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悲劇のロックシンガー  作者: 多奈部ラヴィル
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モンテカルロ

 俺はただまっすぐに会社に通っていただけだったんだなと思う。それは実際には曲がるとか、渡るとかがついて回るけれど、本質的には一本の道だった。その一本の道を行ったり来たりしているだけだった。仕事帰りにいっぱい飲んだり、焼き鳥屋に寄っても、それはその一本道の真ん中にある、居酒屋や焼き鳥屋に寄っているに違いなかった。俺の世界っていうのはこんなにも狭かったんだなと思い返す。

 そして友人というか知人。今の俺には一人もいない。地元に帰れば親しくできる友人もいるような気がするが、それ以外に友人はもちろん、知人さえ、今この状態にいる俺にはいないような気がするのだ。前の会社で同僚と思ったいたやつら。それはただ同僚だった。同僚であったからこそ、今はもう関係がなくなっている。携帯に電話がかかってくるわけでもない。そして俺も携帯の電話帳うをスクロールしても、電話をかけようと思えるやつがいない。

 そういう俺みたいな人間は、定年後、娘や嫁のつけっぱなしにした電気をパチパチ消して回り、シャワーの音を聞きながらイライラしているだけの存在になるだろう。俺は今だってそんな片りんが現れつつあるのだ。間接照明っていうやつ。俺には生活になんら効果を及ぼさない、そんなものだっていう認識しかない。それなのにリビングに置かれた三つの間接照明と、寝室の枕もとの床頭台、そしておそらくはアカネの部屋に置かれた間接照明だって、アケミやアカネはつけっぱなしにする。そしてそれがそうたいした電力を消費するわけじゃないことも知っている。一昨年、アケミとアカネにおそろいの正面からライトのつく、ドレッサーを買ってやった。そのときは二人ともものすごく喜んでいたから、俺も満足したが、それだってライトがつけっぱなしのことも多い。俺は恥ずかしさを一歩で乗り越え、そのつけられた間接照明なんかを消して回る。リビングにアカネが現れると、

「お前、部屋のライトは消したよな?」

などと言ってしまう。そうしているうちに、リストラ直後のなめらかに進んだ事々が、次第に躓きやすい突起のあるなにかに変わってしまった。

「消したよ」

アカネは答えるが、今は俺への信頼というか、親しみというかがなくなったのを知るし、アカネにとって俺は信頼できるお父さん、ではなくて、もちろんパパでもなくて、なにか別のもの、細かいことに妙にうるさいやつっていう風に変わってしまっている。そしてそれを俺は直に感じている。

 うちの洗濯機はドラム式でもちろん乾燥機もついているが、買ったばかりのころ、アケミが雨の日とか梅雨の時期とか助かるわ、ととても喜んでいたのに、俺はアケミにもアカネにも乾燥機は絶対に使わないようにいいわたした。そう、俺は今家族に疎んじられている。そうでしかない存在になってしまった。けれどアケミにもアカネにも考えてほしいのだ。以前の研究職は案外サラリーがよかっただからこの家も建てられたのだし、ベッドだって俺たちのベッドはキングサイズだ。アカネの部屋は成長するごとにリフォームする計画を立ててから作った。今は壁一面がクローゼットになっている。窓辺には出窓だってあって、そこにアカネは雑貨や小さな植物を置いている。俺のおかげだろうとは言わない。アケミだって働いている。英語の教師として。アカネだって別に親を困らせるような不良娘でもない。親をいたわるような、そんな大人びた一面だって持っている。そして人の好意は素直に喜べるそんな娘に育った。俺は間違ったことはしていないはずだ。間違っていないからこそ、アケミと一緒にいることができるのだし、アカネはいい子に育ったはずだ。そう、俺が今間接照明を消し続けるだけの、家においてはただそれをするだけの存在になったのも、今までのペースでアケミやアカネに不自由させることなく暮らせるためだ。

 アケミがアカネにキッチンでなにかを言っている。

「お父さんが、間接照明を消すのだから、初めからつけなければいいってことよね。別にそれがなくても困るわけじゃないしね」

「間接照明っていうものの意義がなくなるじゃん」

「それはそうだけど、今は、ね」

「だっさいの」

「そういう言い方しないの」

俺は針が全身にさされるように痛かった。けれど間接照明がつけられなくなるならそれでもいい。

ある日テレビを見ていたら、一カ月一万円生活っていのをやっていた。俺はキッチンで食器を洗うアケミを

「おーい、ちょっとこっちへ来い」

と呼んで、ほら、こうして芸人でも一カ月を一万円でやろうと思えばやれるんだよ。そう言ってソファに座らせた。水っぽい手を見たとき、急に性欲を感じた。その水っぽい手をアケミはパイル地のエプロンで拭いている。

「ほら、な、こういう料理だって、うまそうじゃないか」

その一時間の番組を見ているアケミはまるでトイレに行きたいのを我慢しているように見えた。

俺はその顔を見て、次第に興奮してきた。性欲じゃない。そのおしっこを我慢しているような顔が気に入らなかったのだ。

「なんでだ? この番組にいろんな節約の知恵が詰まっていたってお前は思わないのか?それとも俺が働いていなくてお前だけが働いているっていうような被害感でも持っているのか? 俺は面接と面接の空いた時間に公園のベンチでパンをかじっているんだ。ランチパックとかそういう安いやつだ。俺が働いていない、イコール俺が何もしていないって思っているのか? そんなのお前の被害感だ。俺だって毎日面接を受けている。一回の面接で最低二回は頭を下げる。それはどうしてかわかるか? 頭を下げないと、賃金を得るチャンスも失ってしまうからだ。だから俺は頭を下げる。別に頭を下げるということが、そんなに苦痛っていうわけでもないけどね。ただ腰を折って頭部を下げるだけの動作さ。それがどうだっていうんだ。俺が毎日頭を下げている、それがどうだっていうんだ。俺は何もしていないわけじゃなくって、ただただ頭を下げているんだ」

アケミが泣きそうな顔になっているのが目に入り、なんでお前が泣くんだよといういら立ちが募ってきて

「泣きたきゃ泣けばいいだろう。別に俺はそれを止めようとも思わないさ。だいたいアケミ、俺がリストラされたっていうのに、どうして箱根に二泊も泊ったんだ。あのお金をもったいないと、今思わないのか? どうしてお前らはそんな俺のリストラ前とリストラ後を同じように暮らしているんだ。わかっているのか? 俺はリストラされたんだ。それは収入の激減だ。それをお前らはどう考えているんだ?」

 アケミはしばらく泣いた後、

「あなたを信じているから。再就職はもう間近だって信じているから。そう思って、そういう生活の軌道の大きな変化は嫌だなって思ったの。箱根に行ったこと、ごめんなさい」

「箱根に行ったこと、ごめんなさい」

という言葉には妙な威力があった。その言葉に俺は今まで何をアケミ相手に話していたんだろうと思う。なぜ今更箱根旅行を否定したのだろう、俺は。俺がすべて間違っているんじゃないか? なぜアケミの明るい慰めを頭から否定したのだろう。俺は言ってしまった言葉をすべて後悔した。

「ごめん。俺が悪いんだ。すまない」

そう言って先にベッドに入った。さっき突然の性欲を感じたが、いまはもう、冷えてしまっている。

アケミはこれから風呂に入るようだ。パジャマをもって部屋を出ようとする。俺は何かを言ってみたいような気がした。先にアケミが言った。天井の照明も間接照明も消された部屋、かろうじて開け放したドアから廊下の灯りが差し込む。その中で、アケミは「いつも就職活動ご苦労様です」と言った。それだけの灯りに浮かぶアケミのシルエットは、大学の時、絶対にこの女と結婚すべきだ、そう思ったときのアケミの姿だった。

 ちょっと前までは明るい家庭だった。アケミは朗らかに笑っていたし、アカネは部屋にこもらず、キッチンのダイニングでホットチョコレートを飲んでいた。そしていつも何かの会話があった。今はもう違う家庭になってしまったみたいだ。アカネは部屋にこもりがちだし、アケミとしか会話をしなくなっている。アケミといえば、俺に声をかけるが、それはまるで腫れ物に触るようっていう風に話す。生活の縮小に、そう間接照明をつけると俺が消すというような、洗濯機の乾燥機を使うことを禁止するような、そういった生活の縮小がアケミやアカネを疲れさせているのだろうと思ってきたし、それは俺の就職先が決まればすべて終わるっていうことだって思っていた。けれど今ベッドで、少しの興奮の余韻に眠れないまま考えると、もしかしたら俺が疲れていた? とも思うのだ。けれどしばらくの間は間接照明だけはつけないでほしい。リビングにある間接照明三つをすべてつけてしまったら、明るすぎてこの家庭は壊れてしまうんだ。


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