モンテカルロ
俺はためらった。けれどそう金を持ってきていない。自殺しようと思っていた。アカネにあれだけ言われたら、もう死んでいしまうしかないと思っていた。そうやって一昨日の早朝、家を出た。自殺は食い止められた。若い子たちとの愉快な交流が、もっと生きてみてもいいかなって思わせてくれたんだ。そして彼女彼氏らと、再会だってしたいと思っている。今の持ち物は数千円しか入っていない財布と、ピンクのクッションと一昨日の新聞だけだ。俺は山奥まで車に乗せられて、そこで捨てられた犬が、少しぼろっちくなって、自分の匂いを嗅ぎながら、すみません、戻ってきちゃいましたっていう犬とほとんど一緒だ。
チャイムを押す。鍵は持って出なかった。鍵を持って出る必要はないと思ったからだった。すぐにドアは開けられた。アケミがいた。
「どうしてたの? 今まで。心配してたのよ。本当に怖かった。あなたが帰らなかったらどうしようって思ってた。帰ってきてくれて本当によかった」
正直に言うと、その言葉は俺を本当に安心させる言葉だった。俺は帰ることを拒否されていなかった。アカネがダイニングテーブルでコーラを飲んでいる。
「アカネ、帰ったぞ」
アカネの返事はなかった。俺は改めてひどいことを言ってしまったことを知らされた。アカネの長かった髪は肩より少し上で切られ、ボブカットにしていた。アカネにたいして言った「アカネ、帰ったぞ」に対する返答がないのも諦めるしかなかった。
「アカネ、土産がある。お前の好きなフランフランで買ってきた。フクロウの絵のピンクのクッションだ」
そう言いながらフランフランのショッパーからクッションを出し、ダイニングの上に置いた。
「別にいらにない」
アカネはそう言って、コーラを持ったまま部屋へ向かっていく。
「これは女の子が選んでくれたんだ。ほら、かわいいだろう。確かアカネもピンク好きだったよな」
「別にピンク好きじゃないけど。そんなこと言った覚えもない。それにさ、そのクッションって、シャワー並みに無駄遣いなんじゃないの?」
アカネの部屋のドアはぱたんと閉められた。
翌日からも同じだった。俺もアカネに話しかけなかったし、アカネももちろん俺に話しかけることはなかった。
「アケミ、俺とアカネが冷戦状態にあるっていうこと、ご近所に話したのか?」
「そんなこと話すわけがないじゃない」
「それは本当に本当か?」
「本当に本当よ」
「誓って言えるか?」
「もう、なに、誓います」
最近はご近所の方に話しかけられることが妙に増えた。今まではあいさつ程度だった人も、
「早くアカネさんが元に戻ってくれるといいですねえ」
とか
「再就職ですか。大変ですね」
など誰にも知りえないことをご近所さんはなぜか知っているのだ。アケミは誓って話していないという。
家に帰ると、夕方を朝から待ちわび、アカネが帰るのを待った。その日は随分長い日だった。もうやることもないかもしれないゴルフの道具を玄関で長い時間手入れしていた。車の洗車もした。洗車しながら、車は買い換えようと思った。レクサスじゃなくても別に構わない。アカネだって髪を短くした。それなのにレクサスに拘る俺は卑怯に思えた。軽でもいい。燃費がいいやつだ。別に排気量なんてどうでもいい。レスポンスなんてどうでもいい。中古でいい。
アケミが夕飯の支度をしていたころ、アカネが帰ってきた。俺はすぐさま玄関に飛んでいき、アケミの足に両腕を回し、しがみつき、アカネ、ちょっと聞きたいことがあるんだと目をぎょろつかせた。
「やだ! なにこれ! お母さん、助けて!」
「アカネ、アカネはご近所さんとは仲がいいのか?」
「もういやだ、なんなのよ」
足を振りほどこうとするアカネの力に正比例して俺はアカネにしがみつく力をこめる。
「ママー!」
アカネは泣き出した。
「泣かせてごめんな。でもとっても家にとって重要なことなんだ。俺が言っていることは。だからそれだけ答えてくれ」
「挨拶しかしたことない。それでいい?」
「誓えるか」
「もうほんとにやだよ!誓えるよ」
アケミがかけよってアカネの身体を支える。俺は床にへたりこんだまま、
「アケミもアカネも本当のことを言っているんだろう。だとしたら、残る可能性は一つなんだ。うちには盗聴器が仕掛けられてる。いまから全員で探すんだ」
「ね、お父さん、それは食後でもできることでしょう? だったら家族で食卓を囲んでからゆっくり盗聴器を探しましょうよ」
俺はしぶしぶそれに従った。そしてその食卓を囲む際、
「俺ももちろんしゃべらない。だからアケミもアカネもそうしてくれ」
静まりかえった食卓を囲む。アケミは戸惑ったような顔をして、アカネはつまらなそうな表情を隠さない。俺だって確かにおかしな夕餉になってしまったなと思う。けれど話し始めてしまえば、俺がやばいことを言わなくても、アケミやアカネがうっかりっていうこともありうるのだ。俺はこれ以上、俺がリストラされ、今も職が見つからないことを世間に噂されることは耐えられそうになかった。そうか、だとしたらたとえばアケミに
「お父さん、今日もお仕事お疲れ様、さあ、食べて」
っていう芝居を頼んでもよかったのかもしれない。ちょっとだけ遅かったっていう後悔が俺を襲うが、今となってはそうしてくれとも言えないのだ。多分リビングダイニング。この部屋のどこかに盗聴器は仕掛けられているのだ。
夕飯を食べ終えたアカネはばたんっと大きな音をさせて部屋のドアを閉めた。アカネが変わってしまったなと思う。親子喧嘩をしたり、アケミや俺に叱られても、ああいう風な、扉をばたんっと大きな音で閉めることで、自分の内包する心を表現するような、嫌味な娘ではなかった。アカネはいつそんな風に変わってしまったのだろう。
そして無言のままアケミも食器を片付けている。独立型のキッチン。これを買ったのは、アケミがもしもアカネが一緒に料理をしてくれるような年頃になったら、こういうキッチンなら二人で料理してもそれほど窮屈じゃないかもね、という言葉があったから、この家を買う時、少し値段のはるオプションではあったが、買ったのだ。アケミの英語教師っていうサラリーだけじゃ買うことができなかったはずだ。
俺は覚えている。それなのにこいつらはきれいさっぱり忘れている。みんな俺のおかげでこうしているんだ。それなのにこうやって必死に盗聴器を探しているのに、アケミは食器を洗う手を休めないし、アカネは部屋をばたんっと閉めた。俺はソファをひっくり返した。ソファの底にだって盗聴器は隠せるだろう。ソファの下は埃だらけだだった。アケミにここを掃除機をかけろと言った。アケミは答えず、食器を洗っている。口を開かないという約束を守っているのか、それとも食器を洗う水道の音がうるさくて聞こえなかったのか、それとも俺の言葉を無視したのか。俺は二つのソファをひっくり返したままにした。
アケミが掃除機を持ってやってきて、ソファの下に掃除機をかける。無言のままだ。そしてそのまま寝室へ行く。パジャマを持ってきたようだった。風呂に入る。俺は
「風呂から出たら、盗聴器を探すのを手伝えよ」
と少し扉を開けて言った。俺が風呂の扉を閉めると、アケミは中から鍵をかけたようだった。そしてシャワーの音にも負けない泣き声が聞こえる。




