桜御殿の宝物
──大正5年、春。
小さな研究所を営む植物学者の長谷川の元に奇妙な依頼が持ち込まれた。
「──咲かない桜を咲かせて欲しい……ですか?」
「はい。ただ……」
これだけならば決して奇妙とは言えない。この続きが妙なのだ。
「ただ、裏山の桜は全て咲いているのです。敷地内の何処を探しても咲かない桜なんて無いのです」
「はぁ」
長谷川は困惑気味に相槌を打った。
この依頼を持ち込んだのは旧家九條院家の娘・八重である。薄紅色の着物の似合う色白で品の良い娘だ。これは彼女の祖父・桜衛門の遺言なのだそうだ。
「それで私に咲かない桜を探し出して咲かせて欲しいと?」
「はい」
困惑すると長谷川に八重は申し訳なさそうに頷いた。
「期待にお応え出来るか分かりませんが」
「構いません。此方も無理を承知でお願いしております。それに相馬様の御紹介ですから信頼しておりますわ!」
「はい……」
──相馬め……!
頬を染める八重に長谷川は紹介者の顔を思い浮かべながら、渋々了承した。
◇◇◇
──数日後。
長谷川は九條院家を訪れた。旧家というだけあって、長谷川の研究所の何倍もある立派な屋敷が聳え立っている。敷地は裏山も含まれるらしい。
──なんて広大な……。この中から咲かない桜を探すのか?
「はぁ……」
「どうかされました?」
「あ、いえ」
広大な屋敷に気圧され思わず溜息の漏れてしまった長谷川に八重は不思議そうに首を傾げた。
通された屋敷内は高価そうな調度品が随所に置かれている。しかし、そのどれもが桜に関連する物ばかりだと気付く。
「随分と桜の品が多いのですね」
「はい、我が九條家の家紋は桜です。元々、桜に縁も深いですし、特にお祖父様は桜を模した物の蒐集家でしたから。この屋敷も《桜御殿》なんて呼ばれているのですよ」
そう言って改めてみると、壺や掛け軸に至る迄彼方此方に桜の花や木があしらわれている。
客間に通されると八重に面立ちの似た女性がいた。優しげな八重とは違い凛とした佇まいの女性だ。
「──あら、八重さん。そちらのお方は?」
「お母様、植物学者の長谷川先生です。今回の桜の木の件で来ていただきました」
「まぁ! 植物学者ですって? 八重さん、肝心の桜の木も見つけられないのに態々いらして頂くなんてご迷惑ではなくて?」
「お祖父様の言う一番の宝物がないとはまだ決まってはいませんわ!」
八重の母親は長谷川が訪れる事は知らなかった様で少々強い口調で八重を窘めた。一方の八重も驚くほどはっきりと言い返した。
──宝物……とは?
長谷川は八重の態度よりも彼女の言葉に頬を引き釣らせた。明らかに面倒事の予感しかしない。
──早く終わらせて帰りたい。
しかし、相馬の依頼とあっていい加減にする事も出来ず、長谷川は内心で溜息を吐いた。
「長谷川と申します。その詳しくその桜の事をお伺いしても宜しいでしょうか?」
「はい、では此方を」
長谷川は八重の母に挨拶をすると、予め八重に頼んでいた事を尋ねた。八重は用意していた資料を長谷川に渡した。
「祖父は数カ月前に他界したのですが、遺言にはこの様な事が書かれていたのです」
『桜御殿内にある咲かない桜を咲かせた者に私の一番の宝物を与える』
「それで春を待って、皆で庭師達を集め咲かない桜を探させたのですが……」
「見つからなかったと?」
「ええ」
八重は眉尻を下げた。
「父は『最初からそんな物はないのでは? 父は人を誂うのが好きだった。死んだ後も誂ってるんじゃないか?』と仰って」
確かにこの件は八重の独断の様だ。
その他の遺産は既に均等に分配されているらしく、親戚達も最後の遺産には八重を覗いて皆興味がないそうなのだ。
「八重さんはあると思っていらっしゃるのですね」
「はい。祖父が大切にしていたものなら見つけたいです!」
そう言いながら身を乗り出した彼女の姿は純粋に祖父を慕っていたらしい事が伺え、長谷川は面倒ではあるが、少しでも力になればと彼女から渡された資料を捲った。
資料には敷地、山の地図、桜の木の場所、本数点検記録等々。定期的に手入れされているらしく、屋敷にあるすべての桜の木の状態が事細かに記録されていた。
──成る程、これだけ記録されていれば調査には然程時間はかからないだろう。
長谷川は内心ほっとした。この広大敷地の中すべての桜を調査するなどどれ程時間がかかるか分からなかったからだ。しかし──。
「これだけ事細かに記載されていて見つからなかったのですか?」
「ええ。ですから皆そんなものはないのだと」
「それは」
「お祖父様に誂われただけなのでは?」と言いかけて、ふと桜衛門の遺書が目に入った。
「──屋敷内は調べましたか?」
「え?」
唐突に尋ねた長谷川に八重は不思議そうに首を傾げた。
「遺言には桜御殿内にあると記載されています。もしかして、屋敷の中にある桜の木なのではないかと思いまして」
「いえ、屋敷内には桜の木は御座いませんわ」
八重は残念そうに首を左右に振るが、長谷川は「そうではなく」と続けた。
「屋敷内には桜の木に関連した品物が多数ありますよね? もしかしたら、咲かない桜とは調度品か何かの事なのではないかと思いまして」
「あら、それなら……」
それまで黙っていた八重の母親が口を開いた。
「お義父様の寝室に一枚のだけ冬の桜が描かれている絵がありますわ」
「まぁ!」
長谷川と八重達は急いで桜衛門の部屋へと向った。
確かに一枚の畳1畳分の絵が掛けられていた。
「だが、この絵に花を咲かすとはどうしたら良いのかしら」
「上に花の絵でもかけって事でしょうか?」
「近づいても?」
「ええ」
長谷川が八重の母に許可を取ると絵に近付いて軽く押してみるとその壁の部分が回る事に気が付いた。
「! ここの壁動きます」
絵がくるりと回ると後ろから、全く同じ、しかし満開の桜の絵が現れた。
「まぁ!」
「咲きましたわ!」
八重達は口元に手を当てて目を丸くしている。長谷川はもう一度絵を押してみる。絵が半分回ったところで、奥の方に箱が置いてあるのが見えた。長谷川はその箱を取り出した。
「これが宝物、でしょうか?」
「鍵が掛かっているようですわ」
箱には鍵が掛かっていて開かない。もう一度絵の裏側を見てみるが鍵らしきものはない。
「これじゃ、宝物が何か分からないわ」
長谷川は手掛りはないかともう一度絵を隅々まで見ると木の根本部分に何か印の様なものが描かれていた。
「この桜は何処にある桜なんですか?」
「おそらく裏山の桜だと思いますが、庭師達に聞けば直ぐにわかると思います」
八重の言った通り適当な庭師を捕まえると直ぐに桜の場所は分かった。裏山の一番上にある桜の木だそうだ。裏山に登ると確かに同じ木があり、絵にあった印部分を掘り返してみると小さな箱が埋められており、その中には鍵が入っていた。
──カチャリ
と音を立てて箱が開く。中には一本の豪奢な簪が出て来た。簪には桜があしらわれていた。
『これは私が妻と結婚した時に贈ったものだ。妻との思い出の品でもある。見つけたものはどうか大事にして欲しい』
という旨の手紙も同封されていた。
「お祖母様の簪がお祖父様の一番の宝物だったのね」
八重は嬉しそうにその簪を胸に抱いていた。
◇◇◇
「──いやぁ、君を紹介して本当に良かったよ!」
「此処は喫茶店じゃないんだが」
長谷川は目の前で寛ぐ見目麗しい男──相馬に茶を出しながら鬱陶しそうに睨んだ。
「大体、あの仕掛けもの桜衛門さんの葬儀の後直ぐに遺品整理をしていれば気付いただろう」
実はあの遺言があった為、桜衛門の寝室はそのままになっていたのだ。もし、直ぐに遺品整理をしていれば九條院家の人々はあの仕掛けに気付いただろうし、長谷川があの家に出向く事はなかったのだ。
「でも、八重さん本当に喜んでいたよ。君に礼も言っていた」
「それは良かった」
突慳貪に言い放ったが、これは長谷川の本心からの言葉だ。旧家の当主の一番の宝物がまさか夫人との思い出の品だったとは、実にロマンチックではないか。
「また何かあれば頼むよ」
「ついでに言っておくが、私はなんでも屋ではない! 用事が済んだら出て行け!」
手をひらひらと振って面倒事を押し付けようとする相馬に長谷川は苛立ちを隠せず踵を返して部屋を出て行ってしまった。部屋に一人残された相馬はその後ろ姿をやにやと笑いながら見送る。
「──ああ、折角あの簪が家一軒買える程の高級品で、確かにその価値も桜衛門さんの一番の宝物だったって教えてあげようと思ったのに」
当然、相馬の呟いた言葉は長谷川の耳には届かなかった。