千歯扱きに関する考察
千歯扱き。江戸時代に発明された脱穀器具であり、それまで扱き箸で行っていた脱穀作業の効率を劇的に変えたとされる。学校の歴史の授業でも必ず出てくることから知名度も非常に高く、内政チート作品だと頻出するように思う。
とはいえそれは本当に効率的なのか?
構造としては非常にシンプルであり、江戸時代に普及し、作業効率を劇的に変えたという「実績」はあるものの、それは本当に作品の状況と合っているのか?
本作はそうした千歯扱きについての簡単な考察である。
・千歯扱きでは収益は増えない
農具にも色々とある。
たとえば鍬や犂。播種や田植えをする前に地面を耕し、農地を準備するのに不可欠であり、その出来具合は収穫量に直結する。さらに言えば成長途中での手入れにも用いるし、水路や農地の修復にも無くてはならないものだ。
たとえば鎌。収穫作業に不可欠であり、これが遅れると最悪作物が発芽し、収穫量を大きく損ねる可能性がある。
他に主なものを上げるなら竜骨車や踏み車だろうか。灌漑農業の比重が非常に多い日本だと、作物への水供給で重要な農具と言えるだろう。
対して千歯扱きはどうか?
少なくとも収穫される米や麦の総量を増やすような作用はない。
労働効率の向上というメリットはあるが、それはあくまで支出の軽減でしかなく、最終的な収入には何ら寄与するものではない。
むしろ自分で簡単に用意できる扱き箸と違い、千歯扱きの購入と維持で出費が嵩むようになってしまう。
間違いなく言えるのは「千歯扱きのおかげで仕事が楽になってよかったね」だけではダメであり、千歯扱き導入コスト以上に、何かしらの別収入を用意しなければ、赤字を積み上げるだけで終わってしまう、ということは頭の片隅に置かなければならないと思う。
ただ領主や地主として、人を雇って脱穀作業をさせる立場であれば、人件費の劇的なカットだろうから、間違いなく効率的だろう。
・鉄は高い
鉄は非常に便利な金属であり、様々なものに用いられる。
上に挙げた鍬・犂・鎌といった農具はもちろんだが、森で木を切りだすとなったら鉈や斧が必要だろう。
料理を作ろうと思ったら包丁が不可欠になるだろうし、煮炊きに使う釜や鍋だって熱効率が違いすぎて土器に戻るなんてわけにはいかないだろう。
さらに言えば戦乱の時代であれば、刀槍や鉄砲に用いられる最重要の軍需物資である。
歴史の教科書に載っている農具を見てみると、鉄を使っているのは鍬の先の僅かな部分のみであるように、鉄は有史以来なかなか需要を満たせない貴重な資源だった。
さらに言うと鉄製品は頑丈とはいえ、一度用意すれば永遠に使い続けられるようなものではなく、それなりの頻度で更新しなければならない。
それは千歯扱きも同様であり、3年も使ったらもう歯が摩耗して交換しなければならなかったとか。
その上で考えたとき、千歯扱きは本当に必要か?
私はそう思えない。少なくとも優先度はかなり低く設定しなければならないと思う。
単純な話、ちょっと時間はかかるとはいえ「人力でできる」ことなのだ。
収益に直結する農具は金属が望ましいし、日常の燃料費に直結する調理器具は金属が望ましいし、戦乱の時代であれば何より武器を用意しなければならないだろう。
そんなわけで千歯扱きは、一通りの生活必需品を揃えた上で、さらに効率を望むときにやっと必要になるような道具じゃないかと思う。
千歯扱きが登場したのは1700年頃の大坂らしいが、普及が進んだとみられる18世紀はまさにそうした諸環境が整っていたのではないか。
戦国時代ははるかに昔、天草一揆からも50年近くが経過して、日本全土は幕府の下で高度な安定を保ち、軍需によって鉄の値段が上がる心配がない。
国内開発がかなり進んで、全体の生活水準が向上し、必需品以上のものに手を出す余裕ができる。
もっともこれに関して鉄生産高や鉄価格といったデータを提示できるわけではないのだが。
・麦に適しているのかどうか
なろうの内政チート作品と言ったらまず中世ヨーロッパである。
米の脱穀についていえば千歯扱きの効果は疑いない。稲束をつかんで歯に通せば籾粒がパラパラと落ちていく。
対してヨーロッパの主要作物である麦はどうか?
麦の場合は作物としての構造が全く異なり、歯に麦穂を通すと穂首で折れて丸ごとボトリと行くのだ。結局さらにここから唐竿(連枷、くるり棒)を用いて粒ごとにする作業が必要なので、米ほど劇的な効率改善ともいかない。
この事情はもちろん日本でも同じである。確かに麦扱き用の千歯扱きというのも作られはしたが、支配的な脱穀器具とまでは行かず、競合する農具として「麦打ち台」が存在した。
格子状になっている台に麦束を打ち付けるという非常にシンプルな方法なのだが、こちらは麦がある程度粒で落ちたとか。具体的なシェアは不明なものの、麦打ちは国定教科書の『尋常小学国語読本』なんかにも登場しており、夏の風物詩的な光景であったようだ。
さてここからは多少歴史について見てみたい。
千歯扱きは非常にシンプルな構造であり、同様のシステムの農具はヨーロッパに連続する歴史の中でも一応存在している。
これは古代エジプトの例。木製とみられる歯で麦穂を扱いているように見える。専門じゃないのでこの農具がどれだけ普及していたかとか、その後どれだけ使われていたとかは全く分からないのだが、とりあえず千歯扱きは日本だけのものではないようだ。
お次は古代ローマの例。vallusという器具であり、家畜が押す歯によって麦穂を扱き落とし、後ろについている箱に収めていくという構造だ。これについてはガリアの大規模農場で見られたのみだったようだが、少なくともヨーロッパにおいても似た構造の農具が実用されていたというのは間違いないことだ。
とはいえこれらがその後使われ続けたというわけではない。ヨーロッパの近代農書は多少目を通したものの、このような脱穀器具は書かれておらず、唐竿や家畜踏圧や脱穀ソリが基本的な脱穀手段だったようである。
・結び
色々書いてはきたものの結局は「よくわからない」という印象である。
麦の場合は使用例が無いこともないのである程度の効率性はあるのだろうけど、長い歴史で使い続けるほどの経済性があるものではなかった、と見るべきか。
その後のヨーロッパの脱穀作業を見ると18世紀の半ば頃以降、唐竿から馬力を使う大型脱穀機械へとトンデモ進化を遂げているので、内政チートに気軽に使えるような雰囲気でも無かった。
なんとも締まらないのではあるが、言いたいのは「千歯扱き以前にもっと必要なものはないのか」「構造はシンプルでも調達はタダじゃないぞ」といったところか。
●画像引用元
エジプト
吉村作治のエジプトピア「古代エジプトの食:食べ物をめぐる暮らし―農作業」
ローマ
Paul's Bods "Ancient Roman Harvester (Vallus)"
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