あたたかな食卓
坂道を上り、跳ね橋を渡る頃になると、少し気分が晴れてきた。涙も乾き、胸をふさいでいた悲しみが薄れてゆく。
(これならどこかで時間を潰して、本部に戻っても良かったかな。いやでも、ついさっきまでまともに考えられなかったもんなぁ)
リーファは自分の変調を訝りながら礼拝堂へ向かった。すっかりかかりつけ医になっている神官を訪ねるためだ。キュクス神官は話を聞くと、ふむと唸ってしばし黙考した。
「自分でも妙だと感じられるほどの悲しみ、ですか。でしたらやはりそれは、尋常ではない状態と見るべきでしょうな。その出来事の前に、いつもと違うものを飲食した覚えは?」
「うーん、特にないですね」
「何か刺激を受けることがあったとか」
「刺激……あっ。強いて言うならあれかなぁ。なんか落ち込んできたな、って気付く直前ですけど、入った部屋でお香が焚かれてたんです。精油を水に垂らして熱してました。勉強に集中するためだって話でしたけど……同室の学生と仲が悪くて、いると気が散るからとか」
普段と変わったことと言えば、そのぐらいしか思い当たらない。何の精油かまでは訊かなかったが、そういう効能があるものらしい、と説明する。
それを受けてキュクスは納得の表情になった。
「恐らくその香が原因でしょうな。苛立ちを鎮めるような効果のある薬草は、場合によっては気分を沈ませることがあります。あなたも少し前まで匂いに敏感になっていたから、ありふれた香りが思いがけない作用をもたらすのは実感がありましょう」
言われてリーファも深くうなずいた。確かに、今まで何ともなかった、当たり前に生活の中にあった様々な匂いが、わけのわからない反応を引き起こしたものだ。吐き気や悪心ばかりでなく、急に泣きたくなったり、かと思えばやけに落ち着かなくなったりと難儀させられた。
「妊娠中は避けるべき香草薬草も数多うございますからな。まぁ、煎じ汁を飲んだでなし、香りぐらいなら自然に影響は消えましょう。大事ありますまい」
「普通の体調なら、毎日のようにそのお香を焚いても問題ないんですか?」
「概ね、問題になりますまい。ただし人それぞれに体質も状態も違うものですゆえ、絶対にとは言い切れませんぞ」
「そうですか。……ありがとうございました」
気がかりが晴れたリーファは礼を言い、退室しようと扉に手をかけたところではたと思い出して、あたふた駆け戻った。
「あの、キュクスさんは神官なんですよね? だったら神様のことに詳しいですか」
ものすごく今更な質問をされたキュクスは、眉を上げて不審げな顔をした。
「ええ。神官として当然知っているべき範囲については」
「あ、すみません、失礼なことを。いやあの、えーっとですね、ちょっと気になる話を聞いたもので……神様の『加護』のせいで人から嫌われる、ってことはあるんでしょうか? 恵まれてるのを妬まれるとかじゃなく、加護そのものにそういう効果がある、って意味で」
話しながら、昨年接した花屋の女を思い出す。愛と美の女神の加護を授かった彼女は、異性を惹きつける魅力のせいでいろいろ苦労していたが、今日のリタが語ったのはそういう意味ではなかった。
「呪いや神罰ではなく、加護で、ですか」
「ええ。人から石を投げられる役目を与えられる、みたいな。だから嫌われるのは仕方ない、っていう話だったんですが」
リーファが補足する度に、キュクスの眉間の皺が深くなる。元から不愛想でいかめしい顔つきの神官は、今やはっきりとしかめっ面になっていた。
「あり得ませんな」
強い声音できっぱり断言し、一息置いて首を振る。
「聖十神は我々を守り、幸福へ、あるいは少なくとも善に向けて、お導きくださるのです。試練を与えられることもありますが、他人に虐げられるのは神の加護だから仕方がない、などと言うのはあり得ません。誰がそのような話をしたのです? 場合によっては大神殿に通報すべき事案ですぞ」
そこまで大事になるのか、とリーファは驚きつつも、やはりあれは変だったのだ、と納得した。
「嫌われてる当人の話では、神官がそう言った、ってことだったんですが……まともな神官ならそんな話はしないわけですね。ちょっと気になるなぁ」
「陛下のお耳に入れておいたほうが良いでしょうな」
「――って話だったんだけど」
例によって国王と王妃とその友人夫妻、という顔ぶれの家族的な夕食の後、リーファは温かい穀物茶を飲みつつ報告を締めくくった。
シンハは同じ茶に付き合いながら、渋い顔で唸る。
「大神殿に連絡して調べさせる必要があるな」
その表情が予想以上に深刻そうで、リーファはいささか戸惑いながら訊いた。
「これってそんなに重大なことなのか? こっちの神殿は教えとか戒律とか、普段あんまり気にするほどのこともなくて自由なもんだと思ってたんだけど」
「今はまだ重大なことになってはいないが、そうなってからでは根絶するのが非常に難しい問題だ。よく知らせてくれた」
シンハはひとまずそう褒めてから、額を押さえてため息をついた。
「治世に駄目出しされた気分だ。やれやれ」
「いつでも不満を持つ人々は一定数いますよ」ロトが慰め、不可解そうな妻に説明する。「異端・異教だから排斥する、という単純な話じゃなくてね。その手の、目新しくて危うい言説が流行るのは、国民の間に不安や不満が高まっている時だから要注意なんだ。圧倒的多数派が奉じる教えの隙を突いて、自分の考えた教理を広めようと思ったら、不満不安を吸収するのが一番だからね。問題視されるほど大きくなった時にはもう抑え込めない。もっとも今は政情が安定しているから、その胡散臭い神官様とやらが、政治的な不穏分子である可能性は低いけど」
「でも知ったからには見過ごせない、ってわけか。なるほどなー」
リーファは納得すると、憂鬱顔の国王陛下に向かって言った。
「そんな顔すんなって。毎日街に出てるオレの実感として、おまえは文句なしにいい王様だよ。そりゃ皆、生活の不満や不安はあるけどさ。でも国がどうこうとか、王様が悪いとか、だから玉座を引っくり返してやるとか、そういうヤバイ気配は全然ないよ。学院の子に妙な考え吹き込んだ奴は、もっとせこいっていうか、詐欺くさい印象だなぁ」
「詐欺?」
「うん。本物かどうかはともかく神官だってんなら、会って話してはい終わり、じゃ済まないだろ? ついでにお供えしたり、小銭を喜捨したり、さもなきゃ何かの奉仕活動をするよな。そういう『お客さん』に対して、苦しんでる原因の解決を助けるんじゃなく、それはしょうがない、その苦しみには価値があるんだ、なんて慰めるだけってのは……」
「何度でも繰り返し、いっときの慰めを求めて訪れるように仕向けるためか」
察したシンハが苦々しく言い、横で王妃マリーシェラも眉を曇らせた。
「……生まれつきだったり、何かのきっかけだったりで、人生がうまく行かなくなることは誰の身にも起こり得ます。そうして一度つまずくと別の事もうまくいかなくなって、悪循環にはまってしまう。その子もそうだったのでしょう。どこかで別の誰かと出会っていれば抜け出せたかもしれないのに、差し出されたのは救いの手ではなく、奴隷商人の首輪だったなんて」
「なんとか、完全に首輪をはめられてしまう前に逃がしてあげたいですね」
沈みかけた雰囲気を持ち直すように、リーファが声に力を込める。シンハも前向きに切り替えて言った。
「偽神官だか詐欺師だかについては、俺と大神官のほうで調べを進めるから、おまえは近寄るな。警戒されたら面倒だ。そのかわり窃盗の疑いだけは晴らしてやれ。できるだろう?」
こともなげに言われ、リーファは苦笑いする。
「簡単に言ってくれるなよ。まぁ見当はついてるけどさ」
「えっ、そうなのかい?」
思わずロトが驚きの声を上げる。まあね、と元盗人は肩を竦めた。
「リタが本当に盗んでない、って条件の上でね。誰でもどこかに置き忘れそうな物ばかりなくなってるのに、あれが無い、今度はあれだ、っていちいち全部気がついて指摘できるって、おかしいと思わないか?」
「それは――まさか教授が?」
「司法学院の先生様だからって清廉潔白とは限らない、ってぐらいは承知だろ。特に、教授をやりこめるのが大好きだった誰かさんはね」
リーファは意地悪く揶揄してから、真顔になって続けた。
「もちろん、他の学生が盗んでる可能性もある。でもそれだけ頻繁に物がなくなるのなら、居合わせる学生もお互いを気にするだろうし、とりわけ犯人扱いされてるリタがいつまでも盗み続けられる環境じゃない」
「確かに、研究室で一番の権威権力をもつ教授が犯人を名指しすれば、疑いの目は完全に教授から外される。学生が寮に帰った後も、教授は一人で部屋に残っていることが多いね。機会はいくらでもある、か……」
「まぁ、だからってオレが乗り込んで家捜しするわけにもいかないからさ、シリルに伝えて対処してもらうよ。金目の物は盗まれてないらしいから、売らずにどこかにしまいこんでるか、こっそり捨ててるはずだし。盗みの現場は押さえられなくても、モノは見付けられると思う」
そこまで話し、リーファはふと微笑んだ。食卓を囲む面々を改めて見回し、神妙な口調で言う。
「こうしてちゃんと話ができるって、恵まれてるよなぁ。いつもオレの仕事のこととか聞いてもらってばかりで……シェラ様だってお疲れでしょうに」
恐縮そうに目礼したリーファに、王妃マリーシェラは笑って首を振った。
「一日の終わりにあなたの話を聞けるのが、実のところ何より楽しみなのよ。ずっと貴族社会に浸かって過ごしていると、街に住む人々の暮らしがあることを忘れそうになってしまうもの。あなたが身籠ってから夜勤がなくなって、毎日こうして夕食を一緒に過ごせるのは嬉しいわ。だからこれからもぜひ、お願い」
王妃になってからの彼女は、以前ほとんど社交の場に出ていなかったぶん、貴族との親交を深めるのに忙しい。手紙を書いたり街の屋敷を訪ねたり、ちょっとした集まりに顔を出したり。そこで情報を交換し、時には様々な事業の調整もおこなうのである。
彼女にとってはいささか苦手な分野なのだが、幸いなことに護衛の元傭兵マエリアーナが調和の神マエルの加護を受けているため、随分助かっているらしい。
シンハは妃にいたわりのまなざしを向けてから、リーファに言った。
「おまえが外の空気を持ち込んでくれるおかげで、俺も良い気分転換になる。そうでなければ自分で出て行くところだ」
だから遠慮するな、と軽口めかした脱走王に、リーファは苦笑を返す。
「オレは出前の配達人かよ。まぁ役に立ってるんならいいけどさ、そういうことだけじゃなくて。リタに言われて思い出したんだよ。ずっと昔は、口を開けば罵られるか嘲笑されるかで、何を言っても誰にも届きやしない、そんな毎日だったよなぁ、って。いつの間にか自分がまともに扱われるのが当然になって、忘れてた。本当にありがとう」
心を込めてつくづくと礼を言う。感謝された三人は声を詰まらせ、すぐには誰も答えられなかった。ややあってシンハが咳払いし、複雑な表情で口を開く。
「……理想を言えば、どこの誰だろうと、人としてまともに扱われるのが当然であるべきなんだがな。残念ながら人間というやつは、寄れば必ず序列をつけたがる。まともに扱えばまともに応えるとも限らん。感謝するのはこっちのほうだ、リー。おまえのおかげで俺は、差し出した手を間違いだったと悔いることなくいられる」
真面目に返された途端、リーファは照れくさい顔になって茶化した。
「おやおや? どうしたよ、珍しく殊勝だな」
「おまえが言うな」
「オレはいつだって殊勝ないい子だろー」
結局いつものじゃれ合いになってしまった二人に、それぞれの伴侶は顔を見合わせ、やれやれと苦笑したのだった。