どんな運命を負っても
「飛び降りた!?」
「はい。校舎の一番高い塔……卒業生の表彰記念品などを収蔵している部屋の窓から。幸い下に植え込みがあったのと、すぐに魔法学院から何人も駆けつけて治療を施してくださったので、命に別状はありませんが。こんな遺書を用意していました」
シリルは沈痛に告げ、折り畳まれた紙片を差し出す。広げて目を通したリーファはしかめっ面になった。
――ごめんなさい。欲張ってごめんなさい。何もかも、さだめを受け止められないわたしが悪いのです。皆さんに多大なご迷惑をかけました。わたしが死んでもお詫びにもなりませんが、わたしなどいないほうが、皆さんにとって少しは良いだろうと思います……
「なんでそこまで」
苦渋きわまる呻きをもらしたリーファに、シリルが眉間を揉みながら答える。
「私が告発した結果、教授が停職処分になりました。この後さらにどうなるかはまだ審議中なんですが、どうあれ当面、学生の指導や論文の審査などできる立場ではなくなったわけです」
「つまり、あんたの卒業が遅れる。それをリタは自分のせいだと思いこんだのか」
「ええ。他にも何人か巻き添えをくった学生がいるんですが、どうやらその中の誰かが、彼女の耳に入るように嫌味を言ったようです。余計なことをするからだ、備品泥棒ではなかったにしても疑われるだけの理由がある、そんな人間を庇ってやる必要はないのに……といった具合に。信じられますか、これが法と正義に携わる者の発言だなんて!」
シリルは憤激を抑えかねて声を震わせ、机に拳を叩きつける。リーファは瞑目し、ため息をついた。
「一口に『法と正義』って言っても、人によって違うからな。自分が正しいと思うことが正義、法はそれに都合良くあるべき。そんなもんだよ。シリル、あんたの高潔さは立派だけど、世間にはそれが通じない相手がごまんといる。いちいち拳を振り上げてたら、敵より先に自分が潰れるぞ」
「……わかっています」
悔しそうに応じ、シリルは唇を噛む。リーファは目元を和らげた。
「卒業が遅れて、むしろ良かったかもな。今回の件がなかったら、どこに就職しても現場に出るなり誰かと衝突してたんじゃないか?」
「かもしれませんね。自分でも良くないとは思っているんですが、相手の言い分がどうしても身勝手に感じられてしまって……教授にも折に触れて諭されました。誰しも弱さや汚さがある、君もそうだ、少しずつでもそれを受け入れ認めなければ、いざ自分の醜さに直面した時に破滅するぞ……と。そう言っていた本人が備品の横領なんてせせこましい罪を犯すなんて、悪い冗談ですね。身をもって実例を示してくれなくても良かったんですが」
「そもそも、なんで盗みを?」
「締め切りや責任に追われる毎日に苛立ちが募ってつい、だそうですよ。特に悪事を働いているという意識もなく、なんとなしにそこらの物を持ち帰る癖がついたとか。そこまでならまだしも、その罪を学生に被せたのは決定的に罪悪です。リタが否定するのは当然わかっていて、それでも犯人扱いし続けるうちに、他の学生たちが彼女を蔑み卑しむようになった――そのさまを見ると気分が良くて、やめられなくなったと」
シリルがおぞましげに身震いする。リーファも苦い顔になった。
「学生たちの支配者、暴君だな。他人を思い通りにして、さぞ心地良かったろうよ」
「リタは何も悪くなかったんです。ただ教授に嫌われていただけで」
「でも当人は、それが運命だと信じていた。学院の中でも外でも、他人に支配されていたんだな」
やれやれとリーファは首を振り、『啓きの会』についてシリルに教えた。運命について学ぶ会の体裁であること、どうやらリタはそこであの考えを植え付けられたらしいこと。
「疑いが晴れて勉強に打ち込めそうだから、卒業まで足が遠のくことをお詫びしなきゃいけない、って言ってたからね。たぶんその時にも言われたんじゃないかな……潔白と証されたのは良かったが、今までリタが投げられていた石を、今度は誰かが受けることになるだろう、とかなんとか。ずっと耐えてきた苦しみに価値がある、と言っていたんだから、それが本当は耐える必要なんかないただの理不尽不条理だったんだ、って話になったら困るだろ」
「そこへもって『我々の卒業が遅れるのはおまえのせいだ』というような言葉を聞かされたら……たまりませんね」
「もうひとつ。多分だけど、寮の部屋の香りも、リタの考えを狭めて袋小路に追い込むのに一役買ってる。同室の子が、リタがいるとイライラするからって鎮静作用のある香を焚いててね。イライラしてない人間は、そのせいで気分が沈むこともあるらしいんだ。ほら、あの日、オレが急に泣き出して帰っちまったろ?」
「ああ、そう言えば」
「困らせちまったよな、ごめん。でもあの時は本当に、前向きな考えが全然浮かばなかったんだ。急にこんなに悲しくなるのはおかしい、とか、顔を洗えばすっきりするんじゃないかとか、そんな程度のことさえもね。個人差があるって城の神官さんは言ってたけど、リタが日常的にそういう……おまえは邪魔だ、っていう圧力を受けて何もできない気分に支配されていたのなら、運命だなんだって考えから抜け出せなかったのも、最終的に飛び降りるところまで思い詰めたのも、納得がいく」
リーファの説明にシリルは真剣な表情で聞き入っていたが、話が終わるとしばし黙考したのち、絞り出すように呻いた。
「教授がやったことは罰せられてしかるべきですが、彼一人が直接にリタを自殺にまで追いこんだわけではない。ほかにも『啓きの会』や、嫌味を言った誰か、そして絶え間なく存在を否定し続けた同室の学生の存在があって……しかし彼らを罪には問えない。ただリタの心が弱かったからこの結果になった、それだけです。法の上では」
だが受け入れ難い。諦めきれない。声にならない心情が、握りしめた拳に表れる。
うん、とリーファも静かにうなずいた。
「だからせめてあんたから、彼女に話してやってくれないかな。リタ自身が悪いんじゃない、いろんな外部の要因が重なった結果なんだ、ってさ。あと『啓きの会』についてはシンハが大神官様と調査してるから、何か手は打ってくれるはずだよ」
「それは心強いですね」シリルはほろ苦く微笑んだ。「少なくともこの王都には、悪事を照らし暴く太陽の光があまねく降り注いでいる。……陛下にどうぞよろしくお伝えください。リーファさんも、ご尽力いただきありがとうございました」
深く頭を下げて、肩を落としたままシリルが出て行く。やるせない背中に薄く灰色の翳が落ちて見えた。
暗い話を料理と一緒にテーブルに載せる気にはなれなくて、リーファは食事が終わってからことの顛末を報告した。
案の定マリーシェラは心を痛めた様子でそっと嘆息し、シンハとロトは険しい顔で黙り込む。
「……なんと言うか」最初に口を開いたのはロトだった。「人間関係でつらい思いをするのも、理不尽な仕打ちを受けるのも、生きていれば当然で誰もが多かれ少なかれ耐えているんだ、と片付けてしまうこともできるけれどね。自ら命を絶とうとするほどとなれば、それはさすがに……」
「一人の人物、ひとつの出来事に原因を求められる話ではないが、少なくとも『啓きの会』には対処しなくてはなるまいな」
シンハが厳しく断定したので、リーファは「何かできるのかい?」と問うた。会に出入りしていた少女が自殺未遂をした、だから潰す、というのではあまりに強権的だ。教理の内容が聖十神信仰に背くという理由を加味しても、かなりの反発を招くのではあるまいか。具体的にどこが反発するかまでは知らないが。
そんな疑念に対し、彼は静かな怒りを込めて応じた。
「調査に入った大神殿の審理官が、既に脱会した者に渡りをつけた。早々と報告が届いている。その内容と、おまえが見た遺書の文言を併せて鑑みるに、なんらかの苦境にある若年者を慰め肯定することで会に取り込み、あえて受難を継続させて思想を支配しているのは明らかだ。五、六年前から活動していたらしいが、教主とやらを公の場に引きずり出す頃合いだ。信徒が自分の子をおかしな教義に基づいて育てたら、取り返しがつかん」
「裁判にかけますか」ロトも臨戦態勢になる。「でしたらもう少し調査を進めて証拠資料を集めましょう。リタの件を特殊な例として退けられないように、他の構成員や周辺住民から……」
「お二方。少しお待ちいただけませんか」
意外なことに、手綱を引いたのはマリーシェラだった。不思議そうな視線を集め、王妃は口元に手を当てて黙考する。頭の中で再確認して良しと判断したらしく、彼女はひとつうなずいて口を開いた。
「そのやり方では、今いっときは『啓きの会』を閉鎖ないし縮小させられても、苦難や理不尽を運命と説く人々を改めさせることはできません。むしろ頑なにしてしまうでしょう。国王という絶対的な強者から、圧倒的な力でもって叩き潰された――これが受難でなくて何でしょうか」
虚を突かれたシンハとロトが、共に絶句する。マリーシェラは夫たる国王にひたと目を据え、むしろ気の毒そうに告げた。
「あなたは、弱い者の心がおわかりにならない」
「――!」
「いいえ、責めているのではありません。それは……それこそ『運命』というものです。人並み外れた加護とご自身の心身の強さは、生まれついてのもの。むろんわたくしとて、胡乱な教えに縋る人々の気持ちが本当にわかるとは申しませんけれど、少なくともあなたより……今ここにいる誰よりも、わたくしは弱い女ですから。強い者に殴られたなら、同じ惨めな弱者同士で寄り集まり慰め合い、解り合える人間だけで暗いあなぐらに閉じこもってしまうだろうと、その気持ちが想像できるのです」
リーファの脳裏にもまざまざと光景が浮かんだ。
日の当たらぬところでこっそりおこなわれてきた活動を明るみに出し、こんな詭弁で道を誤らせる連中がいるぞ、と知らしめることはできるだろう。だがそれは所詮“そんな詭弁”に縋る必要のない強者の理屈、他人の論にすぎない。
苦しみの中にあって変化を望む力さえなく、ただ悲嘆し共に泣いてくれる誰かを求める者。あるいはただそのままで良いと己を認められたい者。彼らが縋っているそれは虚像なのだと、鉈をふるって打ち倒したところで、彼ら自身を変えることにはならない。
「結局また新しい集団をつくらせるだけ、ってことですね」
「ええ。ですから陛下、彼らが外からの力に負けたのでなく、自ら決めたのだと錯覚するような方法で、勧誘や囲い込みをやめさせられませんか」
マリーシェラの提案に、シンハはしばし瞑目した。ややあって瞼を上げた彼は、難しい顔のままうなずく。
「やってみよう。正体の怪しい集団について警鐘を鳴らせないのはいささか気に入らないが、どのみち今回の件については誰もが納得するほど善悪が明瞭でない。強引に断罪するよりは自発的に解散させるのが良かろう。……貴重な助言をありがとう、シェラ」
「お聞き入れくださり感謝いたします」
ほっと安堵の息をついて頭を下げた妃に、シンハは珍しく、ほろ苦い笑みを浮かべたのだった。
腹の子に良くないからおまえは手を出すな、という良く分からない理由で遠ざけられたリーファは、十日ほどの後、結果だけを知らされた。
シンハが己の加護と大神官の力を合わせ、件の教主から神々の加護を剥ぎ取ったのだ。
人心を掌握し集団を成せるだけの求心力があるということは、それなりの加護を授かっている証拠。だが明らかに誤った教えを広めているのは、暗き神々の手出しと考えられる。案の定、生来授かっていた運命神の加護は弱まっており、虚偽の神の反応が強く出たという。
「これで奴は何を言っても前ほどの説得力を持たせられないだろうよ。集まった人々も何かおかしいと目が覚めるはずだ」
「なんかサラッととんでもねーことしてないか、おまえ? それでオレには関るなってったのか。こっちの神様の加護を受けてないから、何か悪い影響があるかも、って」
「ああ。そうでなくとも胎児のうちは加護も不安定だからな。ともあれ、ひとまずしばらくは安心だろう。飛び降りた学生の救済にはならんがな」
「……うん」
「学長から報告があった。学生に便宜をはかり、学外の活動に勧誘していた事務員を懲戒解雇したそうだ。理事会を開き、今後はそうした行為一切を禁ずる規則の制定を急ぐと言っていた。件の少女は家族が迎えに来て、郷里に帰ったそうだ」
「うん。リタのことはシリルが教えてくれたよ」
こくりとうなずき、リーファは唇を噛んだ。本部を訪れた青年の厳しい面持ちが脳裏によみがえる。
「自分も彼女を嫌っていたから、そのことを悔やんでたな。法に触れるようなことはもちろん、人情として駄目だろっていうようなことも、何もしてない。けど、決して親切でも誠実でもなかった。いずれ人を裁く立場になった時、どれほど嫌悪を催す相手であっても公正な判断を保てるように、リタのことは胸に刻んでおきます……ってさ」
「真面目で誠実じゃないか」
短く応じてシンハは微苦笑を浮かべる。リーファはその表情をつくづくと眺めた。
今ならちょうど、部屋にいるのは二人だけだ。ささやくように問いかける。
「浮かない顔だな。シェラ様に言われたこと、気にしてんのか?」
言い当てられて、夏草色の目が丸くなる。次いで彼はふっと息を吐いた。
「参った、お見通しか」
「こんだけ付き合いが長くなりゃ、わかるよ。オレもあれはちょっとグサッと来たし」
「おまえが?」
シンハが意外そうに聞き返す。リーファは肩を竦めてごまかした。自分自身に刺さったというより、シンハの胸を抉った痛みが我が身に感じられてつらかったのだが、それをわざわざ言うのは口幅ったい気がする。
かわりに彼女は手を伸ばし、加護の証である黒髪をつまんで引っ張った。
「望んでこう生まれついたわけじゃない、ってのは、弱さとか無力の言い訳みたいに使われがちだけど、強いのだって同じなんだよな。誰だって、自分自身を選んで生まれてくるわけじゃない。だからそれを運命と言いたけりゃ言えばいいさ。でも……」
上手く表す言葉が見付からず、口ごもって髪を放す。シンハはしばらく待った後、そうだな、と続きを引き取った。
「俺が弱者の感情をせいぜい想像したとしても、本当のところは恐らく理解できん。だからシェラがいる。異なる運命を負った者と関り合うことに、意味と価値がある。生まれ付きを悲観して閉じこもる必要はない――それがどんな運命だったとしても」
言って彼は、そっとリーファの腹に触れた。そこに宿る新しい命を祝福するように、優しい微笑を浮かべて。
「そうそう、そういうこと」
リーファもにっこりして彼の手に自分の手を重ねると、照れくさそうにおどけた。
「恥ずかしい台詞は、面の皮が厚い奴に代わりに言ってもらえばいいってこと」
「おい。俺はおまえよりよっぽど繊細なつもりだぞ」
「本当に繊細な奴は自分で言わねーだろー。おっと、あんまり触って脱走癖を移すなよ。まだ出てってもらっちゃ困るからな!」
わざとらしく腹を庇い、リーファは大袈裟な動作で数歩下がった。シンハが苦虫を噛み潰したのを見て笑うと、じゃあな、と手を振って足取り軽やかに部屋を出る。走るなよ、と少しだけ慌てたような声が背中を追ってきた。
「だーいじょーぶ!」
肩越しに答え、内なる命に語りかけるよう繰り返す。
大丈夫。おまえがどんな子だとしても、ここには頼もしい家族がいる。
だから安心して、元気に生まれておいで――と。
(終)
※補足(本編中に入れると面倒な解説になるので省いたこと)
今回シンハは「法で裁けない相手を神々経由で罰する」という解決方法を採っていますが、この世界(国)では昔からある手段だったりします。何せこちらでは神々が単なる宗教・社会通念ではなく、実際に個人にはたらきかけてくるもので。
加護を剥ぎ取るのも神々の意志に適えばこそ可能なことですし、剥ぎ取られた人物もいずれ本来の守護神のもとに立ち返れば再び加護を与えられます。単なる私刑とは性質が違うわけですね。
といっても神々の意志は明瞭でも具体的でもないので(言語化された神託や啓示が降るのではないから)本来、人のことは人の法で裁くのが大前提ですが。
なお余談ながらリーファがいまだに加護を授かっていないのは、こっちの神々がケチっているのではなく、いろんな神が守護したがるせいで一人に決まらないからです(笑)
ザフィール司祭のほうが(後から来たにもかかわらず)あっさりすんなり学問神の加護とかもらってそうですね。