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ルベリーカは、食事の時間が嫌いだった。
広い食堂に響く最初の声は決まっているからだ。
「報告を聞いた。リアリフルール、フラバートリの魔法構築論を読み終えたと」
平たく無愛想な声は、けれども確かに喜色を浮かべている。
父親のわずかに上がる口角に気づき、ルベリーカは目を伏せた。
「しかも、家庭教師と本の内容について討論ができるらしいな。彼はえらく褒めていたぞ。お前の年で、あの本をたった一ヶ月で読めただけではなく、そこまで理解できる者はいないと」
「まあお父様。それは社交辞令というのですよ」
「そんなことはない。その証拠に、ルベリーカはもう何年もその前の段階で足踏みをしている」
ほらきた。
ルベリーカはうんざりした気分で前菜を眺める。
「あの、でもお父様。先生はお姉様のことも褒めていらしたわ」
フォローどころか飛び火にしかならないリアリフルールの言葉に、ルベリーカは舌を打つ。
三年前、家庭教師はたしかに十五歳のルベリーカを褒め称えた。「魔法史をたった二ヶ月で読破するなんて! お嬢様のような天才に出会えたことは教師人生の最高の贈り物です!」とそれはそれは大喜びだった。
煉瓦かと見紛う程にぶ分厚い、述べ二十冊にも及ぶ書物を、わずか十二歳で、それも数十日で読破したとリアリフルールの侍女が報告するまでは。
ルベリーカはもちろん、教師もすぐには信じられなかった。
「お嬢様、これは大人でも読破が難しい専門書なのですよ? その、失礼ですが……本当に……?」
「ごめんなさい。先生からいただいた課題は終わってしまって……お姉様のが見ていないときにこっそり……」
呼び出されたルベリーカは、恐る恐るといったように教師を見上げる。
教師は瞬いた。
「あの課題をもう……難しかったでしょう?」
「いいえ! 課題も、本もとてもおもしろかったです!」
リアリフルールは、パッと表情を明るくし、両手を上げて飛び跳ねた。
まるでお菓子を与えられた子どものように。
「では……お嬢様、フラバートリは魔法をどのように定義しているか、お答えできますか?」
「はい! 魔法とは自然を理解することであると唱えていました! 第五集、六九ページですね! 第三集までに触れられていた、はるか昔は自然現象のすべては神の御業とされ魔法が禁忌であったという背景を考えると、そこに至るまでの歴史に感動しました!」
「なんと……」
ルベリーカだってそれくらい答えられる。
答えられるが、ページ数まで答えられるだろうか。
ルベリーカはスカートを握った。
「先生、第八集からは魔法道具の歴史について記載されていましたが、フラバートリ自信が魔法道具を制作した話は最後まで出てきませんでした。あれだけ見識が広く発想力が豊かな方が、なぜ魔法道具をつくることはしなかったのでしょうか?」
「それはユニークな質問ですね。その秘密はベラトニーチェの魔法史論を読めば、お嬢様ならみえてくるかと。次回の授業の際に、リアリフルールお嬢様の分もお持ちしましょう」
「ほんとう?!」
「もちろんですとも!!」
「それじゃあ先生、次の質問なのですが」
手放しでルベリーカを称賛した教師はもう、どこにもいなかった。そこにあるのは、得意げな三つ下の妹と、「神童だ!」と妹に夢中になる男だけ。盛り上がる二人の眼中に、ルベリーカはいない。
「いい加減にしてよ! 今日はわたくしの授業の日のはずでしょう?!」
「ああ、申し訳ございませんお嬢様。いかがでしょう、せっかくですしお二人ご一緒に授業を受けられませんか?」
にこにこと両手を広げる教師に、二人は驚いて声を上げた。
「先生、わたくしの授業は来週では?」
「ええ。ですがリアリフルールお嬢様、あなたの理解度を考えると全く問題ありませんよ」
「嬉しい! 先生、ぜひお願いします!」
リアリフルールが、そうしてルベリーカと同じ内容の授業を受けることになり、そしてあっという間にルベリーカを置いていったのは、魔法についての座学だけではなかった。
あらゆる授業で、ルベリーカは取り残されたのだ。
リアリフルールが一日で終わらせる課題をルベリーカは一週間かけ、リアリフルールが数時間で理解できる論文をルベリーカは一週間かけ、リアリフルールが一度説明を聞いただけで使える魔法をルベリーカは何日もかけた。
当然、ルベリーカを天才と呼ぶものは一人もいなくなった。
「ルベリーカは、お前には遠く及ばん」
ため息を付く父親の姿をルベリーカが見飽きてしまって、さて、どれくらいになるだろう。
「お父様! ひどいわ! お姉様だって頑張っていらっしゃるのに!」
「ではリアリフルール、ルベリーカが今日、何を成したかお前は答えられるか?」
「それはっ……」
ルベリーカの眼の前に置かれた前菜の皿には、生ハムと野菜が盛られている。見た目は美しいが、使われている数種類の野菜の中には「ルセラ」という葉が堂々と鎮座し、「ピノア」という野菜が丁寧に飾られている。
ルベリーカはルセラの独特の苦みと青臭さが嫌いだし、ピノアの舌に残る酸味と潰れるときの食感が嫌いだ。コックもメイドも家族もそれを知っているはずだった。
ではなぜ、それらは今ルベリーカを見上げているのか? 答えは簡単だ。
「下げて」
ルベリーカは、壁際に立つメイドを睨みつけた。
「わたくしがルセラもピノアも嫌いだと知っているでしょう」
「申し訳ございません」
使用人は感情を表に出してはならない。
そんな事は知っている。けれど、少しも悪いと思っていない顔にかっときたルベリーカは、テーブルを打ち付けた。はずみでグラスが揺れ、テーブルから落ちていく。
「何よその態度!」
「ルベリーカ!」
「っ」
薄いグラスが割れる音に次いで、アブソイールの怒鳴り声が響いた。
「だってお父様! 使用人はみんな、わたくしがこの野菜を大嫌いだと知っているのよ!」
「くだらん! 好き嫌いごときで騒ぐなどお前はいくつだ!」
「……ごとき、ですって?」
たかが好き嫌いで、本当にそれだけでルベリーカが腹を立てていると、父親は本気で思っているのだろうか。そんな、年端もいかない子どものような真似をすると?
「ごめんなさいお姉様!」
「はあ?」
「わたくしがルセラとピノアのサラダを食べたいとジェフラにお願いしたの。ねぇ、だから怒らないで」
「なんですって?」
立ち上がるリアリフルールに、ルベリーカは皿を投げつけてやりたくなった。
自分の嫌いなものを出すなとそんなことで腹を立てる小娘だと、わざわざ大きな声で。涙を浮かべて。さも、正義のように、リアリフルールが言う。
「あんたっ……!!」
ルベリーカは、使用人の仕事に文句をつけたいわけではない。給仕はコックがつくった料理を運んだだけで、コックたちは考えたうえでメニューを決定している。そんなこと、わかっている。彼ら彼女らの仕事を軽んじているわけではないのだ。
「わたくしをどれだけ笑いものにすれば気が済むのよ!」
「ルベリーカ!!」
「っ! だって!」
ルセラとピノアは嫌いだ。嫌いだが、火を通せば食べられないことはない。それを知っている使用人たちは調理法に気をつけてくれていたのに。
──天秤にかけたのだ。
ルベリーカは、侯爵家の長女であるルベリーカは、使用人に、天秤にかけられたのだ。
リアリフルールのためのサラダをつくること。
ルベリーカのために一品だけメニューを変えること。
「ルベリーカ、お前がその程度の人間だということだ」
か、とルベリーカの頭が怒りで染まる。
ああ、とルベリーカは父親の冷えた眼差しに悟った。
アブソイールは、わかっているのだ。全て、全てわかったうえで言っている。
ルベリーカは今、天才でも侯爵令嬢でもなく、「その程度」の小娘なのだ、と。
「っ」
我慢できるはずがなかった。
部屋中の人間に笑われている気がして、ルベリーカは乱暴に立ち上がる。
「座りなさいルベリーカ! はしたない!」
母の声をルベリーカは鼻で笑った。
「まあお母様。先に立ち上がったリアリフルールには何もおっしゃらないから、これが我が家のマナーかと思いましたのよ」
「あ、あなた……!」
「母親になんて口をきくんだお前は! それで我が家の人間のつもりか?」
「ええ。みんながどう思っているのか、知りませんけれど」
けれど、ルベリーカはこの家の長女のつもりだった。
女が家督を次ぐことも珍しくない国に生まれ、立派な跡継ぎになれと育てられ、ルベリーカはそのつもりだった。
誰がどう思おうと、少なくとも、ルベリーカだけはそのつもりだったのだ。
下書きのまま更新した気になっていました。かなしい。
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