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悲劇のロックシンガー  作者: 多奈部ラヴィル
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モンテカルロ

 いなくなった女のことを考える。するとものすごい疲労を感じる。飯はパンばかりだった。神戸屋でクロワッサンとかアップルパイ、フランクフルトが真ん中にあってそれにチーズみたいのがかかっているやつ、そういうものばかり食べていた。固いものは食べたくなかった。噛むということが面倒くさいのだ。だからパンだった。パンの中でもフランスパンは買わなかった。俺は以前よくフランスパンをこの神戸屋で買ったけれど、今はもう買わなくなった。いつまでも咀嚼している、それはまっぴらごめんだった。

そして旧型のBMで本屋に向かった。段ボールなら後部座席に用意してある。俺は段ボールを持ったまま店に入り、推理小説コーナーで適当に題さえ読まず、段ボールに入れていった。店主はなんだかいやそうにしているが、俺はこの段ボールごと万引きをするっていうわけじゃない。レジできちんと会計を済ませ、この段ボールごと車に乗せる予定だ。俺はなんら悪いことをしているわけじゃないし、むしろこの本屋に貢献しているっていう気持ちにもなってきた。俺は段ボール満載にした本っていうのが、案外重いことを知りえた。すみません、手伝ってくれませんか? 店主に心弱くそう頼む。声だっていつも舞台で大声で歌っているはずが、消え入りそうな声しか出なかった。そしてまたあの女を回顧する。あれがなければ、あの女がまだいれば、俺はこうじゃなかったはずだ。堂々とした態度と口調で店主に段ボールを運ばせたんだとと痛切に思われてならない。

 店主に手伝ってもらいながら段ボールに満載の推理小説をレジまで運ぶ。そして長い間ピッと言う音をさせ、値段を読ませていく。その途中で手を止めることもないまま、

「本っていうのはね、案外重い。本屋に勤めてると腰をやることが結構多い。学習してください」

つまらない店主だ。初めそう思った。けれど「学習してください」という言葉をかみしめていたら、素晴らしい本屋の店主に思えてきた。俺に命令的に言う。それは俺の快感だった。つまり引きこもって、パンだけを食べ、タバコを吸うしか能がない今の俺は、恐ろしく被虐的だった。

 車をマンションの車寄せに置き、重い段ボールをロビーまで運ぶ。今この瞬間、俺が段ボールを運ぶのを手伝おうと言ってくれる人がいたら、一生の親友ってやつになれるような気さえする。つまりそれほどまでに孤独だったわけだ。

 車を駐車場に置き、エレベーターまで段ボールを引きずる。そしてやっとエレベーターに乗ると、部屋を目指してゴキブリのように廊下を這って段ボールを引きずっていく。その途中で段ボールの底が壊れた。引きずりすぎたせいだ。ばらばらと推理小説たちは飛散していく。俺はまた泣き出した。どうしてこうもうまくいかない? 何が悪い? すべてあの女のせいにしてみたい。でもそれはどうしてもできない。そして思い出す。あの雪の精。彼女のアドバイスがあって推理小説をこんなにも買った。俺には俺にお財布に入っている全財産の一万円をくれた彼女がいる。ここで泣いていてはいけないんだ。でも懐かしいな。買い物袋を提げて部屋に帰ってきた彼女。彼女はきれいでかわいかった。そして優しかった。それにしても俺には雪の精ちゃんも懐かしく感じられるんだ。多分もう会えない。行き違った雪の精。俺はとりあえず、段ボールを壊して、本を何回にも分けて、部屋に運んだ。段ボールはゴミ捨て場に捨ててきた。

部屋に戻って玄関にごちゃっと山になっている推理小説を見たら、久しぶりに心が晴れるようなうれしい気持ちになった。これからはしばらく推理小説を読んで暮らせる。本を何個かに分け、ひとまとめにして玄関から部屋まで運ぶ。さっきくじけそうに泣いてしまった俺なのに、同じ作業は、口笛を吹きたいほど今は楽しい。だからといって口笛を吹くことはなかったが。

俺は挫折してからもう一回と粘れるのが自分の長所だと思っていたが、あのきれいでかわいくて優しいあの娘にはコテンパンに弱かった。あんなに甘えていたのに否定しない彼女は、無限だと、その優しさは無限だと思っていた。それは勘違いだった。それに気づいたときは、もう会えなくなる、声も聞くことができなくなる、その瞬間のちょっと前だった。俺は謝りながらも甘えていた気がする。どうしても態度がでかくなってしまうんだ。彼女だって偉そうに謝る俺をもう信用などできなかったのだろう。

だいたいの本は本棚がある寝室に運び、三冊の本をコタツの上に置いた。その中にピンク色の表紙の「サクラシヌ」っていう本があったが、俺が最初に読んだのはエラリイ・クイーンだった。

俺に必要なのは推理小説だと雪の精が言っていた。本当にそうかもしれないと思える。推理小説っていうのは、特別な人をのぞいては、ただ少々の意味をくみ取りながら字面をおっていくっていうマンションのロビーの張り紙みたいなものだ。意味はわかってもそう推理をするわけじゃない。ただ字面を追っていく。それだけの行為だ。雪の精ちゃん、君は天才かもしれないよ。君のいる図書館に行ってみようかな。もしこの推理小説をすべて読み終えてしまったら。雪の精ちゃんにアドバイスをお願いしたいんだ。次はどんな本を選べばいいかな? 

 疲れと焦燥が消えていく。俺の身体全体が静かになっていく。そして心はざわめき尾w忘れたように、シンプルになっていく。ふと少し寒いなと思った。コタツの温度調整を弱にしてコタツをつけた。そして朝、神戸屋で買ったマフィンをレンジで二〇秒チンした。それをコタツの上に皿を置いて、マフィンを乗っけて食べる。食べ終えると皿をキッチンに置き、ホットチョコレートを温め、タバコを吸いながら、飲む。「暖かい甘い飲みものを飲むと、神経のイライラが緩和されるのよ。知ってた?」

それを今はもういない彼女が言っているのか、図書館員の雪の精が言っているのか俺にももうわからない。小学校の時、二期連続で学級委員をやった。そんな俺がこんなにも弱かったんだな。学級委員とは強くなくてもやれるらしい、そう思ったとき、あの時はそんな自分の弱さなんてなかったのかもしれないとも思った。それは女を知る前だったからだ。


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