心配
翌日。リーファは警備隊本部に出勤した後、ヘレナの心配そうな顔と、ジェイムの「馬鹿じゃないの、迷惑だから大人しくしてりゃいいのに」という嫌味に送られて、再び司法学院に向かった。
久しぶりにユエを遣って早退したのだから当然だし、大事にしてもらえるのはありがたいが、あまり心配されるのも窮屈だ。妊娠中の妻を気遣いつつも平常心で送り出してくれるロトに比べ、本部の面々は過保護なのではあるまいか。
――などと言えば、ジェイムはとんでもなく嫌そうなしかめっ面をするだろうが……。
(なんでオレ、あんなに嫌われてんのかなぁ)
人の相性、好き嫌いに理由などない。わかってはいるが、お互い嫌い合って原因も明白であるならまだしも、こちらにはまるで心当たりがないというのは地味に堪える。
(仕事はちゃんとしてくれるからいいけどさ)
態度は冷たく棘々しいが、検死の際は自身の見解も伝えてくれるし、結果を図に丁寧に描き、必要な似顔絵や資料は間違いなく用意してくれる。かつてどこぞの熊親父がリーファに仕事を回さなかったり、連絡を渋ったり些事にケチをつけまくっていたのに比べ、よほどまっとうだ。
(ジェイムが嫌がらせしてくる奴だったら、きついだろうなぁ……それ以前に、今のオレはなかったかも)
分析室ができて、現場業務としては彼女が室長同然の立場にあるのも、地道に成果を挙げてきた結果だ。しかし人に嫌われ妨害され続けたなら、その“成果”も出せなかっただろう。悪意によってつくられた評価がさらに嫌悪と侮蔑を生み、当人は歪んでいく。悪循環だ。……子供時代のリーファがそうだったように。
(リタも気の毒にな)
ふと少女の面影が胸をよぎる。と、それを追うかのように、行く手に当人の姿が現れた。司法学院から出てきたところのようだ。
リーファは急いで駆け寄り、学院の関係者に見られなさそうな所で少女を呼び止めた。
「リタさん! 会えて良かった、もう一度ちゃんと話したいと思っていたんです」
すると意外にも、彼女はぱっと笑顔で振り向いた。
「あっ……こんにちは! わたしもあなたにお礼を言いたかったんです」
「えっ? 昨日あれから何かあったんですか」
「はい。先輩が、わたしの疑いを晴らしてくれたんです!」
「先輩って、シリルが?」
これはまったく予想外で、リーファは喜ぶよりも呆気に取られてしまう。リタは頬を紅潮させ、興奮気味に早口で続けた。
「昨日あなたが、わたしは犯人じゃないって言ってくれたんですよね。先輩もそれを信じてくれて、じゃあ誰が盗んでるのかって考えたら消去法で教授しか残らないって気がついたんだそうです。それで帰ったふりをして教授を見張ってたらしくて……今朝、学長先生とほかの教授も何人か研究室に連れて来ました。しばらく話し合ってたんですけど」
「自分がやったと、教授が認めたんですね。良かった、と言うのもなんですが……とにかく疑いが晴れたのは、おめでとうございます」
師事していた人物がせこい盗みの犯人で、正義を奉ずる立場にありながら他人に罪をかぶせた、その事実が明らかになって良かったと喜ぶのはためらわれる。だがリタは気にしたふうもなく、明るい笑顔を見せた。
「こんなことってあるんですね! わたしずっと、卒業まで辛抱だ卒業まで、って言い聞かせてたのに、それがこんな早く……本当にありがとうございます」
「それで早速、報告に?」
リーファが軽く鎌をかけると、浮かれた少女は簡単に引っかかってくれた。
「はい! マイナさんにお願いして、特別にちょっとだけ出してもらったんです。教主様に今までのお礼を言いたくて」
教主様、とリーファは内心で繰り返した。知る限り、そんな肩書きの神官はいない。マイナさんというのは学院の事務員だろう。特別に、というのは個人的な思いやりだろうか。もし昨日やたら敵愾心を感じさせたあの女であるなら、実は教主様の仲間だという可能性も考えられる。
「ああ、そのことについて話したかったんですよ、リタさん。教主様というのは、あなたが会いに行く神官ですよね。いつも、どういうことをしてるんですか? あなたの悩みを相談するだけ?」
探りを入れたら警戒されるかと思ったが、まったくそんな心配は無用だった。むしろリタは嬉しそうに話してくれたのだ。
「最初はそうだったんですけど。今は話を聞いてもらうばかりじゃなく、運命について勉強してるんですよ。人の持って生まれたさだめと、神々のさだめについて。興味がおありなら、一緒にいかがですか」
聞いていないことまで早口にまくし立て、目に危うい熱を湛えてにじり寄る。リーファはたじろぎ、のけぞり気味に問いを返した。
「運命――って、あの『誰かが石を投げられなければ』みたいな?」
「それだけじゃありません。この世界についての、本当に良いお話が聞けるんです。今から案内します」
「あ、いや、仕事中なので。場所だけ教えてもらえたら、今度非番の時にちょっと覗いてみます」
「ぜひ、そうしてください。きっと世界が開けますよ!」
リタは道順を教えてから、皆にも伝えておきます、と親切心を発揮してくれた。慌ててリーファは口止めする。
「それは勘弁してください。ほら、その……警備隊員が顔を出すと、どんな集まりでも嫌な顔をされますから。遠くから様子を見て決めますよ。あんまり難しい話だと、私は無学なので……」
「警備隊員になれる人が無学だなんて。大丈夫です、字があんまり読めない人も一緒に学んでいるぐらいですから」
「なるほど、勉強会みたいな感じなんですか。礼拝ではなくて?」
「もちろん礼拝もありますよ。人の運命と生死を司るユヌ様をお祀りしていますから。でも、ええ、勉強会っていうのは近いかもしれないです。わたしたちは『啓きの会』って呼んでますけど。わたしも卒業したら運営のお手伝いをするつもりなんです」
「学院だけじゃなく、外でも勉強なんて。真面目で熱心ですね」
リーファは半ば本気で感心してしまった。リタが恥ずかしそうに目を伏せる。真面目で一途で、純粋な熱心さをもつ少女だからこそ、そうした『学び』の体裁に捕まりやすいのだろう。
話が通じるかどうか危ぶみつつ、リーファは続けた。
「リタさん。私があなたに言いたかったのは、そんな『運命』が……」
あるわけない、嘘っぱちだ。でもその本音は隠して。
「本当だとしても、ですよ。なるほどあなたは『石を投げられ』やすい運命で、それはどうしようもないのかもしれない、だとしても。だから他人の運命があなたを虐げるってことに決まる、わけじゃないでしょう。現にシリルはあなたの嫌疑を晴らした」
指摘を受けて、リタが息を飲み、目をみはる。自分の境遇は運命でどうしようもない、と思い込んでいた感情の壁に、だがその境遇をつくる他人の運命はそれぞれ異なっているではないか、と理屈が穴を開けたのだ。
リーファはひとまず相手に届いた手応えを得て、さらに言葉を重ねていく。
「運命がどうあれ、人と人が関わる時、欺いたり虐げたりしてはいけない。そのために、あなたも学んでいる『法』があるんじゃありませんか。そうでしょう?」
「……っ、わた、し……あの」
責められていると感じてか、リタが委縮し、後ずさる。リーファは両手を軽く上げて、攻撃の意図はないと示した。
「責めてるんじゃありません。ただ、あなたに『どうしようもないから我慢しろ』と言った人は、そこを見落としているんじゃないかと思ったんです。まぁ今後は研究室の居心地もましになって、あまり外に出ることもなくなるでしょうけど」
「あ、はい。ええ。それでわたし、今までの遅れを取り返さなきゃいけないし、卒業まであんまり行けなくなるから、お詫びをしないと、って」
迎合するように何度もうなずくリタの表情からは、最前までの喜びや熱気がすっかり消えている。昨日と同じ卑屈で曖昧な笑みを浮かべ、いじけた雰囲気に支配されていく。
明らかにもう逃げ出したがっている少女に、リーファは無理強いしない声音を意識してささやいた。
「リタさん。あなたがそれを言った時、お仲間の皆が喜んで送り出してくれたら良いんですが……もし引きとめられたら、気をつけてくださいね」
「何が言いたいんですか」
「ああ、つまり、せっかく安心して勉強できる環境になったんですから、無駄にしないように、ってことです。学び甲斐のある集まりかもしれませんが、ひとまずあなたの本分は司法の勉強なんですから」
ね、と穏便に締めくくり、警戒されないうちに「それじゃ」と手を振って別れる。本心では二度とそんな怪しい会に行くなと言いたいぐらいだが、今、警備隊に目をつけられたと知られては困る。
(シンハのほうが早いとこ調べをつけてくれたらいいけどな)
勉強熱心なだけの無害な集まりであるなら、多少風変わりであったとしても、それはそれで構わない。これまでリタの心を支えてくれたのだ、とやかく言うのは筋違いだろう。
少女を見送った後、リーファは「さて」と学院に足を向けた。シリルに会うのが目的だったが、リタの話によれば今頃は取り込み中だろう。
受付で事務室の中を窺うと、顔ぶれは昨日と変わっていなかった。リーファは各人の態度を観察しながら、メモ用紙を拝借してシリルへの伝言を託す。
「一応、窃盗として相談を受けたことになっていますので。内部事情まではともかく顛末を記録しておかないといけませんから、落ち着いたら本部に来るように伝えてください」
もちろん実際の目的は、『啓きの会』とやらについて知らせ、リタの動向に注意してもらうことだ。もしカモにされているのなら、脱退しようとした時が危ない。シリルが卒業するまでにはシンハの調査も済むだろう。
(おっと、リタから聞いた会の所在地をシンハに教えとくか)
善は急げ。リーファはいったん本部に戻って至急の案件だけやっつけると、呼び鈴代わりに使霊を置いて早々に城へ帰ったのだった。
「えっ、今日も!? また具合が悪いのかい」
二日続けて予定外の時間に帰ってきた妻を見て、ロトが驚き、うろたえた声を出す。リーファは笑って否定した。
「違うよ、大丈夫。昨日話してた胡散臭い自称神官の居場所がわかったから、急いでシンハに教えたほうがいいと思ってさ、早めに切り上げてきたんだ」
「そうかい、なら良かった」
ほっ、とロトが息をつく。リーファは意外な気分になり、次いで気恥ずかしくなって頬を掻いた。
「なんだ、やっぱりロトも心配してたんだ」
「当たり前じゃないか」
「うん、気遣ってくれてるのはよくわかってるよ。ありがとな。ただ今日は本部の面々にやたら心配されてさ、出歩くなとかじっとしてろとか言われて、過保護だなぁって思ってたんだよ。ロトは毎日、平常心で見送ってくれてるのに、って」
途端に執務机で国王陛下が盛大に噴き出した。おや、とリーファが振り向くと同時に、ロトが赤くなって「陛下!」と抗議の声を上げる。
首を傾げたリーファの前で、シンハは口を覆って表情を隠したものの、肩を震わせ、あからさまに必死で笑いを堪えているのではあまり意味がない。
「そんな反応をするってことは……」
「問題ない! 君が気にするほどのことじゃないよ」
リーファのつぶやきにロトが否定を被せる。語るに落ちたと言うべきだろう。
「なるほど。オレが見てないところで、実はすげえ心配してた、と」
「だから問題ないって! シンハ様が笑いすぎなんだよ。陛下、今のその態度、ご自分の時に思い出させて差し上げますからね」
わりと洒落にならない声音で脅され、さすがにシンハも真顔になる。そこへリーファが追い討ちをかけた。
「そうだな、オレも楽しみにしてるよ。ロトの面白いところを見られないぶん、おまえの動揺ぶりを見物させてもらうから、ぜひよろしく」
「何がよろしくだ」シンハは唸って降参の仕草をする。「真面目な話、ただ見物して笑えるほど挙動不審になってはいないから安心しろ。仕事に支障も出ていない。いつもより頻繁に窓の外やドアの向こうを気にしたり、何かのはずみで思い出したような顔をする程度だ。知っているから面白い、というぐらいだな」
「そりゃそうだろ、ロトは伊達に長年おまえの秘書官やってねーもん。心配してもどうしようもないことに対処するのは慣れてるって」
「おい。おまえは俺をなんだと思ってるんだ」
「しょっちゅう行方不明になって側近の胃を痛めつける脱走王」
「近年すっかり大人しくなった自覚があるんだがな? そこまで言うならご期待に応じて抜け出してやろうか」
「はい二人共、そこまで」
当のロトが軽く手を叩き、終了させる。本当に脱走計画を立て始める寸前で止める辺り、まさに慣れたものである。
「支障は出ていないとお墨付きを頂いたからには、真面目に仕事をしましょう。リー、件の会の所在地を教えてくれるかい」
「あ、うん。いやぁ本当、仕事の出来る秘書官がいて良かったなぁ。ロトがいないとこの国、傾くぞ」
つまりはそれだけ、頼もしい人材がここにいる、ということだ。リーファは情報を伝えながら安心していた。
ロトが有能ならシンハはそれ以上。この二人が対処してくれるというのなら、何の心配もいらない。これでもう、あとはシリルに卒業おめでとうを言うだけでおしまいだろう――そう思っていたのに。
五日ほどして警備隊本部に現れたシリルは、死人のように青ざめ、こわばった顔をしていた。