至福とは
ひなたが作ったオムライスを食べた後、コーヒーを飲みながらくつろいでいた時間のことだった。
そんな時、不用意に出てしまった、この独り言。
その瞬間に、ひなたが持っていた毛糸からカランと音をさせてかぎ針が落ちた。
(あ、やべ。ぼーっとして、なんも考えずに、)
「あ、いや、はは……」
内心しまったと思った。やばい。焦る。
「誰か……結婚するんですか? もしかして、鹿島さんと小梅ちゃん?」
かぎ針を拾おうと手を伸ばしながら、顔を向けて訊いてくる。その純粋な問いかけに、大同は慌てて言葉を返した。
「あ、いやあ、違うんだけどね」
「そうですか」
空気が重くなったのを感じて、大同は手元にあった雑誌を開いた。
「こ、……これこれ、新婚旅行特集。これ見てたらさ、旅行に行きてーなって」
「いいですね、旅行」
止まっていた手を動かし始める。今、ひなたはモデル仲間の一人に教えてもらった編み物にはまっている。化粧品を入れるポーチを、せっせと製作中だ。
ほっと、胸を撫で下ろす。うまくごまかせたような気になって、大同は調子に乗って話を続けた。
「だろ? 今度、休み取って行こうよ。そんな遠くじゃなくてもいいし。近場とかでもさ」
顔を上げたひなたに向かって、言葉を投げる。
「あ、新婚旅行ってわけじゃねえよ。ただの旅行だから、気軽なやつ」
ひなたが、少し唇を歪ませた。けれど、ごまかすのに必死になっている大同には、気づけない。
「温泉とか、いいんじゃねえ?」
「温泉はどうかな……」
「あ、そっか。ごめんな」
「ううん、ちゃんと温泉用に入浴着っていうのがあるんですけど」
「そこまでしてって感じかあ」
大同が、頬をぽりぽりと掻きながら、雑誌をパラパラとめくる。
「露天風呂付きの宿がありゃいいのか」
「ああ、それなら」
ひなたが、嬉しそうに顔を上げた。その嬉しそうな顔を見て、大同も内から湧く喜びを感じる。
「よしっ、決まりなっ! 」
自分のタブレットを寝室のベッドから持ってくると、指でスライドさせて、温泉地を検索。
「……露天風呂かあ」
ふふふと不気味な笑いをする大同を見て、ひなたが言った。
「なんですか、」
「あ、いやあ、二人っきりで温泉だなんて、楽しみ過ぎるなと思って。エロいこともいっぱいできちゃうなー」
「私も楽しみです」
口元が緩んでいる。
(うわ、喜んでくれてるな)
喜ぶひなたを見て、満足に思う。
「ひなちゃん、意外とエッチだな」
すると、ひなたは顔を跳ね上げて真っ赤にすると、近くにあったクッションを手に取って大同に投げつけた。
「楽しみなのはそれじゃなくってっ!」
顔にクッションがヒットしたが、大同はそれを取って、今度はひなたに投げた。
「あははは、いいじゃん別に。俺しかいねえし」
キャッチしたクッションを持って、ひなたが四つん這いで近づいてくる。
「もう! いつもそうやってからかって! 匠さんなんて、やっつけてやる」
クッションをぐいぐいと押しつけ、ひなたが倒れた大同に対して、馬乗りになる。
「おうっ、受けて立つぜっ」
そう言いながら、大同は寄りかかってきたひなたの背中に腕を回して、ぎゅっと抱きしめた。身体を合わせたまま、ひなたは大同の胸にぽすっと頭を預けた。
「ひなちゃん、軽っ。もっともっと美味しいもん食べさせて、太らせなきゃな」
「そんなに食べたらブタになっちゃいますよ」
胸の辺りにあるひなたの髪を撫でると、ひなたがほうっと息を吐いた。
「なれなれ、ブタにでもなんでも。どんなひなちゃんでも好きだ。大好きだ。すげえ好き、」
「わかりましたってば」
ひなたがくすくすと笑うと、身体が揺れて、重みが気持ちよかった。
(これが幸せの重みってやつか)
思ってから、おっさん恥ずっと思う。髪を撫でた手を、再度ひなたの背中へと回した。
「私も、好きです」
その言葉で、大同の人生ががらりと変わる。今までに味わったことのない、至福に包まれて。
灰色だった飾りのない人生に、色のついた灯がぽつりぽつりと灯っていく。
(……神さまマジでありがとな)
大同は、ひなたを抱き締めたまま、目を瞑った。まぶたの裏に、その灯火を感じながら。




