モンテカルロ
夜になった。リコちゃんからは連絡がない。俺はまた寝袋をハラコのバッグに詰めていた。今日、空はとても高く明るく、俺は気分がよくなって寝袋を洗濯したのだ。昼過ぎに洗濯したのだが、その寝袋の生地のせいか、乾いていた。俺が寝袋を畳んでいたら、公衆電話から電話があった。きっとリコちゃんだろう。
読みは当たっていた。けれどなぜだかわからない。リコちゃんは特に何も言わず、電話の先で笑い転げているだけなのだ。俺は「もしもし、リコちゃん?」と言うこともなくそのリコちゃんの笑い声をただ聞いていた。そしてしばらくするとリコちゃんは息をするのも大変そうに、笑いながら、切れ切れに言うのだ。
「あのね、A地点です。モンテカルロのね、座布団の山にね、わたし灯油をまいてライターで火をつけたの。今外の公衆電話からだけど、ここからも見える。匂いだってする。煙がねもくもくと天にむかっていくの。そしてね、焚き火よりも赤い火がね、窓から噴き出したり、どんどんその火がね、伝わっていくと思ったら、突然大きな炎が上がったりね、そんなふうなの。すごい、すごい。これで店長もママもりょうさんも客もみんな死んじゃうんだね。そう思うとさっぱりするね。ああ、気分爽快、痛快だわ、明日の朝、その死んでしまった人たちとかモンテカルロとかのね、灰が積もっていてもね、わたしきれいに掃いてしまいたい。そうすればなにもかもなくなる」
「そしてね、わたしも死んでいくの。どんどん死んでいく。それって死んでいる人ごっこじゃない。ずっと前、生きているという情熱、「とても生きている」っていう感覚を味わったことがあったと思う。けれどもうそう感じることはない。死んでいくの。モンテカルロと一緒に、ただ死んでいくの」
俺はハラコのボストンバッグに寝袋を入れ、ピンクのクッションもそこに置き、それを玄関に置き、納戸へ向かった。新聞紙やチラシが高く積み上げられている。俺は納戸に台所からサラダ油のストックを持ってきて手が震えながらそのサラダ油の封を開け、新聞紙に残さずかけた。そして部屋へ戻り、たまに吸うタバコのためのライターを持って取って返し、サラダ油をかけた新聞に火をつけた。新聞はちりちりとすぐに燃え始めた。そしてしばらくするとぼっと火が高く上がった。俺は玄関に走っていき、バッグを抱えて一回出たが、おふくろの部屋に行って、クロエの財布を持って、今度は冷静にバッグに財布をしまって、きちんとスニーカーをはいてって、そういう風に家を出た。俺は家を眺めた。次第に煙が窓を打ち抜く。そして小さく火は横に広がっていったかと思うと、突然のように火が爆発する。リコちゃんが言っていたのってこういうのだったんだろうなと思う。リコちゃんのリアルは、今俺のリアルだ。
俺は震える手で携帯のボタンを押す。中々おじさんの電話番号が出てこない。また最初から、「あ」、から始める。やっと見つかる。「おじさん」。
「もしもし、B地点です。今家が燃えています。とてもワクワクしていてとてもさっぱりした気分です」
「タカシ君だよね?」
「そうです。タカシです。おじさん、俺本当にさっぱりした。軽くなったよ。なんていう意味もない家さ。それが燃えてる。ただ燃えてるんだ。すっごく愉快だよ」
俺は震える声でそうおじさんに告げた。震えてはいたけれど、その「すっごく愉快だよ」っていうのは本当で、俺は楽しくてしょうがなかったんだ。生まれた家っていうわけじゃないけど、俺のまだ短い人生、大半をここで過ごした。けれどそれに何の意味だってないような気がしてしょうがない。そして誰かに何らかの意味をつけられるなんてまっぴらごめんだ。こんな張りぼてみたいなものは燃えて灰になってしまえばいいんだ。俺を急かしていたのは、もしかしたらこの張りぼてだったじゃないか?
俺は節約しながらタバコを吸っていた。以前はセブンスターだったが、今はエコーにしている。俺の煙草の吸い方っていうのは、半分くらい吸って、すぐに灰皿におしつぶしていた。けれど今は根元まで吸いきって、時計を見ている。一時間に一本と決めているからだ。タカシ君もリコちゃんもいないこの公園は、まったく賑やかじゃないし、棺桶のなかに閉じ込められたような気分になる。そうして一時間に一本タバコを吸ってる。やはり帰る場所もアケミもアカネもいない今、手持ちのお金が少なければ心細い。だから何においても節約すべきだと思っている。そんなとき、携帯が鳴った。タカシ君。
「もしもし、B地点です。今家が燃えています。とてもワクワクしていてとてもさっぱりした気分です」
俺は多分C地点だ。なんだか地球からエネルギーを吸い込んでいるような気分になった。タカシ君のワクワクした、さっぱりした気持ちが伝わってくる。
さあ、俺もC地点に立とう。俺は歩き出した。昔俺の家だった家に向かって。
どこから変容していったのだろう、もとの俺の家や家族は。盗聴器が仕掛けられてからだろうか? いや、違うな。俺のリストラだ。リストラさえされなければ、大きな組織に狙われることだってなかったはずだし、アケミやアカネがニセモノに差し替えられることだってなかったはずだ。そう思うと、俺が被害者だとばかり思っていたけれど、俺がリストラされることによって、アケミもアカネもどこかに監禁されているのだろうから、俺のリストラが悪かったとも言える。けれど、そのリストラだって、俺が悪いわけじゃないんだ。会社。そういう組織が悪いんだ。そもそも組織っていうやつは悪いんだ。組織であるだけで悪い。ほとんど悪い。リコちゃんの逃げ出したモンテカルロだって組織なんだろう。そう、組織っていうのはすべからく悪だ。
家の前に立つ。それほど目立って豪奢ではないけれど、決してみじめにも見えない家だ。懐かしいと少しは思う。けれどここには何もない。灯りがどこにもついていないし、カーテンは閉められている。アカネがアケミに甘えるような声も聞こえてこない。なにもかも変わった。それがどうしたっていう気分にもなる。どうしてかというと俺だって盗聴器が仕掛けられた家に住む気は起きないし、アケミとアカネがどこかへ拉致されている今、この家だって張りぼてのようなものだ。それには意味がない。住人がいない張りぼての家に意味などないのだ。俺は鍵を持っていなかった。ガラスを庭の石で割る。鍵を開けようとしたときに、右腕を少し切った。流れる血を見たところで、特に何も感じない。そして家の中に入った。アカネの部屋をのぞく。あまりじっくりと見たことはなかったが、女の子らしい部屋だっていう風に見える。ベッドの上にフクロウの絵のピンクのクッションが置かれている。俺はそれを手に取った。
そして寝室をのぞく。ベッドは整えられている。シーツや枕カバー、そういうものが汚れている時なんてなかった。それはアケミが定期的にか、不定期にかはわからないが洗濯をしていたからなんだろう。俺はアケミやアカネにたいして、今までいろんなことを知らないでいたことに改めて気がついた。けれど、と思う。俺が面接と面接の間に、タバコを節約しながらランチパックを食べていたことはアカネはもちろん、アケミにだって言っていない。いや? それとも俺のことだ。俺だって苦痛を味わっているっていう風に、そんなことだって口走ったかもしれない。お前たちの不如意を避けるために、俺は公園でランチパックを食べているっていう風にだ。
ソファを眺めた。ベージュ色のソファだ。ソファの背所々にセンスのいい、カラフルなブランケットがかけられている。アケミはここで本当にたまに、紅茶を入れた。俺とアケミははレモンティーでアカネだけがミルクティーが飲みたいと我儘をいうことが多かった。それは二度手間になる。それでもアカネに甘いアケミはポットとカップを温めて、そしてお湯を捨て、もう一回熱い湯を注いでポットにカバーをして紅茶を入れるっていうことを、二回目は牛乳を沸かしてっていう風に繰り返すのを厭わなかった。俺は気がつくと笑っていた。懐かしいという思いには笑いがついてくるのだろうか。俺は納戸から灯油を持ってきて、ソファにまいた。火をつける。徐々に炎が大きくなっていく。俺はテーブルに開いたノートがあることに気がついた。
「お父さん、お帰りなさい。わたしたち少し骨休めにわたしの故郷の民宿に少しだけ泊ってきます。でも必ず戻ります。アケミ」
「お父さん、お帰り。お母さんがどうしもっていうからわたしも温泉について行きます。でも今勉強も大変な時期なの。すぐに戻ります。アカネ」
俺はそのページを破って火の中に投げ捨てた。どうせニセモノたちがなにかを企んで、しばらく姿を消す、そんな所だろう。筆跡まで似せてある。本当に油断ならない。火に投げ入れた一枚のノートの切れ端はあっという間にしゅっと灰になった。愉快だ。
本当に気分爽快だ。俺は玄関から家を出て俺が住んでいた部屋を眺めた。徐々に煙が空高く上っていき、少しだった火があちこちで一気にぼっと燃える。ああ、本当に気分爽快だ。今確かに盗聴器だって燃えているはずだ。ああ、痛快だ。愉快だなあ。
俺はお兄ちゃんに電話をかけた。
「C地点です」
「おじさんだろ」
「そう、その通り。今俺の目の前で俺の家が燃えてるっていうわけだ。C地点でね。お兄ちゃんのマンションがどこにあるのかつまびらかには知らないけれど、ベランダからA地点もB地点もC地点も見えるかもしれないですよ。燃えているのは誰も住まないっていう家として全くナンセンスな張りぼて。ああ、痛快だよ。燃えている。ぼーぼーと燃えている。けむりがね、天高く上っていく。ところどころで不思議と窓が爆発したり、ちょろちょろと燃えていた火が突然ぼっと高く上る。見にきませんか? 面白いですよ」




