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大命降下(2話中の1話目です。)

これはGeminiと対話して作った小説です。ほかの小説を読み込ませたりはしていません。

また、私は昭和史は全然詳しくないので、設定など間違えていたらすみません。

昭和十六年、夏。運命の拝謁


昭和十六年(1941年)七月、むせ返るような熱気が帝都を包んでいた。近衛文麿内閣は、日米交渉の暗礁と松岡洋右外相の独走の末、なすすべなく瓦解した。次期首班を巡り、政界と軍部は激しく揺れ動く。陸軍は強硬派の旗頭である東條英機陸相を強く推し、帝国の行く末は日独伊三国同盟を基軸とした南進、そして対米英開戦へと大きく傾きつつあった。誰もが、次は東條の時代だと信じて疑わなかった。


その日の午後、皇居・御文庫おぶんこ

内大臣、木戸幸一は、深い苦悩を顔に刻み、昭和天皇の前に平伏していた。

「木戸、近衛の次はどうなっておる」

静かだが、有無を言わせぬ重みのある声だった。

「はっ…。陸軍は一致して東條陸相を推しております。この時局、他に選択肢は…」

木戸が言い淀むと、天皇はゆっくりと首を横に振った。

「朕は、戦を望まぬ」

その一言は、部屋の空気を凍らせた。

「この国を、民を、破滅の淵に立たせてはならぬ。…木戸、そなたに頼みがある」

天皇は、木戸の予想を遥かに超える名を口にした。

石橋湛山いしばし たんざんを呼べ。彼に組閣を命じる」

「へ、陛下…!」

木戸は思わず声を上げた。石橋湛山。東洋経済新報の主幹として健筆を振るい、「小日本主義」を掲げて植民地放棄と国際協調を訴え続ける、在野の自由主義者。軍部からは国賊とさえ罵られる男である。

「しかし陛下、湛山では軍部が…財界さえも、到底収まりますまい」

「だからこそだ」

天皇は静かに続けた。

「今の日本に必要なのは、武力ではなく算盤そろばんだ。戦は最大の不経済であるという彼の言葉、それこそ真理ではないか。そして…」

天皇は一呼吸置き、驚天動地の策を告げた。

「軍を抑えるには、軍のかしらを側に置かねばならぬ。東條陸相には、副総理として湛山を支えさせよ」


火と、水。あまりにも危険な配合。しかし、それはもはや制御不能になりかけた帝国という機関車を、破滅の崖から引き戻すための、天皇の最後の賭けであった。


蝉しぐれが降り注ぐ宮城、吹上御苑。

モーニングコートに身を包んだ石橋湛山は、自分がなぜここにいるのか、まだ現実として受け止めきれずにいた。老練なジャーナリストの彼でさえ、頬を流れる汗を止めることができない。

鳳凰の間に通され、天皇の前に進み出ると、凛とした声が響いた。

「石橋湛山。そなたに、内閣組織を命ずる」

湛山は、雷に打たれたように身を固くした。政界の経験も、軍部への影響力もない自分に、なぜ。

「そなたの論説、朕は常に読んでおる。富国は、領土の広さにあらず、民の暮らしの豊かさにあり、と。その通りだ。この国が、道を踏み誤らぬよう、そなたの経済の知見で、民の暮らしを守ってくれぬか」

天皇の真摯な眼差しが、湛山の心を射抜いた。その瞳の奥に、民を想う深い憂いと、戦争を回避したいという渇望を見た。

「……」

声が出ない。国家の存亡という、あまりに重い責任。しかし、ここで退くことは、天皇の平和への願いを裏切ることになる。

湛山は、全身の力を込めて深く頭を垂れた。

「…御聖断とあらば。微力ながら、この一身を捧げる覚悟にございます」


その直後、入れ替わるように参内したのは、陸軍大臣の軍服に身を包んだ東條英機であった。その精悍な顔には、次期宰相としての自負が浮かんでいた。

だが、彼が天皇から受けた勅命は、彼のプライドを根底から打ち砕くものだった。

「東條英機。そなたには、石橋新総理を副総理として補佐し、陸軍をまとめてもらいたい」

「……!」

東條の背筋を、冷たいものが走った。石橋だと?あの、国家の気概を解さぬ軟弱な経済論者が総理で、この自分がその下につけと。屈辱と怒りで、全身の血が逆流する思いだった。

しかし、御前である。いかなる感情も、表情に出すことは許されない。「カミソリ」と評される鋭い顔を、極限まで硬直させる。

天皇は、その葛藤を見透かすように言葉を続けた。

「陸軍の力は、国を守るためにある。国を滅ぼすためにあってはならぬ。そなたの、朕への忠誠心を信じておる」

「忠誠心」――その言葉は、東條英機という軍人の存在そのものであった。勅命は絶対である。

「はっ…」

絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、嗄れていた。

「謹んで、大命を拝受いたします」


拝謁を終えた二人が、宮中の長い廊下で期せずして顔を合わせた。じりじりと照りつける西日が、磨き上げられた床に二人の影を長く伸ばしている。蒸し暑い空気が、彼らの間に流れる凄まじい緊張でさらに重くなった。


先に沈黙を破ったのは、新首相・石橋湛山だった。その声は穏やかだが、揺るぎない芯が通っていた。

「東條閣下。…いや、副総理殿。陛下の御心を体し、これより国家のため、共に力を尽くしていただきたい。よろしくお願い申し上げる」

そして、深々と頭を下げた。


東條は、値踏みするように、あるいは敵意を剥き出しにするように、その鋭い目で湛山を射抜いた。この小柄な経済学者が、帝国陸軍を擁する自分を本当に使いこなせると思っているのか。

やがて、短く、切り捨てるように言った。

「…総理の御命令とあらば」

その声には、抑えきれない敵意と、軍人としての矜持が滲んでいた。


湛山は、これから始まるであろう内閣という名の戦場で、陸軍という巨大な怪物とどう向き合うべきか、固く拳を握りしめた。

東條は、この国を「臆病者の道」に導こうとする宰相を、己の力でいかにして「正しき道」に戻すべきか、静かに思考を巡らせていた。




石橋内閣が発足して一か月。帝都に初秋の風が吹き始めた頃、大本営政府連絡会議は、もはや戦場そのものであった。議題は『帝国国策遂行要領』の見直し。すなわち、南部仏印進駐後の次なる一手、そしてそれに伴う国家予算の配分である。


「……故に、石油資源確保のため、蘭印らんいんへの武力行使は不可避! そのための追加予算を陸海軍に配賦されたし!」

海軍軍令部総長・永野修身が、地図を叩かんばかりの勢いで吠える。陸軍参謀総長・杉山元もそれに続き、南方作戦の重要性を熱弁した。彼らの背後には、銃後の窮乏など意にも介さぬ、純粋な軍事の論理だけがあった。


その激論の渦中にあって、首相・石橋湛山は静かに手元の資料に目を落としていた。分厚い予算案の書類と、彼自身がまとめさせた国民生活白書。そこに並ぶ数字は、帝国がもはや大規模な戦争を継続する体力を失っていることを冷徹に示していた。


「永野総長。結構な作戦計画ですが」

湛山はゆっくりと顔を上げた。その声は穏やかだが、会議室の隅々まで響き渡る。

「その作戦に必要な鉄と石油、そして兵士たちの食糧は、一体どこから湧いてくるとお考えか。戦は博打ではない。経済です。入りと出の計算が合わぬ」

「何を言うか! 皇国の威信を、商人の算盤で測る気か!」

「左様! 経済の論理で戦争が止まるなら、支那事変はとうに終わっておるわ!」

軍人たちの怒号が湛山に突き刺さる。統帥権は独立している。一介の経済学者が作戦そのものに口を出すことへの不快感が、剥き出しになっていた。


その間、副総理兼陸軍大臣である東條英機は、微動だにしなかった。

陸軍の将帥たちは、彼が当然、自分たちの側に立って宰相を論破するものと期待の眼差しを向ける。しかし東條は、石橋を睨むでもなく、同僚を援護するでもなく、ただただ虚空の一点を凝視していた。その「カミソリ」と評される鋭い顔は、一切の感情を削ぎ落とした能面のようだ。


陸軍にとって、その沈黙は裏切りに等しかった。

石橋にとって、その沈黙は脆く、危険な防波堤だった。

東條の沈黙は、会議の熱を奇妙に冷ます効果があった。陸軍のかしらが動かない以上、それ以上の強硬論は空回りする。会議はまたもや、結論の出ないまま散会となった。


陸相室に戻った東條は、苛立ちを隠しもせず、側近たちを下がらせた。

(あの男…! 予算、予算と、まるで金貸しのようだ!)

軍の士気、国家の威信、八紘一宇の聖業。それら全てを、湛山は冷たい数字の羅列に置き換えてしまう。陸軍内部からの突き上げは、日に日に激しくなっていた。「なぜ陸相閣下は、あの国賊宰相を諫めないのか」と。

だが、東條の脳裏には、拝謁の際の天皇の言葉が焼き付いて離れなかった。

『そなたの、朕への忠誠心を信じておる』

御聖断は絶対である。この身がどうなろうと、それを成し遂げるのが臣下の道。だが、そのために軍の首を絞める片棒を担ぐのは、耐え難い屈辱だった。


その夜、東條は首相官邸の執務室に呼び出された。

「総理、一体何のご用件か。また予算の話であれば…」

東條が不機嫌さを隠さずに言うと、石橋は静かに茶を勧めた。

「東條さん、まずは座ってください。今日はあなたに、私の本当の『算盤勘定』をお聞かせしたい」

二人きりの部屋。湛山は、まるで長年の同志に語りかけるように、穏やかな口調で切り出した。

「会議での私のやり方、腹に据えかねておられるでしょう。無理もない。しかし、私が作戦そのものに口を出せば、それは統帥権の干犯となる。軍を抑えるどころか、彼らに大義名分を与えてしまう。それは悪手だ」

東條は黙って聞いている。

「だから私は、彼らが最も厭がる『金』の話をするのです。しかし、あなたも分かっているはずだ。予算削減だけでは、いつか限界が来る。軍の暴発を招くだけの危険な綱渡りだ」


「では、どうなさるおつもりか!」

ついに東條の堪忍袋の緒が切れた。「これ以上の予算削減は、帝国陸軍を内側から崩壊させるに等しい! 陛下への忠誠と、軍を預かる者としての責任、その狭間で私がどれほどの思いでいるか、あなたに分かるか!」

激昂する東條を、湛山は静かに見つめていた。そして、一枚の書類をすっと彼の前に差し出した。

表題には『内務省管轄・警察予備隊設立要綱(案)』とあった。


「……これは?」

東條は怪訝な顔でそれに目を通す。そこに書かれていたのは、内務省の警察局の傘下に、小銃や機関銃で武装した数個師団規模の治安部隊を創設するという、前代未聞の計画だった。


「軍ではありません」と湛山は言った。「あくまで警察組織の延長。国内の治安維持、災害救助を主任務とする。故に、これは統帥権の埒外らちがいにある。内閣が、政府が、直接指揮できる『力』です」

東條の目が、カミソリのように鋭くなった。この男の真意を瞬時に悟ったからだ。

「…第二の陸軍を作るおつもりか」

「言葉が悪いですね、東條さん」湛山は少し笑みさえ浮かべた。「これは、陸軍がもし…万が一にも、政府の意向を無視して暴走しようとした時、それを国内で牽制するための『重石』です。そしてもう一つ、大きな狙いがある」


湛山は続けた。

「この組織を所管するのは、内務省。全国の知事と警察を束ねる、帝国最大の官僚組織です。彼らを、この計画で完全に我々の側に引き込む。内務省という巨大な防波堤を築けば、軍部もそう簡単には独走できなくなる。戦争回避という御聖断を成し遂げるには、軍と渡り合えるだけの、我々自身の『実力』が必要なのです」


それは、軍人である東條には到底思いつけない、あまりにも政治的で、権謀術数に満ちた策だった。統帥権という神聖な牙城を正面から攻撃するのではなく、その外側に、全く新しい権力の城を築こうというのだ。

東條はしばし絶句した。怒りと、そしてそれ以上に、この老練なジャーナリストの冷徹なリアリズムに対する、ある種の戦慄に近い感嘆を覚えていた。陸軍内部の過激派の突き上げに、彼自身も手を焼いていた。この「重石」は、見方を変えれば、自分が陸軍を完全に掌握するための道具にもなりうる。


「……」

東條はすぐには答えなかった。ただ、目の前の男の顔をじっと見つめる。そこにあるのは、単なる平和主義者の理想論ではない。目的のためには、いかなる非情な手段も辞さない、政治家としての覚悟だった。


やがて東條は、低い声で呟いた。

「…御聖断のため、と」

「その通りです」と湛山は頷いた。「我々の目的は一つ。陛下にご安心いただくこと。ただ、それだけだ」


東條は立ち上がり、書類を湛山に突き返した。

「……持ち帰り、検討させていただく」

その言葉は、拒絶ではなかった。二人の間には、まだ陽の光の届かぬ深い溝が横たわっている。だが、その暗い水面下で、「戦争回避」という共通の目的を遂行するための、危険な共犯関係の絆が、確かに結ばれた瞬間だった。



首相官邸での東條との密会を終えた翌日、石橋湛山は霞が関の内務大臣室を訪れていた。そこには、湛山自身の強い推薦で入閣した、法曹界の重鎮、平沼騏一郎が座していた。枢密院議長の経験もある平沼は、国粋主義団体「国本社」を組織したこともある、紛れもない右派の巨頭である。その強権的な政治手法と国家主義思想に、自由主義者である湛山は生涯を通じて嫌悪感を抱いてきた。まさに思想的対極にいる男だった。


しかし、湛山の顔に個人的な感情の色は一切なかった。あるのは、一国の宰相としての、冷静沈着な仮面だけである。

「平沼男爵、お時間をいただき感謝いたします」

湛山が丁寧に切り出すと、平沼は値踏みするような視線を向けたまま、重々しく頷いた。

「石橋総理、直々のご訪問とは。して、ご用件は」

その声には、在野の経済学者上がりの首相に対する、隠微な侮りが滲んでいた。


湛山は単刀直入に本題に入った。東條に見せたものと同じ『警察予備隊設立要綱(案)』を、平沼の前に差し出した。

平沼は眉一つ動かさず、それに目を通す。その表情からは、内心の動揺を一切読み取ることはできない。

読み終えた平沼が、ゆっくりと顔を上げた。

「…ほう。これはまた、大胆なことをお考えになる」

その声は平坦だったが、湛山はその奥に潜む、権力への渇望と政治家としての鋭い嗅覚を感じ取っていた。


「男爵。私がなぜ、あなたという方を三顧の礼をもってお迎えしたか、お分かりのはずです」

湛山は、あえて対等な目線で語りかけた。

「今の日本は、病にかかっている。軍服を着た者たちが法を軽んじ、国家の統制を乱している。そして、その影で最もないがしろにされてきたのが、貴殿がその礎を築いてこられた、内務省の警察権力ではありませんか」


平沼の目が、わずかに動いた。湛山の言葉は、彼の最も触れられたくない、そして最も刺激される琴線に触れていた。特高警察を擁し、かつては帝国随一の権力機関と謳われた内務省も、二・二六事件以降、憲兵隊を擁する陸軍の台頭によってその権威を著しく失墜させられていた。軍の意向一つで、警察の捜査が妨害されることさえ珍しくない。それは、法治国家の守護者を自任する平沼にとって、耐え難い屈辱だった。


「この計画は、その失われた権威を、究極の形で取り戻すためのものです」

湛山の声に熱がこもる。

「統帥権に縛られぬ、内閣直属の準軍事組織。これを内務省の警察機構の頂点に置く。そうなれば、もはや憲兵隊ごときが口出しできる領域ではなくなる。内務省は、陸軍省と対等、いや、こと国内の統制においては、それを凌駕する力を持つことになる。これは、単なる権限拡大ではない。国家の秩序を取り戻すための、いわば『警察権力の復命』です」


湛山は畳み掛けた。

「そして、その復活した力で、内閣の『盾』となっていただきたい。五・一五、二・二六…。この国では、道理がテロによって覆されてきた。我々が日米開戦を回避しようとすれば、必ずや同様の動きが出てくる。狂信的な愛国者が宰相の命を狙う。その時、我々を守れるのは、軍隊ではない。貴殿が率いる、強大な警察力だけです」


平沼はしばし絶句していた。目の前の小柄な経済学者は、自分の権力欲と矜持を完璧に見抜き、それを最大限に利用しようとしている。しかも、その提案は抗いがたいほどに魅力的だった。陸軍への積年の鬱憤。失墜した警察権力の復活。それは、平沼騏一郎という政治家の、最後の野望を叶えるに等しい計画だった。


やがて、平沼は深く息を吐いた。

「…面白い。実に面白いことを考える」

彼は立ち上がると、窓の外に広がる帝都の街並みを見下ろした。

「陸軍の若造どもが、己の信義のみを振りかざし、国家の統制を乱す様は、私も目に余っていた。法を軽んじる者に、国を語る資格はない」

平沼はくるりと振り返った。その目には、老獪な政治家特有の、冷たい光が宿っていた。

「よかろう、総理。この平沼、不肖ながら、その計画に乗らせていただく。ただし、条件がある」

「と、申されますと?」

「この件は、水面下で、可及的速やかに進める。軍部に嗅ぎつけられる前に、骨格を作り上げる。設立の根拠法案は、私が腹心の官僚たちと極秘裏に練り上げる。総理は、とにかく予算の確保と、東條副総理を黙らせておくことに専念していただきたい」

それは、もはや単なる受諾ではなかった。計画の主導権を握るという、平沼の明確な意思表示だった。


「…承知いたしました。全て、お任せいたします」

湛山は深く頭を下げた。内心の嫌悪感など、国家の存亡の前では些事に過ぎない。目的のためならば、悪魔とさえ手を組む。それが、彼がこの修羅場で生き残るために下した決断だった。



平沼騏一郎という老獪な虎を味方につけた石橋湛山が次に向かったのは、霞が関の一角、赤い煉瓦造りの企画院庁舎だった。彼が会うべき相手は、企画院総裁、小林一三。阪急電鉄や宝塚歌劇団を一代で築き上げた、当代随一の実業家である。


総裁室は、他の官庁の重苦しい雰囲気とは一線を画していた。壁には趣味の良さを感じさせる絵画が掛けられ、調度品は無駄なく、洗練されている。主である小林一三は、柔らかな物腰で湛山を迎えた。その目には、政治家や軍人とは質の違う、物事の本質を瞬時に見抜く商人の光が宿っていた。


「総理、ようこそお越しくださいました。企画院に、何かご指導でも?」

軽やかな口調だが、その実、在野から来た新首相の実力を値踏みしているのが見て取れた。


「小林さん、私は経済の人間、あなたもそうだ。だから今日は、難しい理屈は抜きにして、率直な『商談』をしに来ました」

湛山の切り出しに、小林は興味深そうに眉を上げた。

「商談、ですか。総理大臣と企画院総裁の間に、一体どのような…」

「軍事予算です」

湛山は言葉を遮り、単刀直入に言った。

「私は、陸海軍の突出した予算を大幅に削減する。その捻出した資金で、この国に新しい事業を起こしたい。その計画の絵図を、あなたに描いていただきたいのです」


小林の表情が、わずかに引き締まった。国家総力戦体制の中核を担う企画院にとって、軍事予算の動向は最重要事項だ。

「…総理、お話は結構ですが、絵に描いた餅では腹は膨れませんな。軍が、そうやすやすと予算を手放すとお思いか。それに、軍需に依存している財界は、景気の冷え込みを懸念して黙ってはおりますまい」

それは、財界の利益を代弁する者としての、的確な指摘だった。


「無論、ただ予算を削るだけでは、国内は混乱するだけです」

湛山は、懐から一枚の走り書きを取り出した。それは、彼が徹夜で練り上げた、国家再建の青写真だった。

「削減した予算は、全て国内の産業振興とインフラ整備に回します。全国の鉄道網の電化と延伸、港湾設備の近代化、新たな水力発電所の建設…。戦争準備ではなく、国民の暮らしを豊かにするための投資です。これは、あなたの最も得意な分野のはずだ」


小林は黙って聞いている。その目は、湛山の言葉の裏にある真意を探っていた。


そして、湛山は一呼吸置き、最も重要なカードを切った。それは、彼自身の魂を売るにも等しい、苦渋の提案だった。

「そして…財界の皆さんには、大陸での事業に一層ご尽力いただきたい」

「…大陸、と申されますと?」

「満州です」

湛山の声は、わずかに苦渋に歪んだ。

「私の持論はご存知でしょう。植民地は速やかに放棄すべきだと、私はずっと主張してきた。しかし、今は理想を語る時ではない。国家の存続という、ただ一つの現実のために、私はあらゆるカードを切る覚悟です。満州国の鉄鋼業、朝鮮半島の地下資源開発…これらの権益を、政府は全面的に支援し、保護する。財閥の皆さんには、大陸で存分に腕を振るっていただきたい。これもまた、戦争に代わる、巨大な国家事業です」


小林一三は、雷に打たれたように目を見開いた。

「ほう…あの『小日本主義』の首相が、満州を。…これは驚いた」

彼は、目の前の小柄な首相を完全に見直していた。これは、理想に酔う学者ではない。目的のためには、自らの信条さえも取引の材料にする、恐るべき覚悟を持った政治家だ。

そして、実業家としての彼の頭脳が、猛烈な速さで回転を始めた。


戦争という、いつ終わるとも知れぬ不確定で巨大な赤字事業。

それに対し、国内インフラ整備と大陸の資源開発という、確実な利益が見込める黒字事業。

どちらが「商売」として魅力的か、考えるまでもなかった。


「…面白い」

小林は、初めて心からの笑みを浮かべた。

「実に、面白い『商談』ですな、総理。戦争という名の投機から手を引き、堅実な事業に投資を切り替える。経営判断としては、全くもって正しい」


彼は立ち上がり、湛山に手を差し出した。

「よろしいでしょう。この小林一三、あなたの商談に乗った。企画院の総力を挙げて、財界を説得し、この国の新しい事業計画をまとめてご覧に入れましょう。ただし…」

小林は、握手した湛山の手を強く握りしめた。

「必ず、軍事費を削減し、その予算をこちらに回していただきたい。それが、この契約の絶対条件ですぞ」

「お約束します」

湛山は、力強く頷いた。


総裁室を後にした湛山の胸には、複雑な思いが渦巻いていた。戦争回避という大義のため、また一つ、自らの魂のかけらを売り渡した。だが、これで「内務省」という盾と、「企画院・財界」という矛の一端を手に入れた。



あの計画を渡された夜、東條英機は麹町にある私邸の書斎で、一人、深い思索に沈んでいた。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った部屋で、彼の心を占めているのは、石橋湛山という得体の知れない宰相が示した、あの恐るべき計画――『警察予備隊設立要綱』だった。原本は、その危険性を察して、誰の目に触れることもないよう、自ら書斎の火鉢にくべて灰にした。だが、その内容は一字一句、彼の脳裏に焼き付いて離れなかった。


(…馬鹿げている)

最初はそう思った。この非常時に、内閣直属の新たな軍備など、夢物語だ。

予算はどこにある?

人員はどう確保する?

そして最も重要な、装備は?

日中戦争は泥沼化し、帝国陸軍でさえ前線への補給に四苦八苦しているのだ。人も、銃も、弾薬も、全てが払底している。退役将校をかき集めて指揮官に据えたところで、中身がなければただの張り子だ。石橋という男は、やはり現場を知らぬ素人か…。


東條は、苛立ち紛れに火鉢の灰をかき混ぜた。その時、ある考えが、まるで閃光のように彼の脳を貫いた。


――払底している?

そうか、払底しているからこそ、意味があるのか…!


彼の思考が、逆転した。

帝国全土が物資不足に喘いでいる。それは、陸軍とて例外ではない。だからこそ、数個師団規模とはいえ、最新の装備と十分な補給を持つ精鋭部隊が「国内」に忽然と現れたら、どうなるか?

それは、既存の陸軍にとって、無視できない巨大な存在感を放つはずだ。数では劣っていても、その「質」と「存在」が、強力な牽制力となる。首都近郊に、自分たちの意のままにならぬ実力組織が控えているとなれば、軽率なクーデター計画など、立てようがなくなる。


では、その人員と装備をどうするか?

東條の目が、カミソリのように鋭く光った。答えは一つしかない。

(…大陸だ)

満州に駐屯する関東軍、あるいは支那派遣軍の一部。治安維持や後方警備を名目に、比較的戦力に余裕のある部隊が存在する。それらを「本土防衛体制の再編」といった別の名目で、極秘裏に内地へ還送させる。そして、日本に上陸したその瞬間に、間髪入れずに「警察予備隊」として再編成するのだ。

陸軍の装備と兵員を、陸軍自身から「盗む」。

それは、陸軍を裏切る行為に他ならない。古巣を、自らの手で切り崩す禁断の策。


東條は立ち上がり、窓の外に浮かぶ月を見上げた。

拝謁の日の、天皇の言葉が蘇る。

『そなたの、朕への忠誠心を信じておる』


自分は何者か。陸軍の代弁者か。否。

大命を拝受した、陛下の副総理である。

陸軍の面子か、陛下の御心か。どちらを奉じるべきか、もはや迷いはなかった。


「…お受けしよう、石橋総理」

東條は、誰に言うともなく呟いた。その声には、巨大な組織を敵に回す覚悟と、歴史の歯車を自らの手で回すという、凄絶な決意が込められていた。

もはや彼は、陸軍の東條ではない。天皇陛下の戦争回避という至上命令を遂行するための、冷徹な執行者として、腹を括ったのだ。


同じ月が、平沼騏一郎の屋敷も静かに照らしていた。

老練な内務大臣もまた、書斎で一人、同じ計画を前に腕を組んでいた。彼の思考もまた、東條と同じ壁に突き当たっていた。

(計画は良い。だが、肝心の中身がない。警察官に小銃を持たせたところで、陸軍の戦車には敵わぬ)


平沼は、法と秩序の人間だ。軍事の専門家ではない。しかし、彼は権力の力学を知り尽くしている。力がなければ、正義は通らない。この計画を絵に描いた餅で終わらせないためには、陸軍に匹敵する「実体」が必要だった。

彼は、内務官僚時代に培った情報網を思い浮かべた。全国の警察署長、知事、そして満州や朝鮮に渡った内務官僚たち…。

ふと、彼の脳裏に、満州国の治安部で辣腕を振るう腹心の部下の顔が浮かんだ。その部下から送られてきた報告書の一節が、記憶の底から蘇る。


『…関東軍の一部部隊、治安維持任務の長期化により士気低下顕著。内地への帰還を望む声多し…』


その瞬間、平沼の思考回路が繋がった。

東條が軍人の視点から辿り着いた結論に、平沼は官僚の視点から辿り着いたのだ。

(…いる。大陸には、動かせる兵がいる)


陸軍の内部事情までは分からぬ。しかし、これは使える。石橋総理と東條副総理に、この「札」を切らせるのだ。大陸からの部隊の「転用」。これならば、国内で一から部隊を編成するより、遥かに速く、秘密裏に事を進められる。そして何より、その部隊の指揮権と人事権を、陸軍省ではなく、内務省が掌握するのだ。それは、警察権力の究極の復活を意味する。


平沼の口元に、冷たい笑みが浮かんだ。

「…東條も、同じ結論に至っておるはずだ」

老獪な政治家は、権力者の思考を手に取るように理解できた。おそらく明日にも、東條か石橋が、この策を携えて自分の元へ来るだろう。


同じ夜、同じ月を見上げ、二人の男が同じ結論に達していた。

一人は、陛下への忠誠のために。

一人は、法の秩序と自らの権力のために。

彼らの心は決して交わらない。だが、その向かう先は、奇しくも一点で重なった。石橋湛山という異分子が投じた一石は、帝国の最も危険な二つの権力を、密かに、しかし確かに、一つの目的に向かって動かし始めていた。




翌朝、大本営政府連絡会議が開催される小一時間前。首相官邸の奥にある、小さな応接室。窓の外はまだ薄暗く、帝都は夜のしじまから目覚めようとしていた。

その部屋に、三人の男が顔を揃えていた。

首相・石橋湛山。

副総理・東條英機。

内務大臣・平沼騏一郎。

帝国を動かす三つの権力の頂点が、公式の記録には決して残らない会合のために集まったのだ。部屋の空気は、張り詰めた糸のように緊張していた。


最初に口火を切ったのは、この会合を呼びかけた石橋湛山だった。

「お二人とも、早朝よりご足労いただき感謝いたします。本日の連絡会議は、再び荒れるでしょう。その前に、我々の足並みを揃えておきたい」

湛山は、東條と平沼の顔を順に見つめた。二人の表情は硬く、何を考えているのか窺い知ることはできない。


沈黙を破ったのは、副総理の東條英機だった。彼は、まるで不要なものを切り捨てるかのように、短く、しかし重い言葉を放った。

「総理、昨夜一晩考えた。例の計画、乗りましょう」

その一言に、部屋の空気がわずかに揺れた。

「ただし」と東條は続けた。「絵に描いた餅では意味がない。問題は、その中身だ。予算、人員、そして何より…」

東條は言葉を切り、湛山の目をまっすぐに見据えた。

「『実弾』です。兵士に渡す小銃、機関銃、それを撃つための弾薬。これを用意できなければ、全ては机上の空論に終わる」


その言葉を待っていたかのように、平沼が重々しく口を開いた。

「東條君の言う通りだ。制度だけ作っても、張り子の虎では軍は抑えられん。法を執行するためには、力が必要だ」

二人の視線が、暗に湛山を問い詰める。経済は専門でも、軍事の現実は分かっているのか、と。


だが、湛山は動じなかった。彼は静かに頷き、東條に向かって言った。

「その『実弾』について、あなたに腹案がおありなのではないですか、副総理」

探るような、しかし全てを見透かしたような湛山の問いに、東條の眉がピクリと動いた。そして、観念したように短く答えた。

「…大陸の部隊を、動かす」

その言葉に、平沼の目が鋭く光った。やはり、と思っているのが見て取れる。


東條は続けた。

「私が、責任をもって、装備と人員を揃えましょう。これは陸軍にしかできぬことです。ただし、それは陸軍を欺き、古巣を裏切る行為に他ならない。私の首が飛ぶだけでは済まないかもしれん」

その声には、悲壮な覚悟が滲んでいた。


「だからこそ、三本の矢が必要なのです」

湛山が、静かに、しかし力強く言った。

「東條さん、あなたが最も困難な『人』と『物』を揃えてくださる。その覚悟、確かに受け取りました。ならば、残りの二本は、我々が担う」


湛山は、自らの胸を指した。

「私は『予算』を確保する。来るべき縮軍予算の編成において、必ずや警察予備隊設立のための巨額の資金を捻出してみせる。これは、私の戦場です」

次に、彼は平沼に向き直った。

「そして平沼男爵。あなたには、この計画の根幹となる『制度』を固めていただく。誰にも気づかれぬよう、法案を練り上げ、内務省という巨大な組織を完全に掌握し、受け皿を準備していただきたい。これは、あなたにしかできぬ仕事です」


予算の石橋。

実力の東條。

制度の平沼。


三人の役割が、明確に定められた瞬間だった。思想も信条も、目指す国家像も全く違う三人が、「戦争回避」というただ一つの目的のために、それぞれの専門分野で全責任を負う。それは、帝国の運命を賭けた、危険極まりない共同事業の始まりだった。


東條が、最後の確認のように言った。

「縮軍予算が公表されれば、軍の反発は頂点に達する。その瞬間に、間髪入れず、この警察予備隊を発足させねばならん。少しでも時機を逸すれば、我々は国賊として、狂信者たちの凶刃に倒れることになる」

「承知している」と平沼が応じた。「そのための準備だ。抜かりはない」


「では、決まりですな」

湛山が、確認するように言った。

「これより我々は、水面下で動く。表向きは、それぞれの立場で議論し、時には対立さえするでしょう。しかし、我々の腹の内は一つ。来たるべき日に備え、この密約を断固として遂行する」


三人は、無言で頷き合った。握手もなければ、同志的な言葉もない。ただ、互いの目の中に、それぞれの覚悟と、後戻りのできない道を進む者だけが共有する、冷徹な光を見た。


やがて、会議の開始を告げる時計の音が響き始める。

三人は静かに立ち上がり、何事もなかったかのように応接室を出て、それぞれの持ち場へと向かった。

これから始まる連絡会議で、彼らは再び、予算を巡って激しく対立するはずだ。しかし、その水面下では、帝国の歴史を根底から覆す巨大な歯車が、静かに、そして力強く回り始めていた。



秋の気配が深まり始めた九月中旬。しかし、首相官邸の大会議室だけは、連日、真夏のような熱気に包まれていた。大本営政府連絡会議の議題はただ一つ――八月以来、帝国の喉元に突き刺さったままの棘、『帝国国策遂行要領』の扱いである。


「…故に、本要領に定められた十月上旬という交渉期限は、帝国の覚悟を示す生命線である! これを反故にすることは、対米交渉の打ち切り、すなわち開戦の決意を鈍らせるものに他ならん!」

海軍軍令部総長・永野修身が、赤い顔で声を張り上げる。その隣では、陸軍参謀総長・杉山元が、まるで石像のように固い表情で何度も頷いていた。彼らにとって、この要領はもはや聖典だった。外交努力に見切りをつけ、戦争へと舵を切るための、絶対の拠り所である。


その激しい主張を、首相・石橋湛山は冷めた目で見ていた。

「永野総長。その要領が決定されたのは、私の内閣が発足する以前のこと。前内閣の置き土産に、国家の未来を縛られるわけにはいかない」

湛山の声は静かだが、その内容は軍部への明確な挑戦状だった。

「加えて、去る九月六日の御前会議を思い出していただきたい。陛下が、祖父君・明治天皇の御製ぎょせいをお詠みになり、平和を強く望まれた、あの御心を。我々臣民が奉ずるべきは、紙に書かれた条文か、それとも陛下の御心か。答えは明白であろうと私は思う」


「詭弁だ!」

杉山が、テーブルを叩かんばかりに叫んだ。「御心は御心、国策は国策である! 外交交渉が不調に終わった場合に備え、『戦争ヲも辞セズ』と決断したのは、陛下ご臨席の御前会議ではないか!」


会議は、出口のない迷路に迷い込んでいた。軍部は「国策」という錦の御旗を振りかざし、一歩も引かない。湛山は「御聖慮」と「新内閣の方針」を盾に応戦する。それは、堂々巡りの泥仕合だった。


この紛糾の中で、最も奇妙な立ち位置にいたのが、副総理の東條英機だった。

陸軍の将帥たちは、当然、かつての陸軍大臣であり、現副総理が自分たちの側に立って宰相を叱咤するものと期待していた。しかし、東條はただ腕を組み、目を閉じ、沈黙を守り続けていた。時折、海軍側の勇ましい発言に、同意するかのように小さく頷く素振りを見せる。だが、決して決定的な援護射撃はしない。その曖昧な態度は、陸軍の苛立ちを増幅させた。

「東條閣下! なぜ黙っておられるか!」

痺れを切らした若手参謀が声を上げたが、東條は薄目を開けて彼を睨みつけるだけで、何も答えなかった。


平沼内相もまた、老獪に立ち回っていた。

「うむ…軍の皆さんの憂国のお気持ちも分かる。しかし、石橋総理の申される通り、陛下の御心を軽んじるわけにもいくまい。」

彼は、どちらの側にも与しない、思わせぶりな発言を繰り返す。その真意は誰にも読めず、ただ議論を混乱させるだけだった。


会議室の中央には、天皇陛下の玉座が置かれている。主のいないその玉座が、まるでこの国の空虚な権力構造を象徴しているかのようだった。その玉座の前で、臣下たちは互いに罵り合い、己の正当性を主張し続けている。


連日の紛糾。時間だけが、刻一刻と過ぎていく。

十月上旬という「期限」は、まるで時限爆弾のタイマーのように、カチ、カチ、と音を立てて日本を破滅へと近づけていた。

湛山は、内心、焦燥感に駆られていた。警察予備隊の設立準備は、平沼と東條が水面下で進めているとはいえ、まだ形にはなっていない。予算を動かせるのは、来年四月の新年度予算からだ。それまで、何としても時間を稼がなければならない。この『帝国国策遂行要領』を空文化させ、時限爆弾の信管を抜かなければ、全ての計画が水泡に帰す。


会議が終わり、疲れ果てた閣僚たちが退出していく中、湛山、東條、平沼の三人が、偶然を装って廊下で言葉を交わした。

「…ラチがあきませんな」

湛山が、吐き捨てるように言った。

「あの者たちは、もはや戦争という麻薬に酔っている。道理は通じん」

「時間稼ぎにも限界がある」と平沼が応じた。「どこかで、流れを断ち切る一手を打たねばならん」

三人の視線が、黙して語る東條に集まった。

やがて、東條が低い声で呟いた。

「…一つ、手がある。ただし、これは劇薬だ。あなたと、そして…陛下ご自身にも、相当なご覚悟をいただくことになる」


その言葉に、湛山と平沼は息を呑んだ。東條の鋭い目には、この膠着状態を破壊するための、危険な光が宿っていた。

彼らがこれから踏み込もうとしているのは、もはや単なる政策論争ではない。国家の根幹を揺るがす、クーデターにも等しい領域だった。

秋の日は短く、官邸の廊下には早くも夕闇が忍び寄っていた。




夕闇が官邸の廊下を支配し、三人の影を濃く引き伸ばしていた。東條英機が放った「劇薬」という言葉の響きが、重く冷たい空気となってその場に留まっている。

石橋湛山と平沼騏一郎は、息を詰めて東條の次の言葉を待った。


東條は、周囲に人影がないことを確かめると、声を極限まで潜めて語り始めた。その内容は、あまりにも常軌を逸しており、聞いている二人の背筋を凍らせるのに十分だった。

「…連中を、暴発させるのです」

「暴発…だと?」平沼が、信じられないという顔で問い返した。


「左様」東條は、無感情な声で続けた。「陸軍内の主戦派、特に参謀本部の過激な若手どもは、石橋総理の存在そのものが我慢ならんのです。十月という期限が迫るにつれ、彼らの焦りは頂点に達する。そこを、私が突く」

東條は、自らが描く恐るべき謀略の筋書きを、淡々と、しかし克明に語り始めた。

「私が、極秘裏に彼らの首魁に会う。そして、こう囁くのです。『石橋ではダメだ。このままでは聖戦の機会を逸する。十月までに奴を排除せよ。そうすれば、次の大命は必ずこの東條に下る。私が総理となり、即時開戦を断行する。陛下の内諾も、すでに取り付けてある』と」


「な…!」

湛山は絶句した。それは、自らを「餌」として差し出すに等しい行為だ。そして何より、天皇を謀略の道具に使うという、不敬の極みであった。


「畏れ多いこととは承知しております」

東條は、湛山の動揺を見透かしたように言った。

「しかし、連中を完全に信用させ、決起させるには、それ以外の方法はない。彼らは、陛下の御名と、私という陸軍の巨頭が後ろ盾にあると信じ込み、必ずや動くでしょう。おそらくは、第二の二・二六事件のような形で…」


東條は一呼吸置き、計画の最も重要な部分を口にした。

「そして、彼らが決起した、その瞬間。ここからが本番です。平沼大臣には、全警察力を動員して官邸と主要官庁を固めていただく。同時に、海軍にも協力を要請し、横須賀から陸戦隊を即時出動させる。彼らは陸軍の暴走を快く思っていない。必ず動きます」

「…鎮圧する、というわけか」平沼が低い声で言った。

「それだけでは足りません」

東條は首を横に振った。

「最も重要なのは、彼らが決起した直後、畏れ多くも、陛下から『反乱軍は朝敵である』との詔勅しょうちょくを、即座に賜るのです。総理、これこそが、あなたにご覚悟をいただきたい点だ。事前に陛下にご説明申し上げ、この国家を救うための苦渋の策であるとご理解をいただく必要がある」


朝敵――。その言葉が持つ、絶対的な重み。

天皇に刃向かう者として認定されれば、いかなる大義名分も消し飛ぶ。軍内部で燻っている同調者たちも、もはや彼らに与することはできない。反乱は、大義を失い、孤立し、数時間のうちに鎮圧されるだろう。


「そして…」

東條は、冷徹な声で締めくくった。

「この反乱を口実に、連座した者どもを一網打尽にする。決起した将校はもちろん、彼らを裏で煽り、計画を黙認した参謀本部の者たち…杉山参謀総長や、永野軍令部総長クラスまでも、監督責任を問い、更迭する。帝国陸海軍の主戦派は、この一日で、その頭脳と中枢を完全に失うことになります」


それは、反乱鎮圧に名を借りた、国家権力による粛清だった。毒を以て毒を制す、あまりにも危険な賭け。もし失敗すれば、国は内乱状態に陥り、三人は間違いなく逆賊として歴史に名を刻むことになる。


しばし、重い沈黙が廊下を支配した。

湛山は、自らの額に冷たい汗が滲むのを感じていた。ジャーナリストとして、自由主義者として、彼は権力による謀略を誰よりも嫌悪してきた。しかし、今、宰相として、この国を破滅の淵から救うために、その最も忌むべき手段に手を染めようとしている。

だが、他に道はあるのか? 連日の会議が、道理の通じぬことを証明している。時限爆弾の針は、止まらない。


やがて、湛山は覚悟を決めた。

「…分かった。その劇薬、飲もう」

彼の声は、わずかに震えていた。

「陛下へのご説明は、私が全責任をもって行う。この国を救うため、鬼にもなると」

次に、平沼がゆっくりと頷いた。

「面白い。法治国家の回復のため、法を逸脱した手段を用いるか…皮肉なものだな。だが、やるしかない。警察と海軍への連携は、私が請け負おう」

三人の間に、暗黙の合意が成立した。

彼らは、もはや単なる閣僚ではない。国家の存亡を賭けた、共犯者となった。

東條が、最後に念を押すように言った。

「これは、我々三人のみぞ知る、絶対の秘密です。一言でも漏れれば、全てが終わる」



九月も下旬に差し掛かったある日の午後。平沼騏一郎内務大臣は、公務を離れ、一台の黒塗りの車で横須賀へと向かっていた。表向きは、海軍の施設視察と、海軍首脳との懇談。しかし、その真の目的は、帝国の運命を左右する、極めて繊細な根回しにあった。


数日前、平沼は海軍省に海軍大臣・及川古志郎を訪ねていた。大臣室で、彼はわざとらしく溜息をつきながら、こう切り出した。

「及川大臣…。いやはや、連日の会議、ご苦労様です。私も石橋総理には、もう少し軍備の重要性をご理解いただきたいと、再三申し上げているのですが…」

平沼は、まるで湛山内閣の頑迷さに頭を悩ませる同志であるかのように振る舞った。

「特に、これからの時代、国家の生命線を守るのは海軍力です。私も予算の配分については、海軍にこそ手厚くすべきだと考えております。ですが、いかんせん、陸軍の面々が、あれでは…」

言葉を濁し、困り果てた表情を作る。


及川は、大角人事と呼ばれた派閥争いの末に大臣の座に就いた、政治的には穏健派とされる人物だ。彼は、陸軍の独善的な振る舞いに辟易しており、平沼の言葉に深く頷いた。

「内相閣下のお言葉、実に心強い。我々としても、国力の限界を無視した無謀な南進には懸念を抱いております。身内の恥をさらすようだが、海軍内でも軍令部が声高で…」

「でしょうな」と平沼は相槌を打った。「だからこそ、及川大臣。どうか、もう少しだけ、時間を稼ぐのにお力添えをいただきたい。九月末まで、何とか議論を引き延ばし、結論を先送りできれば、私も総理を説得する時間的余裕が生まれる。その暁には、来年度予算で、必ずや海軍のご期待に応えましょう」


予算という甘い餌。そして、陸軍、そして省を無視して暴走する参謀本部への共通の不満。及川は、平沼の提案に悪い気はしなかった。海軍としても、対米開戦には慎重論が根強く、時間の猶予は望むところだった。


この地ならしを終えた上で、平沼は横須賀に向かったのだ。

彼の真の目的は、横須賀鎮守府司令長官、嶋田繁太郎大将に会うことにあった。嶋田は、海軍大学校を首席で卒業したエリートであり、謹厳実直、陛下への忠誠心も篤いと評判の人物だ。そして何より、政治的な動きには極めて慎重で、口が堅いことで知られていた。


長官官舎の、潮の香りが漂う応接室。平沼は、嶋田と二人きりで向き合った。

平沼はまず、内務大臣として、国内の治安情勢について憂いを語った。

「…嶋田大将。最近の帝都の空気は、実に不穏です。一部の狂信的な愛国者が、政府の方針に不満を抱き、不穏な動きを見せているとの情報が、私の元にも多数寄せられております」

内務省の警察力を使い、事前に情報を収集していることを、暗に匂わせる。

「万が一…万が一ですが、陸軍の一部が暴発し、帝都が混乱に陥るような事態が起きた場合、頼りになるのは、陛下に忠実な、規律正しい組織だけです」

平沼は、嶋田の目をじっと見つめた。

「その時、私は、内務省の警察力だけでは不十分だと考えている。国家の秩序を守るため、海軍のお力をお借りせねばならぬ場面が来るやもしれん」


嶋田は、眉一つ動かさずに聞いていた。しかし、その瞳の奥には、鋭い警戒の色が浮かんでいた。

「…内相閣下。それは、穏やかならぬお話ですな」

「あくまで、最悪の事態を想定しての話です。備えあれば憂いなし、と申しましょう」

平沼は、懐から一枚の地図を取り出した。それは、帝都の主要施設が記された地図だった。

「もし、首都で不測の事態が起きた場合、横須賀の陸戦隊が、このルートで官邸周辺と皇居を確保するのに、どれほどの時間を要しますかな? 夜間、あるいは早朝に、ひっそりと部隊を動かすことは可能か…」


嶋田の背筋を、冷たいものが走った。これは、単なる雑談ではない。平沼は、具体的な作戦行動について、自分の意見を求めている。その背後には、何かとてつもない計画があることを、彼は直感した。

しかし、平沼はそれ以上、計画の核心には触れなかった。

「もちろん、これは私の老婆心からの、単なる机上の演習です。ですが、大将。平時より、部隊を即応できる態勢を整えておくことが、いかに肝要か。お分かりいただけますな。いざという時、勅命が下ってから準備を始めるのでは、間に合わぬこともある」


勅命――その言葉に、嶋田は反応した。陛下からの命令とあらば、動かぬわけにはいかない。平沼は、その一点を巧みに突いてきた。

平沼は、嶋田に考える時間を与えるように、ゆっくりと立ち上がった。

「私は、この国が、法の支配を失い、暴力がまかり通る無秩序な状態になることだけは、断じて避けたい。そのためには、あらゆる備えをしておくのが、陛下にお仕えする者の務めだと信じております。…今日のお話は、どうかご内密に」


嶋田は、深く頭を下げ、平沼を見送った。

「…承知いたしました」

その一言が、何を意味するのか。平沼はあえて問わなかった。だが、嶋田繁太郎という男の性格を知り尽くしている彼は、これで十分だと確信していた。

嶋田は、決して自ら動くことはないだろう。だが、万が一の事態が起き、「勅命」という大義名分が与えられた時、彼は躊躇なく、そして完璧に、準備しておいた部隊を動かすだろう。


車中の人となった平沼は、横須賀の海に沈む夕日を眺めながら、静かに目を閉じた。

これで、外堀は埋まった。

あとは、東條が陸軍という名の火薬庫に、いつ、どのように火をつけるか。




九月の終わり、虫の音が秋の夜長を告げる頃。四谷の閑静な料亭の一室は、異様な熱気に満ちていた。集っているのは、陸軍参謀本部の佐官クラスを中心とした、血気盛んな主戦派の将校たち。彼らの不満と焦りは、今や沸点に達しようとしていた。


その上座に、泰然と座しているのは、副総理・東條英機その人であった。

部屋に入るなり、東條は深々と頭を下げた。

「皆、今宵は集まってくれて感謝する。近頃の会議では、私の立場のせいで、皆の期待に応えられず、心苦しい思いをさせている。本当に、申し訳ない」

その言葉には、真情がこもっているように聞こえた。陸軍の巨頭からの意外なほどの謙虚な態度に、将校たちの警戒心が少し和らぐ。


酒が注がれ、宴が進む。彼らの口から洩れるのは、石橋内閣への罵詈雑言と、日米交渉の遅々として進まぬ現状への苛立ちだった。

「副総理閣下! いったいいつまで、あのそろばん勘定しかできぬ宰相の言いなりになっておられるのですか!」

「左様! 十月の期限は目前ですぞ! このままでは、帝国は戦う前から米国に屈することになります!」


ひとしきり彼らの不満を聞き終えた後、東條は、重々しく口を開いた。部屋の空気が、一瞬で引き締まる。

「…皆の気持ちは、痛いほど分かる。この東條も、一日たりとも忘れたことはない」

彼は、ぐっと杯を干すと、声を潜めて続けた。

「先日、私は単独で陛下に拝謁する機会を得た。そして、この事態の切迫を、ありのままに言上した。外交交渉に、もはや時間はないこと。これ以上時をかければ、皇国は石油を断たれ、戦わずして滅びるであろうこと…」


将校たちは、固唾を飲んで東條の言葉に聞き入った。

「陛下も、深くご憂慮であった。そして、私にこう仰せられたのだ。『東條、そなたの思う通りにせよ』と…」

「おお…!」

部屋のあちこちから、驚きと興奮の声が上がる。それは、東條が仕掛けた、大胆不敵な嘘だった。しかし、陛下への絶対の忠誠を誓う彼らにとって、その言葉は天啓にも等しかった。


東條は、熱を帯びた彼らの目を見渡し、さらに核心へと踏み込む。

「しかし、事を起こすには、障害がある。言うまでもなく、石橋湛山だ。彼がいる限り、開戦の聖断は下らん。…彼を、排除せねばならん」

その直接的な言葉に、部屋の空気が凍りついた。それは、紛れもないクーデターの勧めだった。


一人の血気にはやる中佐が、身を乗り出した。

「閣下! 我々にお任せください! 第二の昭和維新を断行し、君側の奸を除きます!」

「待て、早まるな」

東條は、その動きを手で制した。

「事を大袈裟にする必要はない。目標は、湛山一人だけだ。人数は、多くなくてもいい。信頼できる、少数の精鋭で十分だ」

彼は、まるで作戦を授ける参謀長のように、冷静に続けた。

「首相官邸の警備は、手薄だ。特に、早朝にかけてはな。私の権限で、その時間帯の警備を、意図的にさらに緩めることもできる。…分かるな?」


将校たちの目に、狂信的な光が宿った。副総理自らが、内部から手引きをしてくれるというのだ。これほどの好機はない。


「…いつ、決行を?」

誰かが、震える声で尋ねた。

東條は、鋭い目でその男を射抜き、言った。

「期限は、九月末だ。十月に入ってしまっては、手遅れになる。それまでに、奴を排除する。そうすれば、次の大命は必ず私に下る。私が組閣し、十月上旬、帝国は満を持して、米英に宣戦を布告する」


それは、彼らにとって完璧なシナリオだった。全ての障害が取り除かれ、栄光への道が開かれているように見えた。彼らは、自分たちが歴史を動かす英雄になれると信じて疑わなかった。


東條は立ち上がり、最後のダメを押した。

「これは、単なる我々の私憤ではない。陛下の御心を体し、皇国を救うための、やむにやまれぬ義挙である。頼んだぞ」

そう言うと、彼は誰からの返事も待たず、足早に部屋を後にした。


料亭の外に出た東條の頬を、ひやりとした夜風が撫でた。背後から聞こえる、興奮した将校たちの声。彼は、自らの手で、最も危険な獣を檻から解き放ったのだ。

これから数日後、彼らは必ず動く。そして、その瞬間、東條は彼らを「朝敵」として討伐する側の指揮を執るのだ。


(許せ…)

東條は、夜空の月を見上げ、心の中で見えざる誰かに詫びた。

(これも全て、陛下のため、お国のためだ)

彼の顔には、自らの策の非情さに耐える、苦渋の色が深く刻まれていた。

四谷の夜は、裏切りと謀略の匂いを孕んで、静かに更けていった。





秋の長雨がようやく上がった、九月三十日の払暁。帝都がまだ深い眠りについている午前四時、麻布に駐屯する第一歩兵連隊の兵営が、にわかに動き出した。

東條の示唆通り、決起は「少数精鋭」で行われた。狂信的な青年将校に率いられた数百人の下士官兵が、武器庫を占拠し、実弾を装填した三八式歩兵銃を手に営門を飛び出していく。彼らの顔には、国家を憂い、君側の奸を討つという、歪んだ使命感が溢れていた。


彼らの目標はただ一つ、永田町の首相官邸。

トラックの荷台に揺られながら、彼らは「昭和維新の歌」を低く口ずさんでいた。東條副総理が内応し、陛下も我らの蜂起を是としておられる――その確信が、彼らの行動を大胆にさせていた。


午前五時前、首相官邸に到着。予想通り、官邸周辺の警備は手薄に見えた。彼らは何の抵抗も受けずに官邸を完全に包囲すると、隊長の「突入!」の号令一下、選抜された百名ほどの兵士が、銃を構えて官邸の正面玄関へと殺到した。


しかし、重い扉を蹴破った彼らが目にしたのは、想像を絶する光景だった。

そこに、宰相の姿はなかった。

代わりに、玄関ホールから階段、そして廊下の奥まで、おびただしい数の制服警察官が、盾を構え、抜刀した銃剣を手に、隙間なく立ち尽くしていたのだ。まるで、侵入者を待ち構えていたかのように。

「なっ…!?」

突入部隊の先頭にいた将校は、思わず足を止めた。話が違う。警備は手薄なはずではなかったのか。


その頃、首相官邸の二階、執務室。

石橋湛山は、コートを羽織っただけの姿で、静かに椅子に座っていた。窓の外から聞こえる兵士たちの怒号と、階下での衝突音。命の危機が、すぐそこまで迫っている。だが、彼の顔に恐怖の色はなかった。これは、全て計画された危機なのだ。

彼は、傍らに控える秘書官に冷静に告げた。

「侍従長に繋いでくれ。…時が来たと」


受話器を取った湛山は、緊張で震える声を抑え、侍従長に向かって語りかけた。

「…事態は、我々の想定通りに進んでおります。これより、平沼内相が反乱の鎮圧を開始する。つきましては、お約束通り、畏れ多くも、陛下に詔勅の発布を、即刻お願い申し上げます…!」


その電話と、ほぼ同時に。

平沼騏一郎は、内務省の一室に設置された臨時指揮所で、地図を睨みつけていた。官邸突入の報が入るや、彼は受話器に向かって、厳かに、しかし力強く命じた。

「時は来た! 全隊、計画通りに動け! 反乱軍を逆包囲し、一人たりとも逃がすな!」


その号令一下、事態は劇的に反転する。

首相官邸を包囲していた反乱軍は、自分たちが、さらにその外側を、数倍の規模の警察部隊に包囲されていることに気づき、愕然とした。警視庁の特別警備隊を中心に、近隣の警察署から動員された千人近い警察官が、路地という路地、建物という建物の陰から一斉に姿を現し、完璧な包囲網を完成させていたのだ。

「罠だ! 我々は嵌められた!」

誰かが絶叫した。


混乱は、瞬く間に伝播する。

さらに、彼らの絶望に追い打ちをかけるように、帝都の東の空から、重いエンジン音が響き渡ってきた。

前日深夜から基地移動の訓練と称して、帝都に向かっていた横須賀を出発した海軍陸戦隊の輸送部隊が、夜明けの空を突き進んでくる音だった。平沼からの連絡を受け、海軍大臣・及川が即座に出動を命令。嶋田長官の元、万全の準備を整えていた陸戦隊は、驚くべき速さで宮城へと向かっていた。


首相官邸内では、突入した兵士たちが、数に勝る警察官たちと乱闘を繰り広げていた。しかし、彼らの士気はすでに砕け散っていた。信じていたはずの副総理からの援護はなく、それどころか、自分たちは完全に罠の中にいる。


そして、午前六時。

ラジオから、厳粛なアナウンサーの声が、決起した兵士たちの耳に、死刑宣告のように突き刺さった。

『…臨時ニュースを申し上げます。本日未明、陸軍の一部将兵が、許可なく兵営を離れ、首相官邸を襲撃しました。これに対し、畏くも天皇陛下におかせられましては、彼らを勅命に背く朝敵と断じ、速やかに原隊に復帰するよう命じる詔勅を発布あそばされました。繰り返します。陛下は、反乱部隊を朝敵と断じ…』


朝敵――。

その一言が、彼らの最後の戦意を粉々に打ち砕いた。

銃を落とし、その場にへたり込む者。顔面蒼白となり、泣き崩れる者。

彼らの「義挙」は、開始からわずか二時間で、ただの「反乱」として、その幕を閉じた。

夜明けの光が首相官邸を照らし始めた頃には、大勢は、完全に決していた。





午前七時。夜明けの光が、首相官邸前の路上に散らばる小銃や軍帽を、無惨に照らし出していた。投降した反乱兵たちは、武装解除され、警察官の厳しい監視のもと、うなだれてトラックへと押し込まれていく。彼らの「昭和維新」は、あまりにもあっけなく終わった。


しかし、本当の戦いは、ここからだった。

首相官邸二階の執務室は、さながら新たな戦いの司令部と化していた。石橋湛山、平沼騏一郎、そして、何食わぬ顔で官邸に駆けつけた副総理・東條英機の三人が、顔を揃えていた。


「見事な手際だった、平沼君」

東條が、感心したように言った。その顔には、つい数日前に昨夜まで彼らと酒を酌み交わしていた将校たちへの憐憫の色など、微塵も浮かんでいない。

「いえ、これも全て、東條閣下が、連中を巧みに誘い出してくださったおかげです」

平沼もまた、老獪な笑みを浮かべて応じた。


湛山は、二人のやり取りを黙って聞いていた。自らの命を危険に晒し、謀略の片棒を担いだという事実に、まだ心の整理がついていない。だが、感傷に浸っている時間はなかった。

「…次の手筈は?」

湛山が問うと、平沼が待っていたとばかりに頷いた。


「はい。既に、手は打ってあります」

平沼は、手にしたリストを指でなぞった。そのリストには、陸軍省、陸海参謀本部の錚々たる高官たちの名が連なっていた。

「詔勅という、これ以上ない大義名分を賜りました。今や、反乱に与した者、あるいはそれを黙認し、国家を危機に陥れた者を断罪することに、いかなる躊躇も不要です」


平沼の指揮のもと、内務省と警視庁の精鋭部隊が、既に都内各所へと散っていた。彼らの手には、平沼が事前に準備させていた「国家反乱幇助容疑」での拘束令状が握られていた。


午前七時三十分、参謀本部、軍令部、東部憲兵隊司令部。

いつもと変わらぬ朝を迎えるはずだった庁舎に、突如、武装した警官隊が雪崩れ込んだ。彼らは、呆然とする当直の将校たちを脇目に、一直線に総長室へと向かう。

「杉山参謀総長! 平沼内務大臣の命により、国家反乱幇助の容疑で、ご同行願います!」

事態が飲み込めず、激昂する杉山に対し、警部が冷ややかに言い放った。

「部下の監督不行き届きにより、皇国を未曾有の危機に陥れた罪、お分かりのはずです。これは、陛下の御名においての拘束である!」

「陛下」と「反乱」という言葉を突きつけられ、杉山は抵抗する気力も失い、なすすべなく連行されていった。


午前八時、三宅坂・陸軍省。

陸軍大臣室にも、同様に警官隊が踏み込む。東條の後任として陸相の座にあった強硬派の大臣もまた、同じ容疑で身柄を確保された。


その粛清の嵐は、参謀本部次長、作戦部長、課長クラスといった、主戦論の中枢を担っていた将校たちにまで及んだ。彼らは、自邸や登庁途中で次々と拘束されていく。数日前に、東條と酒を酌み交わし、決起を誓った将校たちの多くも、この網からは逃れられなかった。彼らは、自分たちが信じていたはずの「後ろ盾」に、完膚なきまでに切り捨てられたのだ。


海軍省では、及川大臣が、この報を静かに聞いていた。彼らは、反乱鎮圧に協力はしたが、陸軍内部や軍令部の粛清にまでは関与しない。ただ、長年のライバルであった陸軍の中枢が、一日で崩壊していく様を、複雑な思いで見つめていた。


午前十時半、首相官邸。

拘束者リストの最後にチェックを入れ終えた平沼が、湛山と東條に報告した。

「…以上、主だった者、三十余名。全て、身柄を確保いたしました。これで、陸軍を中心とした主戦派は、当分、口を開くこともできなくなりますな」

その手際の良さ、容赦のなさ。湛山は、改めて平沼という男の恐ろしさを感じていた。


一夜にして、帝国の権力地図は劇的に塗り替えられた。

血は、首相官邸前で流された反乱兵たちのものだけで済んだ。しかし、水面下では、陸軍や軍令部という巨大な組織の首が、静かに、そして確実にもぎ取られていた。

『帝国国策遂行要領』は、それを推進すべき人間がいなくなったことで、もはやただの紙切れとなった。

石橋内閣は、最も危険な賭けに勝利し、戦争回避への道を、ようやく切り開いたのだった。しかし、その勝利が、謀略と粛清という血塗られた礎の上に築かれたものであることを、三人は決して忘れなかった。




一夜にして行われた電光石火の反乱鎮圧と陸軍や軍令部首脳の一斉検挙。そのニュースは、号外となって瞬く間に帝都の隅々まで駆け巡り、日本中を巨大な興奮の坩堝るつぼへと叩き込んだ。ラジオは一日中この話題を繰り返し、新聞各紙は社説でそれぞれの論陣を張った。


街角は、万華鏡のように入り乱れる世論の戦場と化した。


一つは、決起将校たちへの「同情と憤激」の声だった。

新橋の立ち飲み屋や、工場の休憩所。煙草の煙が立ち込める中で、労働者や退役軍人たちが、拳を振り上げて叫んでいた。

「あの若者たちは、国を憂いて立ち上がったんだ! それを罠に嵌めて朝敵呼ばわりとは、あまりに卑劣だ!」

「そうだ! 石橋という宰相は、米英に国を売り渡すつもりなんだ。それを止めようとした愛国者たちを、平沼の犬どもが捕らえやがった!」

これまで主戦論を煽ってきた新聞や雑誌は、検挙された将軍たちを「悲劇の英雄」として描き、彼らに同情的な論調を展開した。二・二六事件の時と同様、「決起の精神」を称賛する声は、国民の間に根強く存在していた。


それに対し、「朝敵を支持するのか」という強烈なカウンター世論も巻き起こった。

官公庁や大企業、そして多くの一般家庭。陛下への絶対の忠誠を疑わない人々は、詔勅の重みを何よりも尊んだ。

「理由がどうであれ、陛下に刃を向けたに等しい行為だ! 朝敵は朝敵、断じて許されるべきではない!」

「そうだ、国が乱れる元だ。政府の処断は当然だ!」

婦人会や在郷軍人会の一部からは、内閣を支持し、反乱分子の厳罰を求める嘆願書が、首相官邸や内務省に殺到した。彼らにとって、国家の秩序と、天皇の権威を守ることこそが、絶対の正義だった。


三つ目は、「石橋の陰謀だ」と決めつける、より冷徹な声だった。

大学のキャンパスや、知識人たちが集う喫茶店。彼らは、事件の裏に隠された権力闘争の匂いを敏感に嗅ぎ取っていた。

「これは巧妙に仕組まれた、石橋内閣によるクーデターだ。主戦派を炙り出して、一網打尽にするためのな」

「東條の動きが怪しすぎる。彼は明らかに裏で糸を引いている。これは、石橋、平沼、東條による三頭政治の始まりじゃないか?」

「結局、軍部の独裁が、内閣の独裁に変わっただけのことかもしれん。我々は、この先、もっと息苦しい時代を迎えることになるぞ」

彼らは、事件の表面的な善悪では語らず、その奥にある権力の構造変化を、不安と警戒の目で見つめていた。


そして、最も声は小さいながらも、切実な世論があった。それは、「戦争回避への最後の望み」をこの事件に見出す声だった。

空襲の恐怖や、息子を戦地に送ることへの不安を抱える市井の人々、そして、これ以上の国力消耗を避けたいと願う一部の経済人たち。彼らは、公然と口には出せないながらも、この事件に安堵のため息をついていた。

「これで、アメリカとの戦争は避けられるかもしれない…」

「難しいことは分からんが、うちの息子が、鉄砲玉にならんで済むなら、それでええ」

「石橋総理は、命がけで国を救ってくれたのかもしれない…」

この声は、他の大きな声にかき消されがちだったが、サイレント・マジョリティとして、確かに存在していた。


帝都は、熱に浮かされたように、様々な意見で沸騰していた。ある者は政府を国賊と罵り、ある者は救世主と讃えた。新聞は売れ、ラジオの聴取率は跳ね上がり、人々は来る日も来る日もこの事件について語り合った。

石橋内閣は、最も危険な賭けに勝利し、戦争への道を一旦は閉ざした。しかし、その代償として、国家の世論を真っ二つに引き裂いてしまった。

この激しい世論の対立と混乱こそが、彼らがこれから乗り越えなければならない、次なる戦場だったのである。




世論が激しい嵐のように吹き荒れる中、首相官邸では、粛々と、しかし決定的な政治日程が消化されていた。反乱から数日後、大本営政府連絡会議が、異様な雰囲気の中で再開された。


会議室の空気は、以前とは全く違っていた。

かつて、その声量と威圧感で会議を支配していた陸軍参謀本部の将帥たちの席は、空席が目立っていた。拘束された者、あるいは責任を取って謹慎中の者。彼らの不在は、陸軍という巨人の片腕がもぎ取られたことを、誰の目にも明らかにした。


陸軍は、この混乱の極みにあって、元陸軍大臣であり、長老格の寺内寿一元帥を、臨時の陸軍大臣代理として送り出すのが精一杯だった。老元帥は、憔悴しきった顔で席に着いていたが、その威光はもはや過去のものだった。陸軍内部の崩壊と、組織の立て直しに奔走する彼は、もはや政府の方針に正面から異を唱える力も、気力も残してはいなかった。


会議の冒頭、首相・石橋湛山は、静かに、しかし揺るぎない声で宣言した。

「先日の不祥事は、誠に遺憾の極みであります。しかし、我々は立ち止まるわけにはいかない。この国を、正しい道へと導く責任がある。よって、本日ここに、かねてより懸案となっておりました『帝国国策遂行要領』の白紙撤回を、正式に提案いたします」


その言葉に、誰も反論できなかった。

海軍大臣・及川古志郎は、静かに目を伏せている。彼は、この結論に異存はない。

企画院総裁・小林一三は、満足げに頷いていた。これで、軍需から国内産業振興へと、予算を振り向ける道が開ける。

そして、寺内寿一代理は、力なく首を縦に振るしかない。この要領こそが、反乱の遠因となったのだ。これを守り抜こうとすることは、陸軍の立場をさらに悪化させるだけだと、老元帥は痛いほど理解していた。


東條英機副総理が、ダメを押すように言った。

「この要領に固執することが、いかに国家に混乱を招いたか、我々は身をもって知った。これを破棄し、新たな国策のもと、日米交渉に粘り強く臨むことこそが、今、我々が取るべき唯一の道である」

その声には、有無を言わせぬ重みがあった。彼が、あの反乱を裏で画策した張本人であるなど、この場にいる誰もが知る由もなかった。


採決は、満場一致。

あれほどまでに紛糾を極めた『帝国国策遂行要領』は、その推進者たちと共に、歴史の舞台から静かに、そして完全に葬り去られた。十月上旬という、破滅への時限爆弾は、ついに停止したのだ。


その日の午後、皇居・御文庫。

緊急の御前会議が召集された。

重臣たちが居並ぶ中、内大臣・木戸幸一が、連絡会議での決定事項を昭和天皇に奏上した。

「…以上の経緯をもちまして、政府は、『帝国国策遂行要領』を正式に廃止することを決定いたしました。これをもって、対米交渉の期限は白紙となり、改めて平和的解決の道を探ることになります。ご裁可を賜りたく…」


天皇は、静かにその報告を聞いていた。その表情は、安堵とも、深い憂いともつかぬ、複雑な色を浮かべていた。一連の事件は、彼の意図した「戦争回避」を実現した。しかし、その過程で、臣下たちが血腥い謀略に手を染めたことを、彼はおそらく察していただろう。

やがて、天皇は、ゆっくりと、しかしはっきりと告げた。

「…よろしい。裁可する」


その一言で、全てが決定した。

石橋内閣の、最も危険な賭けは、最終的な勝利をもって幕を閉じた。

会議室を出た湛山は、皇居の森から吹き抜ける、乾いた秋風を全身に受けた。疲労は、極限に達していた。しかし、彼の心には、一つの大きな仕事を成し遂げたという、ずっしりとした手応えがあった。


道は、まだ半ばだ。

分裂した世論をまとめ、疲弊した国家経済を立て直し、そして、真の平和外交を成功させなければならない。その前途には、無数の困難が待ち受けているだろう。

だが、少なくとも、日本は破滅への崖っぷちから、一歩だけ、後退することができた。

湛山は、隣を歩く東條と平沼の顔を、ちらりと盗み見た。思想も信条も違う、水と油の男たち。この奇妙な三頭政治が、この先、この国をどこへ導いていくのか。

それは、まだ誰にも分からない。

好評なら後編を投稿します。

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― 新着の感想 ―
絶対に交わらない三種類の薬品が見事に混合しましたね。次はこの混合液の化学変化を見たいものです。 ただ、平沼は内務官僚の経験はまったくないのでここまで警察官を上手く使えるか疑問は残りますが。  おもしろ…
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