モンテカルロ
「家出してる割に帰るんだね」
わたしはそうタカシ君に言った。
「そうだな。俺は家出なんてしてないのかもしれない。でもさ、最近帰らないって、親が学校に言ったみたいなんだ。だからもしかしたらパトロールは強化されて、この隠れ家だって、見つかっちゃうかもしれないんだ。そうしたらどうする?」
「わーって叫びながら逃げればいいじゃない」
「そうかなあ」
「そうよ」
「その時さ、一緒に逃げてくれる?」
「いいけど。でもね、わたしが生きていくやり方を変えることはそれでも多分できないと思うんだ」
「いつも思うんだ。俺。なんでリコちゃんはその、さだめっていうかさ、運命っていうかさ、そういうものにあくまでも従順でいようと思うんだ?」
「だって私フクロウの形をしたマグカップがあるなんて知らなかったもん。フランフランっていうのもわからないし」
「フクロウのマグカップ気に入ったの?」
「うん。前もそう言ったじゃない。こういうの欲しいって」
「フランフランに行ってみたいの?」
「そういう可愛くてなんとなくおしゃれなものがたくさん置いてあるなら行ってみたいな」
「あるよ。そういうのたくさん。じゃあ、行こうよ。明日」
「でも、わたしお金持ってない。なにかを買いたい時にはママとかマネージャーに言うの。このお菓子買ってってね。だからわたしお金ってものを持ったことがない。お財布だって持ってない」
「じゃあ、明日、君用のお財布を持ってくるよ。その中にお金だって入れてくる」
「それってわたしが泥棒するっていう意味?」
「君が泥棒するわけじゃなくって、厳密に言えば俺が泥棒するっていうことになるのかな」
「それ、後で大変なことにならない?」
「大丈夫。俺の親っていうのは俺が泥棒をしたら、全世界に向けて、うちの子は泥棒なんてしたことがありませんって拡声器を使って言うような親だからさ」
「じゃあ、明日ね」
「え? 今日は一緒に寝ないの?」
「今日からしばらくはダメなんだ。わたし初潮が今日きたの。店長すっごく喜んでた」
「生理でも一緒に眠れるだろう?」
「ダメみたい。りょうさんがナプキンは四時間おきに代えるのよって言ってた。ナプキンそんなにもらえなかったし」
「じゃ、明日」
モンテカルロに帰ると、ママが大げさに
「初潮おめでとう」
と言って、透明なケースの中に入ったお赤飯をたくさん持っていた。このママがこういうことをするっていうこと。本来わたしの年頃の女の子が、そういうことをされたら、きっと嫌がると思う。けれどそういう世界も垣間見たけど、わたしはモンテカルロの舞台で生まれたし、ほとんど出ていったこともない。だから初潮を祝われたり、誰彼ともなくお赤飯を振舞われたりすることが、特に嫌だとも思わない。ストリップにおいては生理はとても重要な問題で、舞台に上がる予定だったストリッパーが突然生理になったら、四つん這いになって、血を垂らしながら、店長にお尻をぶたれるのだ。だからみな、生理に関してはとても神経質なのだ。イソフラボン何とかとか、そういうサプリメントが今ストリッパーの間で流行中だ。
「もう、リコちゃんもわたしたちの仲間だね」
りょうさんが、わたしの肩を大げさに抱いてそう言う。
「ねえ、りょうさん、今日舞台ある?」
「今日はないよ」
「相談にのってもらいたいことがあって」
「なあに? 今言いなよ」
「二人だけで話したくて」
「じゃあ、七時にこの小屋の屋上で。待ち合わせね」
「うん、ありがとう」
その日は風が強かった。屋上だからなおさらだ。私は一つお赤飯を食べたけれど、余っていた一つを持って、この屋上に来た。七時一〇分前。風がうなる。お赤飯のふたをあけたら、すぐさま風はお赤飯のふたをどこかへ運ぶ。ヒューっという音がする。
わたしはお赤飯を食べていた。夢中で食べていた。お赤飯って不思議だなって思う。なにがおいしいのかわからないのに確かにおいしい。ゴマ塩のマジックだろうか。お赤飯を食べ終わり、入れ物を床に置いたとたん、一瞬のまもなくヒューっと飛ばされていく。わたしはママから失敬したメビウスに火をつけようとする。けれど無理だ。つきっこない。カチッと音はするが火など上がらない。スカートのポケットにライターとタバコを入れた。階段をカンカンカンカンと昇る音がする。わたしの横に無言で座り、タバコに火をつける。
「なんで? りょうさん、わたしさっき煙草に火をつけようとしたけど、つかなかった」
「これね、ガスライター。ガスライターなら風の中でも火がつくんだよ」
わたしはメビウスを取り出し、りょうさんにガスライターを貸してもらう。タバコの先端が赤くなる。
わたしは必死でスーハ―スーハーした。けれど今だに上手にタバコが吸えない。りょうさんは笑って、
「リコちゃんにはタバコを吸う才能がないみたい」
と言った。
風の音だけが聞こえる。それがかえって沈黙をかき乱さない。わたしとりょうさんはしばらく黙っていた。風の音に耳を澄ますように黙っていた。風が一瞬黙った時、わたしはりょうさんに
「相談にのってもらいたいっていうのは」
と口火を切った。
「別にね、諦めてるとかじゃないの。そういもんだって思ってる。わたしも初潮がきたし、デビューだってもうそろそろなんじゃないかって思ってる。それに逆らおうとも別に思わないの。りょうさんがそういままでしてきたように、わたしもくるくる踊って、裸を見せて、知らない男と人前でやってっていうのが、わたしにとっても当たり前なの。りょうさんは学校に行ったみたいだけど、わたしは小学校も行ってない。他の世界も知らないし、モンテカルロ以外に知り合いなんていない。ああ、知り合いなんていないっていうのはウソなのね。知り合いなら一人いる。いつも公園で会っている、十六歳の家出願望のあるお坊ちゃん。わたしとは全然違う世界にいる人なのね。その彼もわたしの世界をよくわからないみたいだけど、わたしだってそんなお坊ちゃんの世界なんて知らない。その人のパパはね、実業家。ママはね、オーケストラでピアノを弾いてるんだって。そういう育ち。いつも公園で寝袋の中で寝てるの。ああ、わたしは処女よ。それは間違いないの。処女でなくなってしまっては、わたし、店長にお尻を蹴られる。わたしのこれからの人生っていうのは、いかに店長にお尻を蹴られないかっていうそれだけの生活になると思う。でもね、その彼にね、明日、フランフランっていう店に連れていってもらうんだ。わたしお財布持ってないって言ったら、わたし用のお財布も持ってきてくれるんだって。それでね、相談っていうのは明日、りょうさんにメイクをしてもらいたいの。どうなんだろうね、わたしにメイクって」
「あのさ、リコ、その彼とセックスしてきなよ。フランフランとやらだって、舞台に立つ前に一緒に行きたかったんでしょ? その彼と。だからさ、彼とやればいいじゃん。店長が禿げ頭から汗を垂らしながらリコのお尻を蹴りまくるのも覚悟の上でね」
わたしがりょうさんの言葉を聞きながら、考えたのはこうだ。りょうさんは多分、わたしよりも「セックスに価値がある」と思っているということだ。わたしは別にタカシ君とセックスをしてもしなくてもどちらでも構わない。もしかしたらそれはタカシ君がわたしにとって最上級じゃないからなのかもしれない。もしかしたら今のわたしの最上級は「フランフラン」というお店なのかもしれない。