先輩の結婚
※リーファ22歳、『それを運命と~』の少し前、まだ妊娠してない頃の話。飲み物注意。
「おっ先輩、久しぶり。結婚したんだって? おめでとさん」
本部にやって来たカナンと顔を合わせ、リーファはおどけた祝福を送った。結婚式に後輩を呼ばなかった先輩は、恐縮そうに首を竦める。
「おう。悪いな、ちゃんとした知らせもしなくて。直前までバタバタしてたし、なんだかんだ忙しくてさ。式も身内だけで簡単に済ませたんだ。おまえの時には呼んでもらってご馳走になったのにな」
「気にしてないよ、この仕事やってりゃ忙しいのはよくわかってるから」
リーファは答え、部屋に備え付けのポットから紅茶を注いで出してやった。
警備隊員は昼夜問わず駆けずり回っていることが多い。誰もが結婚するのが当たり前の世間にあって特異的に独身の割合が高いし、結婚式も神殿での宣誓と役所への届出だけで親戚さえ呼ばなかった、などという話も聞かれる。離婚も珍しくない。
「もうだいぶになるんだっけ?」
「おまえのちょっと後だったから……そろそろ一年か。陛下もご結婚なさったんだから、って理由で押し切られて断りきれなかったんだ」
「あー、あの頃いっぺんに挙式件数が増えたって話だったよな」
思い出して笑ったリーファに、自分もその一人であるカナンは苦笑した。
「言われたこっちとしては、どういう理屈だよ、って思ったけどな。でもお袋にとっちゃ、陛下を持ち出せばどんな言い訳も反論も受け付けない絶対の理由になるらしい。どうにもなりそうになかったから、諦めて……」
「連れてこられた相手と結婚した?」
「いや、条件を出した。わかった結婚する、相手は親父とお袋で決めたらいい、ただしひとつだけ譲れないのは、胸と尻がでかくて毎日気が済むまで触らせてくれること――って」
「最低だな」
うへぇ、とリーファは露骨に軽蔑のまなざしを向ける。と言ってもむろん本心ではなく、一種のお約束だ。カナンも承知で、怒る様子もなく「うるさい」と返した。
「どうせ家に帰っても寝るだけの毎日だ、ろくでもない結婚生活になるのは目に見えてるんだから、せめて癒しと潤いを求めてなにが悪い。おまえにはわからんだろうがな、でっかい胸は男の夢と憧れなんだ」
「こんなところでおっぱい談義を始めなくても、気持ちはわかるよ」
仕事で疲れきって帰った時、やわらかくてあったかい生き物が出迎えてくれたらどんなにか……、という感覚は女だって同じなのだ。リーファは言って、自分の茶を飲んだ。
「んで、今そんなに顔色悪く見えないってことは、ご希望が叶ったのかな」
「まあな」
途端にカナンはしまりのない笑みになり、頬を赤らめた。うわぁ、と今度は本気で引いたリーファに、カナンは構わずのろけだす。
「お袋は呆れてたけど、話を聞いて『そんな条件でいいのなら』って言ってくれたのがナタリアだったんだ。家計のやりくり上手だとか、働き者で内職でたっぷり稼げるだとかいった条件なら無理だけど、胸ならいくらでも、って」
「……へぇー」
「言うだけあって最高だぞー。さすがにお袋は最初、めちゃくちゃ嫌がってたけどな」
「まぁそうだろうね」
胸と尻が大きいだけで、家事や家計管理の能力が皆無の嫁に息子を任せるなんて、姑としては憤懣やる方ないだろう。家庭内戦争が勃発してもおかしくない。
だが眼前のカナンが緩みきった平和なにやけ面をしているところからして、そうはならなかったようだ。うまくいったのなら結構だが、とリーファが不思議がっていると、彼はいくらか顔を引き締めて言った。
「確かにナタリアは、あんまり頭が良くないし働き者ってわけでもない。けど、自分にはできない、ってことをきちんとわきまえて他人に任せられるんだよ。お袋のやり方とか指示に反対したり、自分のやり方はこうだからって家の中のことを変えたり、そういうことは全然しなくてさ。何より気立てがいいんだ。そうやってお袋の下に立ってても卑屈にならず、素直に『はいわかりました、なるほどそうですか凄いですね』って感じに気持ちいいもんで、お袋もじきにいじめる気をなくしたんだよ」
「へぇ、良かったじゃないか。なかなかそんな嫁さん、いないぞ」
「おうよ。やけくそで出した条件が、予想外に大当たりを引いたってわけさ。人生ってのは往々にして、うんうん唸って考え抜いた末の選択より、一番単純な望みをスパッと貫いた時に、上手くいくようになってるんだな」
カナンはしかつめらしく腕組みし、賢人ぶってうむうむとうなずく。もっとも直後に、
「何はともあれ、おっぱいは最高だ!」
――などと脂下がったもので台無しだったが。
そんなことがあったものだから、夕刻、帰ってきたリーファが真顔で
「なぁ、やっぱりロトも胸はでっかいほうが好きか?」
だとか訊いたのも、自然な成り行きと言えば成り行きであった。
城の庭で国王の気晴らしを兼ねた鍛錬の相手をしていたロトは、抜き身の剣を持ったままよろけて倒れそうになり、危ういところでシンハに腕を掴まれた。
「誰に何を言われたか知らんが」とシンハが笑いを噛み殺す。「そういう面白い話は二人だけでやれ。俺を巻き込むな。ロト、相手はもういいぞ。一休みして手が空いたら執務室に来い」
「……畏れ入ります」
ロトは赤い顔のまま頭を下げて剣を収め、妻を促して居館へ足を向ける。歩きながらリーファは、先輩の結婚相手について話した。聞いたロトはあからさまにげんなりする。
「ああ、あの先輩かい。一緒にしないでほしいな」
彼の中でカナンの評価は、大事な女性を泣かせたろくでなしに位置づけられたままのようだ。ため息をついて抗議した声音は、本気で嫌そうだった。リーファは首を竦め、ごめん、とひとまず謝る。
「でもさ、カナンはともかく、柔らかくて温かくてふにふにしたもんに癒されるのはわかるからさ……なんかちょっと申し訳ないというか」
「僕が君を好きなのはそういう理由じゃないよ」
ロトはほとんど反射的に断言し、次いで少し赤面し、それからいやこれはまずかったかなと悩む表情になった。その変化を眺めていたリーファはくすっと失笑してしまう。
実際のところ自慢できるほど豊満な体型でないのは確かだが、それでもリーファとて成熟した女性である。夫婦の睦み合いを通して、ロトが彼女の人格のみならず身体をも慈しみ愛してくれているのは伝わっていた。
だから彼女も、うん、と小さく肯定しただけで余計なことは言わず、ただ横に並んで甘い沈黙を道連れに歩く。
ややあってロトが珍しく少し拗ねたような表情になり、ぼそぼそ言った。
「第一、それで言ったら、僕のほうこそ柔らかくなくてごめん、じゃないか」
「……っ!」
不意打ちをくらったリーファは堪えきれず盛大にふきだしてしまう。とっさに口を引き結んだがとても無理で、すぐに彼女は身体をくの字に折って腹を抱えてしまった。
「ちょ、待っ……ロト、それは」
「猫でも飼うかい? 疲れて帰ってきた君を癒せる、柔らかくて温かくて可愛いやつ」
「いやいやいやいや」
愛玩用の猫はいないが厨房の番人としてなら数匹いるんだし、というか問題はそこではなく。
「だ、大丈夫。ロトには癒されてるから! うん、柔らかくはないけど、かわ……げふん、帰ってきて顔を見るだけで、疲れがこう、すーっと軽くなるから、さ!」
リーファは笑いながら何度も夫の背を叩いた。可愛いなぁ、と言いたいところなのだが、どうもそれを言うとこの旦那様はいささか傷付くようなので、ぐっと我慢して。
「いつもありがとな」
笑いすぎて目尻に涙をにじませながら言った彼女に、ロトはなんとも曖昧な顔で「こちらこそ」と応じた。声にされなかった言葉を聞き取ったのかもしれない。
リーファがふざけて抱きつくと、彼はやっと微笑み、可愛い妻の額に軽く口づけを落としたのだった。
(終)
※次回作の予定は当面ありませんので、ここで一旦完結設定に戻します。
ご高覧ありがとうございました。