第1話『イントロダクション✖アブダクション』
それはかなり唐突に始まった。
(あ、これ夢じゃない。まただれかに繋がったんだ。はーもー寝れないパターンきたわ)
最初に視界に入ってきたのは、車のフロントガラスだった。その後、視線は少し下に下がってハンドルとそれを握る両手の甲に注がれた。骨ばっていて血管が浮き出た感じは、この視点の主が男なのだと予想できる。
(なに今度は。コイツがなんか困ってんの?もう、いつも回りくどいんだよなー)
ヘックショイ、と少し大げさにくしゃみの音を車内に響かせた。それに合わせて視界が揺れる。荒っぽいくしゃみだ。やはり主は男だった。
左手首に付けた腕時計に目をやる。針は午後四時三十分を少し過ぎたところだった。再び視線はフロントガラス越しの景色に移った。どこか近くで蝉が鳴いている。
(どこ?ここ。こんなところどこにでもありそうだし、特徴ないし、わかんねー)
そこは一見して住宅地のど真ん中と分かる景色だった。車二台がギリギリで通り抜けられるほどの幅の道の両側には、家々の塀が続いている。真正面に見える家にはガレージがあり、黒塗りの高級外車が停められている。閑静な住宅街。その言葉を全身で表している街の景色をこの視点の主はただ眺め続けている。
(コイツ何やってんの?とりあえず、道に車を停めてんだな。なにか・・・だれかを待ってる?あ、わかった、彼女だ。そんで別れ話でも始まるんだ。それな!)
男が左手を伸ばしカーステレオのスイッチを押す。すると大音量で音楽が流れ始めた。少女たちの可愛らしい声がスピーカーから聴こえてくる。
(コイツ、乃美坂のファンかよ。これ、ホントに彼女来んのか。いやそもそもいるのか?なんか怪しくなってきた)
底抜けに明るい、片思いを唄った曲の間に、ところどころ男の溜息が混ざって聴こえてくる。苛立っているのだろう、溜息の数が次第に増えていき、その度に腕時計を見遣る。
(やっぱだれか待ってんだ。そいつがなかなか来なくてイラついてる。でも、ホントにそれだけ?それだけのことで〝助けてくれ〟って叫んだの?んー、なんか変。今までとなんか違う)
男が腕時計の針の位置を確かめることをやめ、視線をまたも前方に移した時だった。男の視点が一瞬人の姿を捉えた後に、不安定に四方八方に散らばった。その動きが余りに激しくブレるので、それを強制的に見せられている方はたまったものではない。
(ちょっと、なんなの急に!何が起きたの!落ち着け、ちょっと落ち着けよ!おえー)
フーッと一度大きく息を吐くと、次第に男の焦点がある一点に集中してきた。その一点の中心にいたのが、一人の少女だった。少女は少し俯きがちに歩きながら、真っすぐにこちらに向かってくる。
スカートの丈は長く、制服は上下とも地味な紺色。黒皮のスクール鞄を肩に掛けている姿から、一見してその少女がまだ幼さの残る中学生であることが知れた。
動揺の治まった様子の男の視線はもはや少女に釘付けと言っても良いほどに全く動かない。それは〝凝視〟という表現が正解かもしれない。
男が余りに少女を凝視するため、彼女の容姿が細部まで分かる。スラリと長く伸びた手足。身長は一六〇センチくらいはありそうだ。背中まで流れたサラサラとした美しい黒髪には白い天使の輪が広がっている。切れ長の瞳に長いまつ毛が少女に年齢よりも大人びた印象を与えた。
(はぁーめちゃかわいい)
どことなく憂いを帯びたようなその表情の細部をまでを見て取れるほどに少女が車に近付いた時、男が動いた。勢い良く運転席のドアを開けると、それを閉めることなく駆け出す。車のフロントについた自分の手を一瞥しながら回り込み、次に家の門柱を通り過ぎようとしていた少女の背中に視線を移す。彼女の背中に二メートルほど近くで男は止まった。
(え、コイツこの子のなんなの?え?え?)
「あの、ニシノオトハさんですか?」
男が少女に声を掛けた。落ち着いた、硬質で少し低めの声音だった。
(ん、意外とイケボじゃん)
オトハと呼びかけられた少女は、突然背後から声が聞こえてきたためにビクリと肩を動かして振り向いた。その表情は強張っている。辛うじてそれだけできた、と言う様に少女は小さく頷いた。
「僕はキムラといいまして、お父さんの働いている会社の者です。落ち着いて聞いてね。お父さんが会社で急に倒れちゃって、病院に運ばれました。それでお母さんも先に病院に向かっています。さっき学校に連絡したんだけど、オトハちゃんが下校した後だったからここで帰りを待たせてもらっていたんです。急なことで驚いただろうけど、これから僕と一緒に病院に行こう。車に乗ってもらえるかな?」
(マジか!それでこのイケボ、女の子のこと待ってたんだ。なかなか帰って来なけりゃ、そりゃイラつくわな)
男はほとんど息継ぎもせずにそこまでを一方的に伝えると、振り返って背後に止めた車を見た。そしてもう一度少女に視線を移すと、一歩後ろに下がって「さあ」というように右手を車に向けて彼女を促した。やがて男にオトハと呼ばれたその少女が硬い表情のまま車に向かって一歩を踏み出すと、それを先回りして後部ドアを開けた。オトハがわずかな音も立てずに静かに乗り込む。その一挙手一投足を見届けると、男——キムラは先程とは打って変わってゆったりとした動作で運転席に回り込んだ。そこで初めて自分がドアを開け放したまま少女を追ったことに気が付いて、それを微かに鼻で笑った。確かにキムラは笑ったのだ。
(え?)
キムラは車のエンジンをかけ、ルームミラー越しに後部座席のオトハを一瞥した。自宅を見詰める横顔には、不安の色が痛々しいほどしっかりと張り付いていた。
「それじゃあ、出発しますね」
タクシー運転手のようなキムラの掛け声とともに、車は緩やかに発進した。
二人を乗せた車はしばらく住宅街を右に左に走り続け、やがて広い国道に出た。キムラは次第にスピードを上げて次々と周囲の車を追い抜いていく。それは一見病院へと急いでいるように見えるのだが、ドアミラーを何度も見遣るその様子にはどこか後方を気にする素振りも感じられる。
(なんだろう、やっぱりなんか変。うまく言えないけどなんかコイツやばい気がする。でも運転し始めちゃったし、今抜け出すと危ないからもう少し見てるしかないな)
急にスピードを落として国道をそれた車は、周囲を水田に囲まれた一本道に入って行った。眼前には山道に続く上り坂が見えている。
ポツリ、と一滴の雨粒がフロントガラスに当たった。キムラはもう一度バックミラーに目を遣った。オトハの切れ長の瞳と視線が交わって、咄嗟にキムラは目を逸らした。フロントガラスには次々と雨粒が当り出し、本格的に雨が降り始めた。
真夏の夕立は、いつだって唐突にやってくるものだ。
「オトハちゃんは中学何年生?」
キムラがそう後部座席の少女に向かって話しかけたのは、車がちょうど山道を登り始めた時だった。
「二年生、です」
キムラの視点は叩きつけられたように勢いを増してぶつかる雨粒に注がれていたから、オトハがどんな表情で返答したのかまでは分からない。けれどその震えてか細い声を聞けば、少女が不安げに眉根を寄せている様子が容易に想像できた。
キムラは「そう」とそっけなく呟いただけで、車内には再び沈黙が充満した。
(なんかしゃべれよ、気まずいなぁ。って、なんでこっちが気まずくなってんの)
「あの、お父さん、大丈夫なんですか?」
居たたまれなくなったのか、オトハが声を発した。それは当事者として当然の問いだった。けれど運転席の若い男は一向に言葉を発する様子がない。視点がワイパーの動きを追う。
しばらくしてから、ようやくキムラは問いに答えた。
「ごめんね。僕も詳しく分からないんだ」
「そうですか——」
(なんだよこいつ、使えねー)
上りの山道の両側には鬱蒼とした木々がこちらに迫ってくるように屹立していた。車はつづら折りの坂道をぐんぐんと登っていく。無言の二人を乗せたまま、やがて頂上付近に辿り着いた。
視界が開けると、道の右側には太陽光発電のパネルが辺り一面にずらりと数えきれないほど並んでいた。左側は相変わらずの森だ。車は急に右にハンドルを切ると、発電施設に続く小道に入っていった。
迷いなく前方を見つめ続けるキムラのその物言わぬ視線が、『道を間違えた訳ではない』ということを雄弁に語っていた。重苦しいような空気が車内に充満していた。
「病院って、どこの病院ですか?あとどのくらいで着くんですか?」
ただならぬ気配をキムラの運転から感じ取ったのか、オトハが再び声を掛ける。やはりキムラはそれにはすぐに答えない。
(なんとか言えよ!お前いったいどこに向かって——)
車が突然急停車した。視界が上下に揺れる。ブレーキの甲高い音が耳の奥まで響いた。
後方から呻き声が聞こえると、キムラは振り向いてオトハを見た。両親のしつけが行き届いているのだろう、シートベルトをしっかりと着用していた少女は驚いてはいたものの姿勢を少しも乱すことなく座っていた。
キムラの両眼はオトハに注がれていた。正確に言うと、オトハの顔だけを凝視していたのだった。それは気分が悪くなるほどの湿り気を帯びた視線だった。
ククク、と渇いた笑い声が不意に聞こえてきた。オトハの顔から次第に血の気が引いていくのが見て取れる。
(ヤバいって!なんで笑ってんの、こいつ。頭だいじょうぶか?)
オトハは弾かれたようにビクンと身体を震わせると、キムラの視線から目を逸らしてシートベルトを外した。そのままドアに手を掛けて肩からぶつかるようにして開けようとした。
けれどドアは開かない。ガチャガチャと乱暴に動かしてみても、全くもって徒労に終わった。そんなオトハの様子を、キムラは聞いている方が薄ら寒くなるような気味の悪い笑い声を立てながら眺め続けている。
「ダメだよ、ドアは開かないって。内側からは開けられないようにしてあるんだから」
当然のことを、とても当たり前にキムラは言ってのけた。けれどそれは考えれば考えるほどに異常さを増していく。
(これじゃこの子逃げらんないじゃん・・・。助けなきゃ!今すぐこいつから抜け出すんだ!んー、ぬ、け、だ、せー!)
「どうして——」
この異常な状態を瞬時に理解することなど、大人にも困難であっただろう。少女にはそのように一言小さく呟くのが精一杯だった。キムラは満足そうに「いいねーいいねー」と何度も繰り返した。
やがてそれにも飽きたのか、一度咳払いをすると急に冷たく突き放すような口調に変えて、
「病院になんて行かないよ。なんでか分かる?」
オトハはもはや怯えきってしまっていて声も出せないでいるようだった。キムラの視線が急に自分の手元に移った。右手にはスマートフォンが握られている。左手の指で画面をスライドしていき、目当ての部分に行き着いたのか、そこでパッと止めた。
(ぬーけーろーってば!)
キムラがしばらくの間じっと見詰めていたのは、SNSの投稿だった。
「九分前のツブヤキです。【今日も就活生さんたちの熱い想い、たくさん受け止めさせて頂きました!そしてお約束のこの質問!あなたの今の夢を聞かせてください。今。now。オリジナリティ溢れる夢の数々に目頭が熱くなりました!】だって。カリスマ気取りのクソ発言いただきましたー。さてここで問題です。これは一体誰のつぶやきでしょうか。十秒以内に答えてください。答えられなかった場合は・・・。一体どうなっちゃうのかな?はい十——九——」
キムラの始めたカウントダウンは、それが他愛無い様子であればあるほどオトハにとっては不気味に感じたようだった。目を泳がせてあれこれと考えている。キムラはカウントしながらそんな少女のことを眺め続けていた。
「五——四——さ」
「お父さん!」
不意にオトハが叫んだ。目をきつく瞑って、両手を固く握りしめて。
ゴツンと音を立てて何かがオトハの足元に落ちた。それをキムラ自身が目で追う。それは彼の掌から滑り落ちた自分のスマートフォンだった。
「せいかーい。なんで分かったの?つまんないなぁ、マジで。最近の親は子供に自分のツブヤキを見せたりすんの?」
「お父さんは会社にいるんですか?病院って嘘だったんですか?」
堰を切ったようにオトハの質問が飛ぶ。恐怖よりも疑問に思う気持ちが勝ったようだった。
(アーだめだー!どうして抜けられないんだっつうの。前はちょっと力入れたらできたのに。どうしよう、このままずっとこうだったら・・・。だーっ!絶対にイヤ!うつせみぃ、たーすーけーてー)
「うるさいなぁ!あのさぁ、お前自分が置かれてる状況、分かってる?」
キムラの口調が苛立ちを帯びてきたのを感じ取ったのか、オトハの顔に怯えの色が戻った。激しさを増す雨音が、目前に迫る恐怖と不安をしきりに煽っている。
「そうそう、その顔だよ。たまんないなぁ。あのね、お前は俺に誘拐されたの。・・・しっかしすげぇ雨だな。これじゃ、ここで俺に裸にされようが殺されようが誰も分かんないな。ここらへんてさぁ、もうぜんぜん人が来ないんだよなぁ」
自分自身の言葉に高揚して声を上ずらせたキムラは、運転席と助手席の間から後部座席に腕を伸ばそうと身を乗り出した。オトハの腕に手を掛けた時、少女の唇が小さく動いた。咄嗟の事で聞き取れなかったキムラは「あ?」と一言聞き返した。
「誘拐、してくれるんですか?」
(は?なんだって?)
キムラの動きが完全に静止した。たった今発せられたその言葉の意味を理解しようと、必死に頭を回転させているようだ。車内には雨音だけが鳴っている。
オトハはキムラの手を振り解くと、自らの手で制服の袖を捲った。それをキムラに見せつけるように突き出した。その時——。
終わりは始まりに似て、唐突に訪れた。
(え、なに、急に〝眼〟がぼやけてきた・・・。嘘でしょ、なんで今ここで抜けるの。なんかおかしなことになってきてたのに!逆に今は抜け出したくないのにー!)
視界は急激にかすみ出し、程なくして漆黒の闇に閉ざされた。遠ざかる意識の中、かすかに誰かのささやき声が聞こえた気がした。
断続的に聞こえるそのささやきは、結局最後まで意味を為すことはなかった。
*
ガバッとタオルケットを蹴飛ばし、若い女がベッドの上で飛び起きた。
しばらくの間、虚空を見つめて呆然としていた。
やがて彼女は大きなあくびを一つした後、続けてくしゃみもした。忙しいことこの上ない。
ボブヘアーの髪はボサボサでところどころハネていて、それが彼女のだらしのなさを際立たせているようだった。着ている薄紫のTシャツも首回りがよれてダブついているのは、ダメ押しの一手である。ショートパンツから覗く素足は短足ぎみで幼さすら感じさせる。
顔の造り自体は整っている方なのだが、目の下のクマが尋常でないくらいに黒々としているために、呪われた人形のような見た目に成り下がってしまっている。
一言で表してしまえば、〝変なやつ〟なのである。
その変なやつは突然ハッとして目を見開いたかと思うと、ベッドの真横にある小窓のカーテンを勢い良く開けた。
土砂降りの雨だった。
「今度のもやっぱり近い、気がする」
変な女はそう独り言を漏らすと、枕元に転がっていたスマートフォンを手に取って操作してから、それを耳に押し当てた。
「もしもし。あたし。え?もうめんどくせーな。コードネーム、ブルームーンだよ!」
自らのことをブルームーンと名乗ったその女は酷く慌てた様子で、息継ぎもせずに電話の相手に一気にまくし立てた。
「うつせみ、事件だよ!事件!また〝視た〟んだって、誰かの目になって。今からそっちに行くからウルフアイ呼んどいて!あ、ココアも用意しといてよ!あったかいやつ。冷たいのじゃないからね!分かった?」
酷く一方的な通話を終えると、ブルームーンはベッドからようやく起き出した。着の身着のまま部屋のドアに向かおうとして、壁際に設えられた瀟洒な鏡台の角に左足の小指を勢いよくぶつけて「ぎゃあ」と呻いて蹲った。
全くもって、騒々しいことこの上ない。
動き出したら猪突猛進。ブルームーンという女はそんな人間だった。
騒々しい物語が今、始まりの合図を騒々しく『ぎゃあ』と告げた。今度はイヤホンを思い切り踏んづけたのだった。
*
郊外の街、穂美月町は都市部で働く者たちのベッドタウンとして発展してきた。
この街に入るとすぐに目に入るのが、縦横に整然と並んで建てられたマンション群だ。それはまるで巨大なドミノ倒しのようだった。外観は無味乾燥としたむき出しのコンクリートで統一されていて、威圧感すら感じられた。
しかし、そこに住む人々は街全体の持つそんな重々しさにはすっかり慣れ切っているようで、マンション群の隙間を利用して設置された小さな公園では子供たちの歓声がいつも聞こえていたし、それを見守る母親たちも井戸端ならぬ公園端で会話に花を咲かせていた。
どこにでもある平凡で平和な街だ。あくまでも〝目に映る範囲内においては〟という注釈付きで。
そんな穂美月町の住人たちは、そのおよそ九割がある一つの企業の社員とその家族で構成されていた。数多のドミノマンションもその企業の所有物であったから、実質的に穂美月は企業の社員たちのために形成、発展してきた街とも言える。
総合商社・『鶴丸エンタープライス株式会社』。それがその企業の名称である。
エネルギー、IT、建設業に輸出入。全世界を股にかける超がつくほどの大企業は、穂美月町から電車に揺られて三十分ほどの距離にある月読市に本社を構えていた。その創業者一族、鶴丸家の邸宅が穂美月にあるのだ。自らの住む街に自らの会社の社員たちを住まわせる。その様はまるで一国の主だ。実際、鶴丸家の邸宅は街を一望できる小高い丘の頂にあり、その丘を守り固めるようにマンションが半円形に並んでいるのである。
鶴丸一族が何故そのような街を形成してきたのか。その目的や経緯は社員の誰一人として知らなかったし、また考える者もいなかった。それを知る者は、鶴丸の歴代当主ならびに会社の最高幹部の数名のみであった。
その鶴丸家所有の別邸が、穂美月町の南端にある。
その別邸は鶴丸家現当主、鶴丸幹二の次男、亮介にあてがわれていた。彼はそこで悠々自適な独身生活を謳歌していたのだった。独り身とは言っても、屋敷には住み込みの執事が二人にメイドが三人、それから通いの料理人すらも随時雇い入れている。彼は正真正銘の独身貴族だった。。
そんな亮介の日常は決まりきった金持ちのそれである。
日がな一日読書に明け暮れている日もあれば、執事兼運転手の運転で都市に出かけてオペラ鑑賞に出かけたり、時にはどこで知り合ったのか分からない一流女優級の美女と邸宅でディナーを楽しんだりしている。そんな万人が羨む夢のような生活が送れるのも、結局は生まれ落ちた先が『鶴丸家』であったからに他ならない。父、幹二は目の中に入れても痛くもない。可愛い次男坊に何一つとして自らの主義を強要することなく育て、今もその延長線上の大草原の中に彼を放し飼いにしていた。
それが鶴丸亮介の、近しい者たちが知る〝表〟の顔であった。
「まーとりあえずですね。そのキムラって男が今回のターゲットで、そんで青月ちゃんに助けを求めたであろうそのキムラは、よりにもよっていたいけな少女を誘拐した。それはもはや加害者じゃないですか、と。で、そのキムラの居所をお前すぐに割り出せやと。——できるかそんなもん!」
まったく情報が少なすぎるんですよ毎回毎回、と超大型ディスプレイに映し出された丸メガネの若い男が、ブツブツと文句を言っている。癖のないサラサラとした髪をかき上げてなおも何か不満をぶつけようとした男の言葉を、荒っぽい女の声が遮った。
「しかたねーじゃん!あたしが自分で見てるわけじゃないんだから!そいつが好き勝手に見てることを必死に覚えようとしてたんだよ、あたしは。どんだけ苦労してると思ってんの?あんたいっぺんやってみ!」
照明が消されて、ディスプレイの放つ光に照らし出されているのは、一組の男女だ。女は例の〝変なやつ〟ブルームーン。ベッドから飛び起きた時と全く同じ服装である。なおもディスプレイの中の若者を睨みつけながら、ズズズとマグカップのホットココアを啜っている。
男の方は仕立ての良いスーツを着こなし、高級そうな皮椅子に深く腰掛けて長い脚を優雅に組んでいる。そうして大きな会議テーブルを挟んで向かい側でいきり立つブルームーンを面白そうに眺めていた。
「ちょっとうつせみ!このオタク野郎になんか言ってやってよ!」
〝うつせみ〟と呼ばれた男が、この邸宅の主、鶴丸亮介だ。つまり、空蝉という名の男の顔が亮介の裏の顔なのである。彼が邸宅の地下にあるこの一室で一体何をしているのか。それはここにいるブルームーンとディスプレイに映し出されている若い男、そして空蝉の三人にしか分からないことだった。
「青月ちゃんじゃない、ブルームーンだ」
「そこかよッ⁈」
ブルームーンとディスプレイの中の男の声が図らずもユニゾンした。
ゴホンと一つ空咳をして、亮介もとい空蝉が真剣な面持ちになって言った。
「ブルームーンが目覚めてからもうすぐ三十分が経つ。ターゲットの方が意識を取り戻すまで時間がないだろう。いや、あるいはもう行動を再開している可能性だってある。それほどに私達には不確定要素が多過ぎるのだ。その中にあってウルフアイの知識、経験はなくてはならないものだ」
空蝉に褒められて、満足そうな笑顔がディスプレイいっぱいに広がった。男の名を空蝉は『ウルフアイ』と呼んだ。それがこの男のコードネームだった。
それとは真逆に、ディスプレイに今にも飛び掛からんばかりの勢いで睨みつけるブルームーンを一瞥して、空蝉は続けた。
「しかしながら。そのウルフアイの秀でた能力を発揮させるためには、やはり情報だ。圧倒的に情報が足りないのは事実。それを埋め合わせるためのピースは、ブルームーン。君のここにある」
そう言って空蝉は自らのこめかみをトントンと指で叩いた。
「君の〝視る力〟と記憶力、それだけが今の私達の——」
——希望だ。
少し間をおいて空蝉がそう言うと、ブルームーンも鼻の孔を広げてニンマリと笑った。
ブルームーンは椅子に座ると、腕組をしてから天井を見上げた。目をこれ以上ないくらいに大きく開けて一点を見つめる。右足のかかとを、最初はトン、トンとゆっくりとしたリズムで床につけて離す。次第にそれは速度を増し、最終的には物凄い速さの貧乏ゆすりに変化した。その間も瞬き一つせずに天井を見つめ続けていた。彼女をじっと観察していた空蝉は、彼女の目の下のクマが一層黒くなったように感じた。
優に五分はそうしていただろうか。沈黙を破ってブルームーンの囁きのような独り言が始まった。
「最初キムラの車が止まっていた場所から、真正面の大きな家が見えた。そこに車が停まってて、そのナンバーが——」
「よし、青月ちゃん!いいよいいよー」
ウルフアイが茶々を入れると、すかさず空蝉が「静かに!」と一喝する。ブルームーンに変化はなく、なおも囁きを続ける。
「——月読77、25—31。それから、オトハの家の門にニシノタカシって書いた板が貼ってあった。東西の西に野原の野、タカシは・・・。うつせみ、メモ取って」
ブルームーンは渡されたメモ用紙に『隆志』と書いた。それをウルフアイに見せる。
「西野隆志。それがオトハの父親の名前か」
空蝉の発言にウルフアイも頷く。
相変わらずの高速貧乏ゆすりを繰り返しながら、ブルームーンはメモ帳にグリグリと円を描き続けていた。やがてハッと頭を上げると、一気にまくし立てた。
「ソーラーパネルがたくさんある場所!その入り口に看板があった!あいつ、キムラのやつ、チラっとしか見なかったからほんと一瞬だったんだけど、原って漢字があった。なんとか原ソーラー発電所?みたいな。それとめちゃくちゃ雨が降ってた。あたし、起きてすぐに窓の外見たんだけど、降ってたんだ、雨。夕立だった。だから今回もこの街の近くで起こってた事だと思う!」
そこまで話してから、ブルームーンは空蝉の方を見た。今思い出せることはこれだけだ、とその目が語っていたから、空蝉は頷いた。
「ウルフアイ、どうだ」
そう振られたディスプレイの中の男は、親指を立ててそれに応じた。
「キーワードは三つ。車のナンバープレート。西野隆志。そしてソーラー発電所。五分、いや三分ください」
ウルフアイは言い終わる前にすでに手をキーボード上に置き、視線をパソコンのモニターに向けていた。それからちょうど二分五十秒後に奇声を上げた。
「刈稲町の芦ケ原ソーラー発電所!そこにキムラがいます!」
「やるじゃん」
ブルームーンが腕組をしたままでウルフアイに賛辞を呈した。力こぶを作っておどけたウルフアイに思わずクスリと笑ってしまって、ブルームーンは慌ててそっぽを向いて表情を隠した。
「私だ。すぐに車の用意を。急いでくれ」
テーブルの端に置かれた受話器を取って、空蝉が執事に命を下した。
空蝉が受話器を置くのを待たずに、ブルームーンがドアに向かって駆け出していた。
「うつせみ!はやくッ!」
ドアを開けながら一度振り向くと、怒鳴り声を浴びせて促す。そうしてさっさと出て行ってしまった。
空蝉は苦笑しながら小さく何かを呟くと、ブルームーンを追って小走りに退室した。
取り残された形になったディスプレイの中のウルフアイは思い出したように、
「空蝉さんって、青月ちゃんのことほんと好きなんだなぁ。『希望』、だもんな」
と独り言ちてから、会議通話をシャットダウンした。
*
穂美月から隣接する刈稲町へと延びる国道を、一台のスカイブルーのミニクーパーが疾走していた。クラシック車ではなく、現行のBMW社製のクラブマンである。
運転席に座っているのは空蝉だ。ステアリングをしっかりと十時十分の位置で握っているところに、彼の几帳面さが良く表れていた。
「ねぇ、さっきのウルフアイさ、どうやって三分で発電所の場所を探し出せたんだろ」
大きなあくびをしたあとで、助手席のブルームーンが疑問を口にした。空蝉は前を見ながら容易くそれに答えながら、流れるような運転で車線変更を繰り返して進行していた。
「彼にとっては容易なことさ。まずは君が覚えていた、車庫に停められていた車のナンバーを交通課のデータベースから照合したのだろう。そこからその車の停められている車庫及び住宅の住所が分かる」
そこで空蝉は言葉を切った。ブルームーンの反応を待っている様子だ。「ふーん」と小さく呟いたブルームーンは、しばらくの間黙って、それから再び疑問を呈した。
「でもさ、その車がその家のもんって限らなくない?友達がたまたま来てたのかもしれないし。そしたら全然違う住所が出てきちゃうじゃん。その車の持ち主の」
予測済みの反応だったのだろう。空蝉は口元に微かに笑みを浮かべて、ブルームーンの意見に一言だけ「そうだな」と応じた。
「あ!だからか。オトハのお父さんの名前だ!」
空蝉が回答する前にブルームーンが先に気が付いた。そのことにも、彼は満足そうだった。まるで個人授業中の塾の講師とその生徒のようだ。教室は車内という、いささか風変わりな場所ではあったが。
「ご名答。ウルフアイは保険をかける意味で、今度は西野隆志氏という名前の線を、先の車の所有者宅と結び付けたのさ。車の所有者の自宅住所の近所に、西野隆志氏の住宅があればまず間違いはないだろう。そのあとは簡単だ。割り出した地域の近辺、自動車で行ける距離にあるソーラー発電所を当たればいい。山の中にある、大規模な発電所はおのずと限られてくる」
「ふーん。あいつも無駄に警察官やってるってわけじゃないんだ」
ミニクーパーが交差点で右折ラインに入った。
「ブルームーン、この先が山道に至る一本道だ。見覚えはあるか?」
空蝉にそう問いかけられて、ブルームーンが右を向く。空蝉の頭越しに一本道をじっと見つめる。その先は山へと続いていた。
「そう、この道。まわりに田んぼがあったし、山も見えてた。ここをキムラも曲がったんだ。このへんで雨が降り始めた」
道路にはところどころに大きな水溜りができていて、相当な雨量のあったことを物語っていた。ブルームーンの視覚記憶に相違がないと確信した空蝉は、コクリと頷くと、信号が青に変わるのと同時にアクセルを踏み込んで一本道へと入っていった。そのまま山道に向かって猛スピードで駆け抜けて行く。一刻の猶予もない、という焦りすら感じられる。
ブルームーンの『能力』には確定的なルールが見出されていなかった。少なくとも今、この時点においてまでは。彼らの〝活動〟はまだ始まったばかりなのだ。
ルールが定まらなければ、一回一回の事案が一度きりの賭けのようなものだった。
真夏の日は長い。すでに時間は夕方の六時を回っていたのだが、未だに太陽が放つ日差しは明るく、そして強い。山道に入ると、木陰が出来る分、その光も遮られて眩しさも和らぐ。
ミニクーパーはぐんぐんと山道を登っていく。つづら折りのヘアピンカーブが五分も続けば、自然と眠気が差してくる。ブルームーンもご多分に漏れず、コックリと舟をこぎ始めた。その直後のことだ。
しっかりと閉じた瞼の裏が唐突に明るくなって、心地よい眠りは無残にも終わりを告げた。チッと舌打ちをしてブルームーンが薄目を開ける。また少し、目の下のクマが濃くなったようだ。
山道を抜けた先は、見通しのいい直線道路が広がっていた。頂上へ行き着いたのだ。
そして右斜め前方に、無機質なソーラーパネル群が屹立しているのが見えていた。
「あれだ」
空蝉もそれに気付いて、思わず呟いていた。そうしてまじまじとブルームーンを見つめる。
「なんだよ、ジロジロみるなよ」
空蝉の視線にくすぐったくなって、居心地悪そうにブルームーンが顔をそむけた。
「いや、すまない。君の能力、やはり本物だな」
「え?なんだよ、まだ疑ってたのかよ」
慌てて空蝉は否定の意味を込めて首を振る。その様子にブルームーンはクスリと笑った。
「うつせみ!スピードもっと上げて!早くキムラを捕まえよう!」
前を向き直ってブルームーンが叫んだ。空蝉は「ああ」とだけ返答すると、言われたとおりにアクセルを踏む。エンジンがブオーンと音を立てて吠える。発電所の入り口まで一気に加速した。
発電所の門のある小道の手前で、空蝉は車を停車させた。
「なんでここ?門までいかないの?」
ブルームーンが理解できない、というように眉根を寄せる。
「ばかな。私達は警察官ではないし、犯罪者を拘束する権限だって持ち合わせていない。ただの一般市民さ。危険なことだってもちろん出来ない。キムラのものと思われる車両を確認したら、すみやかに通報、正確にはウルフアイ経由で警察組織に報告する。この流れは絶対だ。さあ、車両を確認するぞ。くれぐれも悟られないように」
そう早口で捲し立てると、先に車から降りた空蝉が中腰で小道の入り口に近付いていく。入り口の両側には、奥に向かって土塀が続いていて、隠れて覗き見るには最適な環境だった。慌ててブルームーンも助手席から飛び降りて、空蝉の背中を追う。
すでに入り口の土塀の端に身を隠した空蝉は、ゆっくりと頭を小道に出していた。その様子を見てから、中腰になったブルームーンも空蝉の腰あたりから頭を出して恐る恐る覗く。
「——え?」
ブルームーンは叫ぶように声を出すと、空蝉の静止の声も聞かずに小道の中へと駆け出していた。
発電所の門前には一台の車も停まっていなかった。門も隙間なく固く閉ざされている。
「えぇーーー⁈いないじゃん!だれもいないじゃん!ウソだ!」
「ウソだーー」というブルームーンの悲痛な叫び声が辺りにこだました。
*
執務室のデスクの卓上に置かれた電話機が、不意にけたたましく鳴った。
『警察庁情報通信局・局長』鷲巣清史郎は落ち着き払った声で「鷲巣だ」と受話器の向こうの相手に名乗った。眼鏡をクイッと持ち上げて背筋を伸ばして真っすぐ前を見据える様は、一見すると神経質そうな印象を相手に抱かせるが、彼の目はどちらかと言うと垂れ目で目じりの皺が深いので人相見に長けた人間が見れば容易に彼の本質を見抜くことができるだろう。彼は元来、非常に温厚な気性の持ち主なのである。
「お世話になっております。鶴丸です」
受話器から聴こえてくる声は、鷲巣の良く知っている男のものだった。
「亮介君か。君から短期間にこんなに何度も連絡があるなんてな。初めてのことじゃないか?相変わらず忙しく立ち回っているとみえる」
警察組織にあって、内部のIT関連整備から世の情報系犯罪の取り締まりまでを一手に取り仕切る部局が情報通信局であり、そのトップの座にいる男が鷲巣である。その鷲巣とこうも気安く会話のできる人間はとても限られていた。それに直通の電話番号を知り得る人間となると、五本の指で足りるほどだ。
鶴丸亮介——空蝉という男を心底面白がっている者の内の一人。鷲巣清史朗という男を語る上で外してはいけない項目の一つである。
「そういう星の元に生まれたのか、自分から進んで妙な道に向かっていってしまう習性なのか判断に困りますが。それはそうと、少々厄介な状況に陥っておりましてね。局長の御助力を乞い願いたく」
鷲巣の目じりが更に下がった。少年の目そのものだ。彼は『面白い何か』の匂いを敏感に感じ取っていた。
「ほう、それはそれは。また『バラの少女』が悪夢にうなされたのかね?」
鷲巣が謎かけのような質問を投げると、相手は微かに笑ったようだった。
「また随分と詩的な表現をなさるのですね。そうです。悪い夢が現実世界に抜け出してきましてね、それをまた私達は追いかけているのですが。夢魔にまんまと逃げられまして」
「君こそ、文学で応戦か。乱歩みたいな表現で、僕は嫌いじゃないがね。それで、本題は?」
亮介は声のトーンを少し落として言った。
「ウルフアイに一つ大役を任せたいのですが、少々荒っぽい手段を使用しなければならないもので。これはもう彼の独断では決裁できないレベルの事案です。それで局長にお許しを」
対する鷲巣は困った声を出した。しかしその表情は笑顔のままだ。受話器越しで分からないのを良いことに、やはりこの男は亮介とのやりとりを心底楽しんでいるのだった。
「もう少し詳しく、その荒っぽい手段とやらの内容を聞かんと、僕も決裁はできんよ」
分かりました、とすぐに返事が返ってきた。
「大平洋建設の社内サーバーへのハッキング行為を許可していただけますか」
——ハッキング。鷲巣の背中がゾクリと粟立った。
「君たちの追う夢魔には、犯罪を犯しているという確たる証拠はあるのかね?」
すでに鷲巣の表情からは笑顔が消えていた。眼鏡の位置を再び直す。
亮介は即答した。
「はい。最悪の結果を迎えることだけは何があっても回避しなければなりません。逃した夢魔の住処を一刻も早く突き止めたいのです。その手掛かりが、というより住処の情報そのものがサーバーにあります。そう確信しているのです。正規の手順を踏まえての警察組織による捜査を待つ時間がない、そのような事案を扱うのが私達チーム。そしてどこまでいっても私達は〝民間〟です」
鷲巣も亮介の焦りをここでようやく理解した。
『バラの少女』の能力は本物だ。今でもその事実に躊躇っている自分もいるが、間違いなくあの能力には『誰にも気付かれていない犯罪行為を誰よりも早く感知する』という側面もある。それを目の当たりにし、自分は驚き、疑い、そして信じたのだ。
「今回も頼んだぞ、亮介君。いや、〝空蝉〟君」
鷲巣から投げ掛けられた言葉に、亮介は全てを許可され、一任されたと判断したのだろう。力強く「了解致しました」と返すと、最後に謝意を述べて通話を終えた。
椅子の背もたれに深々と身を預けて、鷲巣は深く息を吐いた。腹の上で手を組み、眼をつむる。
それからまた、少年の顔に戻ってフッと笑った。
*
平日にもかかわらず、多くの車が停められている刈稲町にあるパチンコ店の広い駐車場。
東西にある出入口のうち、東口付近に一台のワンボックスカーが停車していた。黒色の車体はワックスで磨き上げられていて、手入れが良く行き届いている様子だった。
ウィンドウにはスモークが貼られているため、外側から車内を覗こうとしても何も見えない。そのことから、この車両が自家用車ではないことが伺われた。
「主任。草薙さん、馬頭、戸枝、斎藤、以上4名の配置が完了しました。指示あるまでその場で待機でよろしいですね?」
運転席に座る三十代半ばの男が右耳のイヤホンを指で押さえながら、助手席の上司らしき壮年も終わりに差し掛かった様子の男に判断を仰いだ。
「牧田、お前ぺえぺえじゃねぇんだ。それくらい聞かなくったって分かるだろうが」
上司の男はそうどやしつけると、自らのイライラの元凶となっている後部座席の二人に顔を向けた。
「えーと、空蝉さんだっけか?こっちの準備は整ったよ。ところであんた、それって本名なの?」
男から見て向かって右側に座る人物は、空蝉だ。百八十センチを超える長身の彼には、ワンボックスの社内も多少窮屈そうに見える。空蝉は涼しい顔を保ったまま、胡散臭い者でも見る様な視線を向けてくるその男に対して言い放った。
「私の素性に関しては一切話す必要はないと言われていると、先程から何度も申し上げておりますが」
男はフンっと勢いよく鼻から息を出すと、顔を赤らめて怒鳴るようにして言った。
「鷲巣局長がな!こっちが下手に出てやりゃ良い気になりやがって。大体によって何で門外漢の情報系の局長が刑事部屋に口出してきやがるんだよ!俺はそれがまずもって気に入らねぇ。それにどこの馬の骨ともわからん民間人どもの協力をしろときやがった。しかもお前ら刑事はバックアップに回れだと?ふざけんじゃねぇ!ガキのお遊戯会じゃねえんだぞ。凶悪犯罪だ、これは。支援に回ってる場合じゃねぇんだ!頭にきた!服務違反だろうが命令違反だろうが知らねえが、今すぐこいつら叩き出して・・・」
「宇田川しゅに~ん、まずいですよー」と、牧田と呼ばれた運転席の部下が半べそを掻きながら上司の肩を掴む。その時上司は、外に出ようとして滑稽なほど大げさな素振りでドアに手を掛けていた。
そんな上司と部下の動きをピタリと一瞬にして止めたのは、空蝉の隣で少し前から寝息を立てていた若い女の一言だった。
「ごちゃごちゃうるせーな」
不機嫌の塊のように眉間に深いしわを寄せて、腕を組みながらメンチを切る。目の下にある漫画みたいなどす黒いクマが、メンチに一層の迫力を与えている。大の大人が一度ゴクリと唾を飲み下す音が車内に響いた。牧田も、宇田川と呼ばれた上司も、同時に生唾を飲み込んだのだった。
「ひとが気持ち良く寝てりゃ、でかい声出しやがって。どうすんだ、アア?目が覚めちゃったじゃねーかよ」
「ブルームーン、落ち着け」
空蝉が女の横顔に囁くも、クマ女の怒りは収まらない。眠りを妨げられた時のブルームーンの怒りが尋常でないことをこの場にいる誰よりも良く知っている空蝉は、結果大きくため息を吐くことしかできなかった。
「おい、ちょっと待て!あんた、空蝉さんよ。この女は一体なんなんだよ。車に乗り込んだ途端にグースカ寝出して、起きたと思ったら逆ギレか?俺らはコイツのバックアップを任されたんだぞ、刑事の俺らがだ。このわけわからん女の。おい、牧田。俺には全く理解できんぞ。この女のなにが——」
空蝉が宇田川の口を押さえようと手を伸ばした瞬間、それよりも先にブルームーンの足が飛んだ。ように見えた。
ブルームーンのロケットキックは、宇田川の顔面を的確に捉えていた。奇跡的に鼻血が出ることはなかったものの、顔の中心が赤くなっている。宇田川は右手で鼻と口元を覆いながら涙目でブルームーンを睨みつけた。しかしブルームーンは全く意に介さずに叫んだ。
「オンナオンナうるせーんだよ!名前で呼べよ。あたしはブルームーンだ!てかあたしたちには時間がねーんだよ。おやじの文句に付き合ってられる暇なんて一ミリもねーから。うつせみから話聞き終わったんだったら、さっさとキムラのウチに乗り込むんだから、なんにもわからねーただのオッサンはさっさとあたしに付いてこいやッ!」
なんだとこの野郎!と、宇田川も上半身を後方に乗り出して拳を振り上げた。ブルームーンも再びロケットキックを食らわさんと膝を持ち上げる。間に挟まれるかたちになった空蝉が、彼の長い両腕で二人のことを抑え込む。車内は押し合いへし合い、上下左右に揺れていた。外からその様子を見ている者がいたとしたら、完全に不審車両であった。
牧田のイヤホンに、不意に無線連絡が入ってきた。被疑者宅のアパート周辺で待機している刑事たちを取りまとめる、草薙巡査部長からだった。
「こちら牧田。はい、はい、え⁈了解。引き続き指示あるまで待機願います・・・。主任!木村が帰宅しました。動きますか?」
子供の喧嘩のようにブルームーンともみ合っていた宇田川が真顔に戻る。シートに背をもたせ掛け、まっすぐに前を向き、そのままの体勢でブルームーンに話しかけた。それは脅すような、試すような物言いだった。
「おい、お嬢ちゃん。俺は本当に今回のヤマはよくわからん。よくわからんが、あんたらの話、信じていいんだな?大事な部下の命を提供するんだ。こっちも遊びじゃねぇ。女子中学生が間違いなく誘拐されていて、そんでそのマル害をひっ捕らえに行く。中学生の顔、見たら分かるんだな?」
現行犯で逮捕できなければ、虚偽の通報をしたとして逆にお前たちを捕らえるぞ、と宇田川は言いたいらしかった。
しかし空蝉にはその脅しが理解できても、一方のブルームーンには何も響いてはいないようだった。
「何度も言わせんなっての。あたしはブルームーン!」
スライドドアに手をかけて、そして勢い良く開けた。瞬時に西日が差して車内の誰もが目がくらんだ。そして振り返ったブルームーンは、誰にともなく告げた。
「目になれるあたしは、最強だから」
*
築三十年越えのボロアパートのドアは、閉めるたびに「キイ」と甲高い泣き声を上げる。それが今はなお一層のもの悲しさを含ませて聞こえてきて、木村孝継は唇を小さく噛んだ。
(俺、何やってんだろう)
背中に感じるドアのひんやりとした感触が、孝継の頭を冷静にさせた。靴を無造作に脱ぎ、部屋に上がる。右側にある台所のシンクに皿や茶碗が洗われることなく置きっぱなしになっている事に気付いたが、見て見ぬふりをして閉じられた七畳の部屋の引き戸を開けた。
自分がこの部屋を出た時と全く同じ姿勢で、少女がちょこんと膝を抱えて座っていた。
膝におでこを付けて俯いていた少女が、顔を上げて孝継を見た。彼女の口元が微かに笑みをこぼしたように思えて、孝継は驚いた。実際のところ、それは彼の願望が見せた幻だったのかもしれたかったのだが、彼にとっては武者震いのような、後には引けない、引くことなど到底できない覚悟のようなものを再認識させた。
(どこまで行けるんだろう、コイツと二人で)
不意に去来した一抹の不安を掻き消すように、孝継は右手にぶら提げていたコンビニの袋を低いテーブルの上に置いた。
「腹、減ってるだろ?好きなもん選べよ」
孝継が少女を見下ろしながらそう言うと、彼女——西野音羽は「ありがとう」と呟いてガサゴソと袋の中身を物色し始めた。
音羽に目線を合わせるように、孝継も腰を下ろした。汗がポタリと一粒、腿の上に落ちた。それで初めて、クーラーを付けていなかったことに気が付いて、慌ててテーブルの上のリモコンを手に取った。音羽に目を遣ると、顔は全く汗ばんでいなかった。
(アンドロイドみたいだな)
孝継は、音羽と過ごしているこの短時間で、少女が抱えている〝何か〟の深さ、暗さを既に感じ取り始めていた。何より、この少女には表情のバリエーションが極端に少ない。表情筋が硬く張り詰めてしまっていて、決して緩むことがないのだ。そう考えると、先程見た気がした音羽の笑みも、たぶん気のせいだったのだろう。
「これ、いいですか?」
相変わらずの無表情さで、ボロネーゼのパスタを差し出してくる音羽に健気さを感じて、孝継の声のトーンは自然に和らいでいた。
「温めてやるよ。ちょっと待って」
音羽は素直にコクンと頷いた。
パスタを持って台所に立ち、電子レンジに入れた時だった。
ドアのベルが鳴った。思わずビクリと背中が震えた。
自然と部屋にいる音羽と目が合う。孝継は咄嗟に唇に人差し指を当てて「静かに」と音羽に指示を出した。それにもコクリと頷く音羽。
そうしているうちにもう一度ベルが鳴らされる。孝継は居留守を使うつもりでいた。結局合計で三度ベルは鳴らされたが、諦めたのかしばらくすると静かになった。
フウと静かに息を吐いた瞬間。
物凄い勢いでドアが叩かれた。ノックなどという優しいものではない。ドアをぶち破らんばかりの勢いだ。もはや手ではなく体当たりでもしているのではないか、というくらい激しい音と振動だった。それは一向に収まる気配がなかった。時折、「木村さん?いるんでしょ」という声も混ざって聞こえてくる。
(バレたのか?)
とりあえず孝継は咄嗟に思い立ち、音羽をトイレの中に入らせた。
深呼吸をすると、ドアは開けずに外に向かって声を掛けた。
「いますよ、いるから!ちょっとドア壊さないで!何なんだよもう」
孝継の声掛けで、ドアの向こうの何者かの動きが止まった。何かブツブツと言っているようだが、良く聞こえない。ただ文句を言っているのだということだけは分かった。
「ヤマモト運輸でーす。お届け物にあがりやしたー。えっと、なんかアニメのDVDみたいっすねー」
それは女の声だった。最初その女の言葉に強烈な違和感を感じたが、すぐにそれが何なのか分かった。配達員は、普通荷物の内容まで言うことはない。断じてない。ドアを開けてはいけないという至極真っ当な自分の声がある中で、先程のドアを破壊しかねない勢いといい、言動の異質さも相まって「適切に対応しなければ何が起こるか分からない」という恐怖も多分に芽生えた。
普段の孝継であれば、適当にあしらっておいて、しつこくされるようなら警察に通報でもできた。だが今はそれがどうしてもできない。波風を立てられないのだ。
彼は既に捕縛されるのに十分な罪を犯してしまっていたのだから。
結果、孝継はドアを開けてしまっていた。
小柄な女が立っていた。一応、ドライバー風の作業着を着てはいるが、どこか違和感がある。着慣れていない、取ってつけた感があるのだ。それから、帽子を目深にかぶっていて人相が良く分からない点にも警戒心を抱かせた。
「はいコレ荷物っすねー。どぞ。んで、サインくださーい」
押し付けるように小さな段ボール箱を渡してくる。間髪入れずに伝票も差し出す。
女は孝継の背後に視線をやっているように思えた。
(まさか覗こうとしてるのか)
そう思った時だ。
「いた、いた、いたたたたた」
目の前の女が蹲った。腹を抱えている。
「ちょっと、なに、どうしたの」
腹が痛いのだろう、「いたたた」という呻き声を繰り返すだけで一向に立ち上がる気配がない。目の前で巻き起こる展開に付いていくことが出来ず、孝継は音羽の存在を忘れてしまうほど、この配達員の挙動に右往左往させられてしまっていた。
「と、とい、れ」
女が何かつぶやいたが、良く聞こえず「え?」と聞き返した。
「トイレ、貸して」
孝継は一瞬呆気にとられた。そして我に返って全身で拒絶した。
「ダメだよ、ダメ。そのへんのコンビニに行きなよ。ちょっと、伝票にサインしたいけどボールペンとかないの?」
配達員はそんな孝継の当たり前の質問にも全く答える余裕がないらしく、一層大きな声で、
「死ぬー、殺す気かー!」
と物騒な言葉を叫んだ。そして、どけやコラ!と怒鳴ると、素早い身のこなしで部屋へと土足で駆け上がった。
慌てて女の背中を目で追うも、狭い1Kのアパートのことだ。トイレなどすぐに見つけられ、女が勢い良くトイレのドアを開くその挙動の一部始終を、孝継は玄関に棒立ちになったまま見続けることしかできなかった。
「あ」
トイレのドアを開いた配達員が、一言呟いた。
孝継の位置からはトイレの中は見えないが、そこには間違いなく目を丸くして女のことを見詰める一人の少女の姿があるはずだ。その時の孝継の頭の中には、これからこの配達員に向けて放つ罵声の案が目まぐるしく浮かんでいた。
(大丈夫だ。妹だって言い張ればいいんだから。ていうか、なんだこの失礼な奴は!)
孝継が配達員の女に向かって口を開きかけたその時、相手がくるりと振り向いた。思わずぎょっとして孝継が後ずさると、信じられないことを配達員が口にした。
「いたぞー!オトハだー!」
それは玄関の外に向かって放たれた。
その声が辺りに響き渡ってから間髪入れずに、どかどかと威圧的な靴音を轟かせて数人の人間が部屋の玄関になだれ込んできた。
先頭に立ったのは、姿勢の良い女だった。皺ひとつない黒のパンツスタイルのスーツを颯爽と着こなす様は、対峙する者に強力な威圧感を与えた。整然と切りそろえられたボブヘアも黒々と艶やかで、そうなるともう全身が黒ずくめだった。
彼女は胸ポケットからエンブレムの付いた手帳を取り出すと、
「月読警察署捜査一課の草薙です。あなたを未成年者誘拐の罪で現行犯逮捕致します」
草薙が背後に控えた男性刑事に目配せする。手錠を持った刑事が孝継に近付いた。
不意にドタッと物音がして草薙がその方向に目を向けると、作業着姿の女が尻餅をついていた。それはトイレから飛び出してきた少女が女を突き飛ばしたからだ。
少女は大きな声を出して叫んだ。
「その人、悪いこと何もしていません!わたしを、助けようとしてくれたんです!」
孝継は音羽のその叫び声を聞いてから、少し安心して思った。
——なんだ、コイツ強い人間じゃないか。僕なんかと全然ちがうじゃん。
*
「確かに僕は、キムラが重度のアニメ好きだって情報、軽く提供はしたよ?だからって安直にDVDの宅配だなんて、また無茶苦茶なことを・・・。青月ちゃん、そんなんじゃ命がいくつあっても足りないよ」
ディスプレイ上のウルフアイは、心底心配しているという風に眉根を寄せている。しかしそれが本心で言ってはいないことをブルームーンは理解していた。目元が微かに緩んでいるのだ。
「あんたさ、ぜったい面白がってるっしょ」
目は口ほどにものを言う。ブルームーンが唯一知っていることわざだ。最近、空蝉から教えられたのだ。今のウルフアイにうってつけのことわざで、ブルームーンはその意味をこれで完全に理解した。
「いやぁ、それにしてもですよ!空蝉さんの名推理がなかったらこの事件、こんな短時間に解決してないですよ。まぁ、それには青月ちゃんの観察眼も必要不可欠だったわけですけど。二人って、ホームズとワトソンみたいな名コンビに——」
「話を逸らすんじゃねー!」
急に饒舌になって語り始めたウルフアイに、ブルームーンがついに憤慨した。
鶴丸亮介邸の地下ミーティングルームでは、空蝉、ブルームーン、そして遠隔通信でウルフアイが一堂に会していた。今回の『刈稲町・女子中学生誘拐事件』の考察及び今後の対策を話し合うために。
「——私はホームズが良い」
不意に空蝉がぼそりと呟いた。意味が分からず無反応なブルームーンと、笑いを必死にこらえるウルフアイ。そんな二人のそれぞれのリアクションに気が付き、少々赤面しながら空咳を一つして、空蝉は改めて発言した。
「確かに、ブルームーンが視覚から得た記憶をあのタイミングで思い出せたのは幸運だったよ。もっとも、オトハさんの父親、西野氏のSNSの呟き。それをキムラが読み上げてオトハさんに聞かせていなければ全ては藪の中だったわけではあるが。幸運と言えば、そちらの方が幸運か」
「まぁ、ここは青月ちゃんの並外れた記憶力と、天性の運の良さが多分に発揮されたってことで」
ウルフアイの御機嫌うかがいの発言には気付いたそぶりを全く見せずに、ブルームーンは言った。
「そうだ、そのへんが良く分かんなかったんだけどさ、結局キムラはオトハのお父さんの呟きを読んでどうしたかったわけ?」
その問いには、ウルフアイが答えた。
「それは、オトハちゃんを怖がらせるためでしょ?病院にいるはずのお父さんが、ちょっと前にこんなことを呟いてますよー。てことは、今までの話は全部嘘です。あなたは僕に誘拐されたんですって、なんかすごく回りくどい方法で恐怖を煽ってるんですね」
それに頷きながら空蝉が続けた。
「それから、これは私のただの想像なんだが、キムラは西野氏の呟きを読んだ後でこう続けたかったのではないかな。この男が自分を面接で落とした。これはその復讐だ、とね」
「そうか!空蝉さんのその発想が、西野さんとキムラを結び付けたんですね?西野さんは大平洋建設の新卒者向けの面接官です。その面接官のSNS上の呟きを、誘拐した彼の娘に聞かせる。恨みがましくね。そうなれば、キムラは西野さんの面接を受けて、結果的に不採用となってしまった人物であると考えられる。その恨みからの今回の犯行——」
「そうだ。西野氏とキムラの関係性さえつかめれば、あとは君の出番だったのさ」
ウルフアイは嬉々として語った。
「鷲巣局長から直々にハッキングの許可が下りた時は震えましたぁ!合法的に大企業のサーバーに入り込めるんですよ。しかも入り込んだ痕跡を一つも残さず。ゴーストウルフの本領発揮です。まあ、キムラの履歴書の入ってたフォルダなんて、パスワードもなにもかかっていなかったんですけどね。いくら大企業と言えども、慣れって怖いですよ」
それまで黙って空蝉とウルフアイのやり取りを聞いていたブルームーンが、唐突に割って入った。
「キムラが陰キャのロリコン野郎ってことは分かったんだけどさぁ、なんだかまだモヤモヤするんだよね」
それを聞いたウルフアイが呆れて言った。
「あのね、乱暴にまとめすぎ」
「そうだ、ブルームーン自身の事で忘れてはいけないことがある。今回の件で残念ながら、君のシンクロ能力にまた不確定要素が追加されてしまった」
空蝉がブルームーンを見つめながら、二人に説明し始めた。
「一つは、〝シンクロ対象の視点からは任意のところで抜け出せない〟と思われる点。過去二回の案件では、ブルームーン、君は抜け出したいと念じたら対象から抜け出し、そして目覚めたと言ったね?」
不意の問いかけに、とりあえずブルームーンは頷くことしかできなかった。
「だが今回はそれができなくて困った、とも言っていた。ということは君は必ずしも自由にシンクロ対象から抜け出せるとは限らない、ということになる。それからもう一点。対象からブルームーンが抜け出した後、その対象は一時間程度いわゆる意識を失った状態に陥ると私達は考えていた。それもやはり過去の案件がどちらも一時間、対象が動けずにその場に留まっていたからだ。だが今回、キムラは三十分程度で意識を取り戻した可能性が高い。オトハさんが声を掛けるなど、何らかの行動をキムラに対して行ったことも考えられるが、それは過去の案件も同じ状況にあった。要するに対象の近くに、他者が存在するという状況だ」
ウルフアイが真剣な面持ちで、腕を組みながら発言した。
「僕は前回からの参加ですから、一番最初のことを知らないのでいずれお話を詳しくお聞きしたいですね。こう考えると、青月ちゃんの能力、まだまだ未知数なんだなぁ」
「ハア、なんか面倒臭くなってきちゃったなぁ。なんもかも」
そんなブルームーンの独り言に、空蝉もウルフアイもかける言葉を考えあぐねた。それは単なる愚痴として扱うには、彼女の背負う重荷が大き過ぎると思えたからだ。
ブルームーンは椅子に深く腰掛け、天井を見つめていた。彼女なりに、何かを一心不乱に考えているのだった。
しばしの間、無音の真空がこの薄暗い空間に膨張していた。そしてそれは、ブルームーン自身によって風船のように割られた。
「あ、わかった!」
驚いて、空蝉もウルフアイも視線を一斉にブルームーンに向けた。
「モヤモヤの正体。オトハってさ、キムラをかばってたじゃん?アパートに乗り込んだとき。もっと前にさ、そう、キムラの車の中で、あの子言ってた。誘拐『してくれるんですか』って。あの子、なんか隠してんな。制服に隠してる。——腕」
そう言うと、再びブルームーンは天井を見上げ、黙り込んでしまった。
*
「いや実際、無茶苦茶やってんなぁって自覚、ありましたよ」
月読署の取調室では、草薙刑事が一人で木村孝継と対峙していた。取り調べが始まって一時間余りが経ち、ようやく木村が今回の誘拐事件の核心を語り始めたのだった。
草薙が人形のような無表情さで、機械のように無機質な声を発した。
「そう。ではあなたが西野音羽さんを誘拐するに至った経緯を聞かせてもらえるかしら?あるんでしょう、あなたを犯行に掻き立てたファクターが」
「ファクター・・・ですか」
木村は顎に手をやりながら、中空を眺めてしばしの間考え込んだ。その口元には微かに笑みが浮かんでいた。草薙は目聡くそれに気付くと、咄嗟に眉根に皺を寄せた。
些細な思い出を語るように、木村は幾分か間延びした口調で話し始めた。
「あいつ、あなたの夢はなんですかって聞いてきたんだ。面接官の第一声がそれ。前情報で聞いてはいたけど、真っ先にそれ聞くんだって思って。だって志望動機とか、学歴だとか、基本情報をすっ飛ばすんですよ?なんだコイツってなるでしょ。夢はなんですかって。気取りやがってって思って、いきなり腹が立ちましたよ」
それから手錠の掛けられた両手を卓上に上げ、項垂れながら深いため息を吐いた。
「あいつって、誰のこと?」
草薙の確認にも、木村は顔を上げることもなく呟くように言った。
「西野。大平洋建設のカリスマ面接官こと、西野隆志」
チラと記録係の警官を見る草薙。コクリと警官が頷く。いよいよ本格的に木村の自供が始まった。
「事前に何度も練習していた答えを言ってやった。女手ひとつで一人息子の僕を育ててくれた母。去年死んでしまったその母との約束を叶えるのが僕の夢です。上場企業で出世して、金持ちになるっていう約束を御社で叶えたいですってね。作り話でもなんでもない、本当のことさ。貧しさから最後まで抜けられなかった僕たち親子の悲しい夢。その夢を叶えるために努力してきたんだ。死に物狂いでね。母さんを楽させたいって想いだけで、ここまできた。けど母さんは死んだ。死んでしまったんだよ。だから!母さんとの約束を実現させるのが僕の夢だ!それのどこが間違っているっていうんだよ!僕の夢は唯一無二だ。他人にとやかく言われる筋合いなんて絶対にないだろう!そうでしょ?」
草薙は人形の顔のまま、一言「そうね」と同意した。
「西野のクソ野郎、それはあなたの夢ではない、〝あなたのお母さんの夢〟だって、そう言いやがった。あなた自身の夢はなんだって、また聞いてきた。うるせえよ!僕の夢は母の夢で何がおかしいんだ。僕はそう言ってやったんだ。はっきり分からせてやろうってね。あんたに夢を語って聞かせる理由はなんだって、逆に質問してやったんだ」
「なかなかやるじゃない」
草薙の口から、思わず感情めいた言葉が出た。それはとても珍しいことだった。
「自身の夢が語れない人間に大成はないんだってさ。力が抜けたよ。だって僕はさっきから自分の夢を語っているじゃないか。けれどアイツは、それは違うと思っている。話がかみ合わないよな。だから僕は諦めた。辞退したんだ。それで、その日のアイツのツブヤキですよ。ファクター、そう、それが僕をここまで駆り立てたファクターだ」
木村はそのファクターを時に感情的になりながら草薙に語った。木村が面接を辞退した日のSNSに、西野隆志はこのように投稿したのだ。
『学生の皆さん、親離れできていますか?親御さんも、子離れして子の積極的な自立を促しましょう』
「アイツは僕のことをマザコンだって言ったんだ。それから、死んだ母さんを子離れできないダメな親だとも言いやがった。アイツはそうして僕の大切なものを踏みにじったんだ!それなら僕もアイツの大切なものを壊してやる!そう思ったんだ。それで——」
木村の怒声はやがてボソボソと話す聞き取りにくい独り言に変わってしまった。
マジックミラー越しに取調室の様子を監視していた宇田川が、ぼそりと「まぁ、こんなところか」と呟いた。隣りの牧田もそれに頷く。
「今時の奴は突拍子のねえ意訳をしやがるから始末がわるいんだ。コイツみたいにな。発言するやつも、そういう意訳する連中のことを想像しねえから地雷を踏む。言葉が軽んじられてんのに、重く捉えられて、矛盾の吹き溜まりだな。世も末だぜまったく」
「主任、深いこと言いますねー」
牧田の軽口に腹が立ったとみえて、宇田川は牧田の横っ腹を軽く小突いた。
「世の中がみんなお前みたいにパッパラパーだと、楽できんだよ俺も」
宇田川は吐き捨てるようにそう言い残すと、監視室を出て行こうとした。
「あれ主任、どちらに?」
宇田川はそれに答えずに乱雑にドアを後ろ手に閉めた。
そのままの勢いで隣の取調室に入る。もちろん何の挨拶もノックすらもせずに。
そんな宇田川に対して、草薙が最敬礼をする。
「草薙、それいい加減にやめろ。ここは軍隊じゃねえんだ。おい、お前。能書きはその辺にして、可愛いお嬢ちゃんを誘拐したことを塀の中でしっかり反省すんだな。いいか?」
どやしつけられた木村は不信感を隠すことなくその表情に出し、そして宇田川を睨みつけた。そんな木村の態度に内心はどつきたい衝動にかられつつも、それを抑えながら宇田川は本題に入った。
「コイツに見覚えあるか?」
そう言って木村の前に一枚の写真を置く。ふてぶてしくそれを眺める木村。
そこには女が映っていた。ボサボサのショートボブに、皺の目立つピンク色のTシャツにショートパンツ。全体的に小作りなために小学生のコスプレをした成年女性といった印象だ。そして特筆すべきはその顔。正確には目の下のクマだ。尋常ではない程漆黒のクマが両目の下に広がっている。間違いなく、それはブルームーンが写った写真だった。
しばらく写真を眺めていた木村は、やがて「あ!」と大声を上げた。
「コレ、あの配達員だ!」
それを聞いて宇田川はニンマリと笑った。
「おーおー良く覚えてんな。コイツはお前が逮捕されたときにいたその配達員だ。そいつに関してはお前も色々と言いたいこともあるだろうが、まあひとまず落ち着け。いいか、良く思い出すんだ。お前、コイツにもっと前に会ってないか?そうだな、例えばお前がお嬢ちゃんを連れ出すときに近くにいたとか、それよりももっと前にアパートの近くで頻繁に会ったとか。コイツに〝監視〟されてるような気配とかよ。何でもいいんだ。どうだ、なんかあるだろう?」
目の前の威圧的な刑事の、その決めてかかったような言い回しに違和感を感じながら、木村はより一層注意深く写真を眺めた。しばし沈黙の時間が流れる。
「いや、見たことない。てか、この人刑事じゃなかったの?」
宇田川はフウと小さく息を吐くと、「邪魔したな」とだけ言い、ドアへと向かった。
「あ、そうだ。監視で思い出した」
木村が不意に声を上げた。宇田川が振り向く。木村の視線は草薙に向けられていた。
「刑事さん、ファクター、もう一つあったよ。夢を見たんだ。あれは西野のツブヤキを見た日の夜か、そのあたり。女の子の声が聞こえてきてさ。『わたしはあなたをずっと見ていた』って言うんだ。それから、『あなたが動けば、救われる人がいる』とも。僕は、僕と同じように西野に面接で落とされたりバカにされた人間のために復讐に動けってことかと思ったんだ。神のお告げみたいなさ。それで今回の事件を計画したんだ。まぁ自分に都合の良い夢だとはその時は思ったんだけどさ。でも妙にはっきりと覚えているんだよな、声のトーンとか高さとか。小学生か、中学生か。とにかくまだあどけなかったな」
取るに足らない下らない戯言と右から左に聞き流し、宇田川は入ってきた時と同様に乱雑にドアを開けて出て行った。
それでも木村は、なおも続ける。
「でも今はそうじゃなかったんだって思う。あのお告げは、西野の娘のことを言っていたんじゃないかって、本気でそう思える。そうだ、なぁ刑事さん。西野の娘、オトハだっけ。あの子、あの後どうなったの?」
草薙は腕組みをしながら、木村の言動の端々を頭の中で整理しながら言った。
「音羽さんは無事にご両親の元に戻ったよ」
それを聞いた途端、木村が笑い出した。腹を抱えて笑い出したのだ。草薙は一瞬警戒する。次になにが起きるのか、予想が出来なかったのだ。
ひとしきり、気が済むまで木村は笑った。それから一言、
「だから警察は無能なんだ」
と言って、今度は鼻で笑った。
(第1話・終)