きっと気にしない
「うひひ」
「うひひ、じゃねえ」
「いや、間違えた。お前が言う通り、うひひじゃねえ、これはむふふだ。むふふの出来事だ」
「ちょっとよくわからんが、とにかく早く要件を言え」
友人の鹿島が、ムッと不機嫌な顔をする。
「だからな、車を貸してくれ」
「どこか出かけるのか?」
「内緒にしたいところだけど、車を借りる身だからな。教えてやるよ。ひなちゃんと二人で旅行に行くんだ」
「お、いいなそれ。俺らも行こうかな」
「お前らのことはどうでもいい。レンタカーでもいいんだけどな、手続きとかわざわざ借りに行くのが面倒くさい」
「タクシーって手もあるぞ」
「タクシーは運転手が邪魔だ」
「電車、」
「電車は他の乗客が邪魔だ」
「そうだな。公共交通機関はやめた方がいい。こんなデレデレなおっさん、誰も見たくないだろうからな」
「鹿島。あんま嫌味なこと言うと車をぼっこぼこにして返してやるからな」
「じゃあ、貸さねえ」
「あ、ウソウソ。社長さま、どうか車をお貸しください」
「土産は和菓子がいい。小梅ちゃんが好きなんだ」
「あーーーはいはい。買ってくるから。はいはいーー」
「ねえ、そろそろ仕事の話をしてもいい?」
羽多野が、割り込んでくる。そして、側で様子を窺っていた鹿島の秘書、深水も割り込んできた。
「社長、おっさん二人じゃれてるところを申し訳ありませんが、あと三十分後に安藤さんとの打ち合わせが始まります」
「うわっ、それ早く言えよっ。大同、早く仕事の話をしろっ」
「じゃあ車取りに行く日だけどな……」
「仕事!」
二人の無限ループなやり取りに、羽多野と深水は顔を合わせて大きなため息を吐いた。
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「そんなの必要ねえって」
「匠さんは、あんまり気にしてませんね」
「ああ、俺は全然。ひなちゃんが気になるってんなら、別だけどよ」
大同にそう言われたひなたは、カバンから取り出した、胸を隠すための入浴着を、ごそごそと仕舞った。念のためと持ってきたものだが、あっさり要らないと言われて拍子抜けだ。
(ああ、大同さんは本当に、気にしてないんだな)
こうなるともう、ひなたは自分の中にあるわだがまりを引っ込めるしかない。
胸にある傷跡。
そうそう他人に見られたくはない。乳がんを隠しはしないが、さすがにカメラマンの滝田からヌードの打診があった時は、迷いが出て揺れた。
乳がん検診の啓発になればいいと積極的に思う反面、いまだ気にしている傷跡が人目に晒されるのかと思うと、薄い布をかけるとはいえ、やはりどこかで躊躇した。
返事は急いでないということだったので、大同に相談してみようと、そこは素直に思った。反対されることはなんとなくわかっていたけれど、すっぱりと反対されて心が決まった。
「やっぱり、今回はお断りします。すみません」
世話になった滝田に対して、申し訳ないという気持ちもあったが、大同にびしっと言われて、自分でも小気味いいくらいに心が決まった。
(匠さんには、私にはないような、真っ直ぐな強さがある)
それは太陽のような存在だ。
その光に引っ張られ、自分も上を向いて立っていられるのだと思う。
(あの時、匠さんに出逢えて本当に良かった)
大型ビジョンの前。ふらふらだった自分を立て直してくれたのは、大同だった。薄暗いトンネルの中をずっと、歩いていた自分にとっては、太陽の光を目一杯、浴びたような気持ちになった。
それだけで、心も健康になれた気もしている。
「さ、風呂風呂〜」
「その前に館内を探検しましょう」
「えーそんなの後でいいじゃん」
「卓球台あるみたいですよ、ほら行きましょう」
ぶつぶつ言う大同の手を引っ張る。
旅館の部屋を出て、廊下を歩き出した。
ここは有名な温泉街の老舗旅館だ。造りには相当な古さがあるので、廊下を歩くとその度にミシミシと音が鳴るが、その音と重なり合うように二人のスリッパの音が響いて、それもいいなと、ひなたはしみじみ思った。
廊下の窓から見える中庭の景色に心を奪われる。
(当たり前だけど、家族旅行とは全然違うんだな)




