本編
「やだ!」
私の拒絶に眉根を寄せた目前の男。背後から見れば中肉中背で、何ら特徴の見られない。
ところが、前からだと評価は一変する。とにかく、濃い。墨を塗りたくったかのような眉だけで、ホイップクリームで胃がみっちりと満たされた心持ちになれる。他のパーツも、まあ、くどい。
「もう二週間も経っただろう」
「まだ二週間だよ、私の感覚では」
時間経過の事実は、がなり声の主と一致している。けれども、そこに感じる質量に、埋められない差異があるのが致命的だ。
「これ以上待たされるのは無理だ」
「心の準備ができてないんだから仕方ないでしょう。私のほうこそ無理ったら無理。何度も伝えたのに! もう無理!」
「まだ引きずっているのかよ。一年以上前の話だって言ってたじゃないか」
付き合いで入ったサークルで、声をかけてきた男となし崩しな始まりだった。人間見た目じゃないって、自分に言いきかせてのもの。
引きずってる別れを断ち切るためだと、相手には最初にきっちり伝えていた。モノトーンの日常に、そのうち色が差すのも期待していた。それなのに、色が変わらないまま、わずか半月でこれ。ガツガツしすぎでしょう。
「それじゃなくて……そっちも引っくるめてもう無理だわ! アンタとはおしまい! さよなら!!」
「……ふざけんなよ! 大したことないのにお高くとまりやがって!」
自分の顔面偏差値なんて、言われなくても自覚している。中の下ってところ。あちらとは対象的に、ひたすら薄い。シャボン玉の膜並みと評された、私の造り。
白黒世界でもお腹いっぱいになれる相手のくどさと相まって、ある意味バランスはとれているかもしれない。
「お高くとまっているつもりはないよ。ただ、付き合って二週間でって、私にとっては色々と早すぎる。アンタだからとかじゃないわ。私と釣り合いのとれないような美形が相手でも、そうよ!」
ぐうの音も出ないってところかな。やっと鼓膜がピリピリしなくなって、助かった。
と、ここでふと冷静になる。周りを見ると、人、人、人。見知った顔もチラホラ。
初々しい春の陽気漂うキャンパスだ。しかもお昼どき。特に文系学生なんて時間を持て余しているから、ここは見世物と化してしまっている。質を問われたら……つらいものがあるけどね。
「あぁぁっ!」
急に飛び込んできた奇声に呼応したため、他を思考する余裕は失せていた。そして、男の顔色が示す危険信号に気付くという。
どうも怒らせすぎたみたい。衆人環視の中にもかかわらず、私に躍りかかってきた。
スプリングコートを翻して初撃を回避したけれど、この状況は思わしくない。体格やリーチに差がありすぎる。分厚い辞書はさっきロッカーに入れてしまっていたっけ。せめて傘でもあればね……。
「嫌がっている娘さんに無理強いとは、感心しないな」
覚悟していた衝撃は訪れずじまい。声とともに気配無く現れた影が、腕一本でゆったりとこの場を制したから。
豚骨男より頭半個分程高い後ろ姿は、すらっと伸びて優雅さを感じさせるほど。
「何だよ、テメェ……」
そこまで言ったこってり男の顔色が、今度は真っ青。忙しない。
口はパクパク動いて、全身が小刻みに震えているけれど、手足を動かす様子は見られない。完璧に動きを封じている。一体、どんな仕掛けが? こんな状況なのに、気になって仕方がない。
「通りすがりの、ここの学生ですが何か?」
短い返答。優雅な闖入者の声は伸びやかで、よく通るものだった。聞いてホッとする。
でも、……あれ? この腰の砕けそうなイケボはどこかで……。
「大丈夫で……た、鷹森か?」
聞き覚えがあって当たり前だ。二年前には、家族のよりよく聞いていたくらいだから。
振り返った見知った顔を認めてしまった刹那、風が強く吹いて、周りにぶあっと色が差していた。
透明感のある、色素がやや薄い男性を中心に。
「カ、あっ、山瀬先輩ッ⁉」
声が裏返りそうになったけれど、何とか押しとどめた私を褒めてほしいところ。
闖入者は、気づいたらいなくなってる男にも伝えていた、私の心にずっと住み続けるその人。
山瀬上総。同じ高校出身で、剣道部の先輩後輩の間柄。そして所謂――元カレ。
山瀬先輩と私。どちらからともなく連れ立って、構内から離れて小さなカフェに場所を移していた。
あの場には野次馬が多すぎる。注目に不慣れな私には、到底耐えられそうになかったから、ありがたい。
「その、さっきはごめん。往来での騒ぎ、まさか鷹森が当事者だなんて思っていなかったから」
「いえ、困っていたので助かりました。ありがとうございます」
「そっか。それならよかった」
先輩の安堵混じりのため息を最後に、会話が停滞してしまった。窓際のまぶしい新緑がちょっと障る。
コーヒーに口をつけたけれど、飲んだ気になれない。味も匂いも不思議と頭に入ってこなくて、あっという間に干してしまう。
高校生だった頃は沈黙も心地よかった。視線を交して、にこりと微笑み合うだけでよかった。
けれど、今では気まずいことこの上ない。そもそも、当時は先輩が私のことを『知花ちゃん』と呼んでいたんだ。だからか、この距離感をもどかしく感じてしまう。
とうに飲み終えたから、頭をフル回転させて何か話を搾り出さなければ。そう思えば思うほど、一瞬浮かんだ物さえも取りこぼしてしまっていく。
まず、先輩の顔をまともに見る余裕がない。サラサラの天然茶髪を、切れ長の目が印象的な端正な顔立ちを、さっきは即座に判別できたんだ。それで十分だと自己完結してしまう。
そもそも、私が先輩と交際できていたのって、どう考えても奇跡レベルなんだと、今更ながらね。
地元で一番の学力だと名高い母校で学年トップ、剣道部では全国大会入賞という文武両道。美形な上に性格も温厚。その癖、彼の懐に入ると、ハイスペックな事を忘れさせるような気さくさを見せるなんて。まったく、天は彼に何物を与えたのか。
だめだ、どれもこれも、ここで話題にしようがない。
私の近況だって、見ての通り同じ大学に入ってしまいました、でおしまい。
離れてからは、文字通り色のない日常を過ごしていたから、本当にそれ以外に何もないんた。
そもそも、先輩との別れの日自体、風景からしてモノトーンだった。
先輩の高校卒業が近づく、極寒の日。珍しく積雪もあったから、しっかりと覚えている。
三年生が自由登校になってからは、思うように先輩を捕まえられなかった。連絡を取ろうと思えば取れたけれど、あの時期は先輩の進路の障りになりたくなくて、自重していた。
私にも歩み寄る受験の足音に急かされて、なんとなく踏み入った図書室で、ばったり会えたんだ。
嬉しくて小声で話しかけて、滑り出しは他愛のない会話が弾んでいたっけ。
そんな風に楽しく過ごしていたのに。当時の私は本当に愚かだった。この先は思い出したくもない。
先輩がどこを受けるのか、あの頃に訊けずじまいだったのが悔やまれる。
学校に合格実績の仔細が貼り出されていた昔ならともかく、今の時代に公開されるのは合格者の人数だけ。私が気軽に尋ねられるような知り合いには、残念ながら、先輩の進路を知る人はいなかった。
もし彼の進路を知っていたら、今の大学を間違いなく回避した。
そうすれば、こってり男との黒歴史も、今の気まずい空気を味わうこともなかっただろう。
思い出を懐き直しながら、俯いたまま。
当然、会話の進展も見られないまま、どんどん時間だけが費やされてしまう。
もう訪れないと思っていた機会だからこそ、もう少し有意義に過ごしたかったのだけどな。あ、泣きそう……。
「言えないなら、答えなくてもいいんだけどね」
「何でしょうか?」
結局、無音を破ってくれたのは先輩だった。私は視線を上げる、と言っても、先輩の手元まで。
視界には、テーブルの色と同化したほうじ茶ラテがおさまっている。そういえば日本茶党だった。部活終わりにも、よく緑茶やほうじ茶を飲んでいたっけ。懐かしい。
こんなささやかなことで、幾分か落ち着いた。現金だな、私は。
「無理って連呼していたけど、何かあったのかなって。僕が代われるようなことなら手伝っても、と思ったからね」
「あー……、その……」
過去の一時縁を結んだ人間に対して、どれだけ優しいのだろう、この人は。
だからこそ、言いよどんだ。だって、私と先輩が離れた理由は……。
私は先輩の人となりについて、何もかも好きだった。とにかく惚れ込んでいた。今でも当時を想起して、心が踊ってしまうくらい。
でも、一点だけ、どうしてもあの頃は我慢できなくて、それが原因で駄目になった。
「先輩には無理なことなので、大丈夫です。それに、もう私も彼に構わないことにしたので」
「そっか」
どんな理由であれ、あの男と接点を持ってしまったこと自体が、私の中で黒歴史なんだ。
抹殺は無理でも、早々に処置して傷を浅く済ませたい。
「そうですよ。まだ心許せていない相手にキスを迫るなんて……」
先輩の形のいい爪が、ほうじ茶色のテーブルを弾いたことで、我にかえった。
まずい、余計なことを言ってしまった。
軽い口調だったのに、むしろ、だからこそかな? これまで穏やかだった空気が、一瞬だけどピリッと。
剣道で鍛えられたからか、場の空気を読むのには長けている。自分の感覚には自信を持っている。
あっ、そういうことだったんだ。今頃、気づくなんて。
私が先輩と離れた切欠はキスだった。未遂。しかも、迫ったのは私の方だ。
きっと、先輩も今の私みたく、心の準備が出来ていなかったのだろう。
そもそも、先輩はそこまで踏み込むつもりがなかったのかもしれない。
「場所を変えようか」
新緑を透過する空のプラカップが置かれ、促されてカフェを出た。
こういう話は、確かに人目のあるところではしたくないから、黙って着いていく。
半歩前を進む黒いシャツを追って、閑散とした通りを進む。先輩一人の歩みより、少しゆっくり。私に合わせてくれていた当時のスピードそのまま。
空がほんのり茜色に染まっていることに驚く。喋らないまま、どれだけの時間をカフェで費やしてしまったのか。
午後からの一コマ、結局サボってしまった。
先輩は、講義に出なくて大丈夫だったのかな?
そういえば、二年前の夕日もこんな色だったっけ。私が先輩に告白した日。
濃い影が伸びて床を侵食していくような、ありがちな風景の中で、緊張を膨らませて挑んだ。
先輩とは部活動で出会って親しくなって、気持ちが抑えられなくなったから、勇気を出して伝えたんだ。
その場に二人きりだったとはいえ、学校の剣道場の端っこなんて色気の欠片もない場所で。
喜んで。先輩はそう言って、柔らかい笑顔で承諾してくれた。
一年以上ゆっくりと交際してきた。一緒にいるとほっとして、他愛のないやり取りを重ねて。手つなぎデートは何度もした。
ただ、それ以上の接触はしてもらえなくて、いつしかもどかしくなっていたんだ。
だからって迫るのもはしたなかったなと、今はちょっと悔いている。
どこをどう歩いたのか。気がつけば、古い造りの部屋に通されていた。六畳一間の畳張り。
夕方なのに窓から見える空は暗くて、室内も明かりがついているけど、どこかほの暗い。
長押に無造作にかけられたハンガーにかけられた服の中には、見覚えのあるものが何着かあった。先輩が、今暮らしている部屋、なのだろう。
促されるままに、ベージュのスプリングコートを預けて、ちゃぶ台の一角についていた。
腰掛けた途端、ふわっとおひさまの匂い。この座布団、干したばかりなんだろうな。
「鷹森が好きなコーヒーがあれば良かったんだけど、今、緑茶しかなくて。ごめんね」
「いえ、ありがとうございます」
一切無駄のない所作で、あっという間に用意された。
私の目前に置かれたのは、シンプルな湯呑み。先輩の前には、使い込まれた風合いの、納戸色のマグカップ。
来客用に湯呑みは用意されているんだ。きっと、私以外の誰かがこの部屋を訪れたのだろう。
今までその可能性に思い至らなかった自分が、非常におめでたくて、愚かしい。
「あの……、過去の交際の件ですが、私ひとりで舞い上がっていて。その、私なんかと付き合わせてごめんなさい」
先輩は紳士で優しかった。否、現在進行系だ。だからこそ、つい先程まで気づかなかった。
「好きだ」のような、ストレートな好意を示す言葉が、彼から一切出ていないことに。
手つなぎデートだって、いつも私から手を伸ばしていたことに。
そもそも、告白も。
なので、結論づけた。受動的に交際していた先輩は、そうと思わせない気配りで私を包み込んでいたのだろう、と。
ギリッと音がした。驚いた。手を握り込むと本当にそんな音が出るんだって。
発信源は、まさかの先輩。形のいい眉毛が、珍しい急角度で。
あれ? 何か失言してしまったかな?
「私、なんか? それは違う!」
唸るように搾り出された、まさかの一言。
「俺だってあの頃は狂喜乱舞だったよ。知花ちゃん以外から告白されても、付き合うつもりはなかったからね。知花ちゃんが来る前は、俺、幽霊部員だったんだよ。少しでも接点をもって一緒にいたくて、いい所を見せたくて部活動に打ち込むようになったわけで」
久しぶりの知花ちゃん呼びは嬉しい! ……けど、何、この裏話。
ってことは、勤勉な部員を差し置いて、それで全国いっちゃったの? この人?
「高校の時でさえ惹かれて仕方なかったのに、今は更に垢抜けていてさ。そんな君に対して、俺が平常心だったとでも? 確かに俺は表情には出にくいほうではあるけれ、ど……うん」
どんどん尻すぼみになる先輩。
そう、出にくいなんてレベルではない。常に穏やかで飄々としていて、私からは誰に対してもそういう態度に映ったんだよ。
「とにかく、だ」
先輩は、一度納戸色に口をつけた。そして、すっと息を吸った途端、どっしりとした落ち着きを見せる。
こういう切り替えの速さは、彼に揺るぎない強さをもたらしているように思う。
「知花ちゃんは魅力的だし、感覚がずれているなんてこともないと思う。君のペースに合わせてくれる相手は絶対にいるよ」
「先輩では駄目なんですか?」
他人事のように語る先輩に問うと、彼の眉毛がハの字を描いた。困らせたくないのに、そんなつもりはなかったのに。
「……少なくとも、キスはまだできない。誰に何と言われようともここだけは譲れないし、君に合わせられないんだ」
「じゃあ、キスをするタイミングを先輩に委ねるなら、私はまた先輩の傍にいられますか?」
先輩が私に対してベクトルを向けていたのなら、そこ以外は何ら問題がないのだ。
別れていた気まずさを差し引いても、私はそうしたくて仕方がない。先輩のような絶妙な舵取りが無理だとしても、私だって歩み寄りたいんだ。
「知花ちゃん?」
「今になって悔やんでいるんです。あのときはどうして、キスにこだわってしまったんだろう。先輩にキスしてもらえるように、もっと努力したり、理由を聞いてみたりしなかったんだろうって」
「いや……それは……」
どんどん眉尻が急降下する先輩に、そして滲む視界に、心がぎゅっと締め付けられる。
今更、虫のいい話なのだろう。過去は私のことが好きだったかもしれないけれど、今では先輩の心が離れてしまった。
あるいは、もう新しい彼女だっているのかもしれない。彼の話題の端々に、過去を示唆する言葉が散りばめられているのだから。
そもそも、ハイスペックな山瀬先輩のことだ。むしろいない方がおかしい。
「ごめんなさい。こんなことを今更言っても、先輩を困らせるだけですよね。わかっているんです。もう、どうしようもないことなんだって。こんなタイミングで会えて、しかも助けられてしまったのに。迷惑ですよね、私」
「知花!」
初めてだ。先輩に呼び捨てされたの。
そんなわけないのに。きっと先輩は私を嗜めたのに、まるで距離を詰められたみたいで、嬉しくなってしまう。
「先輩……ごめんなさい」
「違うよ」
目の前から先輩が消えて、真っ暗になった。
違う。私は今、先輩の黒いシャツに顔を埋めているんだ。暖かさで、抱き締められていると気づく。
や、まって、今の私の顔、涙とかの体液やメイクでぐちゃぐちゃなのに。埋めちゃ駄目!
「むしろ、君をこれから困らせるのは俺の方なんだ。もっと早くに打ち明ける勇気を持てなかったから」
私の後ろに回された手が、やけに硬い。おかしい。私よりは骨ばって節くれだっているけれど、記憶の中ではこんな棒のような感触ではなかった。
とどめに、バサッと大きな音。びっくりして顔を上げたら、視界が黒いままだった。否、違う。直前まで覆われていた布の質感ではなく、もっとつやのあって硬質な、プラスチックとか、いや、どちらかといえば上質な漆塗りの黒椀のそれに近い。それが、先輩の口を覆っている
というよりこれは……嘴?
私は視線を走らせた。先輩の背中には存在感たっぷりの翼、そして手は鳥のように硬質の凸凹に、鋭い爪が鈍く輝いている。
他は先輩そのままだった。確か、こういうのって、あれだよね。烏天狗。先輩の茶髪が浮いて見える黒、黒、黒。
「俺から君に踏み込めなかったのは、まあ、こういうわけなんだ」
目は口ほどに物を言う、とはよく言ったものだ。バツが悪そうに揺れる、先輩の瞳。
黒服の胸元にべったり着いたファンデーションが、更に哀愁を誘っている。
「母は人間なんだけど、父親が烏天狗でさ。俺はそっちの血が強かったみたいなんだ。姉みたいに人の方が強ければ、そこまで悩まなかったかもしれないけどね」
翼がばさりと一扇ぎ。さっきの怪音の正体はこれだったんだ。
それにしても、嘴でどうやって声を出しているんだろう? そんなことを考えるなんて、私は案外余裕があるみたい。
「天狗の口づけは、一生に一度だけ。天狗にとっては、番を呪縛するための術式だからね。偶に例外があるけれど。だから今、君に口づけると、俺は並々ならぬ執着を抱くよ。間違いなく。なりふり構っていられなくなる俺にも、呆れられてしまうかもしれないね」
自嘲の色が混じる、先輩の口調。初めてのそれに、私は聴き入っていた。
「それ以前に、流れる血の半分は人外だからね。明かさないまま唇を奪うような真似はできなかったんだ。両思いになって付き合ったはいいけど、俺の正体を知ったら君が気味悪がるだろうって。どうせ距離を置かれる結末になるのなら、君の中でキスもしてくれない先輩だったって過去になった方が、マシかなって。そんな考えに支配されていたヘタレだよ」
「じゃあ、どうして今は明かしたのですか?」
今更なんだ。気になって仕方がなかった。
今の流れでも、キスできない理由を適当に誤魔化して、終わりにすることだってできたはずなのだから。
「君は何も悪くないのに、自分を卑下するからだよ。君は何も悪いところはないんだ。君のペースに合わせて愛されて然るべき女性なんだって。俺が普通のヒトだったらそうしたかったって、自信をもってほしくてね。だから、さっきのがっつき野郎みたいなのに安売りは、もうしないで」
面映ゆくて仕方がない。私は、今まで先輩の何を見てきたのだろう。
先輩は、距離を置きながらも私を想っていた。私のためにあれこれ腐心してくれていた。歩くペースも合わせてくれたし、コーヒーをはじめ、好きなものもあれこれチェックしてくれたし。
何より、今だって私のために、こうして明かす覚悟も決めてくれた。
「鷹森の可愛らしい笑顔が何よりも好きだ。曇っているところを見たくなかったし、どこかで笑っていてくれるならそれでいいんだ。だからあのとき離れたし、これからも距離を置くつもりだ。君が望むなら、記憶を消したっていい」
「やだ!」
知花と呼んでくれなくなった先輩から、私を避けようと強い意志を感じた。でも、ここだけは引かない。
「どうして」
「全部お断りします。確かに、思わぬことを明かされて、戸惑ってはいますよ。驚きましたよ。でも、それ以上に、先輩をもっと知りたいです。もっと明るいところで今の姿を見てみたいし、その手や嘴に触れてみたいし」
ここまで一息で言ったから、ガス欠。ぜいぜいと息を乱したままだけど、大切なことを伝えなきゃ。
「何より、私は、カズ先輩と一緒に、笑いたいのですよ」
先輩がキスできなかった事情は分かったし、納得したからね。色々と知った上で、やっぱり一緒にいたいんだ。
先輩は息を呑んで、目を見開いていた。久しぶりにカズ先輩と呼んだからかな。
「知花ちゃん。君は、どれほど……俺を喜ばせてくれるんだ」
言葉をつまらせながら、黒い鳥のような指で私の手に触れてきた。でこぼこ、慣れない感覚が私の指を滑っていく。それでも、もう味わえないと思っていた懐かしい力加減に、すごくほっとする。
もう一度、手を握れた。しかも、先輩から伸ばしてくれた。
そして、もう片方の手で私の頭を抱えて、ぐっと引き寄せた。至近距離になった先輩の嘴は緑を帯びて輝き、私の頬を擦ってくる。
不思議な感触に、私は身を任せていた。先輩の熱い息が、時々私の首筋を刺激してくるのもまた、何とも言えない。
「キスの代わりに、頬摺りなんてどうかなって思ってね。これも、あまり他人としないだろうから」
「そう、ですね」
なるほど。結局のところ私が欲したのは、先輩からの恋人らしい、特別だと思える接触だと気づく。
キスはその一つに過ぎなくて……頬摺りは少し気恥ずかしいけれど、二人きりの場ならいいかな。
「あの、私から頬摺りをねだってもいいですか?」
「もちろん」
身長差があるから、頬摺りにせよキスにせよ、私から先輩にするのは難しいんだ。促して、先輩に顔を近づけてもらえないと無理。
刹那で、先輩の顔が変わった。見慣れた口元に戻っていた。背後であれだけ存在感のあった羽も消えて、手も触り慣れた感触に。
でも、その表情は知らない。今にも泣きそうでぐしゃっとしていて、それでいて爆発しそうな喜びで溢れたような。そんな乱れた表情でも、美形は整っているんだ。ずるい。
「そちらでも、頬摺りをお願いしてもいいですか? カズ先輩」
「……知花ちゃん!」
得心したと言わんばかりに破顔して、頬摺りする先輩。透き通ったお髭が少しチクチクするのが気になったけれど、今まで心に深々と刺さっていたものに比べたら、些細なこと。
連絡先は互いに変わっていないこととか、私の現在の住処についてとか、烏天狗のこととかをポツポツと出しながら。
崩れたメイクの惨状に悲鳴を上げたけれど、懐かしい空気が心地よくて、何だかんだで一晩を一緒に過ごしていた。
この信じられないことの積み重ねに、耐えられなかったのかもしれない。
私は翌朝に熱を出してしまい、伏せてしまっていた。しかも先輩の家で。
先輩は、大学と家を往来して甲斐甲斐しく世話してくれた。
時折見せる黒黒とした烏天狗姿ですら、私には極彩色に映っていて。
とにかく、以降はべたべたに甘やかされましたとさ。おしまい。