四章
宿舎の台所はこぢんまりとしていた。店員たちの食事は、主一家のものと同じく、商館の厨房で作られるからだ。
こちらは各自が自室でつまむ軽食を用意したり、来客に茶を出す程度のことに使われており、茶葉やジャム、ビスケットやチーズなど、日持ちのするものが色々揃えられていた。
「ふうん、誰のものって決まってるわけでもないのか……、あ、これは名前がある」
戸棚を漁りながら、リーファは麻袋をひとつ手に取った。名前が刺繍されており、中には小瓶が入っているようだ。
大きさの揃ったジャム瓶が五個ほど並んでいるのは、ユネアの実家から送られてきたというものだろう。まだ中身はほとんどいっぱいで、開封されていないものもある。
と、不意に戸口で「きゃっ」と短い悲鳴が上がり、リーファとカナンは揃って振り返った。小間使いらしい少女が一人、慌てて頭を下げる。
「お、お邪魔して、すみません」
「いえ、こちらこそ」リーファは急いでなだめた。「お邪魔してます。どうぞ、気にせず用を済ませてください。ついでに少しお聞きしたいんですが」
リーファに手招きされて、少女は遠慮しながら狭い台所に入ってきた。
「こういうおやつの類は、ここに置く決まりなんですか? 自分の部屋に取り込んだらいけない?」
「いいえ、そんな決まりはないです」
びっくりしたように少女は首を振った。それから、説明が待たれていると気付くと、小首を傾げながら訥々と続ける。
「他の人が使ってもかまわない場合は、ここに置いてます。お茶の葉なんかは、部屋に置いておいても、結局ここまで持ってこないと飲めませんから」
「レジーナさんがどうしてたか、なんてことは……」
知るわけないよな、と期待せずに問いかける。すると意外にも、少女はあっさり答えをくれた。
「レジーナさんは、お茶の葉だけ少し、お部屋に置いてました。奮発して買ったものだから、って。あとは、皆と一緒で、ここに置いてあるのを適当に使っていたと思います。あ、でも……」
言いさして、少女はふと言葉を途切らせる。戸棚に並ぶ瓶に目を走らせ、あれ、と訝るように瞬きしてもう一度見直し、それから手を伸ばして瓶を動かし、さらに一回。
「なくなってる。誰か部屋に持って行ったのかしら」
「何が?」とリーファ。
「梨のジャム。ざらざらしてるし、ちょっと変わった香りがつけてあるんです。レジーナさんは好きだったみたいですけど、ほかの人には不評で、余っちゃってて。どうせ皆いらないんだから、部屋に持ってっちゃえば、って言われてたんですけど」
説明を聞いて、リーファはカナンと顔を見合わせた。
「昨日レジーナが部屋で使ってて、それを犯人が盗ってったのかな」
「使いさしのジャムをか?」
カナンは変な顔をする。リーファも本気ではなかったので、なんとも答えず頭を掻いた。そこへ、あの、と少女が遠慮がちに声をかける。
「レジーナさんのこと、色々……皆、色々言ったと思いますけど、あの、そんなに悪い人じゃないんです。誤解しないでください」
スカートをぎゅっと握り締めて、涙ぐみながら主張する。そんな彼女の姿に、リーファはいささか驚きながら聞き返した。
「あなたはレジーナさんと親しかったんですか」
「親しくは、なかったですけど……ただ、あの、本当に、悪い人じゃなかったんです。確かに、皆が楽しく話してる最中でも席を立って出て行ったり、それで喧嘩になったりも、ありましたけど。でも、殺されるほど酷いこと、してません。だから、お願いします、犯人を捕まえてください」
「もちろん、そのつもりですよ」
リーファはにっこりして、ちょっと屈んで少女と目線を合わせた。途端に少女は、びくっと怯えて顔を伏せてしまう。リーファは小声でささやいた。
「あなたから聞いたとは、決してばらしません。喧嘩があったというのは、どういうことか聞かせて貰えませんか」
察したカナンが戸口の方に回り、人が来ないかどうか見張りに立つ。少女はそちらを不安げに見やった。閉じ込められたと思ったのだろう。だがカナンが外に視線をやってから、大丈夫、と言うように微笑んで見せたので、意図を理解して肩の力を抜いた。
「大袈裟なことじゃ、ないんですけど。前に皆が食堂で休憩時間におしゃべりしてる時、ユネアさんが……色々サラシアの話をしてくれて。あの人、お店に勤めて長いから、よく知ってるんです。それで皆、聞いてたんですけど。レジーナさんが途中で黙って出て行ってしまって、それで皆、感じ悪いわね、って。その時はユネアさん、何も言わなかったんですけど。後で……ちょっと揉めてるのを、聞いてしまって」
少女は言いにくそうに口ごもり、目を伏せて言葉を探す。
「あなたは私のこと嫌いなんでしょう、って。確か、そう言ってたと思います。ユネアさんが。レジーナさんは、何言ってるの、って感じで『はぁ?』って聞き返したんですけど、それが余計に悪かったみたいで」
やっぱり。嫌いなのね。
重ねて決め付けたユネアの声はこわばっていた。普通ならこんな場面では、真っ赤な嘘であっても、嫌ってなどいない、と否定し、なだめようとするものだろう。だがレジーナはそうしなかった。
嫌ってるのはそっちでしょ? あたしは別に、どうでもいいだけよ。
ばっさり切り捨てられて、ユネアが息を飲み、石のように沈黙した。
「すごく怖かったです。つかみ合いの喧嘩になるんじゃないかって。でもユネアさんは、堪えたみたいでした。あなたが私を嫌いでも仕方ないけど、こんな狭いところで毎日顔を合わせるんだから、もうちょっとましな態度をとれないの、お互い気持ちよく過ごしたいでしょ、って。そんな感じのことを言いました。私、怖くなって、最後まで聞かずに逃げ出してしまったんですけど。……レジーナさんは、そんな風に、人を怒らせることがよくあって。でも、悪い人じゃないんです。あの人、私にお店のこと、色々教えてくれました。困ってる時には、サッと助けてくれて」
少女の目にはもう、いっぱいに涙が溜まっていた。リーファは軽く少女の肩を抱き寄せて、落ち着くまで背中をさすってやった。
しばらくして少女が、本来の目的だった茶を用意して立ち去ると、カナンは大袈裟に身震いして首を竦めた。
「女のいがみ合いは、おっかないなぁ。陰湿でねちねちしてて」
「閉ざされた場所だから余計に鬱屈するんだろ。限られた人間しかいないところで、優位を巡って角突き合わせるのは、男だって同じじゃないか」
リーファは言い返しながら、戸棚の中をもう一度確かめた。そしてふと、小首を傾げる。
「レジーナって、付き合ってる男とかいたのかな? ユネアが見たのが、秘密の恋人だった、って事もあり得るよな」
「どうかな」カナンは難しそうに唸った。「今まで聞いた限りじゃ、そんな気配はなかったみたいだが。何にしても、“こんな狭いところ”の人間関係を洗うのは気が進まないなぁ。事件と関係ないかもしれないのに、よそ者が首突っ込んで引っ掻き回して、後が悲惨なことになりそうだ」
「オレ達は疫病神だからね」
リーファはにやりとして戸棚を閉めた。それから真顔になり、つぶやくように続ける。
「どっちにしろ、何かが澱んで溜まってるところは、他人が入り込もうと否と関係なく、いずれどうにかなっちまうさ。見ないふりしてごまかしても、消えてなくなるわけじゃない」
「……そうだな」
珍しくカナンも、沈んだ口調で同意した。
そんなこんなで、リーファが城に帰ったのは、日没ぎりぎりだった。大急ぎで門をくぐったリーファの後ろで、跳ね橋が上げられる。
「あー、疲れたぁ」
ため息をついて、着替えもせずに国王の執務室へ向かう。幸い、国王と秘書官の二人が揃っており、こちらも無事に本日分の仕事を終えたようだった。
「ただいまー……」
リーファが呻いてソファに倒れこむと、二人は目をぱちくりさせた。
「お帰り」ロトがまず労う。「お疲れみたいだね、大丈夫かい?」
「連続強盗犯を逮捕して、浮かれてたんじゃなかったのか」
シンハが怪訝な顔で問うたので、リーファは深いため息をついた。
「人違いかも知れないんだよ」
「なに?」
「今朝、本部に行ったらさ、昨日の夕方に例の強盗が二番隊三班の担当区で出たって聞かされて。そっちの調査に加わることになったんだ」
「……つまり、おまえが捕らえたのは、たまたま赤毛の女の部屋に侵入した不運な男だ、というのか? そんな馬鹿な」
シンハが呆れて首を振る。ロトも不可解げに眉を寄せた。
「二番隊の方は、確かに同じ手口なのかい」
「うーん、まだ断定はできないなぁ。似てるとは思うけど、カナンもこっちは偽装だろうって言ってる」
リーファはもそもそ起き上がり、ちゃんと座りなおしてから、今までに分かったことを二人に話した。ちょうど自分も、情報を整理したかったので好都合だ。
話し終えると、じっと注意深く聞いていたロトが、ゆっくり口を開いた。
「これから言うのは、あくまで単なる思い付きだよ。君は“静かすぎる”と言ったね?」
「うん。悲鳴を聞いた人もいないし、血痕が少ない、ってのはカナンも気がついてた」
「そして、殺された女性が食べていたジャムがなくなっている」
「えーっと、同じ奴かどうかは、確認出来てないんだ。片付けられちまったから」
「そうか、じゃあそこも仮定の話になるな。思いついたのはね、ジャムに睡眠薬が入っていたんじゃないか、ってことなんだ。ジャムなら甘いから、薬が混ぜてあっても気付かない。眠り込んだところを、床に横たえて切りつけて逃げたら、血しぶきは飛ばない」
「あっ……!」
そうか、とリーファは手を打った。シンハも、ふむ、とうなずいて言う。
「騒ぎにならなければ、すぐに発見されることもない。失血死するまで多少の時間がかかるだろうし、犯人がいつ部屋にいたのかを特定しにくくなるな」
「じゃあ、レジーナを殺してから四番街に来たって事もあり得るかな?」
「それは俺には何とも言えん。現場を見たわけじゃないからな。発見された時点で血が乾ききっていたなら、やられたのは早い時間だろうが……」
そこまで言って、彼はなんとも残念そうにリーファを見つめた。
「せっかく、お前の手柄を祝ってやろうと思ったのに。延期か」
「好都合じゃありませんか」ロトが意地悪く笑った。「どうせ当分、厨房に立てそうにないんですから。一山片付けてから、リーの件とまとめてお祝いにしたらどうです」
シンハが恨めしげにロトを見やり、他方リーファは慌てて立ち上がる。
「忙しいのか。ごめん、邪魔しちまって」
「ああ、心配しないで。君の話を聞く時間は、ちゃんと予定に組み込んであるから」
ロトは優しく言ってから、微笑に迫力を加えてシンハを振り向いた。
「それとも陛下、その時間を潰して厨房に行かれますか?」
「……おまえは時々、極悪人だな」
「何をおっしゃいますやら。私は職務に忠実なだけですよ」
とぼけた主従のやりとりに、リーファは思わず笑い出す。いつの間にか、心身に溜まった疲れが軽くなっていた。
「ありがとな、お二人さん。お陰でちょっと元気出た。明日も頑張れそうだよ」
にっこり笑って礼を言うと、リーファは二人に手を振って部屋を出た。