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悲劇のロックシンガー  作者: 多奈部ラヴィル
19/25

モンテカルロ

雪だ。もうきちと帰るタイミングをはかっている。俺のせいだと思う。リコち俺は家に向かう道すがら、コンビニに寄って、B5サイズのノートと、ボールペンを買った。そのコンビニの袋をぶらぶらさせながら歩いていた。駅からこの家まで、いつもはバスを使う。けれどいつの間にかパスモにはほとんどお金がチャージされていなくって、仕方がないので、歩いて向かった。向かった? 帰ると言うべきだろう。それなのに「帰る」より、「向かう」という表現の方が、しっくりするような気がする。もちろんあの小さな公園を家だと思っているわけでもないのだが。もしかしたら、今世界のどこを探しても、俺の家はないのかもしれなかった。家であれば、誰もが帰れる場所だろう。タカシ君やリコちゃんはそうじゃない。帰ろうと思えば帰る場所はある。けれど今の俺は宿なしだ。一晩の宿をと公園に背を丸めて、座っている。

家の門を開ける。ドアには鍵がかかっていなかった。

「ただいま」

と言ってみる。誰もいない。俺はソファに座り、新聞を読んだ。死亡記事を読む気がしなかった。スポーツ欄をよくよく読む。そうか、俺は寝袋を取りに来たんだ。家族がいないのは幸いかもしれない。俺がアケミやアカネのいる前で寝袋を納戸から取り出していたら、妙に思うだろう。

 俺は表紙と裏表紙が厚い、B5のノートを広げ、ボールペンを握ってみた。俺は最近どうしたんだろう。様々なことを考えているような気もするし、何にも考えていない気もする。ぼけたのだろうか。今盗聴器が仕掛けられていようと、俺は独り言だって言っていない。なにを書こう。頭の中はスペースだ。キーを叩きまくって、どんどんスペースは開いていく。広がっていく。それは何ページ進もうとそこにあるのはスペースだ。プリントアウトでもすれば真っ白なメモ帳にでも使うといいような白い紙が何枚も出てくるはずだ。どうして俺の頭はこんなにもスペースなんだ? なんでこんなにも白紙なんだ? なぜ俺の頭には何もないんだ? そんなことを考えいる最中だって、どんどんプリンターは白いだけの紙を吐き出し続けているような、そんな気がする。

 俺は誰かに励まされているような気がした。それはタカシ君であったり、お兄ちゃんであったり、リコちゃんであったりした。すると、ひらめいたのだ。俺の家族へのメッセージはこれだけだったから、大きな字で書いた。

「お前らがストリッパーじゃないのは俺という父親がいたからだ」

 俺は納戸からブルーの寝袋を取り出して、公園に向かった。なにか心が軽かった。


「わたしのリコっていう名前の由来を教えてあげようかなあ」

中央に火がたかれている。お兄さんも今夜はやってきた。いつでもお湯は沸いてるから、いつでもコーヒーを飲める。それっていうのはもちろんブラックでもいいし、わたしが飲むような、ミルクとお砂糖たっぷりでもいい。おのおの好きなようにして飲めばいい。

「わたしが生まれたのは舞台の上だったっていうことは話したよね。そう、そんな風に、もしかしたら死んでいたかもしれないように生まれてきたの。そのママがね、中学生でわたを産んで、その時のモンテカルロのトップスターがね、リコっていう名前だったんだって。でもね、漢字がわからなかったらしいの。みんながりこさんりこさんって呼んでてね、ママは漢字もそうよくわからない人だったから、漢字でリコって思いつかなくって、仕方なしにね、カタカナでリコって名づけたんだって。それなのに出生届けも出さなかったんだからね。ママったら」


「わたしはね、晴れ女でもなく雨女でもないの。ほら、空を見て。雲っているでしょう。時々しか月だって顔を出さない。つまり曇天の曇り女。気分爽快な晴れでもなければ草木が喜ぶ雨も降らすことはできない。なににも寄与しない。役に立つこともない。そんな曇り女」

「寄与とか、役に立つとか、そんなことは考えなくていい。そんなものは馬鹿げた思想だ。推理小説しか読まない俺にだってそれくらいのことはわかる」

お兄さんが言った。自信のある、とても強固な断定だった。

 そして黙って公園の中央のたき火を見る。沈黙が降るようにやってくる。雪みたい、ふと思う。わたしたちはもう沈黙にさえ慣れてしまったんだなって思う。

「俺はね、羨ましかった。君たちやおじさんが。こんなふうに夜を過ごすこと。俺はそれをもっと、浮かれたものだって思ってた。でもそうなんだな。こういう夜も生活なんだな。俺は最近さ、なにか熱があるみたいにすべてが見えていたんだ。リコちゃんもタカシ君もおじさんもそういう風に見てた。そういう風に月も見えてた。曇りの日、月がちょっと顔を出すとなんだかうれしくならないかい? そんな風にね。俺はご存知の通りタバコを吸うけど、ここ最近、俺は心の中でも油断してタバコを吸っていたんだろうね。そしてそのタバコ煙がスモークになって、俺の目の前をスモーク越しに見せていたんだ。そうしてみていると、とても遠いんだ。リコちゃんもタカシ君もおじさんも遠かった。でもやっと今日気づいたんだよ。グラタンを食べているとき。浮かれたパーティーなら沈黙なんて訪れないはずだし、もし沈黙が訪れたら、その瞬間BGMを大きくすればいい。けれどグラタンを食べおわってもBGMは大きくならなかったし、BGMがさらに助長する静けさ、沈黙を俺たちは気づいてもいないみたいに気にしなかった。それをどうしようと考えるわけでもないし、焦燥だって誰も抱いていなかった。俺は一回マンションに帰った。どうしてかっていうと、最近、俺は植木に水をやっていなかったんだ。それを思い出したとき、それは結構長い間だったんじゃないかって思った。最近は毎晩、きちんと携帯を充電するくせして、そういう生活みたいなものを怠ってた。それなのにリコちゃんもタカシ君もおじさんも確かに生活していた。枯らすわけにはいかないんだその植木を。とても大事にしてる植木なんだ。ポニーテールっていう」

「ポニーテール? 家にもあるよ」

リコちゃんが言う。

「俺の家にもある」

おじさんが言う。

「ポニーテールって上にまあるくふくらんだ葉っぱが下がってるやつ? それなら昨日俺の家に出入りしている庭師がリビングに置いてたよ。そっか。ポニーテールって確かに女の子のポニーテールみたいだね」

「俺は不安なんだ。ポニーテールって生きているだろう。それがもし枯れたらって思うだけで不安になるんだ。それっていうのは生きているものが死ぬっていうことだろう」

「別に死んでもいいじゃん。死ぬっていうことは別に大したことじゃないじゃない。庭の池に石を投げた。波紋が広がり、池の藻はしばらく揺れる。けど葦は立ったままだし、藻だってそういつまでも揺れてるわけじゃない。ポニーテールの死だって誰の死だってそういうものだと思うけどな。とても個人的でプライベートな問題。波紋だってすぐに消えてしまう。理由ある殺人ならわたしも納得できる。けれど理由のない殺人は悲惨に思える。そして一番悲惨なのは自殺だと思う。自殺。勝手にやってくれって思う。けれどそれがとてつもない悲劇だってこともわかってる」




 俺はそのリコちゃんの言葉の直後、突然の情欲に襲われたんだ。俺は夢中でリコちゃんを抱きしめた。リコちゃんは無表情で、とても身体が冷たかった。俺が抱きしめているのはもしかしたら本当は雪なんじゃないか。俺が抱きしめてしまっては、溶けてしまうんじゃないか。いなくなってしまうんじゃないか。ポニーテールは死んでも構わない。けれどリコちゃんはいなくならないでおくれ。

 リコちゃんは笑い出した。バカみたいな笑い方だった。けたけたといつまでも笑っている。さっきまでは何にもうつさない、役に立たない鏡みたいだったのに。リコちゃんは笑うのをやめないまま、切れ切れに言う。

「お兄さん、きついよ、きついよ。力が入りすぎだよ。わたしはいなくならないのに」

俺はやっと腕をほどいた。けれど、リコちゃんの冷たさや、溶けていなくなってしまいそうな感触は今も俺の腕にある。

「じゃあ、お兄さんにキスしてあげる」

そしてリコちゃんはゆっくりと俺の唇にキスをした。そして名残惜しそうに唇を離す。まるで年増のようなキスだった。

 俺はやっと気がついた。確かにここは生活の場だ。けれどここは廃病院なのだ。もうすぐ取り壊される予定の。そこで生活をしている。置いていかれたベッドに横たわり、しけった布団を身体に巻く。

 ちょっと前までは違ったのかもしれない。ここは健康的な小さな公園に過ぎなかったのかもしれない。みんなで楽しくキャンプファイヤーをやっていたのかもしれない。

ちょっとずつずれていく。時計の秒針は止まってしまったのに、ほかの針は間違った時間を刻みながら動いているように。秒針の止まった時計は動くはずがないのだ。なにがこの場所を公園から廃病院に変えてしまったのだろう。沈黙を受け入れるからだろうか? 

俺がリコちゃんをきつく抱きしめすぎたからだろうか? リコちゃんが俺に長いキスをしたからだろうか? それともリコちゃんに初潮がき/たからだろうか?

 俺は突然乱暴な気持ちになった。その気持ちはとても廃病院にマッチしたものだった。

「おい、タカシ君、リコちゃんとやっちゃえよ」

「はい」

「止めて、止めてよ。そういうことしないで。店長に殴られる。怖い、怖いよ」

タカシ君に押し倒され、今日買ったばかりの服は土で汚れていく。

「お願い、やめて、やめてよ」

そう言った後リコちゃんは口をとざし、諦めたように目を閉じている。そうしてタカシ君にされるがままに、リコちゃんは悲鳴でも快感でもない言葉で話しだす。そう、もう一回目を開けて。でも何を見ているのかわからない。空気を眺めているみたいだ。

「前ね、ママもそういう風にしたの。それはね、もちろんわたしの処女膜を破らないように慎重にだったけど。でもね、わたしには何も起こらなかった。考えてみれば、わたしみたいな育ちってそうはないでしょう? 従順でしかいられない、そんな風に生きるしかないっていう、そういうの普通の育ちじゃないでしょう? それが普通とはちがうっていうことは最近になって知ったこと。だから途中から気がついていたの。わたしは何も持ってないから与えられないなって。いろいろもらったけどもらう側にしかいられなかった。そういう育ち。おじさんの娘さんみたいに、そんな風に言えないの。言えるのはママ止めて、お願いだから止めて。その程度。だから気づいてた。私以外はあっちでわたしはこっちって。赤いリップクリーム。その程度の意味しかないの」

タカシ君が動きを止めた。じっと土のついたリコちゃんを抱きしめている。俺のように感じるのだろうか。やっぱり。リコちゃんのワンピースはファスナーを下げられ、腰のあたりにたまっている。ニットはたくし上げられ、小さな胸があらわになっている。タイツとショーツは脱がされわきに投げられている。

俺はリコちゃんに触れて確かめた。

「ごめんな、リコちゃん」

俺はそう謝った。

「俺はリコちゃんとのキスの後、なにか妙な世界にいたんだ」

「それはわたしも。廃墟みたいな場所で横になってる気がしてた」

「タカシ君は?」

「俺は公園だって思ってたけど」

「俺の目にも公園にうつってたぞ」

「じゃあ、廃病院、廃墟にいたのは俺とリコちゃんだけだったんだな」

 リコちゃんは適当に脱がされた服をきちんと着ようとしていた。

「わたしやっぱりって思った。今日たくさんタカシ君に買ってもらったから途中からタカシ君へお返しをしようと思って目を閉じてまた開けた。そうすればまた世界は変わるかもしれないっていうことにかけていた。でも何も変わらなかった。お客さんがお金をくれる。そのお返しをする、そういう風にね。やっぱり世界っていうのはモンテカルロを大きくしただけなんだね」

「違うよ、リコちゃん。世界はモンテカルロを大きくしただけじゃない。俺は性欲とともに愛情だって持ってた。あんな形でっていうのは悪いと思うけど、確かに突き上げるような性欲の後には静かな愛情だったあったんだ。どうして最後までできなかったかっていうと、リコちゃんが俺の腕の中で消える気がしたんだ。それを思ったとき俺はぞっとした。リコちゃんは冷たかった。雪みたいにね。だから消えてしまう、一瞬そう思って、俺は身体を離した。別に童貞だってセックスはできる」

俺はしばらくパチパチともえる焚火の音とタカシ君の言葉に耳を傾けた。俺だけが多分知っているのだろう。俺たちが長いキスをしてしまったら、そこは廃病院や廃墟に変わり、キャンプファイヤーのような焚火を見失ってしまうんだ。

 そして気がついたことがある。俺は多分この四人のうちのたった一人の傍観者だ。俺にだってもちろん問題はある。でも俺の問題と彼らの問題はまた質が違っているように思える。第一、俺には拒否する住みかなどないし、いつ帰ってもいつ出ていこうとかまわないのだ。その中に問題ごと飛び込んで当事者になるなんてことは、俺にはできそうもない。でも一つだけ言えるのは、俺たちはおのおの問題を抱え、今それをハードルをまたぐように、解決しようと思っている、「冒険者」であるってことだ。

「なあ、リコちゃん、君は多分ストリッパーになれない」

「どうして?」

「才能がないんだ」

「才能なんてなくてもできる。裸で踊って、足を開いて、まな板の上でセックスをする。わたしは処女だってそこで失う。だってそこで生まれたんだし、いいのよ」

おじさんがやっと口を開く。

「でもリビングに盗聴器を仕掛けられるよりはましでしょう」

だれも口を開かなかった。焚火にてらされるリコちゃんの顔はなんだかとても健康そうに見える。そんなリコちゃんを始めて見る気がする。リコちゃんはやっぱりゃんは今諦めている。世界を見てみた、それはモンテカルロと変わらなかった、だったら公園の土に汚されるよりは、管理された舞台の上の方がいい。でも俺にはわかっている。リコちゃんはストリッパーになれない。

 リコちゃんはつっと立ち上がって、公園の水道に行って顔をバシャバシャと洗っている。

「たき火でね、顔が熱くなっちゃったの。水が冷たくって気持ちよかった」

そう言って笑う。なぜかそんな言葉なのに、俺はリコちゃんの一生ついて回るような奇妙な暗さを感じないではいられなかった。

 リコちゃんはひらっと飛んでベンチの前に着地して、ねえ、タカシ君、もう寝ようよ、と言った。今日のところは撤退しないらしい。俺は心底ほっとした。

 翌朝は俺は一番最後に起きたらしかった。空は晴天。あっぱれと言いたいような初冬の美しい空。すっと燕が空を切る。群れになったスズメは空高く飛び、ひとつひとつの個体差など識別できない。みな黙々とおにぎりを食べている。俺がやっと起きたことに最初に気がついたのはリコちゃんだった。

「おはみ!」

そう言って、おにぎりを持ったまま笑う。やっぱりリコちゃんはきれいでかわいくて、優しい。そう思うのをいつか禁じたはずなのに、リコちゃんのようにひらりとその禁忌な気持ちをまた抱いてしまう。

「おう、おはみ。俺も何かおにぎりもらおうかな」

「今ね、三人で話してたの。タカシ君にはタカシ君の問題、おじさんにはおじさんの問題があるでしょう? わたしもね、戸籍的にはいないはずの幽霊。そういうね、問題を解決しようって。また毎晩ここには来るけど、解決しようとする努力はしようって。お兄さんはどうする?」

「リコちゃん、空を見ろよ」

「うん」

「晴天だろう? 曇り女さん」

リコちゃんが面白そうに笑う。

「うん。雲一つないね」

「俺の心にも雲がない。だけどそのすぐそばで月が出番を待っててさ」

「うん」

「そう、今の俺の心境はそれだけ。月の出番を待つっていうね」

「そっかあ」

「でもね、時々通り過ぎる燕がいてね」

「うん」

「その燕がもしかしたら巣を作ったかもしれないって思うと、まだ心がどーんっていう感じになる」

「うん」

「それだけかな。それをかたずけてこようかな俺も。燕が巣を作ってもいいんだって思えるようになるっていうこと。その燕が俺の前に巣を作ったら、『やあ、子沢山だね、ずいぶんと』って言えるように」

「わたしのトラブルっていうか問題はね、多分根本的には解決できない問題だって思う。でもね、これからどうするとか、何ができるとか、ノープランだけど、一回家に帰ってまた公園に来てって繰り返すつもり」

「リコちゃん、昨日はごめんな。ああいうことは本当はとっても大切なことだ。そして俺はリコちゃんをおもちゃだって思ったことはない。ただ、」

「ただ?」

「きれいでかわいい、優しい子って思ってる。俺の秘密だよ」



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