モンテカルロ
早朝の初冬、空気はなぜかきれいに感じるし、この厳しさが俺を多分生き延びさせるのかもしれないと。そしてそんな空気と冬の曇天の中、俺は煙草を吸って、奥歯をかみしめてみた。なるほど。耐える、その方法と表現のようにも見える。
迎えにきたチャッキーのワーゲンに乗り込んだ。チャッキーは何も言わない。俺たちは親友じゃなかったのかい? そうも思う。そしてチャッキーは親友としてのマナーを守ろうとしているのかもしれないとも思う。でもいいんだ。そんな腫れ物に触るような接し方。俺をボロボロにしてほしいんだ。ダメな男だと、断定してもらいたいんだ。いくら傷が増えたって、俺はしゃべりたいのさ。
チャッキーは運転席に、俺は後部座席に座って、黙ったまま高速を走っている。
突然チャッキーが口を開いた。
「どうして車で来なかったの? あのぼろっちいBMでさ」
「逃げるときは、たいてい退路を断つだろう?」
リストラっていうのは確かにあるんだな。今だに流行っているのだろうか? そして「リストラ」という言葉は、いつか流行語大賞にでもノミネートされたんだっけ? そう思う俺も少し変かもしれない。俺は今日リストラされた。俺は化粧品会社の研究員をしていた。四十五歳で家庭も持っている。妻のアケミは英語の教師で、アケミは大学の二年先輩だった。大恋愛とまではいかないかもしれないが、付き合い始めてすぐに、この人と結婚したいと思った。他の女性とは決定的に違う女性だと思った。俺が口ごもったり、失敗をしたり、臆病になっているとき、慰めるというわけではないが、それらをひっくり返す天才だった。そして俺にはアケミしかいないと思った。もちろんそれまでに付き合った人もいた。けれどその女性には、アケミにはある何かがそれらの女性には決定的に足りなかった。
順調だと思っていた。約束通り、就職が決まって、大学を卒業すると俺とアケミは結婚した。そして今十七歳の娘、アカネもいる。俺はアカネが生まれたとき、アカネを日本一の別嬪だと思った。そしてその気持ちは少しまだ心の中にある。
アケミは風呂に入っていた。シャワーを使っている。俺はそっと風呂の戸を開けた。
「おい、落ち着いて聞け。俺はな、明日から仕事がないんだ。来なくていいそうだ」
「なにそれ?」
「いまどき流行らない、リストラってやつだ」
アケミはからからっと笑って。ださい―と言った。けれど俺は見てしまったんだ。戸を閉めようとした瞬間、立ってシャワーを浴びていたアケミが、ぺたりと落ちるように座り込む様子を。
アケミに続いて俺も風呂に入った。家族だって持っている。それなのに、仕事をクビになるっていうことは、何もかも失くしてしまったようなそんな空虚さがあるなと思う。そして、バスタブのお湯を両手ですくって、顔にかける。そうだ、アケミは英語教師だ。そう、食べるだけならなんとかなる。そしてまたお湯をすくって顔にかける。もちろんアケミだけに働かせようなんて思っちゃいない。ただ、しばらくはもつだろう。つまり俺の再就職だってそんなに難しいことではない気がしたのだ。俺は大学卒業後、ずっと化粧品の研究を続けてきた。それなりの成果を出してきた。企業がそう評価しないとしても、俺はそうだと思っている。断固としてそれはそうだと思っている。俺はそこまで考えると、バスタブから出て髪を洗った。髪の毛なんて全部抜けたっていい。そんな洗い方だった。
トランクス一丁で髪の毛をバスタオルで拭きながら、風呂から出る。キッチンに行くとアケミは夕食の準備をしていいて、ダイニングテーブルでホットチョコレートを飲みながら、アカネは妙ににやにやしている。
「髪の毛がある。シャンプーをしなくてはならない。髪を乾かさなければならない。それならばいっそ」
「禿にでもなればあ」
アカネは更ににやにやしている。
「お父さん、リストラっていう古い流行を今日体験したんだってね」
俺はホッとした。やはりアカネのにやにやは俺のリストラを面白がっているらしい。そういうところがアケミと似ているのか、それとも俺がリストラされたという、現実に起きるかもしれない不如意を何ら予期していないのかもしれない。
「あああああ、わたしクリスマスプレゼント、もらえないかもしれないなあ。お父さんのせいで。わたし見つけちゃってたんだよね。ムートンのコート。ああああああ」
と言ってにやにやし続け、
「お父さん、なんでリストラになっちゃたの?」
「つまりは歯痛のせいなんだ」
「なにそれ?」
「俺は歯が痛いっていうのに、病院に行く暇がなかった。そして歯は痛み続けた。その歯の痛みはどんどん増していく。増えるわけじゃない。重病になっていくんだ。それで研究に没頭できなくなっていって、というわけだ」
アケミもあかねもつまらなそうな顔をしている。
「つまり、リストラの理由は特に何もない。どうしてかも分からない。そういうわけだ」
「で、その重病になっていった、増していく歯の痛みは結局解決されたの?」
アカネが聞く。
「リストラされた、そう今日なんだけど、俺はやっと歯医者に行くことができた。リストラとともに歯は治ったといっていい。つまりリストラが俺の病を救ってくれたってことだ」
「アカネ、お父さんのリストラはお父さんの増殖し続ける歯の痛みを救ってくれたってだけじゃないのよ。もう一つおまけがついてるの」
「何?」
「箱根。二泊よ」
「ラッキー」
そう言ってアカネは笑っている。リストラされたという、もしかしたら重い事件を、俺の家族っていうのは軽く逆転してみせる。俺にはできそうもないことだ。俺の家族っていうのはそうで、俺にはできないことをなんの躊躇もなしにやってのける。それは俺が作った家族だ。俺にはできないことを家族がやってみせる。その家族は俺が作った。
「さっきネットで予約しちゃったもんね。とってもいい旅館よ。アカネも後で見るといいわ」
そんな夕食の宴が過ぎるころ、アカネが言った。
「ねえ、お母さん、箱根っていつから?」
「明日の朝よ」
「えっ?」
俺とアカネは同時に言った。アカネは急いで準備しなくっちゃと言いながらも夕食前にのんでいた、ホットチョコレートの残りを飲んでいる。
「アケミ、俺の荷物も用意してくれ」
「そんなの自分でやればいいじゃない」
そう言ったアカネはにやにやしていない。高校の入学式程度の緊張、そんな妙にまじめな顔をしていた。
翌朝早朝に家を出た。俺がレクサスを運転する。このレクサスは家族の利便性とか、そういった周囲への配慮からではなく、あくまで自分の好みで買った車だ。もしかしたら、この車を手放すことだってありうるのかもしれない。そう思うと、憂鬱になる。その時にアカネが
「ああああ、お母さんが急に宿なんてとるから、わたしいっぱい忘れ物したー」
と嘆いてる。アカネのバッグは妙に大きい。ハラコのボストンバッグだ。そんな大きなバッグに満載の荷物を入れて、何を忘れたっていうのだろう? アカネはまだ化粧を始めていない。それっていうのは案外親という存在を安心させるものだ。ビオレの洗顔フォームで顔を洗い、その後は何もつけない。アケミが様々なものをぬり重ねていると、アカネは面白がって「ミルフィーユ」と表現した。
船に乗ったり、美術館を見たりっていうことを、箱根にきた人ならそうするだろうという平均的な観光をしたのち、宿にチェックインした。女子は浴衣を選べるらしく、アケミは紺色の、アカネは赤紫みたいな色の浴衣を選んだ。そして部屋に入りタバコを吸うと、アケミとアカネがとりあえず、お風呂入ってくるねと言って、出ていった。
俺は窓際の椅子に座り直し、またタバコに火をつけた。そしてそのタバコを吸いながら、タバコ、止めようかな、と思う。そして今日も時々思った。俺はそんなつもりがなくっても、そろそろリストラっていう奴に巣くわれているのではないだろうか? そうだアケミもそうだ。アケミが風呂でシャワーを浴びながら座り込み、風呂から出ると夕食を作る前にネットで突然、この宿を二泊予約した。アケミもなのではないか? 免れているのは、いつまでも親がムートンのコートを買ってくれると信じている、アカネだけではないのか。ダメだ。これ以上アケミを、巣くわせてはならない。アカネまでそのクモのような虫にさいなまれてはならない。俺の家族。俺が守るのだ。
夕食も済み、布団が三客敷かれた部屋の窓際でアカネが熱心に本を読んでいる。
「アカネ、どんな本読んでるんだ?」
そう聞くと
「ふふ、内緒」
と言って今度は自分が占める布団に横たわって、本を読んでいる。
「お前、確か車の中で忘れ物をしたって絶望してたよな。あれ何だったんだ?」
「お父さんには関係ないもの」
「それってなんだ?」
「あのね、最近お肌のお手入れを始めたの。つまり化粧水と乳液」
「ふうん、そんなもんなんだな」
「うん」
そしてまた目を本に戻す。すると今日の疲れと風呂に長時間アケミと入っていたせいだろう、そのままアカネは眠ってしまった。アケミが布団をかけてやる。
「お父さん、アカネ、もう大人なのよ。お風呂に一緒に入ってびっくりしちゃった。成熟。成熟した女性の身体よ。もう、アカネは」
「そういうのなんだか不安になるな。なにかが徐々に変わっていくような」
「わたしはそういうんじゃなくって、もう赤ちゃんを産んでもいい体だったから、驚いたの」
俺はアカネの読んでいた本をとった。小説のようだった。題は「サクラシヌ」という題で、何者かになりたいと願う女性が、何者かになり、けれどそれはニセモノの何かで、やっぱり本当は何ものでもないというストーリーのようだった。
アカネ、何者かになるっていうのは、その努力を抜かしても、本当に大変なことなんだ。何ものかになった人の秘密があって、それは小さなことなのだけど、つまりある日雪の精が現れて、その人を救う。その雪の精が現れることはとってもまれなんだ。