モンテカルロ
俺は現役のロックシンガーだ。つまりプロだ。それなのにどうしてだろう。昨日、というか今日の0時過ぎ、俺は振られた。六年間付き合った女に振られた。多分俺が悪いのだろう。というのも昨日は俺の誕生日で彼女はたくさんの唐揚げとチーズケーキを作ってくれたのまではいいが、俺はそれらが置かれたテーブルを足で蹴って倒した。小学校の時、学級委員だったこともある俺だ。俺なりの意見を、そのテーブルを蹴り倒してしまったあと、さらに片足をアンプに片足をかける如くかけて、こう述べたんだ。
「こんなにたくさん、全部食べれるわけがねえじゃねえか!」
つまりつまびらかに言うとこうだ。俺は彼女が手料理を作ってくれたらすべて残さずぺろりと平らげるつもりだった。もちろんそうだった。けれど彼女の作ったその唐揚げとチーズケーキは二人で食べるとしたってあまりにも大量だった。なぜ俺の気持ちを汲もうとしないのだ? 俺は残さず食べるつもりだったのに。俺はかっとなって、今いる場所が俺の部屋なのかそれとも大音量でギターがかき鳴らされる舞台なのかも判別が不可能になって、イライラして頭がかゆくなりだして、そしてというわけだ。
なるほどっていう面もあった。この女はアルバムを六枚出して、一応武道館なんてのもやるプロミュージシャン、ロックシンガーを振る。大した女だ。やっぱりな、とも思う。彼女は黙々と部屋の掃除をして、俺が立ったまま微動だにせず、足をかけていた倒れたテーブルを俺の足をひょいと持って、どかして元通りに直し、布巾を絞りながら現れたかと思うと、テーブルの上を拭き清め、そうして部屋の隅に置かれていた小さなバッグを肩にかけ
「さようなら」
と言って出ていった。
俺は座った。テーブルの上にはご丁寧に灰皿が置かれている。これだって、彼女と二人で吉祥寺を散歩しているときに、ふと入った雑貨屋で二人とも気に入って買った灰皿だ。俺は緊張するとタバコが増えるという癖がある。俺はまずハイライトに火をつけて、それから彼女に電話した。どう言おうとか、謝ろうとか、そんなアイディアも浮かばないまま。そういいアイディアなんて湧くはずもないんだ。彼女が不在なのだから。
彼女は出た。
「もう駅よ」
「悪かった」
いきなり切れた。そして五分後またかける。
「電車よ、今無理」
そしてじりじりと待った。本当は一〇分待つつもりだったけれど、七分後にはかけてしまった。
「今、アパートまで歩いてるの」
「悪かった」
「もうね、そういう積み重なり、疲れちゃった。わたしが悪いとしてもよ? でも結局はそれを繰り返すことになるわけでしょう?」
これはマジか? どうやらこれは本当に起きている事件らしい。
「悪かった」
「もう切るね」
俺はまた五分後には電話をした。まさか、まさかな。
「もしもし、もうやめて」
「だから俺が悪かったって」
「わたしの思いやりのなさよ。でもね、一生懸命作った唐揚げやチーズケーキがカーペットの上に散らばっているのを見たとき、なんだかすっごく悲しくなっちゃって」
「うん」
「もう、電話も止めようよ」
その後も五分おきに電話をかけたのだが、一向に彼女は出ない。俺はこれは本物かもしれないと焦りだした。昨日の夕方、買い物袋を提げて俺のマンションに来た時の彼女のきれいさがよみがえってくる。彼女はとてもきれいでかわいかった。他の誰かがそうではないと思ったとしても俺にとっては最上級にきれいでかわいい彼女だった。そしていつも優しかった。俺の時々やってしまう、妙なプライドと臆病さが混じった言葉や行動を、いつもいつも許してくれた。だから俺はいつも彼女は許してくれるものだと思っていた。例外などないと。でも今回は本物かもしれないと、タバコばかり吸ってしまう。
「もしもし?」
彼女がやっと出た。時計を見ると〇時一七分だった。
「だからな、俺、そういうのもうやめるからさ、そういうさ、電話に出ないとかそういう不安をあおるようなことをしないでほしいんだ。正直に言う。俺は弱い」
「さようなら。電話に出るようなわたしも悪いんだと思う」
俺は煙草に火をつける。
「だからね、着信拒否にするからね」
「待ってくれ! それだけはしないでくれ! 俺とお前をつなぐ線を切らないでくれ!
お願いだ!」
電話は切れた。そしてどうやら本当に彼女は着信拒否という手段を使ったらしかった。何度電話を鳴らそうと、電話の呼び出し音が続くだけなのだ。
俺は思い出していた。近所の西友だ。緑と赤でSEIYUと書かれたネオン。喫煙スペースで俺たちは深夜そこに座ってタバコを吸った。彼女はなぜだか笑っていた。そう笑っていた。寒い冬の夜中、お尻が冷たくなるのもかまわずに、彼女はベージュのピーコートを着て、俺は黒いダウンを着て、いつまでもそれが続くって疑うことなんてなく、俺たちは笑っていた。そこには微塵の不幸も、心配の種も、不安もなかった。そう、微塵もない不幸、心配の種や不安。だから、動くことなど、移ろうことなどないと思い込んだ俺は、彼女に甘え過ぎたのだろう。けれどこの万力で心臓を絞られる様な痛みとか、誰もいなくなってしまうような不安感、これを消し去りたいと必死で思う。
俺はタクシーを呼んだ。そして乗り込み
「どっかの高速のパーキングエリア。二万で行けるところまで」
と言った。俺はその間も携帯で彼女にかけ続けた。いくらでもなる呼び出し音。いつまでも続く呼び出し音。普通こんなとき、人は最果てを目指す。南ではない。北だ。本州の北の最果ての地名が今、わからない。昔は知っていたはずなのだ。確かに知っていたという自信がある。けれど今は思い出せない。本州の北の最果て。そこまで行くにはタクシー代はいくらかかるのだろう。そんな思いが焦燥の中、頭を巡っていく。終わりなのか。本当にもう終わりなのか。俺はこの先生きていけるのか? いや、生きてなんていけっこない。タイムマシンがあったのなら、テーブルの前に座る俺でいたい。少し残した唐揚げとチーズケーキを眺め、
「なあ、残りは明日食べるよ。ラップをかけて冷蔵庫に入れておいてくれないか?」
と鼻歌でも歌うように、流れるように、自然に言ってみたいものだ。
パーキングエリアに着くとそのタクシー運転手は俺を放り投げるように降ろそうとした。俺はタクシー運転手に人生の知恵を借りようと思った。
「ねえ、運転手さん、もし人生に大きすぎる挫折があった時、運転手さんはどうしますか?」
「俺の場合はね、こうね、夜中も運転してることがあるからね、そうだね、車をどこかに停めて、外に出て、月を見ながらタバコを吸ってね、その後奥歯をかみしめるんですよ」
そう答えて俺から二万円をむしり取ると、去っていった。月を見ながらタバコを吸い、奥歯をかみしめる。俺もそれを実行した。けれど絶望や悲しみは去っていかない。俺はあまりの心細さに泣きだした。号泣だった。泣きながらたくさんの車が止まっている前の暗い店の前でコートのままで寝転び、何度もごろんごろんと寝返りをうちながら泣きわめき続け、それをそしらぬ風で行きすぎようとする人たちに
「俺はね、ロックシンガーなんですよ。ちなみにアルバムは六枚出してる。でもさ、さっき彼女に振られちゃってね。そしてタクシーでね、ここまで来たんだけど、帰るお金もなくってね」
そして俺は叫び続ける。
「まさか、まさか、まさか、まさか、まさか、まさか、こんなことはあり得ないんだ。こんなことはあってはならないんだ。そう、まさか。まさかなんだ」
そう泣き叫びながら、訴えると、さらに人たちは遠巻きに俺を眺め、「かかわらない方がいい」という判断をする人が大半らしく、けれどそこにかわいらしい天使が舞い降りた。
グレーのダッフルコートを着て、白いニット帽をかぶっている。
「あのね、お兄さん、大事なものってなくすとすごく後悔するわよね。だからこれからは大事にしてね。これ少ないかな? 今持ってる全財産なの。家族で昨日までお父さんの実家に帰省してて。帰る途中なの。今持ってるのはこの一万円だけ」
「君は雪の精なの? 親切にしてくれてありがとう。俺はロックシンガーだから、今度ライブに来てくれよ」
「ううん。ライブには行かない。多分行かない。今日これきりだと思う」
「どうして?」
「どうしてかっていうと、わたし音楽って聴かないから。わたしの職業は図書館員なの。毎日本を読んで過ごしてる。わたしの図書館員という職業と、勘で言うと、あなたには今、推理小説が必要だって思う」
「雪の精ちゃん。俺は君が好きだ。
すると寒そうな赤い頬のままで俺の目をじっと見て、
「ううん」
と答え踵を返そうとしたとき、
「ありがとう。多分当分君のこと忘れられないと思う。推理小説読むよ。雪の精ちゃん」
「じゃあ、またね」
雪の精は走ってさっていった。
そしてありがたく、その一万円でワンカップを買った。外を散歩しようっていう気温じゃなかった。酒で温まりたかった。そして酒を飲んだらますます涙が出た。頭上にワンカップを置いて地面をうめき声をあげながら転がりまわる。
車の陰で誰かと誰かが何かを素早く交換している。
そして外で眠ってしまった。
朝起きると携帯の充電が切れていることに気がついた。店の中に入り、携帯の充電できるやつを買う。それはとてものろのろとした充電の仕方だった。俺は昨夜から何も食べていないことに気がついて、食欲もなかったが、なんとなく山菜そばを食べた。
そしてチャッキーに電話する。チャッキーとはいつのころからの親友だ。そして彼はコールしないとレスポンスがない。当たり前のようだが、それが彼の核心だし、核心をついた言葉しか発さない寡黙さも彼の核心なのだ。
「つまりは、彼女に振られて、タクシーに乗ってここまできたけど、帰るすべが見つからない。とても縮小して言えばそういうことなんだ」
チャッキーは面白そうに笑った。そして
「迎えに行けばいいわけね」
「チャッキーにはいつも世話になって悪いんだけど、そういうことなんだ」
しばらくチャッキーは意地悪そうに笑って、
「少し待ってね。行くから」
そう言って、電話を切った。電話を切られるということ、俺はそれがトラウマになりそうだ。今、俺は電話相手が電話を切るよりも先に電話を切ってしまいたいと切実に感じている。