表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

59/84

抱えて生きていく


「別れて……もらえませんか」


安っぽいドラマのようなセリフだと思った。それが、ひなたの口から出ているとは、到底思えなかった。あまりに唐突すぎて、大同は言葉を発せない。


「私では、……匠さんの家族になれないから」


ゆっくりと紡がれる言葉。そこに芯の強さを感じた。いや、感じてしまった。思いも寄らぬ、別れの言葉だった。

何を言われているのか、何を言っているのかを、数分理解することができないほどの衝撃。幸せに思った温泉旅行から帰って、わずか一週間後のことだったからだ。


いつものように、うきうきと仕事から帰る。

そこにはもちろんひなたが居て、いつものように手料理を作って待っていて。幸せに包まれながらご飯を食べ、そしてひなたとじゃれ合い、一緒のベッドで眠る。


(ああ幸せだなあ)


噛みしめる。そんな幸せな日々。


けれど今回は様子が違っていた。いつもなら帰宅した玄関で、晩ごはんの匂いが漂ってくるはずなのにそれがない。不審に思いつつ、リビングのドアを開けると、そこには正座したひなたの姿。


「ただいまー」


ひなたの姿にほっとしたのもつかの間。硬い表情に、直ぐになにかあったのかと察したほどだった。


リビングのテーブルの上には、誕生日にあげたキーケースが置いてあった。その膨らみから、中にはまだスペアキーが入っているままなのだと、容易に想像できる。その前に正座をして、ちょこんと座っていたひなたからの別れの言葉。


「な……な、んで」

「……ごめんなさい、」


心当たり。もちろんある。不用意に口に出してしまった、あの言葉。


「お、俺が結婚とかって、言っちまったから?」

「違、……ううん、そうかも知れない……」

「……じゃあ、ひなちゃんはこの前の旅行の時、さ、……あの時もう別れるってこと考えていたんだ」

「……考えて、いました」


頭をガツンと何かで叩かれたような衝撃があった。


「…………」


何が何だかわからない怒りが湧いてきた。一言でも発すれば、爆発してしまう、そんな怒りをぐっと抑える。


「ごめんなさい」


ひなたは何度も謝ってくる。けれど何に対しての謝罪なのかも、大同にはわかってはいない。

俯いて、伏せられた瞳。その瞳をもう覗き込めないのかと思うと、途端に現実味が湧いてきた。


「……だ、誰か他に、好きなやつでも、」


震える声。やっとのことで、絞り出す。


「違います」

「こんなおじさん、嫌になった?」

「違う」

「結婚なんてしなくていい、」

「そんなのダメですっっ」


ひなたの悲痛な顔。


(……どうして、)


「匠さん、聞いてください。乳がんって、再発の可能性があって……」


ひなたの声が、ふるっと震えて聞こえた。


「手術や治療で、おっぱいも髪も失ってまで治療したのに、まだ五年、様子を見ていなきゃならなくて……それなのにまだ、一年しか経ってなくて……」


吐き捨てるように言った。


「その一年、俺とじゃ楽しくなかった?」


弱々しい声が出て、大同は自分でも驚いた。こんなのは自分の声じゃない。頭の中でぐわんぐわんと響いて、消えていく。


「……楽しかった」

「だったら! これからの四年もそうやって過ごそうよっ」


声が裏返ったが気にせず、大同は言った。喉がひりと痛んだ。


「俺と生きるんじゃ、だめなの? ひなちゃんが好きだから、一緒にいたいんだ」

「まだ四年もあるんですっっ! その間、私が相手じゃ、子どもだって作れないっっ」


しん、と空気が張りつめた。


「……こ、子ども?」

「再発して、もし私が死んじゃったら、赤ちゃんが可哀想で。そう思ったら、安心できるのは四年後で。その時、匠さんは四十歳になる。家族になるのをずっとずっと待って待って、それなのに再発したら匠さん、もう二度と家族は持てなくなっちゃうっ」

「……ひなちゃん」

「四年をドブに捨てるようなものなんです」


カッと怒りのまま、大同は声を上げた。


「ひなちゃんと生きる四年だぞっ! ドブなんかに捨てるような、薄っぺらいもんじゃないっっ」

「そ、それにっっ!」


ひなたが負けじと声を張り上げた。荒くなった息を整える。ひなたは深呼吸を何度か繰り返すと、落ち着きを取り戻したかのように、続けた。


「……それに、乳がんは……遺伝……遺伝するかも知れなくて、」


悲痛な顔。そのひなたの顔に、ずきっと心臓が痛んだ。


「もし、赤ちゃんができて、産まれるのが娘だったらって思うと、」


思わず、大同は側にあったひなたの手を握った。ひなたは、それを振りほどかなかった。


「怖いんです、怖いの、自分の命にも責任が持てないっていうのに……こんなに怖いのに、自分の子どもなんて到底持てない、持てないよう……」


わっと涙が溢れ出て、嗚咽を抑えられずに、ひなたは大声で泣いた。


「た、匠さんに、私、か、家族、を作ってあげられない、あげられない、んです、」


悲痛に顔を歪ませて、泣きじゃくる。

もちろん大同は、ひなたがこんなにも自分を忘れて慟哭するのを、今までに見たことがなかった。表情の乏しい、体温の低いひなたからは、想像ができないほどの激しさ。


乳がんを乗り越え、強い意志とそれが宿る強い瞳。そんな淡い色の瞳で真っ直ぐ前を向いて生きている。そう思っていたし、その姿に惹かれたのも事実だ。


(……けれど、こんなのは当たり前だ。これが普通なんだ。俺が勘違いしていただけで、)


ひなちゃんだって、ただのひとりの人間なんだ。


大同は、そんなひなたをぐいっと抱き締めた。ひくひくと波を打つ背中に手を回す。大同は優しく、その背中を撫でた。


「ひなちゃん、ひなちゃん、」


ひなたの髪に、顔を埋める。ふわ、と鼻の奥に滑り込んでくる、ひなたの匂いに、軽く目眩がした。


(ひなちゃん、俺の、俺の大切なひなちゃん、)


大同は何度も、その愛しい名前を繰り返した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ