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スープカレー

作者: 朝霧のぞみ

 仕事を終えてオフィスを出た頃、空では焼けるような夕陽が冷たい紺色をした夜に飲み込まれそうになっていた。雲の隙間から溢れ出す光はどこか窮屈そうで、ぼんやりとしていた。それは私にかけがえのない記憶を呼び起こさせた。まだ大人になりきれなかった頃。彼女は栗色の目をしていて、毛筆で描かれたような髪を流していた。「私たちがいなくなっても、世界は何事もなかったかのように動いていく。」「私は自分の生きる人生を愛して、自分の愛する人生を生きていく。」「幸せって何なんだろう。そう思えているうちは確かにそれを掴めているんだろうね。」「私には恋愛が分からない。でも君といれるだけである程度の幸せは手に入れることができる。」彼女は目の奥を赤く潤わせながら、どこかぎこちなく笑顔を繕っていた。どうしてここまで愛おしい「思い出」を忘れてしまっていたのだろう。


 私は駅に向けて歩きはじめた。ジリジリと小さく囁きながら、光を放つネオン。薬局から流れてくる、芳香剤が混ざったような匂い。屋根のように覆い被さる高速。ラーメン屋の前の行列。交差点で信号を待っていると、仕事帰りで一杯やろうとしているビジネスマンになりそうな気がする。お酒の匂いがすれば居酒屋の前の呼び込みに、一つ筋を超えると、買い物を終えた婦人に混じって、踏切を待っていると同じサークルの女に話しかけてしまいそうになる。


 南方は「思い出」の集積でできている。故郷を離れた私たちはありとあらゆる「思い出」が体内に押し寄せてきて溺れそうになる。「これは誰の人生なのか。」遠雷が近づいてくる。遮断機のテンポが心なしか速くなっていき、体全体が緊張し渇ききった額から汗が溢れ出てくる。


「・・・さん、大泉さん。」川田が声をかけてくれるまで、既に上がりきっている踏切の前で立ち尽くしていた。「大丈夫ですか?顔、真っ青ですよ。」「ごめん。ちょっと体調が悪いから、今日の飲み会は・・・」「わかったわかった。俺が話つけといてやるから」「悪いな」「いつでも飲めるんだから心配すんなって、家でしっかり休めよ。」川田は他の同僚たちと一緒に、繁華街の中へ消えていった。


 私は家に帰ることさえ忘れて、「思い出」に動かされていた。元来た道を戻り、いつもとは違う駅へ向かった。プラットホームに上がると、ちょうど中百舌鳥行きの電車が滑り込んできた。くすんだ鼠色の電車は、街の光に照らされ様々な色に染まっていた。ドアが閉まり、唸り声を揚げ始めた電車は、夜とは思えないぐらい明るい街を進んでいく。街が、車が、まっすぐ光線になって過ぎ去っていく。次第に周りが暗くなっていき、ゆっくりと減速し始めた。今まで、感情を忘れかけていた人々が一斉に出口を求めて人混みをかき分けていく。そしてまた新しい人々が狭い車内に押し寄せてくる。人をある程度飲み込んでしまうと、電車はまた暗闇に潜っていくのだ。


「これは誰の人生なのか。」


 気づくと電車を降りていた。切符を慣れない手つきで改札に通し、東急ビルを突っ切り、三番出口から地上に出た。駅前通りのブランドショップのロゴがでかでかと輝いて、思わず目を細めてしまった。その眩しさは先ほどのそれとは違っていた。


 一つ目の角を左に曲がり、一本となりの筋に入る。そこだけはまるで暗室の中にいるようで、夜の世界の住民が、煙草の火を頼りに彷徨い続けていた。私はただ一人、確かに歩き続けていた。飲食店の古い油の匂い。今まで呑んだことのないほど甘い煙草のけむり。煌々と光る自動販売機。「思い出」の中にあるフィルムを何度も現像してみようとするが、ノイズが酷くてどこなのか思い出せない。


 しばらく歩き続けていたが、ある雑居ビルの前で足が止まった。「ケラー・・・オオハタ・・・」本当に黒い黒板に白いチョークで大きく書かれていた。私は夜の街の深潭へと、一段ずつ下り始めた。


 錆びていて、今にも取れそうなドアノブをゆっくりと捻り、一歩踏み出すと軋んだ音を立て、同時に「カラン」と静かに鈴が鳴った。店内にはハーモニカの懐かしい音がスピーカーから流れていて、オークで作られたカウンターは間接照明に優しく照らされ、橙色の光が伸びていた。


「いらっしゃい」カウンターの奥から彼女が顔を出して言った。あの時に流れていた髪はしっかりと結ばれていた。それ以外は何も変わっていなかった。「スープカレー。」僕は意識しないで、懐かしい響きを口にしていた。「思い出」が僕の体内に浸透し、循環していく。そこには確かに僕がいた。薄汚れたハンガーにコートをかけて、一番隅の席に腰かけた。


「随分大きくなったね、洋ちゃん」彼女は生き生きとしている夏野菜を切りながら言った。「ほのかさんは何も変わらないですね。いつの間に越しちゃったんだろう」悲しくなった。自分の言葉の重みがのしかかる。「僕はどこで何をしていたんだろう」「全然帰ってきてくれないから。もう忘れたんじゃないかなって思ってた。でもこうしてここに帰って来てくれた。また君が忘れないように、今日はゆっくりしていってね」と笑っていた。少し目が紅いように感じたが、僕の気のせいだった。彼女は泪の代わりに陶器のような薬指の指輪を輝かせていた。








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