石を投げられる者
寮から出たところで、まずいことになった、と気付いて立ち竦んだ。外で待っていたシリルが、誰か女子学生と話している。声高になってこそいないが、その様子はいかにも不穏だ。
(男がここで何してる、って難詰されてる……のとは違うな。もしかしてあれがリタか?)
リーファと鉢合わせしないように引き留めてくれたのだろう。シリルの配慮を尊重するなら、このまま素知らぬふりで通り過ぎて、後から彼が合流するのを待つべきだ。しかし。
(いいや、この際だ。本人から話を聞こうじゃないか)
そう決めて彼女はまっすぐ二人のほうへ向かった。
「お待たせ、シリル。このお嬢さんは?」
何でもない調子で声をかけたリーファに、シリルは困惑顔をし、女子学生はぎょっとした様子で振り向いた。その顔と態度を見た瞬間、リーファは反射的に、なるほど、と納得してしまった。
(これは嫌われるわけだ)
一見して醜いだとか不潔だとかいうのではない。だが顔立ちや表情のみならず全身に、相対する者を警戒させる雰囲気をまとっている。どこか普通でない、自分と同じ部類の人間ではない、関ると面倒そうだから近寄りたくない――そう思わせる気配。
不当で不公平なことだが、第一印象とはそういうものだ。案の定、少女は身構えながら尋ねてきた。
「寮で何か、あったんですか。わたし、これから帰るんですけど」
感じ良さそうにしよう、と無理に装っているのが明らかにわかる不自然な口調。努力は認めてやりたいが、リーファは思わず天を仰いだ。覚悟を決め、少女に向かい合う。
「リタ=フィールですね?」
「……はい」
びくりと竦み、リタは小さくうなずいて上目遣いになった。何か嫌なことを言われると察して身構える様子は、攻撃されるのが日常になっている者の仕草だ。リーファはなるべく相手を怯えさせないよう、面倒なことにならないよう、気遣って言葉を選んだ。
「その反応からして、自分が疑われる立場にあると自覚しているようですが……」
「知ってます。教授は、わたしが備品を盗んだと言ってるんですね。でもわたし、やってません」
「ええ。同室の方に許可を頂いて部屋に入らせてもらいましたが、何も手を触れていませんのでご安心を。ざっと見た限り、同じ物がやけに沢山あるということもなかったし、きちんと整頓されていましたね。アニタさんの目が厳しいんでしょう」
「……」
はい、とほとんど聞き取れないほどの声で肯定し、リタは胸の前でぎゅっと鞄を抱きしめる。肩が微かに震え始めた。
「学院の中は息苦しそうですね。外へ出て、息抜きができていますか」
「え……あの」
「備品のことよりも、彼はそちらを心配していまして」
彼、とシリルを視線で示す。リタも先輩をちらりと窺い見たが、その目つきは期待と恐怖がないまぜになって、ねばつくような印象を与えた。心配してもらえたのか、という喜びと期待。いや単に叱責されるのでは、遠回しの嫌味ではないのか、という怯え。彼女自身、どう反応すべきか判断できないのだろう。唇が震えるばかりで言葉が出てこない。
リーファはだんだん気分が沈んでくるのを感じながら、慎重に続けた。
「何か不当な仕打ちを受けていて、我慢の限界ということだったら、相談に乗りますよ。これでも一応、学長とは面識がありますし」
「いえっ、いいんです」
リタは竦んで悲鳴じみた声を上げた。大事にされたくないらしく、ぶんぶん首を振る。
「大丈夫です、あの……そんな。盗んでないってわかってもらえたら、それで」
鞄の紐をねじりまわしながら言い、リタはもじもじした。早く逃げたいというより、衝動に任せるべきか否か決めかねている風情だ。リーファが待っていると、少女はうつむいたまま早口に続けた。
「仕方ないんです。だって、ほら、わたし……そういうの、だから。嫌われちゃうんです。今までもずっと、そうだったし。でも、いいんです。誰かが、石を投げられないと、いけないから。そういう風になってるんです」
「何を馬鹿な」シリルがきつい声で割り込んだ。「盗んでいないのに疑われるのは、いいんです、で済ませることじゃないだろう。好き嫌いの問題じゃない」
責められたリタはぎゅっと縮こまったが、「ほらね」と返した震え声には、笑いが含まれていた。諦めと共に突き放す嘲笑が。
「嫌いなのに、無理しないでください。いいんです。ちゃんと、わかってくれる人は、いますから。卒業まで我慢すれば……」
「わかってくれる人、というのは神官ですか? 頻繁に外出するのは、その人に会いに行くため?」
礼拝に行く、との理由で許可を取っているからには、相手は神官だろう。リーファはそう当たりをつけたが、次いで不審に思った。聖十神信仰については今も詳しくないが、それでも違和感があった。
嫌われ、きつく当たられ、挙句に無実の罪を着せられるのを、諦めて受け入れろと諭す神官がいるものだろうか。『誰かが石を投げられなければ仕方がない』などという理屈を説くとは思えないし、それが少女の思い込みなら、むしろ正してやるのが神官ではないのか。
だがリタの返事は「はい」だった。
「神官様……です。わたしには、特別な『加護』があるんだって教えてくれたんです。わたしの苦しみには価値がある、わたしのせいじゃない、どうしようもないことだって」
「まさか! 人を苦しめるのは『加護』じゃないでしょう」
思わずリーファは呻くように口走る。途端にリタは態度を硬化させた。青ざめ、いっそう強く鞄を抱きしめて、冷え切った声音で応じる。
「神々の基準と人の基準は違います。わたしが嫌われるのも、憎まれるのも、神々の計らいなんだから仕方ないんです。だってどうしようもないんですから!」
頑なな主張に対し、シリルが正論を返した。
「本当に盗んでいないのなら、潔白を伝えることを諦めてどうするんだ」
「先輩にはわかりません!」
リタは怒鳴り、うつむいて歯を食いしばった。全身をガタガタ震わせて、切れ切れに言葉を吐き出す。
「話を聞いてもらえるのが当たり前の人って、どれだけ恵まれてるか、本当に自覚がないんですね。わたしが何か話せば、うるさい気色悪い黙れ、って言われる。馬鹿にされて笑われる。黙っていたら、いないもの扱い。死人みたいに。なのに、協調性がないって責められて。なんとか皆の輪に入ろうとしても、わたしが近寄っただけで白けて解散する。誰もわたしの言葉なんか、まともに取り合わない。努力してもなんにもならない! ほっといて下さい! どうせ見てるだけで助けてくれないくせに!」
絞り出すように言うなり、リタは身を翻して走り去った。止め損なったシリルが曖昧な顔で、どこへ、とつぶやく。リーファは熱っぽくなった瞼をぎゅっと閉じて言った。
「あんな状態じゃ、部屋には帰れないだろ」
「そうなんですか? ……って、どうしたんですか!?」
シリルがうろたえる。リーファは頬を伝う涙を他人事のように意識しながら、指先で拭った。
「ごめん。なんか急にいろいろ思い出して……何だろう、変だな。とにかく……あの子を問い詰めて事実を聞き出すのは、無理だよ。なくなったモノを探すなら、寮よりも研究室に近いところが……」
声が震えて途切れる。脳裏にとめどなく昔の記憶がよみがえってきた。
何を言っても罵られ怒鳴られ、暴力をふるわれた子供の頃。おとなしく「はい」と答えただけでも殴られる日さえあった。真面目に何か自分の考えを言葉にしようとすれば嘲笑され、黙れ、と怒声で遮られた。
あの教会で司祭様に出会って初めて、殴らず、怒鳴らず、嫌悪の目を向けもしない、そんな大人がいると知った。自分の言葉がまともに受け止められ、ちゃんとした返事をもらえる、会話ができるという奇蹟を知ったのだ。
――どんなに恵まれているか自覚がないんですね。
少女のぎりぎりまで張りつめた声が胸を刺す。
「あー……駄目だ、悪い。今日はひとまず帰るよ。また日を改めて出直すから」
なんとかそれだけ言って、リーファは足早にその場を離れた。取り残されたシリルがさぞ困惑するだろうが、留まって話を続けられる状態にない。それどころか本部に戻るだけの気力も出ず、彼女は途中の岐路で足を止めた。
まだしつこく浮かんでくる涙を拭い、「ユエ」と使霊を呼び出す。胸の前にふわりと現れた丸い光に向けて、小声で命令した。
「警備隊本部のオレの机に行け。日が暮れたら戻ってこい」
光の球はふよんとうなずくように上下してから、ふわふわ漂っていった。しばらく前、悪阻がひどくて動けない日が多かった頃に使っていた連絡手段だ。何度も伝令を走らせるのも悪いからと、ユエを行かせることにした。光の球が机にあったら欠勤、というしるしだ。そんな時はヘレナが、どうしてもリーファの意見や確認が必要な案件を抱えて城までやって来た。
久々のことだから心配させてしまうかな、と思ったものの、これではとても仕事にならない。諦めてリーファは、城への道をとぼとぼ辿った。