海辺の教会のシスター
ある町外れにある海辺の小さな教会。
そこには一年前からシスターがいる。
突然豪華な馬車に乗って教会にやってきた美しい女性は、話によればどうやら新たに赴任してきたシスターだという。町に越してきた新たな住人が気になって野次馬にきた町の住民たちに、女性は「今日からお世話になります」と金糸雀のような美しい声でそう言って微笑んだ。
なんて綺麗な人なんだ、と町に帰った人々は大騒ぎ。皆が新しく来たシスターの微笑みに魅了されている中、ある少年はシスターの微笑みを見て思っていた。
なんて綺麗で…哀しい笑顔をする人なんだろうーーーと。
海の近くにある白い石造りの家々が立ち並ぶ小さな町。町並みが美しいと評判で、国の端にある小さい町の割に観光客がそれなりに訪れる。その町の観光客がよく通る大通りからは少し離れた、人通りの少ない場所にひっそりとある大きな建物。
少年はその建物の扉を慣れた様子で開けると、ぶわっとインクの匂いが押し寄せてきた。初めて訪れるとそのインクの匂いに一度は足を止めてしまう人も多いのだが、少年にはいつものことなので特に気にせず中に入った。
「おはようございます」
すると机の上で書き物をしていた牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡をした男性が顔を上げる。
「おはよう。今日の分はもう用意してあるから、よろしくね」
「はい」
男性にお辞儀をして横を通り過ぎ、だいぶ座り慣れた少々居心地の悪い椅子に腰掛けた。机の引き出しの中からピンセットを取り出し、机の上に置いてある紙を見る。
『王都で人気のお菓子、ついに領内首都クロマネアでも販売開始』
癖の強い文字で書かれたその言葉を読み取り、それに続く文章にも目を通して少年は机の右隣にある壁の方を向く。規則性を持って並べられた小さな金属が、壁に備え付けられた木枠の中にびっしりと並んでいる。
癖もなく万人が確実に読み取れるであろうその文字を形どった小さな金属は活字と呼ばれるもので、少年はこれを指示された通りに並べて版を作ることを生業としていた。
活字を何時間も拾っているとだんだん目が疲れて霞んでくるが、今までの経験からこれが少し休めば治ることだと知っているので少年はピンセットを机に置いて大きく伸びをした。
「やあ、ニーノ。進捗はどうだい?」
後ろから聞こえた声に少年が振り向けば、そこには馴染みのある綺麗な顔をした青年がいた。
「いい感じ。ジルはどう?」
「いいなぁ。俺はまだまだカーティスさんに遅いって怒られてばっかだよ」
「まだ一年目だしね。僕も最初の頃はよく怒られたよ。でも慣れれば拾うのも早くなるから、頑張って慣れるしかないね」
「先輩の言葉に従って、今日も一生懸命頑張りますか」
眉を下げて笑うその青年はジルと言い、一年程前に突然この町にやってきた。
シスターが来てからそれほど経たぬ間に現れた新たな住人であるジルは、傭兵のように美しく鍛えられた体をした綺麗な青年だった。目は切れ長で、髪は短く右耳に金色の意匠を凝らしたピアスをしている。
燃えるような赤い髪はこの辺にはない髪色で、町の人たちは珍しがって彼によく話しかけたのだが、彼は気さくに太陽みたいな笑顔でいつも答えるものだから、町の女性たちが大はしゃぎだったのをニーノと呼ばれた少年はよく覚えていた。
ジルは海が好きらしく、海の近くにあるこの町に越してきたという。何故この町なのかと問えば、前に一度この町に訪れたことがあり、思い入れがあるからだとジルは言った。その時にジルがどこか切なげな顔をしていて、ニーノは不思議に思ったのでよく覚えている。
またジルは文字を読むことができ、また書くこともできるそうでこの町でシスターと一緒に教師の真似事のようなこともしていた。
一年くらい前から、国の方針で文字の読み書きができる国民を増やそうという政策が始まった。なんでも王太子妃様の発案らしい。
王太子妃様がまだ王太子と結婚する前に発案してそれを国が細部を詰めた後採用し、現在は文字の読み書きが出来ないものを対象に国から派遣された教師によって、大人子供問わず指導がされている。
王太子妃は“異世界の乙女”らしい。
異世界の乙女というのはこの国では伝説の存在で、突如として現れては国を栄えさせるといわれている。そして異世界の乙女が現れたらその時の王族と結婚する決まりなのだそうだ。
だから異世界の乙女は現王太子と一年ほど前に結婚し、今は王太子妃になっている。
読み書きに関しては王都の方ではそれなりにできる人が増えたらしいが、王都からだいぶ離れたこの町では観光客向けの商売をしている人以外は読める人も書ける人もまだまだ少ない。
一応その政策のために教師が派遣されてくるらしいのだが、今もまだこの町に教師はいない。突然始まった政策だったし、人材が足りなくてこんな国の端にあるような町まではまだ手が回らないらしい。
これらのことをニーノは上司にあたる、瓶底眼鏡をかけた男性…カーティスに以前聞いたことがあった。
そんな中で文字の読み書きがどちらも出来る人材が突然、一年前に二人ほど現れた。それがシスターとジルである。国から派遣される教師を待っていたらいつになるか分からない。
だから町長はジルとシスターに教師になってほしいとお願いして二人はそれを了承。普段は主に子供たちに読み書きを教えている。
大人は読み書きが仕事に必要な人たち以外はあまり授業に参加していない。いくら観光客が来ると言ったって、こんな国外れにある町ではあまり読み書きができることの必要性を感じていない人の方が多い。
観光客を相手にするような商売をしているところの大人はほとんど皆読み書きが出来るので、それ以外の仕事をしている大人は変わらず仕事をし、将来のある子供に優先して教えてもらうことになっている。
国から教師が送られてくるまでは皆仕事を優先するのだと、ニーノの父も言っていた。
そんな教師の真似事をしているジルだが、何故活版所でこうして活字を拾っているのかと言えば、ジルは元貴族らしく、いくら家を出たとはいえ王都の情報をいち早く知っておきたいかららしい。
ニーノは主に生活の為に働いているだけなのでジルのその働く理由が不思議に思えるが、貴族とはそういうものらしいと受け入れてこの自分より大きな後輩に仕事を教えている。
だからジルはこうして空いた時間に活版所で働く毎日を送っているという訳である。
ニーノはまだ書くことはあまり得意ではないが、文字を読むことは問題なくできた。まだまだニーノくらいの年の子は文字を読むことも出来ない子が多い中、ニーノが読むことが出来るのは昔からこの活版所で活字を拾い続けていたからだ。
ニーノの父がこの活版所で働いており、父を慕うニーノは自然とこの活版所に足を運ぶようになった。そして父の熱心に仕事に取り組む背中を見て育ち、いつの間にか父の手伝いがしたいと思うようになったニーノは三年前からこの活版所で働き始めた。
カーティスから渡された紙に書かれた訳のわからない、謎の記号と同じ記号が彫られた金属を拾う仕事、というのがニーノのこの仕事への最初に抱いた印象だった。だがその記号が文字であり、その文字を文章として読めるようになってくるとなかなか面白いと思い始め、飽きることなく現在も働いている。
そんな訳でニーノは文字が読めた。
ニーノは読み書きも出来ない住民が多いのに、この町に昔から活版所があるのを疑問に思ったことがある。活版所を取り仕切っているカーティスに聞けば、それは偏に領主様の意向だからだったそうだ。
この国外れにある町の主な収入源は観光客。夏になるとこの町は涼しいので避暑地として人気らしく、稼ぎ時になる。なのでこの町には宿屋が沢山あった。
それに加えて王都からの客はお貴族様が多い。貴族というのは情報に疎くてはいけないらしいので(ジルもそう言っていたのだからそういうものなのだろう)、その為にこの活版所で毎日貴族向けに新聞を発行しているらしい。
ちなみにここで発行している新聞は他の近くの町や領主様の屋敷に届けられているそうだ。
毎日刷っているのは観光客の為ではなく、単純に領主様の為にらしい。領主様の屋敷はこの町から歩いて三十分くらいの場所にあるのだが、そこに届ける専門の人がいる。
貴族って凄い。ニーノはその話を聞いたとき漠然とそう思った。
休憩の合間にジルと言葉を交わしながら活字を拾い続ける。活字を全て拾い終えた頃には窓から黄金の光が差し込み、蜂蜜を流し込んだみたいにその黄金で部屋を染めていた。カラスがカァカァと鳴き始め、仕事がもうすぐ終わりの時間になるのを悟る。
拾った活字を金属製の版に入れ、決まった文字数を一行に入れ終えると小さな薄い板を並べた活字の隣に差し込む。この作業を繰り返し、そうして出来上がった版を隣の部屋に持って行った。活字を拾っていた部屋よりもインクの匂いが充満したその部屋には、ニーノの大好きな大きな背中が丸まっているのが見えた。
「父さん、今日の分できたよ」
「おお、ありがとよ」
こちらを振り向くこともせず、ニーノの父は大きな機械の前で少年が持っている版と似たような版に並べられた活字をトントンと木槌で叩いていた。
少年は邪魔をしないように近くの長机に版をそっと置く。木槌の音が聞こえなくなると、版の上に板を置いて紙を置く。これから試し刷りをするのだろう。
「よぉ、ニーノ」
「ロンさん、こんにちは」
この機械が沢山ある部屋にはニーノの父の他に三人くらいの男たちが働いている。
「ジルの奴はまだ拾い終わらねぇのか?」
「うん」
「まー仕方ねぇか。もうすぐ二年目だが、まだ実質一年目みたいなもんだからなぁ」
「いないときも多いからね。僕も一年目の頃はロンさんによく、まだ拾い終わらないのかって言われてた気がする」
「はは、そうかもなぁ」
父の同僚で友人であるロンさんと話していると、がしゃん、と機械が動く音がした。
音がする方を見ればニーノの父が機械にセットした紙が一枚機械の中へと吸い込まれるように入っていく。
くるっと回って機械から出てきた紙には沢山の文字が羅列されており、ニーノの父は文字の配置のズレがないか、インクが掠れていないかなどを確認している。
ニーノはそんな父の姿を見るのが好きだった。いずれは活字拾いだけではなく、父のように印刷を任されるようになりたいと思っている。
いつまでもいると邪魔になるので簡単な挨拶をして部屋を出る。しばらくすると隣の部屋からがしゃんがしゃんと機械が動き出す音が聞こえてきた。
活字を拾っている時にも時たま聞こえてきたそれは、紙に文字が刷られていく音だ。この分だと父は今日は帰ってくるのは遅い。ランプに火を灯して暗くなりきる前の空に星が顔を覗かせ始める頃まで、あのがしゃんがしゃんという音を鳴り響かせているのだろう。
少年は今日の仕事を終えたので自分の作業道具を片付けてまだ残っていくらしいジルと軽く挨拶を交わし、瓶底眼鏡が重くて鼻からずり落ちそうになっていたカーティスさんに挨拶をした。
「今日の分は終わりました。お疲れ様でした」
「お疲れ様。あ、そうだ。明日の朝もいつも通りお願いね」
「はい」
ぺこりと深くお辞儀をして活版所を出る。少年はインク臭くなった体を洗う為に、家に向かって歩き始めた。
◇◇◇
夜が明け切っていない朝焼けの空。夕空なのではと勘違いしそうなその空が見られる頃に少年は起きた。
まだ家族も誰も起きていないその時間に手早く支度を済ませ、活版所へと向かう。
活版所の扉にかけられた鍵を開け、中に入ると普段とは違う、しんと静かなその部屋の机の上に丁寧に折られた新聞が置かれていた。
少年はその新聞を拾い、あまり折り目がつかぬよう丁寧に折り畳んで肩がけの鞄の中にそっとしまう。
新聞を持ったのを確認したら扉を閉めて鍵をかけ、少々歩きづらい色褪せたレンガ道を歩く。
普通に歩くだけではつまらないと、途中からレンガからレンガへ飛び移るように進み、レンガ道が終わって土の地面へ道が切り替わってからはしずしずと歩いた。
町外れまで来ると小さな教会が見えてくる。
潮風で少し傷んだ教会の大きな木製の扉を押すと、ギィ…と軋んだ音と共に扉が開く。
赤い絨毯が敷かれた両隣に五つずつ等間隔で設置された長椅子のうち、右側の一番前の席で祈りを捧げる美しいシスターがいた。
「シスター、おはよう」
「おはようございます。新聞ですか?」
「うん」
「いつもこんな町外れまで、わざわざありがとうございます」
「気にしないで。仕事だから」
「…ふふ。そうですね、お仕事ですものね」
鞄から新聞を取り出しシスターに渡すと、シスターはありがとうございます、と言って新聞を受け取った。
以前までは教会に新聞を届けることはなかったのだが、シスターが来てからは届けるようになった。
なのでおそらくシスターは元貴族様なのだろう、とニーノは思っている。
多分町のみんなもそれは薄々気付いている。だってシスターはとても気品があって、綺麗で、この町の女性たちとは全然違う。どう見ても庶民ではなかった。
でもシスターが何も言わないから、みんなも聞いたりはしない。お貴族様が修道女になって、こんな辺鄙な場所にある古臭い教会に来るなんて、何かしらの訳ありだろうから。
「シスターは毎日毎日神様に祈りを捧げてるけど、飽きないの?」
「まぁ!ふふ、飽きることなんてないですよ。それこそ、これが私のお仕事ですから」
「ふーん、そうなんだ」
ニーノが毎日活字を拾うように、シスターも毎日祈っているのだとなんとなく理解した。
少しシスターと話した後、頼まれた仕事を終えたニーノはまた祈りを再開したシスターの真似をして、教会の椅子に座って目を閉じて手を合わせ、祈りのポーズをする。
特に祈ることなどニーノにはないのだが、いつも手を合わせて思うのはシスターのこと。
そっと片目だけ開けてシスターを見れば、シスターは熱心に祈りを捧げている。今は後ろ姿しか見えないが、祈りを捧げるその姿はまるで女神のようだとニーノは思う。
シスターはとても綺麗だ。
ニーノはそんなシスターに憧れのようなものを抱いている。この辺の町娘とは違う、神秘的なほどの美しさに魅了されているのだ。
でも美しいだけならニーノはシスターに憧れなど抱かなかっただろう。
きっかけは、初めて見たときに見せた微笑み。
とても綺麗に笑うのに、シスターはいつもどこか哀しそうに笑う。そしてニーノはいつの間にかシスターに心を寄せる時間が増えていた。
なんとなくどこか未亡人のような雰囲気を持つこの人に、いつか哀しい笑みじゃなくて心からの笑みを浮かべてほしいと、そんな風に思っている。
それがある意味、ニーノにとっての祈りなのかもしれない。
祈り終えると静かな教会を出て、ニーノは近くの海岸に向かった。
最初の頃はなんとなく来たときと違う道を歩いて帰ろうと始めたことだったが、今は別の目的があって砂浜を歩いている。
砂浜の近くまで来たら徐に靴を脱いだ。砂が入ると母に怒られるからだ。左手の人差し指と中指をフックのように曲げ、そこに靴を掛けて砂浜を歩く。
足の指と指の間に砂が入るのがくすぐったい。ニーノは小さく笑っていつものように歩き始めた。
少し歩くと白い砂浜に紙の入った、緑とも青ともとれるような色をした瓶が流れ着いているのを発見する。ニーノが砂浜を歩く目的はこれだった。
瓶を手に取り、しっかり閉められたコルクの栓を抜いて中から慣れた様子で破けないように白い紙を取り出す。
取り出した紙は少し厚めの上品な白い便箋で、紙を広げるとそこには美しい字で文章が連なっている。ニーノはこの手紙の主人はお貴族様なのだろうと思う。だってお貴族様でもなければ、こんな上質な紙を持っていないだろうし、こんな綺麗な文字なんて書けないだろうから。
シスターに新聞を届けた後、ここを通ると必ずこの手紙の入った瓶は砂浜に打ち上げられている。
どうやって毎度同じように届くのだろうと、この瓶を見つける度にいつも思う。
この瓶の中に入った手紙の主人はいつも同じ人だ。名前は書かれていないれど、この美しい文字は変わらないから恐らく間違いない。
そして海から流れてきたその想いの持ち主に、ニーノは心当たりがあった。
思い出すのは、あの哀しい微笑み。
今日の手紙の内容を読む。
『ああ、神よ。今日もここに秘めた想いを綴ることをどうかお許しください。
貴方は元気にしていらっしゃるのでしょうか?少し体調が悪い様子だと貴方と離れた遠い地で最近知りました。貴方はいつも無理をしすぎる所があるから心配です。でも彼女の懸命な看病で快方に向かっているとも聞きました。少し安心致しました。
でも、私は思ってしまうのです。貴方を支えるのが私でありたかった。
そう…醜くも、未練がましくもまだ思ってしまう私をお許し下さい。
貴方と婚約を解消してからもう一年が経ちます。
なのに、この想いはいつまで経っても燃え盛る炎のように冷めることを知りません。
苦しくて苦しくて、目が覚める度にあの子が貴方の隣に立っているのが夢だったら。そう思わずにはいられません。
いつか…いつかこの想いが風化したら、この苦しみから救われるのでしょうか。
でもこの想いを失ったら、私は私たることができるのでしょうか。
考えても仕方ないことは分かっております。
それでも、やはり考えてしまうのです。
今日はここまでにいたします。
どうか今日も貴方が、幸せでありますように。』
長い文章はいつも、手紙の主人が想う誰かの幸せを願う言葉で締め括られている。
その度にニーノはシスターのあの哀しい笑みを思い出し、胸がぎゅっと苦しくならずにはいられなかった。
◇◇◇
手紙と瓶を回収して家に戻り、朝食を食べたらいつものように活版所へと向かう。その途中に、いつものようにジルの家に寄った。
近くに立ち並ぶ家々と同様に白い石壁に木の扉がついた、この辺ではごく一般的な民家。何の特徴もない、少し古めかしいその民家の入り口の扉近くの石壁に、どうにもその家にはそぐわない真新しい郵便受けがある。
それをチラリと確認したら念のため木の扉を三回叩く。それに家主が応える様子はない。
ジルはこの時間は家にいないことが多い。どうやら今日も不在らしく、郵便受けに今朝砂浜で拾った瓶と手紙を入れた。
何故ジルの家に手紙を届けているのかといえば、あの瓶に入った手紙を初めて拾った後、誰かにその秘密を共有して欲しくてちょうど活版所にいたジルに見せた。
そしたらジルは目を見開いた後、涙をボロボロと溢して辛そうな顔で、泣きながら手紙を読んでいた。
そしてジルはニーノに懇願するように言ったのだ。
また手紙を見つけたら、どうか見せてほしいと。
自分よりも大きな男が恥も外聞もなく泣く姿に、ニールは圧倒されてそれを了承した。
その後ジルはニーノが背中をさすってしばらくした後、ようやく涙を枯らして恥ずかしそうに、真っ赤な目をして微笑んだ。
その日の帰り道、ニーノは手紙を読んで急に泣き出したジルを思った。
ジルはその手紙の主人を知っている様子だった。そしてその人を深く想っている。
一年前、シスターがこの町に来てから程なくして現れた青年。
どうして彼がこの町に現れたのか、その本当の理由をその時知った気がした。
ジルの家を離れて活版所へ向かい、朝とは違って鍵のかかっていない活版所の扉を開ける。
「おはようございます」
「おはよう」
少し顔色の悪いカーティスさんに挨拶をした。
「顔色が悪いですけど、大丈夫ですか?」
「ん?ああ。ちょっと記事がまとまらなくて…。大丈夫だよ。今日の分もよろしくね」
「はい」
カーティスは記事をまとめるのに詰まると、こうして顔色が悪いまま活版所に出勤することが何度かあった。
大抵そういう記事は王都絡みのものなので、今日の記事は王都に関するものなのだろうなと思いながら、ニーノは昨日と変わらず座り心地の悪い椅子に座る。
ピンセットを引き出しから取り出したら机の上の原稿を確認した。
『王太子妃、ついに第一子ご懐妊!』
ごくり、と嫌に大きな音を立てて喉が鳴る。
溢れてくる唾液をもう一度喉奥に押し込もうとしても、大嫌いなピーマンを食べたときのように、なかなか喉を通らない。
なんとか無理矢理飲み込んでもう一度原稿を見てみても、癖の強い字で書かれた言葉は変わらなかった。
見出しの後に続く文章が頭に入らず、原稿を持つ手が震える。
ほんの一年前までのニーノだったら、特にこの記事を気にすることなどなかった。
きっとおめでたいな、程度の思いを抱くくらいですぐにピンセットを手に活字を拾いに行っただろう。
それが今は凍りついたように動けない。荒ぶる心音は唾を飲み込んだ音よりも大きく聞こえ、カーティスにまで聞こえてしまうのではないかとニーノは焦った。
こそっと盗み見るようにカーティスを見てみると、ニーノの異変に気付いた様子はない。
ニーノはいつも通りを装ってなんとか活字を拾い始めた。
原稿の文字と同じ文字を拾う為に何度もニーノは原稿を見返したが、やはり書いてある文章は変わらない。ニーノは震える手を必死で抑えながらも、心を無心にしてひたすらに活字を拾い続けた。
永遠にも思える長い時間は、部屋が蜂蜜色に染まる頃に終わりを告げた。いつもと変わらないくらいの時間に終えたはずなのに、ニーノには今日がとてつもなく長く思えて仕方がなかった。
原稿の内容も大きな要因ではあるが、話し相手となるジルが今日はいなかったことも大きい。
子供たちに文字の読み書きを教えている為、ジルは毎日活版所に来ることはない。今日は来ない日だったようだ。
ある意味、幸運だったのかもしれない。
あの手紙の主人を思う彼が、この記事を読んだらまた泣いてしまうのではないか。そんな風に思うから。
だけど結局は遅いか早いかであって、いずれはこの記事を知ることとなる。
今日この原稿を見ずに済んだことは果たして、年上の後輩にとって良かったのか悪かったのか、ニーノには分からなかった。
いつものように版を父に渡し、印刷室の皆に挨拶をして机の上に置きっぱなしにしていたピンセットを少し乱暴に引き出しの中に入れ、カーティスのところへ急ぎ足で向かう。
カーティスは午前中よりは顔色が良いものの、疲れたような顔でまだ原稿を書いている。
「今日の分が終わりました」
「ああ、ありがとう。明日も…いや、明日は教会へ新聞を持って行かなくてもいいよ」
「え?」
「ただ、そうだな…今日は休刊だってシスターに伝えてあげて欲しい。配達するものもないのに悪いね」
「それは構わないですけど…」
「よろしく頼むよ」
それだけ言うと最後に「お疲れ」と言ってカーティスは原稿を書く作業に戻ってしまった。
なのでニーノもそれ以上聞けず、別れの挨拶をして活版所を出て家路につく。
(やっぱりあの手紙を書いた人は…)
眩しいくらいの夕焼けが白い家々をオレンジに染め上げているのを見ながら、ニーノは確信を得てしまった手紙の主人に思いを馳せた。
◇◇◇
次の日の早朝。ニーノはいつも通り家を出てレンガ道を歩く。今日は活版所を経由して行かないので真っ直ぐに町外れの教会へ向かっていた。
ピンク色の空は徐々に水色へと変わっていき、夜から朝になる準備をしている。
それは一年前からいつも見ていた光景で、特におかしなところはない。なのにいつもと何かが違う気がした。
まだ寝静まっている朝の町の静けさ、日中よりも少し肌寒い空気、濃いグレーに染まっていた白い石壁がうっすらと白さを取り戻していくその様。
何もかもが、昨日見た早朝の町並みとは変わってしまったように思えてニーノは怖かった。
だからいつもみたいにレンガからレンガへ飛び移る遊び心も持てず、急ぎ足で教会へと向かう。くたびれた革靴が地面を踏む度に、妙に重いような気がしてならなかった。
教会が見えてくるとニーノは急激に歩く速度を落とし、鉛のように重くなった足を引きずるようにして歩く。どんなにゆっくりと進んでも、着々と教会は近づいてくる。
そしてついに教会の大きな扉の前まで来ると、大きく深呼吸をしてから少し重いその扉を開ける。
「シスター、おはよう」
いつもより気持ち小さな声でいつもと同じ挨拶をすれば、いつものように祈りを捧げていたシスターが祈るのをやめてこちらを振り向いた。
「おはようございます。新聞ですか?」
ニーノの挨拶の第一声がいつも同じであるように、シスターのそれに答えるための第一声もまた、同じであった。
だからこそ、いつもと違うことを言おうとしていることがニーノには恐ろしいことに思えて少し萎縮する。
「どうかしましたか?」
それに気付いたシスターが優しくニーノに問う。でもニーノには尋問されているように感じられた。
「……今日は新聞はないんだ。休刊だってカーティスさんが言ってた」
「…そう、なのですね。そう…」
言葉を失ったシスターは目を瞑って胸に手を当て、やがて瞼をゆっくりと押し上げ、憂いを帯びた瞳を見せる。
「…わざわざそれを伝えに来てくれたのですか?ありがとうございます、ニーノ様」
哀しそうな笑みを浮かべながら自分の名前を呼ぶシスターに、きゅっと心臓を縛られたような錯覚に陥る。
それはシスターに休刊だと嘘をつく罪悪感からなのか、それとも何故カーティスが休刊だと伝えるように言ったのかの意図をなんとなく知っているからなのか、ニーノには分からなかった。
「いつも言っているけど、僕の名前に様付けなんていらないよ」
「そうでしたね。申し訳ありません、どうしても癖になっているようです」
「シスターは…やっぱり元貴族なの?」
皆が聞きたくとも聞くことのなかったことを聞いてしまったのは、いつもと違う状況だったからなのかもしれない。
それでもニーノは聞いてみたかった。多分、今日以外に聞く機会を得られることはないだろうから。
「どうしてそう思われますか?」
「だってシスターは町の人たちと違うお上品な喋り方をするし、名前に様付けするし、文字だって当たり前のように読めるから」
本当は見たことないくらい綺麗だから、手が町で働く人たちとは違う綺麗な手だから、とか理由はもっと色々あったが、それは言う必要を感じなかったのでニーノはそれだけを伝えた。
「そうでしたか…。ええ、そうですね。私は…わたくしは、元貴族です」
「やっぱり。だってこの辺の人と全然違うもん」
「ふふ。もう一年も経つのに…まだまだこちらの生活には慣れませんわ」
「シスターは昔はどこに住んでたの?」
「昔は…王都に、住んでおりました」
「王都って、あのクロマネアでも販売され始めた人気のお菓子がある?」
「ええ、そうですよ。美味しいお菓子が沢山ありました」
「シスターはよくお菓子を食べてたの?」
「ふふ、そうですね。お茶会では沢山のお菓子が出てましたし、お茶の時間にはお気に入りのお菓子を食べていました」
「えー!いいなぁ」
ニーノは甘いものが好きだったが、甘いお菓子はこの辺では高級品だった為、滅多なことでは食べることができなかった。
「そうだわ、今度お菓子を取り寄せましょう。お父様にお願いしてみます。お菓子が届いたらニーノ様に差し上げますわ」
「嬉しい!…でもお菓子って高級品だよ?」
「わたくし、元貴族ですもの。気になさらないで。それにお菓子はいつも新聞を届けてくれるお礼です」
「でも僕ちゃんと、教会に新聞を届ける仕事のお給金はカーティスさんにもらってるよ?」
「わたくしからのお気持ちということで」
「そこまでシスターが言うなら…もらう!ありがとうシスター!」
「ふふ、お礼はお菓子をお渡しするときで大丈夫ですわ」
そう言ったシスターの笑顔は、今まで見たシスターのどの笑みよりも憂いがなくて、ニーノは思わず心の内を溢した。
「今日はシスター、ちゃんと笑えてるね」
「え?」
「あっ」
大慌てで両手で口を塞いでも、もうその言葉はシスターの耳に届いてしまっている。
驚いたような顔をしたシスターの顔を見て、あれは無意識だったのかと悟ったニーノは、ずっと思っていたことを吐露することに決めた。
気まずそうにシスターから視線を逸らして俯き、ニーノは二つ作った拳をぎゅっと握りしめる。
「シスターは…ここに来たときから、ずっと悲しそうに笑ってたから。だから、さっき楽しそうにシスターが笑ってて、その…」
言いたいことがまとまらなくて、後半は小さくなってしまった声をシスターはきちんと拾ったらしい。
右の握り拳をそっと温かなものに包まれて驚いて顔を上げれば、少し潤んだ瞳のシスターの顔が近くにあってニーノは顔を真っ赤にしながら悲鳴をあげそうになる。
「シスター!?」
「わたくしは…駄目ですね、本当に」
「え?」
「ジルベルトに職を辞めさせてしまうどころか、いつも新聞を届けてくれる小さな少年や、カーティス様にまで心配をかけてしまっていたなんて」
「え?」
ジルベルトとは誰なのか、何故カーティスが出てくるのか。
それをニーノが問う前に、シスターは言葉を続けた。
「だからあの人の側にわたくしは相応しくないと、神様はあの子をこの世界に遣わしたのかもしれませんね…」
独り言のように小さく呟いたその声はニーノの耳までしっかり届いて、苦しそうな顔がニーノの視界に映る。
そうでありませんようにと願っていたことが、間違いではなく事実なのだと現実を突き付けてきた。
自分のことではないのに、手紙の内容を思い出してニーノは胸が裂けそうなほど、苦しくなる。
「シスター?」
「ごめんなさい。心配をかけてしまいましたね。わたくしは…私は、もう大丈夫ですから」
「でも」
「本当に大丈夫よ。もう心配しないで」
「…うん」
「そういえば…ジル様は活版所で働いているのよね?」
「え?うん、そうだよ」
シスターはジルと共に町の子供たちに文字を教えている。だからジルと面識があるのは不思議ではない。
だけどあまり交流をしているように見えなかった二人だった為、ニーノからすればシスターがジルの名を呼んだことが意外だった。
「よければ手紙を、届けてくれないかしら。そうしたらお菓子の報酬も弾むわよ?」
空元気でそう言ったシスター。
それに応えようと、ニーノも空元気で答えた。
「…うん!分かった!お菓子ちゃんとちょうだいよ!」
「ええ、約束よ」
「約束ね。今から書くの?」
「そうね…」
憂いを帯びたのは一瞬で、シスターは何かを決意したような顔をした。
「ええ、書くわ。…少し待っていてもらってもいいかしら?」
「僕は構わないよ!」
「ありがとう、ニーノ」
そう言って微笑んだシスターは、もうあの哀しい笑みを浮かべてはいなかった。
教会の長椅子に座り、ニーノはぼんやりとステンドグラスを眺める。
ステンドグラスに描かれているのはこの国で信仰している女神様。慈悲深い微笑みを浮かべる女神様にジーノは思う。
異世界の乙女をどうして女神様はこの時代に、遣わしてしまったのだろう。
この時代じゃなければきっとシスターは…。
そんなこと考えたって仕方がないと思う。それでも、考えずにはいられなかった。
ぼんやりしているとシスターが戻ってきて、ニーノに白い手紙を託した。白い滑らかな触り心地の上質な封筒。中にはきっと、よく見覚えのあるあの便箋が入っているのだろう。
「ニーノ様、もう一つお願いをしてもよろしいでしょうか?」
「うん、いいけど」
「ジル様にどうか…『お受けします』と。そう、伝えてくださいな」
そう言って笑うシスターにはもうあの憂いはない。頬を染めて年相応の少女のようにはにかみ、幸せそうに笑っていた。
お受けします、という言葉に疑問を抱いたニーノは子供らしい無垢さを持ってシスターに問いを投げかける。
「シスターは何かを受け取るの?」
「ええ、そうね…。ずっと断ってきたのだけれど…もう、わたくしも前を向きたい。だからずっとわたくしを支えてきてくださったあの方の想いに、報いたいと思ったの」
「どういうこと?」
「ふふ。そのうちきっと、分かるわ」
「ふーん?」
ニーノにはよく分からなかったが、シスターはジルから受け取って欲しいと言われていた何かを受け取ることを決めたらしい。
なんだかそれは、とてもいいことだという予感がした。
だからニーノは笑った。そうしたら、シスターも笑ってくれた。ニーノにはそれがとても、嬉しかった。
その日教会からジルの家へと向かい扉を叩けば、ジルは珍しく現れた。
シスターから頼まれた言葉を伝えて手紙を渡せば、ジルは最初にあの浜辺に打ち上がっていた手紙を見せたときのように泣き出した。
ジルはニーノよりも大きいのにとても泣き虫だ。前と同じように背中をさすってやれば、ジルは恥ずかしそうに、でも嬉しそうに泣きながら笑う。
封筒を見つめる目はとても愛おしそうで、なんだか見てはいけないものを見たような気持ちになったニーノは、ジルが泣き止んだのを確認して逃げるように彼の家を後にした。
あれからしばらくして、なんとシスターとジルは結婚することになった。
町の皆は驚いていたが、ジルがシスターを好いていることを薄々勘づいていた町の人は多かったので皆は二人をとても祝ってくれており、それを二人は嬉しそうに、幸せそうに受け取っていた。
シスターは今後シスターを辞めて、ジルと共に暮らすという。
ニーノはシスターがシスターとして最後の日を過ごす日も、変わらず教会に新聞を届けた。
シスターはとても幸せそうで、もうあの哀しい笑みを浮かべてはいない。
その日、ニーノは心の底から女神様に感謝の祈りを捧げた。だってニーノの祈りは聞き届けられたのだから。
いつものように教会の帰りに浜辺を歩いていると、ジルにシスターから受け取った手紙を渡したあの日から、見かけていなかったあの瓶が浜辺に打ち上げられているのを見つける。
だけどいつもと違うのは、コルクはなく、瓶の中に手紙も入っていないこと。
手紙は海の中に沈んでしまったのだろうか。ならばどうか。
(あの想いがいつか全て海に還って、彼女にとって優しい思い出になりますように…)
その日以降、あの手紙の入った瓶が浜辺に打ち上げられることは、終ぞなかった。