モンテカルロ
「タカシ君、いーれて」
タカシ君がむっくりと寝袋から顔を出す。
「なんだ、妖精か」
タカシ君が笑う。
「なにかあった?」
「特に何も」
「やっぱり今日も半袖なんだ。寒くないの?」
「寒いから、寝袋に入れてってさっきから言ってるの」
「そっか。まあどうぞ」
私は寝袋にスポッと収まった。
「でもさ、わたしだってさ、これからもっと身体に肉がついていくんだろうね。お尻が大きくなるとかね」
「そしたらもう一つ寝袋を用意するさ」
「ねえ、よく考えたら、どうしてタカシ君は寝るときだけこの公園に来るの?」
「妖精に会いたいからだよ。初めはプチ家出のつもりだった。その時妖精に出会った。それからは、どうしても妖精に会いたくて毎日この公園に通ってる」
「じゃあ、わたしが妖精だとしたら、ティンカーベルみたいなレディになりたいな」
そう、そう言ってしまってから、わたしは泣き出してしまった。
「わたし、レディになれないもんね」
タカシ君は微笑みながら、それでいてとても悲しそうな顔をしてわたしを見ている。
「わたしはさ、けっきょくさ、見られたり触られたりしてお金をもらうんだもんね」
「今のままなら」
「うん。それをね当たり前のことだって思ってた。でもここ数日でね、いろんな男性がいるっていうことをね、知ったのね。若くても襲わないタカシ君みたいな人もいるし、結婚しててもストリップを見たり、まな板ショーに手を挙げる人もいる。でもね、タカシ君もね、お兄さんもおじさんも、違うように見えたの。ストリップを見たことがないっていうし、それを当たり前だと思ってる。それにね、びっくりしたし、分けるとしたら、半分にね、ストリップ側にわたしがいてそうじゃない側にタカシ君もお兄さんもおじさんもいてね、わたしだけがね」
わたしはしばらくタカシ君に抱き付いて泣いていた。
「半袖しか持ってない。モンテカルロはあったかいし、外に出ることもそうはなかった。欲しいものはマネージャーに言ってた。買い物っていうのも遊びでレジごっこを小屋の中でするだけだった。犬は飼っていない。だから犬の散歩にいくこともなかった。学校も見たことも行ったこともない。だから通年半袖でよかった。だから冬に半袖で外にいる子を見たら、多分それは不幸な子だって思っていいと思う」
「うん」
「自分を幸せだとも不幸せだとも思わないで今まできたけど、不思議。初潮を迎えたらいろんなものが見えてきて」
「タカシ君、愛し合うっていうのはどういうのなの?」
「気持ちのいいキス、じゃないかなあ」
「ふうん。そっか」
わたしはお兄さんの夢を見た。お兄さんは大きな舞台にいて、ギターを弾きながら、フールオンザヒルを歌っていた。曲の終わりにオーディエンスがとてもまぶしい光に照らされる。夢の中でその光景にわたしは驚く。オーディエンス全体が嵐の海のようにうねりながら動き、こぶしを一斉にふりあげていたのだ。そしてそれをわたしがどこから見ていたかわからないのだ。舞台の袖のような気もするし、舞台の上からのような気もする。オーディエンスの中の一人だった気もするし、上から俯瞰していたような気もするのだ。それは分からなくても、ギターを弾いて歌う、お兄さんを本当にかっこいいなって思ったのは起きてからも冷めぬ事実だ。
早朝、おじさんがやってきた。なんだかぼろ雑巾みたいになっている。髪もぐちゃぐちゃだ。
「どうかしたんですか?」
タカシ君が聞く。
「盗聴器がね、必ず仕掛けられているはずなんだ。それなのに、昨日の夜からずっと探してるのに見つからないんだ。娘も妻もそれを手伝ってくれようともしないし」
「盗聴器?」
わたしたちは同時に言った。
「おかしいんだ。俺がリストラされたこととか、再就職先を捜しているとか、俺とアカネが全く話さなくなったとか、そういう誰にも言っていないこと、妻も娘も誰にも言っていないと誓えることを、そう娘と妻は誓って誰にも言っていないと言っていた。誓えると。そんなことを近所中の人が知ってるんだよ。どうやら何者かに、盗聴器を仕掛けられたんだ」
「そうかあ、大変ですね」
「ああ、なんだか君たちにそれを言ったら、お腹が空いてきたな」
「パンならあります。アンドーナツとマヨコーンと焼きそばパン、どれがいいですか?」
「糖分をとろうかな。アンドーナツをいただくよ」
「ほい」
タカシ君は向かいのベンチに座るおじさんにアンドーナツを投げた。
「君!」
「え?」
「君!失敬だぞ。俺に食べ物を投げつけるなんて。確かに今俺には職がない。けれどつい最近までは、俺は化粧品メーカーの研究員をやっていた。それなりの研究や開発だって手掛けていたんだ」
おじさんの目は飛び出しそうだった。目玉がぎょろぎょろしている。タカシ君は従順に
「すみません」
と謝った。するとおじさんはこれを誰にも渡さないぞっていう感じで、野良猫が 背中を逆立てフーフー言いながら、やっと見つけた餌を食べるみたいにおじさんはアンドーナツを食べていた。
「そんなわけだから、当分家には帰れない。よってここを住みかとする。それを誰にも言っちゃいけないぞ。君たちは誓えるか?」
「誓います」
「誓います」
「違う。誓いますっていう時に、右手を上げるんだ」
「はい、誓います」
タカシ君は右手を挙げてそう言った。わたしもそれに倣い
「はい、誓います」
と言った。
「ところで、わたしも少し訳があって、家に帰れないの。しばらくは。でもそれはね、おじさんとは違って、どうしても帰れないわけがあるっていうことでもない。できればしばらく家に帰りたくないなっていうそういう理由なんだけど」
「じゃあ、おじさんと一緒にここで暮らすかい?」
「それも楽しそうね」
「じゃあ、俺も帰らない」
タカシ君までそう言う。
「だって、タカシ君には家とか学校とかそういうわたしたちにはない世界があるでしょう? 帰らなきゃだめよ」
空はもう明るいが曇天だ。わたしは、わたしには影と同じく雲がついて回るような気がしてならない。まるで面倒なはがれていかない巨峰の皮みたいだ。
「でもさ、わたしたちは帰るべきなんじゃないかな。わたしたちの家にはおのおの、フランフランで買ったピンクのクッションがあるでしょう? それでね、死んでいる人ごっこでもしていたら、たいていのことを我慢できるような気がして」
「死んでいる人ごっこ?」
「それってなんだい?」
「つまりね、クッションに頭をゆっくり沈めて、ああ、心臓が止まったな。どこの細胞から死んでいくのかな、もうすべての身体の細胞たちは死んでしまったようだな。じゃあ、どこから腐っていくのだろう。でもまだ腐臭は放っていないけれどって想像して遊ぶの」
「なるほど」
「うん、そういう遊びをしていたらね、たいていの人たちが我慢ならない日常をおくっていても、耐えていけるような気がするの。だって何回死んだっていいのよ」
「君にとっては日常はそんなに耐えがたいのかい? だって盗聴器を仕掛けられているわけでもないんだろう?」
「盗聴器は多分仕掛けられていないって思う。けどわたしがどうしても行きたい所にわたしは行けない。棒高跳びでチャレンジする。必ずそのハードルはわたしの身体のどこかに触れて落ちてしまう。チャレンジする。それを必ず失敗する。どうしても向こうには行けないみたいだっていう絶望がある。そして自分の運命を考えてみたとき、どうやらとてもつまらなくて分厚い本をただ読み続けるしかない、それは強制で、そうやって生きているしかないと知る。そんな時にわたしはきっとピンクのクッションで死んでいる人ごっこをすると思う。一回死んでまた生き返ったら、つまらないと思っていた小説が、生まれてみたらもしかしたらとても面白い小説になっているかもしれないって期待をしながら」
「おじさん、今日も買い物に行かないかい?」
「今度は何を買うんだ?」
「おじさんはなにを見ているんだ。リコちゃんは半袖じゃないか」
「ああ、そうか」
わたしはクスクス笑って、
「お兄さんも呼んでいいかな」
と言うと、二人とも口ぐちに
「もちろん」
「もちろんウェルカムだ」
と言って楽しそうにしている。
「ねえ、おじさんかタカシ君、携帯貸してくれない?」
タカシ君が携帯を貸してくれた。
わたしはポシェットの中に大事に折りたたんでしまわれているフランフランのレシートを取り出して、その裏面を見ながら、電話をかける。




