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「ねぇねぇ、どっちが良い?」
フロウディストが両手に持つドレスに、ルベリーカは眉を寄せた。
右手にあるのは黒いドレスだ。レースと銀糸の刺繍が見事である。シルエットもため息が漏れるほどに美しい。
左手にあるのは赤いドレスだ。深い赤はとても品が良く、ルベリーカの赤い髪ともよく似合うだろう。
どちらも、とてつもない高級品でとてつもなくセンスが良い。
ルベリーカは口を開いた。
「どっちも嫌よ。あなた、本当にセンスがないのね」
「ありゃ」
違うかあ、とあっさり背を向けるフロウディストにルベリーカは唇を噛んだ。
この口が!!!!!!
着てみたい。着てみたいに決まっている。ルベリーカの好みを完璧に把握した、流行の最先端のドレス。喉から手が出るほど欲しいに決まっているではないか。
けれどもルベリーカはそれを口にできない。
ルベリーカの足には鎖があって、その相手はルベリーカを軟禁する変態で、平気で人の寝所や衣装部屋をウロウロする、ヘラヘラと笑う男で、だから──
「言い訳よ」
フン、とルベリーカはベッドに腰掛けた。
この部屋から出られないことも、付けられていることを忘れそうな身軽な鎖も、ルベリーカにとっては些細なことだ。
あのニヤケ顔だって正直、悪くないというか「まあ、綺麗だって、思わないことも、なくは、ない、ような、気がしないでもないわ」と思っていたりする。
つまりは、ルベリーカが素直になれないのはフロウディストに原因があるわけではない。
「……フロイだってそのうち、愛想を尽かすに決まっているわ」
残念ながら、これがルベリーカだ。
ルベリーカの唇は優しい言葉を紡ぐことが、たいそう苦手なのだ。
だから誰も彼もがルベリーカを乱暴だ我儘だと嗤い、涙し、哀れみ、そうしてルベリーカはいつだって一人だった。
フロウディストだってそのうちルベリーカのことが嫌になるに決まっている。そうして、ルベリーカは鎖に繋がれたまま忘れ去られ、一人この部屋で朽ちていくだろう。
それが恐ろしいからフロウディストに媚びを売る? 御冗談を。そんな器用な真似ができたなら、ルベリーカは今も生まれ育った家にいたに違いない。
「────こわくなんて、ないわ」
「何が?」
気づけば、視線が落ちていた。
黒い革靴が視界に入り込み、ルベリーカは顔を上げる。
丸い瞳が不思議そうに見下ろしてくるのに、ルベリーカは眉を寄せた。「なんでもないわ」そう言おうとして、「盗み聞きなんて下品な真似しないで」そう罵ろうとして、そして制止する。
「……………」
「これはさー、やっぱ違うよね? 俺ってやっぱセンスないかな?! 似合うと思うんだけど……」
その手にあるのは、真っ白のドレスだ。
ふわふわひらひら、フリルとレースが揺れる真っ白なドレス。丈は膝より少し下になるだろうか。身軽そうで、十八になるルベリーカにはあまりにデザインが幼い。
胸元の大きなリボンも、薄いピンクの刺しゅうも、何もかもがルベリーカのイメージと真逆だ。こんな可愛いだけのドレスが、ルベリーカに似合うだって? おまけに反対の手には揃いで誂えたかのような、花柄の白い靴まである。ああまったく。何をか言わんや。
わたくしに似合うわけないわ!
かっとなったルベリーカは口を開いた。
こんな恥ずかしい恰好ができるわけがないではないか!
「フロイのセンスの無さには呆れるわ! 仕方がないから着てあげてもよくってよ!!」
あ。
「わ! ほんと?!」
またやられた!
にこにこと楽しそうなフロウディストを前に、ルベリーカは項垂れる。
何を隠そう、このやりとりも毎日の光景であった。
気持ちが悪い事に。
まったくもって気持ちが悪い事に、フロウディストが揃えたドレスはどれもこれもルベリーカの好みとぴったりなのだ。その中でも特にルベリーカの心を掴んで離さないのは、このどうにも甘ったるいデザインのドレスたちであった。
だって! だって可愛いんだもの!!!!
フロウディストの気持ちが悪いところは、ルベリーカがこのドレスを前にして頷きやすい流れをつくりあげるところだ。
すんなり「着たいです」と言えないルベリーカの為に、まずは二枚のドレスを持ってくる。もちろん、ルベリーカの好みぴったりの二枚だ。そして、「やっぱり頷けば良かったかしら」とあっさり向けられた背中に後悔していている間に、ルベリーカの好みど真ん中のドレスを持って現れる。そんなものを着るわけがない、と返しやすい台詞とセットで。
するとどうだろう。
ルベリーカは言ってしまうのだ。
それを着てやる、と。
なんとまあ何処に出しても恥ずかしい、ひねくれ者だろうか。
つまりはフロウディストは、このひねくれ者の性格と趣味を完璧に把握したうえで、毎朝この無駄なやり取りをしているのだ。心底楽しそうに。じつに気持ちが悪い男だ。
「嬉しいなあ。さっきの、夜会で着ていたようなドレスもいいけどさ。明るい時間だし、ルビーはこういうドレスもさ、すっごい似合うじゃん。めっちゃくちゃ可愛いもんね」
ね、とニコニコ微笑まれてもルベリーカは唸るしかない。
悔しい。まんまと男の思う通りに動く、短絡的で直情的な自分が悔しい。
「うそよ」
「何が?」
「あ、あなた、本当はずっと笑ってたんでしょう! わたくしみたいなブスで性悪の悪たれに、そんなアリィみたいなドレスが似合うわけないわ!」
はっとして、ルベリーカは思わず両手で口を塞いだ。
この屋敷に、この部屋に来て一週間。一度も口にしていなかった名前。
アリィ。
リアリフルール。愛らしく聡明で心優しい無邪気な、ルベリーカのたった一人の妹。
憎くて仕方が無い、世界でただ一人のルベリーカの妹。
「ルビー」
低い声で名前を呼ばれ、ルベリーカの肩が跳ねた。
フロウディストは、ベッドにそっとドレスを置く。
「ねぇルビー。俺さ、今すっごく不快。ねぇ、なんでかわかる?」
「し、しらない」
フロウディストの目が見られないくて、ルベリーカは床に下ろされていく靴を見送った。
「じゃあ覚えて」
いい? とフロウディストがベッドに膝を乗せる。
ゆるく沈むマットレスの感触に、ルベリーカは唇を噛んだ。
「まず一つ目、この部屋で、俺以外の人間の名前を口にしないで」
フロウディストの指先が、ルベリーカの唇を撫でる。
「この舌に乗せて良いのは、俺の名前だけだよ」
親指を唇の間に差し込まれる。ゆるく舌を押さえられ、ルベリーカの背筋が震えた。
蜂蜜のように甘やかな声が「ルビー」と名を呼ぶ。
顎を持ち上げられ、ルベリーカはその瞳を見てしまった。
「二つ目、俺以外の言葉なんて全部忘れて」
眼鏡の奥で、ゆったりと細められる、その瞳の美しさよ。
睫毛の先で揺れる光に、ルベリーカはなぜだか泣きたくなった。
「ねぇ、それは誰の言葉? おまえ今、俺の前で誰を思い出して、誰の言葉をなぞったの?」
「っ」
誰ってそんなもの、数えきれない。
数えた事すらない。
いつからだったろうか。それすらもう、ルベリーカはわからない。
「わ、わたくしが社交界どころか、家中から嫌われていることを、あなたは、知らないのよ」
「知らねぇなあ」
興味ないもん、とフロウディストは笑った。
「俺以外の誰かの有難くもねぇ評価なんていらなくない? わかんないかなあ」
ルビー、とフロウディストはどこまでも静かに優しく、ルベリーカを呼ぶ。
「可愛いルビー。どっかの誰かの言葉を反芻するなんて、許さない。おまえは俺の声だけ覚えていればいいんだよ」
「か、かわいい、って」
「可愛いよ。けっこう単純でお馬鹿なところも最高」
「今なんつった」
んふふ、とフロウディストは両手でルベリーカの頬を撫でた。
「ルビー。可愛い可愛い俺のルビー。自覚して。認識して。おまえは俺のもの。俺だけのもの。ルビーの寝顔を見て良いのも、ルビーと朝一番に会って良いのも、ルビーが着るものを選んで良いのも俺だけ。おまえを構成するもの全部、全部ぜーんぶ、俺だけになるんだよ」
じゃら、と鎖が音を立てた。
ルベリーカはこの部屋から出られない。
ルベリーカは何一つ自分で選ぶことはできない。
ルベリーカの全てを肯定する気持ちが悪い男とただ二人っきりの部屋で息をする。
その事実を具現化した鎖が、じゃらりと音を立てた。
「それって、じゃあ」
そうか。
「その馬鹿みたいなドレスを着ているわたくし見るのは変態のあなただけってことよね?! 恥ずかしがる必要なんてないんだわ!」
「うーん、そこじゃねぇんだよなー」
この子さーもうさー、とフロウディストが項垂れるのでルベリーカは笑った。
こっそり憧れていたドレスを自由に着られる。
少なくとも、この気持ちが悪い変態はルベリーカを笑わない。
それは、飄々とした男の情けない顔を見られた事よりルベリーカを喜ばせたが、ルベリーカがそれを口にすることはなかった。
だって悔しいからね。