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悲劇のロックシンガー  作者: 多奈部ラヴィル
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モンテカルロ

 箱根から帰ると、アケミがにぎやかに荷物をほどき、片付けている。そして今洗濯機を回しているようだ。

「お父さん、アカネ、自分の下着は自分で洗って干すって言うのよ」

「それも成長なんだろうな。ほっとけよ」

「わたし急速に移ろいでいくアカネが妙に心配なのよ」

「女性っていうのは年頃になると、家族の洗濯物と自分の洗濯物を一緒に洗われるのがいやになるだろう? そういうもんなんだろう」

 

箱根から帰った翌日から、俺は就職活動を始めた。どこの企業に行っても、最低二回はお辞儀しなくてはならない。はじめと終わりだ。よろしくお願いしますと言って頭をさげる。ありがとうございましたと言いながら頭をさげる。そういうもんなんだな、そう思う。頭を下げる。下げ続けるということで、賃金を得るチャンスを待つ。まるでお腹を空かせた雑種の捨て犬だ。俺が犬であったら面接官の手に己の手を乗せて「お手」だって喜んでしただろう。

俺は小さな空き地のようなブランコとベンチだけがある公園で肉まんとピザまんを食べていた。タバコを止めることができないのならば、せめて昼食代くらい浮かせようと思ったからだった。そうやって節約していけば、いつの間にやら就職が決まるような気がしていたし、アケミやアカネの生活の不如意を先延ばしにできると考えたからだ。でも、少し計算してみるとこれも焼け石に水だ。けれど絶対になんとかなるだろうという楽観的な考えは俺を手放そうとしない。

 そういえば俺はアケミをアケミと呼ぶ。アケミは俺のことをお父さんと呼ぶ。ずっと以前、アカネは俺たちをパパ、ママと呼んでいたが、いつの頃からかお父さん、お母さんと呼ぶようになった。その変化を今まで振り返ることもなかった。そういう自然な成り行きだった。新幹線っていうのはとても早い。そのくらいに当たり前に思えてきた。アケミの心配も少しはわかるが、自分の下着を洗ったり、成熟した身体を持っているということは、当然の自然な成長だろう。そこに不安がったりしないで、ケーキのろうそくを吹き消すみたいに、ちょっとの喜びを俺たちは感じるべきなのだ。そうはいっても娘の成長っていうのは確かに世間一般と同じく、少しさみしいものだなとも思うのだが。

 帰ってポニーテールに水をやる。最近ほおっておいたが、表面の土が乾いていた。これは水をやるタイミングだ。俺はたっぷりの水をポニーテールにやった。これは結婚一周年を祝って、アケミと一緒に花屋によって買った植木だ。そのときは子供の背くらいしかなかったポニーテールが、今は俺の身長を超す勢いだ。そしてふと老後のことを思った。みじめではないくらいのお金は用意しておきたい。これからだってアカネには随分お金がかかるだろう。そう、それが終れば本格的な俺とアケミの老後が始まるのだろう。

 帰りに本屋に寄った。「サクラシヌ」この本を買って、まっすぐ家に帰った。この本は面接と面接の空いた時間に、公園で読もうと思って買ったのだ。




 俺は悲劇のロックシンガーだ。その悲劇は六年間付き合った女に振られたということから不気味に始まったが、関係の修復のしようがないと気がついたとき、絶望という穴におっこちた俺に、手はのばされなかったり、誰かに手をのばされてみても、俺まで届かなかったりした。当然自殺も考えた。でも心の奥底で生き切りたい! という激しい渇望があるのも確かだった。俺は切羽詰まっていた。タバコばかり吸ってしまう。こもった煙草の煙を外に出そうと窓を開ける。ベランダに座ってコーヒーを飲み、タバコを吸うと、月が見える。今日の月は妙にでかくないか? そう思う。俺には月がさみしそうに見えるが、月から見た俺っていうのはどう見えるのだろう? さみしそう? そう、今俺はさみしくて心細いんだ。私生児が捨てられたようなもんさ。俺の今の姿はそうなんだ。

 六年前の俺の誕生日、チャッキーは俺にポニーテールという観葉植物をプレゼントしてくれた。そしてその年の彼女からのプレゼントはなにだったか忘れてしまった。そう忘れたんだ。俺のあの女への思い入れ。六年前のプレゼントを忘れる程度、その程度だったのさ、とうそぶきたいが、あの日のセックスを俺は忘れていない。彼女はとてもかわいかった。温かいガラスでできているんじゃないかって思うほど、すべすべしていて、壊れそうだった。

 小さかったポニーテールはチャッキーの

「土が乾いたら水をやってね」

という言葉に従っていたら、大分背も伸びた。俺に観葉植物を育てる才などあったとは知らなかった。

 人っていうのは何かの拍子で死んでしまうこともありうるし、死んでしまおうと思っている人が、なにかの拍子で生きることができるっていうことも知った。俺には雪の精が現れた。そう、白いニット帽をかぶった図書館員として働く、毎日本を読む女の娘。できるならまた会いたい。会ったらきっと、それが今だとしても、「懐かしいね」っていう気分になりそうだとも思うし、必ずそうなのだ。そして雪の精に俺は挨拶もそこそこに

「懐かしいね」

と声をかけるだろう。


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