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「悪蛇が来ているではないか」
機嫌が悪そうな男の声に、ルベリーカはその視線を追った。
石膏像のように白い肌に、すっと通った鼻筋、眼鏡の奥の隙がない眼差し、見惚れるほどに長い手足。ルベリーカが見慣れない美青年は、けれども誰もが聞きなれた通り名の持ち主らしい。
悪蛇。
彼の領地に手を出す者は例外なくその手腕に絡めとられ、破滅を辿る。
ただ破滅するだけではない。誰もが眉をひそめるほど陰惨なやりくちに、フロウディスト・プラジュスト辺境伯には人の心がわからないのだ、と人々は彼を忌避した。
もっとも、フロウディストは王都から遠く離れた港街と海域を守る役割があるため、姿を現すことはごく稀であったが。その手腕と、日に焼けた者が多い地域にいるにもかかわらず浮世離れした容姿を失わない姿から、まるで蛇のようだと付いた名が──悪蛇辺境伯。畏怖の象徴であった。
「先日、あの男の領地で脱税をしていた貴族など当主は妻を殺して自殺、長兄は服毒し、娘は行方不明だと。それもこれも、あの田舎貴族の仕業だという」
「なんて惨いことを……。よくもまあ恥ずかしげもなく、王国祭に出席できたものだ」
「そういばその前も……」
噂話に興じる男たちを見て、「ひどいわ」と少女のような声が言う。
ルベリーカの妹、リアリフルールだった。
「辺境伯は悪を正しただけなのに。たしかに、やりすぎだとは思うけど……」
眉を下げるリアリフルーフに、父アブソイールが頷いた。
「やりすぎだ。貴族でありながら、貴族の恨みを買ってどうする」
「お父様、お言葉ですが貴族に限った話ではありませんわ。誰かの恨みを買う、誰かを不幸にする方法を当たり前にしてはいけないのです。貴族たるもの、万人の幸せのために尽力しなくてはならないと教えてくださったのはお父様ではないですか」
「アリィ……」
にこ、とリアリフルールは微笑んだ。
「平民と貴族、立場は違えど命の尊さは同じでしょう?」
「なんて優しい子なんでしょう……」
「アリィは本当に立派だね」
「もう、やめてお母様ディトス様! わたくし真面目に」
「わかっているよ」
何がだ。
イライラする気持ちを隠しきれず、ルベリーカは眉間に皺を刻んだ。
ルベリーカは、妹のこういうところが嫌いだった。
優しくて心美しくて愛らしく、両親に恐れなく進言できる正心を持った賢い少女。
立派なんだろう。ご立派でしょうとも。
ただどうにも、自分を正しいと信じて疑わない姿に、誰もが称賛する声に、ルベリーカはいつも自分が間違っていると指をさされているような気分になるのだ。
地声が大きいのも気に入らない。
わざわざ他の貴族にも聞こえる音量で美しい語りをしなくても良いではないか。
案の定、隣で何やら頬を染めた男がリアリフルールを見ている。
睨むルベリーカの視線に気づいた男が、途端に蔑むような視線を向けてくるので、ルベリーカは扇を開いた。
「何よ。あなた、どこの家門のどちら様? 随分な目じゃなくって?」
「っ……失礼する!」
踵を返す男をルベリーカは鼻で笑う。
ルベリーカ・カインロフは侯爵家の長女だ。ルベリーカの真っ赤な髪を見て反論できる者は多くない。
リアリフルールは人の命に貴賤はないと言うが、腹を立てた男がルベリーカに逆らえないのは階級があるからにほかならない。ルベリーカが男よりも爵位が低い家柄であったなら、さてどうなっていたやら。
「よりにもよって、目に見える形ではっきりと示されているこの場で言うことかしら」
笑うルベリーカに、リアリフルールは眉を下げた。
「では、お姉さまは目の前で、わたくしと平民の子が溺れていたとして、本当に迷いなくわたくしに手を伸ばせるの?」
「はあ?」
ルベリーカは眉を跳ね上げる。
まったくもって不愉快な質問であった。
「なぜわたくしが、お前を助けなければならないのよ。二人とも勝手にすれば良いんだわ」
「ルベリーカ!」
強い語調でルベリーカを呼んだのは、ディレイトス・ロエイブ。ロエイブ伯爵家の次男であり、ルベリーカの婚約者だ。
さっきまで顔をでろでろにした笑顔を向けていた、背後に庇うようにしているリアリフルールの、ではなく。
長女であるルベリーカの、カインロフ家に婿入りが決まっている婚約者で間違いはないのだけれど。
「君はなぜそうもアリィに冷たくあたるんだ」
「ディトス様、お姉さまを責めないで。お姉さまは、強くなければならないと説いていらっしゃるのよ。誰かに助けてもらおうだなんて、わたくしが浅はかだったわ」
「はっ!」
ルベリーカは勢いよく扇を閉じる。
言っていない。ちっともちょっとも言っていない。
勝手に人を善人にして、それに不快を示せばいとも容易く悪人に落とされる。
本人に悪気があろうがなかろうがどうでもいい。とにかくルベリーカは、リアリフルールのそういうところが嫌いなのだ。
「平民だなんだと身分を口にするから、偽善はやめろと言っているだけよ。あんた、辺境伯が平民出身だと知っていて言ったでしょう」
「ルベリーカ!!」
アブソイールの叱責する声に、ルベリーカは我に返る。
これこそ、この場でわざわざ言う事ではなかった。気付いたがもう遅い。言葉はルベリーカの口から転げ出し、父の神経を見事に逆撫でした。
「それ以上口を開くなら今すぐ出て行け」
はあ、とアブソイールは深い溜め息をついた。
「だから、悪たれ蠍令嬢などと嗤われるのだ」
「っ」
謝罪はしない。絶対に。
口を開くなと言われたから仕方がなかろう。ルベリーカは悪くない。
だって、ルベリーカは知っている。
いいや、誰もが知っている。それこそ口に出さないだけで、この場にいる人間どろこか平民だって知っている。
フロウディストが忌み嫌われているのは、わざわざ悪蛇と呼ばれているのは、彼が平民出身だからだと。
海賊の船に乗っていたという輝かしい経歴なんて、目を合わすことすらできないのだと。
知っていて口にしたのは、リアリフルールが先だ。
なぜ自分だけが叱られなくてはいけないのか。ルベリーカはそれが気に入らない。
いつだってこうだ。
リアリフルールの言葉は春のように人々の心を温め、ルベリーカの言葉は冬のようにルベリーカの心を凍えさせる。毒を吐くしか知らぬ、と誰も彼もルベリーカを責めたてる。
「ルベリーカ」
ルベリーカの気持ちなど知らぬ音楽隊が演奏を始める。王国祭が始まったのだ。
今すぐ帰りたいが、勝手に帰ろうとしても御者はルベリーカためだけに馬車を引かないだろう。
とどのつまり、ルベリーカは心底嫌そうに差し出された婚約者の手を取る他、できることは何もないということだ。
「今日は気に入らないご令嬢のドレスを踏まないでくれよ」
「あ、あれはわざとではありませんわ!」
ため息をつくディレイトスに、ルベリーカは声を上げた。
たしかに、こちらをみてクスクスと笑うどこぞのご令嬢は不愉快だったが、ダンスをしながらわざとドレスの裾を踏むなどと。そんな高等技術は、ルベリーカにはない。
「じゃあ何か? 君は、他のご令嬢とすれ違うこともまともにできないほど、ダンスが下手だとでも言うつもりかい」
「っ」
むろんもちろん、その通りだ。
大当たり大正解と叫んでも良いくらいに、その通りだった。
ルベリーカは、間違わないようにステップを踏むことで精一杯で、ディレイトスに置いて行かれないようにすることに必死で、そしてそれらを悟られないような顔で背筋を伸ばすだけでヘトヘトになる、ダンス大下手くそ令嬢なのである。
「だとしても、謝りもしない君の言い分なんて信じる気はないし、そもそも練習不足なことを恥じた方が良い」
「余計なお世話よ」
「だろうね」
ディレイトスはそう言って笑うと、ルベリーカの手を引く。
音楽に合わせて、あちこちから男女が集まりダンスが始まった。パートナーと見つめ合い、楽しそうに笑い合う二人を、ルベリーカは視界に入れないようにディレイトスを見上げる。
後ろに流した金色の髪、長いまつ毛、ルベリーカを決して見ることはない鮮やかな緑の瞳。
「……少しは、こちらを見てはどうなの」
初めて会ったとき、その緑の瞳はルベリーカを優しい色で見つめていた。
名乗り頭を下げる仕草は、ルベリーカと同じ十歳だと思えないほど優雅で、「大人みたい」とルベリーカは胸を高鳴らせた。頬を染めたルベリーカにディレイトスは優しく微笑み、互いの両親はどこか誇らしそうだった。
全てが完璧だった。
婚約者だと紹介されたあの日、ディレイトスはルベリーカの足元に跪き、ルベリーカの指先にキスを落とす真似をした。
あの瞬間、ルベリーカは世界で一番幸せなお姫様だった。
ルベリーカはたしかに、お姫様だったのだ。
「なぜ?」