モンテカルロ
フランフランが夜やっているとは思えない。けれどタカシ君いるかなって思って、いつもの、ブランコとベンチしかない小さな公園にやってきた。タカシ君の寝袋はなかったけれど、その代わりそのベンチに中年のおじさんが新聞を広げて座っていた。
「ねえ、おじさん、この暗さで新聞って読めるもの?」
おじさんは戸惑ったような顔をして、
「いや、これは」
「いや、これは?」
「読んでるわけじゃなくて」
「読んでるわけじゃなくて?」
「広げてるんだ」
「広げてる」
わたしはフーンと言っておじさん隣に座った。
「おじさん、ストリップって見たことある?」
「ないな」
「ストリップってね、まず女性がひらひら踊ってね、そしておっぱいとかおまんことか見せてね、最後に客さんの一人とエッチするのよ」
「そういう話だけなら知ってる。でもさ、君何年生なの? そういうことを知っているような年頃にも見えないけど。小学生だろう?」
「わたしはね、ストリップ小屋で生まれてストリップ小屋で育ったの。正直わたしは十三才っていうことになってるけど、それも怪しいの。わたし今生理なの。初潮っていうやつ」
「おめでとう」
「ありがとう。昨日はたくさんお赤飯を食べちゃった」
「うちの娘が初潮を迎えたときは、俺に隠していて、お母さん、お願いだからお赤飯を炊かないでって言ったって、後で妻から聞かされたけどなあ」
「そういうの、きっと普通ななんだろうね」
わたしはブランコに移動する。
「わたしの場合、ママも他のストリッパーも喜んでくれてお赤飯を食べた。店長はお赤飯を食べなかったけれど、すっごく喜んでた」
わたしはおじさんとの距離が少しあき、ブランコを揺らしているものだから、この公園の周囲住宅街にはわたしの言葉が響いた。
「ねえ、それよりさ、トンボって透き通ってるって知ってた?」
「太宰治だろう」
「なんだ、もうばれちゃった」
私はふふふと笑う。
「あのね、学校には行っていなくってもね、例えば算数。引き算はもちろん、割り算だってできるし、分母とか分子とかそういうのも知っている。割合とかもね」
「ふうん」
「本を読むのも好きなの。ストリップの開演中は相手をしてくれる人もそういないし、暇だから、本を読んでる。たいていの漢字はりょうさんに教わったし、後は辞書で調べながら、その言葉を大切に読む。そしてね、空想も好きなの。わたし。いつも空想してる。でもね、その空想には限度がある。それって当たり前の空想に限度があるっていう意味じゃなくって、私固有の空想の限度なの。あまり知らないから、わたし」
「知らないことが罪だっていう場合もある。でも罪じゃないっていう場合もある。君の場合後者だって思う」
「わたしの背の裏でこうろぎが鳴いてるよ」
「それもパクリっぽいな」
「パクリかもしれないけれど、今本当にわたしの背骨のすぐ裏でこおろぎは鳴いているの。とても悲しそうにね。そしてとてもさみしそうにね」
そこに色鮮やかなタカシ君がやってきた。この公園の一つだけの街灯に照らされたタカシ君は生命力とは鮮やかであることだって主張するみたいに立っていた。
「なに? 今日はお客さん?」
「わからないけど、新聞を読まなくても広げるのが趣味のおじさん」
「なあ、おじさん、よく分からないけど、この子は処女なんだ。それもセックスを今してはいけないっていう運命にいるんだ。だからおじさんも諦めるんだね。お金を渡すとかそういうこと」
おじさんは新聞紙を角をそろえるようにきちんと畳み、膝の上に置いた。
「君、俺にとっての性欲っていうのは、最近は突発的だけど、その一瞬で終わるようにできているんだ。そう長続きなんてしない。そしてお金を払おうと思っても、おかねだってない。そのお金があればきっとしばらくは食べていける」
「ねえ、おじさんってそうは見えないけど、ホームレスなの?」
「少しだけ当たってる。職もないし、家庭だってこれからも粉々になってしまう、俺が粉々にしてしまう、そういう予感だって持っているから」
「ふうん」
そうタカシ君と私は同時に「ふうん」と言った。職がなくて、家族が木っ端みじんになりそうなおじさん。きっと今心細いだろう。
タカシ君が寝袋の中に入る。
「タカシ君、わたしもいい?」
「もちろんいいよ。今日は少し寒いね」
わたしは寝袋に入ると、おじさんに隠れてタカシ君の唇にキスをした。その瞬間、まぶしすぎると思った。鮮やかだとも思った。キスっていうのは笑い出したいような幸福を呼びさますようなものだと知った。わたしは隠れてタカシ君にキスをした。
りょうさんの首に巻く羽でできた紫色のショールはとてもきれいだっていつも思う。ママがよく舞台で着るボルドーのスパンコールもついたネグリジェみたいなものもキレだって今思う。禿げ頭の店長の先のとがった靴はいつもピカピカに輝いている。なんだ、わたしはとてもきれいなものたちに囲まれて育ったんだ。わたしが着るならピンクの衣装がいい。襟元は羽毛で飾られ、スパンコールだってついている。そんなピンクの衣装。薄いピンクの衣装。
おじさんはまた顔の前に新聞を広げていた。タカシ君がわたしと同じことを言う。
「この照明で、新聞読めるの? 本当にリコちゃんの言うとおり、新聞を広げているのが趣味なの?」
「趣味っていうわけじゃない。だけど職を失ってみたら、ぼんやりしている姿とか、昼寝をする姿とか、口を開けてテレビを見ている姿とか、そういうのを人に見られてはいけないと思うようになった。そしてそれは癖のようなものになって、いつでも何かをしているように見えなければならないって思うようになったんだ」
「そっかあ」
タカシ君はわかるっていう風に言った。それはまるで明日フランフランに行くという約束をしたときの確かさみたいだった。明日? 違う。今日だ。
「つまりおじさんには責任っていうやつがあって、一瞬たりともその責任っていうのを忘れているように見られたくないっていうこと?」
「まあ、だいたいそうだ」
わたしはさっきのキスの後、特に何の変化も見せないタカシ君が、なんだか偉大だなあって思えて仕方なかった。タカシ君はそうなんだなあ。けどそれってタカシ君がたくさんの女の子とキスしてきたっていうことなのかなあ。
タカシ君は今上を向いて目を閉じている。わたしは耳に息がかかるほど口元をタカシ君の耳に寄せ、
「ねえ、タカシ君って、いろんな女の子とキスしたの?」
「そんなことないよ」
「じゃあ、六人くらい?」
「違うね」
「じゃあ、三人くらい?」
「一人だよ」
「そうなんだ。付き合ってた人?」
タカシ君は住宅街の静寂を破るみたいに大声で笑いだして、
「俺、さっきファーストキスをした」
わたしも笑った。その笑いは本当は昼間の真っ青な晴天の空に似合うはずの笑い方だ。
おじさんも笑っていて、わたしたちはおのおの持っている、その不幸だったはずのもの、、もしかしたらこれから発芽する、不幸の芽のようなもの、すべてが消え去り、そうしてこの公園はとても温かい笑いに包まれていて、なにか陰険なもの、ひねこびた言葉や動作、そんなものは今何もないっていう風にここにいる三人が三人ともそれそれ思っているように思えた。
「おじさんは、フランフランって知ってる?」
「ああ、知ってるよ。妻と娘の買い物に付き合わされたことも何度だってある」
「そっか。明日ね、わたしたちフランフランに行く予定。おじさんも一緒に行く?」
「いいのかい? 君たちカップルのお邪魔じゃないかい?」
「そういうんじゃないから、わたしたち」
「どうしてもそういうふうになれない運命なんだ。この女の子は」
タカシ君も言った。




