深々と、二人に頭を下げた。

それは、三人の男の、最後の密約だった。

権謀術数と、血の匂いに満ちた、奇妙な共犯関係の、終わりを告げる儀式だった。


数日後、帝国議会は、万雷の拍手の中、「帝国憲法改正案」を可決した。

その歴史的な瞬間のわずか数時間後、石橋湛山は、予告通り、天皇に辞表を提出し、宰相の座を去った。

彼の在任期間は、日本の歴史の中では、長いものではなかった。

しかし、その短い間に、彼は、この国の形を、そして運命を、根底から変えてみせた。


歴史の表舞台から、彼の名は、静かに消えていく。

しかし、彼が蒔いた種――言論の自由、国民の権利、そして、平和への渇望――は、新しい憲法という大地に、深く、広く、根を張っていく。


黄昏の宰相は去った。

そして、日本には、新しい朝が、訪れようとしていた。

本編はこれで完結です。気が向いたらエピローグも投稿します。

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