家族
久々の執筆です。多々お見苦しいところはあるでしょうが、どうかご容赦ください。
ここは北の大地にある、とある山の中腹に建つ一軒家。ペパーミントグリーンの外壁に、目の前に広がる斜面は綺麗な花畑になっている。春になれば色とりどりの美しい花が咲き、夏には時々キタキツネがこっそりと降りてくる。
この家の主のおばあちゃんは、今年で七十二歳になる。でも、とてもアクティブで畑仕事も元気にするし、老人会の催し物や旅行にも出かけている。そしてもう一人、おばあちゃんの娘も暮らしているが、結婚はせず、優雅な独身貴族を楽しんでいるようだ。
おばあちゃんも娘もとても穏やかで、夜になると居間でこたつに入りながら、話をしたりテレビを観たり。でもね、こたつは私のお気に入りの場所だから、ちょっとはスペースを空けて頂戴、とももは「うにゃん」と催促をする。
こたつの中に座布団を一つ置いてあるのは、私がここでいつでも眠れるようにおばあちゃんが置いてくれたから。そう、ここはシャム猫のももの大のお気に入りの場所。
ももはこの家に引き取られて、もう十八年になる。すっかりおばあちゃんになったももだが、彼女のプライドは相変わらずエベレストよりも高く、いつでもツンとおすまししている。
ももを撫でようと手を伸ばし、おそるおそる撫でてみる。でも、許してくれるのは三回まで。三回以上撫でようとすると、爪は立てないが肉球でぱしんと叩かれてしまう。
――私に三回以上触れられると思わないでよね。
そんな彼女の声が、今にも聞こえてきそうだ。
この家にはももの他にも、もう一匹猫がいる。今年で十二歳になる、茶色いトラ柄の太っちょ猫だ。彼女の名前は「いと」という。
いとは、生後二週間くらいの時に、この家の娘に拾われ命を救われた。雨の中みぃみぃとか細い声を出し、ずぶぬれのところを拾われたのだ。しかもいとは、両前足の親指以外の指がなくなっていた。どうやら、誰かに切り取られてそのまま捨てられたらしい。なんとも酷い有様だったが、いとの生命力は強かった。「生きたい」と願う彼女の気持ちが、消えかかった命の灯火を消さずにすんだのかもしれない。
そんな二匹の猫だが、ももはおばあちゃん、いとは娘が大好き。
おばあちゃんとももは一階で一緒に眠り、娘とおばあちゃんは二階で眠る。ももはおばあちゃんの足元で、いとは専用の一人がけソファを与えられ、そこで眠る。自分から眠たくて寝床に行くことはあるが、起床時、いとは娘に声をかける。「なぁーんなぁーん」と、ちょっと不細工な声を出し、下に降ろしてくれと頼む。幼い頃に失った指先が、年をとっても痛むらしく、人に抱っこしてもらわないと階下に下りることができないのだ。
そんな二匹は大の仲良し。……ということはなく、女王様気質のももは、あとから来たいとが気に入らない。決して側に寄らず、つん、とそっぽ向いてしまう。いとはというと……そんなことはまったく気にせず、自分のペースでゆるりと毎日を過ごしていた。
穏やかに流れる女四人の家に、ある一つの変化が訪れた。
いとの体を、ある病魔が蝕んでいたのだ。
それは「咽頭癌」。
喉に腫瘍ができ、それがとても大きくなった頃に見つかった。喉にある腫瘍のせいで、痛くて食べ物がなかなか喉を通らない。食べることが大好きないとは、次第に痩せていき、毛並みもぼさぼさになってしまった。
おばあちゃんも娘も、いとの状態が心配で、家からあまり出ることがなくなった。もともと仕事もしていないし特に出る用事があるわけではないが、こういうときに限って用事ができてしまうのはなぜなのだろう。おばあちゃんと娘は、なるべく早く帰るからね、と声をかけて留守をももに託した。
もう……勝手に留守番を押し付けるなんて。
ももは不満そうに家の中を歩き回る。自分の所定の位置に座って毛づくろいをしながら、窓辺のクッションの上で眠るいとの方を見た。すやすやと心地よい寝息が聞こえてきそうなほど、気持ちよさそうに眠っている。咽頭癌だなんて、大げさだわ。ももはつい、と顔をそむけすらりと伸びる長い脚の毛づくろいにとりかかる。
ひとしきり綺麗にした後、また顔を上げていとの方を見る。さっきからずっと眠ったままで、ちっとも動かない。まさか、とももは思い、いとの下へと駆け寄っていく。近くに来ていとの定期的な寝息を聞き、少しだけホッとするもも。いつもは大嫌いないとだけれど、今日だけは……という思いで、ももはいとの顔をペロペロと丁寧に舐めた。いとは目を開けなかったけれど、ほんの少しだけ嬉しそうな顔をしたような気がした。
留守番は、そう長くはなかった。やはりいとのことが心配なのだろう。おばあちゃんも娘も、すぐに帰宅した。二人の帰宅に安堵したのはももだ。何かあっても自分では何一つしてやれない。だって猫だもん。緊張していたのだろうか、ももは二人が帰宅したことでホッとしたのか、すやすやと眠りだした。
「あら、珍しいこともあるものね」
ふっと目じりを下げ、おばあちゃんは娘に言った。
おばあちゃんの目線の先には、いととももが寄り添って眠っている姿があった。ぴったりと寄り添うように。私がついているからね、とももがいとを励ましているかのように。
しかし……おばあちゃんと娘がこんな姿を見るのは、今日が最初で最後だった。
その晩、いとの容体が変化した。
息が苦しそうで体の震えが止まらない。
ここは北の大地。もう雪の深い季節だ。いとのクッションの下には湯たんぽが入っているし、この家は大きなストーブに床暖房もある。あたたかいはずなのに、いとは震えていた。
すぐさまおばあちゃんと娘は、動物病院に電話をしでかける支度を始める。そんな中、ももだけがいとの傍に寄り添っていた。
――大丈夫。きっと元気になるわ。そしたらまた、喧嘩をしましょうね。
励ましの声をかけるように、ずっと、ずっといとを舐め続ける。その言葉を受け取るように、いとは声を上げた。
「うにゃーん」
相変わらず不細工な声ね、とももは思いながらもいとを舐め続ける。嫌いなはずなのに、どこかでいとを大事に思っているのだろう。あたたかな毛布にくるまれて娘とおばあちゃんたちと一緒にいとが出ていくまで、ももはその場を動かなかった。
病院では医師による必死の治療が行われていた。しかし……医師が告げる言葉はあまりにも残酷なものだった。
「安楽死を、おすすめします。このままでは……苦しみしか残らない」
苦渋の決断を迫られていた。
いとの喉に出来た腫瘍が大きくなり、食べ物を飲み込むことすらできなくなっていること。どんなに空腹でも食べられないなんて、あまりにも可哀そうすぎる。痛みを伴う上、食べることが大好きないとから、食べることまで奪ってしまう。うつろな瞳からはもう、元気の欠片すら見えない。
「最後を、家で看取りたいです。そこまでなんとか痛みをなくすお薬を飲ませたり食べ物が喉を通るようにできませんか?」
娘は必死で医師に問いかける。しかし、無情にも医師は首を横に振った。
「残念ですが……」
そんな……と呟く娘から涙がぽろぽろと零れ落ちる。その涙が診察台に乗せられたいとの頭上にぽたり、またぽたりと落ちていく。
その様子を、いとは見ていた。大好きな娘が、自分をどうにか生かそうと必死な姿を。そんな時、いとは大きく一鳴き、娘に向かって鳴いた。
「なぁーん……」
いつもより弱々しい鳴き声。だけど、振り絞って娘に掛けた言葉は「ありがとう」。
通じないかもしれない。わかってもらえないかもしれない。でも、いとはその想いを全力で伝えたくて、痛む体を少しだけ持ち上げて、声をあげた。そしてそのまま、安楽死など選択する間もなく、ゆっくりと息を引き取った。
いとが亡くなってから二か月が過ぎようとしていた。
あれからいとはこの家に戻り、代々一緒に暮らしていた動物たちが眠る庭の松の木の下に埋められた。一人じゃないから、きっと楽しく過ごせるよ。そんな思いを乗せて。
やけに、静かな家になってしまったわ。ももはそんな思いを馳せながら、未だに残るいとの匂いを辿りながら家の中を歩いていた。二階のいと専用の一人掛けソファーには、彼女の匂いがとても強く残っている。くんくん、と匂いを嗅ぎ、そのままそこで少し丸くなって目を閉じる。自分よりも若いいとが先に逝ってしまい、ももは寂しさを埋めようといとの匂いを毎日辿って歩いていた。そして毎日、この一人掛けソファーで昼寝をするのが日課になっていた。
あの日、いとの傍で眠った時、いとはどんなに嬉しかったか。どれほど心強かったか。離れていると思った二匹の心が、強く繋がったのに。いとはもういない。
ももは昼寝を終えて、編み物をしているおばあちゃんの下へ向かう。おばあちゃんはももを三回撫でてから、ももに向かってこう言った。
「さみしいかい? お前にはおばあちゃんがついてるからね」
いとがいなくなって寂しいのだと思ったのだろう。ももは、寂しいわけないじゃない、そう言いたかったけれど……伝える手段が見つからない。だから答える代わりに、おばあちゃんの優しい手のひらにすりすりと頬を寄せる。
「おや、珍しいね。お前が三回以上撫でても怒らないなんて」
おばあちゃんは珍しく甘えてくるももを嬉しそうに見つめながら、ちょいちょいと小さな頭を撫でてやる。その手が気持ちよくて、ももは目をきゅっと瞑ったまま、しばらくおばあちゃんに甘えていた。
その晩は酷く寒い夜だった。
ももは時々、寒さから逃れたくて夜もこたつの中で眠ることがある。布団の上よりもスイッチを切ったまだ暖の残るこたつの中のほうが、ずっと暖かいから。
「今夜はそこで眠るのかい。寒くなったらお布団に帰っておいで」
おばあちゃんはももにそう言うと部屋の電気を消し、布団に深く潜り込んだ。
ももはこたつの中に潜り込み、そこで眠るもも専用の座布団の上で体を丸める。
おばあちゃん、ありがとう。心の中でそう告げ、ももはゆっくり瞼をおろす。そして……静かに静かに、ゆっくりと息を引き取った。
「幸せな人生だったね」
翌朝、こたつの中で丸くなりながら息を引き取ったももを見つめ、おばあちゃんと娘は、その固くなった体を撫でた。
十八年、ももは病気ではなく、老衰だった。
幸せそうな寝顔のまま息を引き取った姿を見て、寂しさがないとは言わないが、おばあちゃんも娘も安堵した。
「向こうでは、いとと仲良くするんだよ」
最後に見せたいととももが寄り添う姿は、つい昨日のように思える。思えばあれは、お互い天国へ向かう準備だったのかもしれない。ここでは素直に仲良くできなかった分、天国では仲良くしようね、と言っていたのかもしれない。その真意は誰にもわからないけれど、おばあちゃんも娘もそう思うことにした。
ももはいとの隣に埋められた。
庭の一本松の下で、仲良く、そしていつまでもこの家族の一員だよという想いを込めて。おばあちゃんと娘は長く手を合わせながら、ゆっくりと空を仰ぎ見る。
松の下に置いた花と線香。線香のけむりがゆっくりと、空に溶けていった。