朗報と再会
※リーファ23歳の早春。
※いつの間にやら前の更新から5年以上経っているので、人物わからなくなってたらすみません。リーとシンハ、ロト、王妃マリーシェラ以外のキャラ名は(*)で後書き部分に脚注をつけました。
リーファが城の礼拝堂にいる神官兼医師のもとを訪ねたのは、何の気なしのことだった。しばらく体調がおかしくはあったが、冬の寒さで風邪を引いたんだろうと思っていたし、生理が遅れるのだって珍しいことではなかったから。
時々胸がむかむかするとか、なんとなく熱っぽくてだるいとかいった話を聞いたキュクス神官は、一通りおきまりの診察をした後、祭壇に灯明を捧げ香を焚いて生命神に伺いを立てると、おもむろに告げたのだった。
「ご懐妊ですな。おめでとうございます」
「……はい?」
思わずぽかんと聞き返し、呆れた目つきをされてしまったが、本当にまったく予想外のことだったのだから仕方ない。
むしろ知らせを受けた夫すなわちロトの反応こそ、一般的に期待されるものだったろう。
まだ信じられずにいるリーファが、気恥ずかしさと当惑でもじもじしながら報告すると、彼は碧い目を丸くしてつかのま絶句し、それから「ああ」と一声漏らすなり至福の笑顔になって抱きしめてくれた。
いつもは弁舌爽やかで何事も明晰に話す彼が、すっかり感極まって言葉も出てこなくなり、ただ髪を撫で、額や頬に口づけし、何度もかき抱くばかり。おかげでリーファも喜ばしいことなのだと実感し、ようやく幸せに胸が熱くなった。
しばらくして少し感動が落ち着くと、ロトは妻を離して「よし」とひとつうなずいた。
「じゃあ早速、ディナル隊長と相談しよう。街区では荒事も多いだろうから、かけもちはやめて本部勤めに変えてもらわないとね。隊長を城に呼んで三人で……っと、あった、これだ」
整理された書類の山から難なく一枚を抜き出し、ひらりと机上に置く。それ何だい、とリーファも覗き込んで、思わず変な声を出した。
「ええぇぇ何だこれ、いつの間にこんなこと!?」
紙面いっぱいに記されていたのは、妊娠から出産までに生じる体調変化や注意点の簡潔なまとめだったのだ。女でもこんなものを用意する者はいまい。何がなし胡乱な気分になって夫を見た彼女に対し、当人は失敬な視線を気にかけもせず、当たり前の顔で答えた。
「キュクス神官とアラクセスさんと大神官様、あとテアにも協力してもらったんだ。仕上げにサウラ様に見てもらったから、ほぼ間違いはないと思う。君だけじゃなく、いずれ王妃様がご懐妊となったら行事の調整は必須だろう? ヘインさんに母后様の時のことを確認したけど、どうも『様子を見ながら場当たり的に』って印象だったから、やるべきことを把握しておきたいと思って」(*)
「はー……すごい、用意周到だなぁ。王妃様はともかく、オレの仕事までとか」
「他人任せにしていて、後悔したくないからね」
格好つけるでも気負うでもなく、さらりと返された一言が心に響く。つまり彼はそれだけ、妻の妊娠出産を自分のこととして捉えているのだ。
堪え切れず目頭を押さえたリーファに、ロトがうろたえた。
「リー? どうしたんだい急に。どこか具合が?」
「平気。そうじゃなくて」顔を上げ、満面に笑みを広げる。「今さらだけど、ロトは本当にオレの旦那様なんだなぁ、って嬉しくなった」
「……」
途端にロトが耳まで赤くなった。いやちょっと、そういう不意打ちは、とか何とかごにょごにょ言いながら目をそらして口元を覆い、そわそわした挙句に背を向ける。リーファはそんな旦那様の肩に寄りかかって、ありがとな、と礼を言ったのだった。
知らせを聞いたシンハやマリーシェラ、養父アラクセスはもちろんのこと、城の人々は皆、二人のところへお祝いを言いに来た。今からこれだと産後はどうなることやら、と夫婦で苦笑するほど、祝福の雨がひっきりなしに降り注ぐ。
しかし幸福の次は試練が待っていた。噂に聞く悪阻に見舞われ、調子が良くても以前の元気とは程遠く、調子が悪いとベッドから出られないほどにもなる始末。
嵐に揉まれる小舟のごときありさまで二月ばかりを乗り越え、ようやく体調が安定して、おおむね毎日出勤できるようになった、そんな頃のこと――
※
「お久しぶりです。ご活躍は聞き及んでいますよ」
「……えーっと、ごめん、どちら様?」
警備隊本部二階に現れた長身の青年を見上げ、リーファは着席したまま瞬きを繰り返した。
面白そうな表情でこちらを見下ろす青年の、明るい茶色の髪が戸口の上の桟に触れている。紺色のケープは司法学院の紋章入りだが、あそこには学長ぐらいしか知り合いがいない。学院は人の出入りに厳しくて面倒だし、法律関係の事柄は、学院卒の夫であるロトに訊けばすぐ解決するからだ。
(司法学院に行ったのって随分前だよな? 入隊試験と、そのちょっと後ぐらいで)
こめかみを揉んで古い記憶を引っ張り出す。正答に辿り着く前に、青年が朗らかに笑って種を明かした。
「わかりませんか? それとも忘れられたかな。シリル=ファーノンです」
「シリル――ええっ、うっそだろ!」
思わずリーファは素っ頓狂な声を上げ、立ち上がった。
あれは入隊試験に合格してほどなくの頃。配属が決まらなくて腐っていたところへ従妹のフィアナが来て、長期欠席している魔法学院の生徒を訪ねるからと同行を頼まれた、あの事件だ。
確かに当時、シリルという名の司法学院生と少しだけ関った。しかし彼はリーファより背が低くて華奢で、入学してまだほんの一年、という初々しさに満ちていたはずだ。
リーファはあんぐり口を開けて青年を眺め、つくづくと感慨を漏らした。
「でっかくなったなぁ……」
こんぐらいだったのに、と自分の肩の高さを手で示す。シリルは屈託なく笑った。
「あれからもう五年になりますからね。私も今書いている論文が教授会に通れば卒業です。あ、どうぞ座ってください。その……大事な身体でしょう」
言いにくそうに気遣い、リーファの腹に視線を向けてから、彼は慌てて目をそらした。遠目にも目立つほど大きくはなっていないが、臙脂色のダブレットの上から締めるベルトは形ばかりの緩さで、剣帯も剣もない。元の体型を知っていれば、身重であるのは一目でわかる。
すっかり青年になったとは言っても、まだ初心な繊細さは残っているらしい。リーファは笑いを噛み殺した。
「階下で聞いたのかい」
「ええ。リーファさんに相談が、と言ったら、走り回ったり荒事になりそうな件は駄目だと釘を刺されました。大丈夫なんですか?」
「ああうん、今はだいぶ落ち着いたよ。ちょっと前までは出勤できない日もあったりしたけど、いろんな人があれこれ世話を焼いてくれたからさ。街区に出ないでここに詰めてるから、走り回る必要もないしね」
当初のディナルの動揺ぶりを思い出すと、苦笑がこぼれる。重い物を持つな、走るな、ぐらいはともかく、階段の上り下りにさえピリピリしていたのだ。貴様に何かあればわしの責任問題だろうが、と怒っていたが、彼の妻がそれを知ったら、私の時とは随分な違いね、と鼻を鳴らすに違いない。
横道に逸れかけた思考を引き戻し、リーファは軽く咳払いした。
「えっと、この椅子を使って。悪いね、ここは基本的に内部の人間しか上がらないから、お客さん用のソファだとか、気の利いたもんがないんだ」
予備の椅子を取ってくると、自分はいつもの席に腰を下ろして話を進める。
「それで、相談って? オレをご指名ってことは、もしかして女の子絡みかい」
わざわざ本部まで来てリーファを頼るからには、特殊な事情があるのだろう。女でないと駄目だとか、説明のつかない変死体だとか、幽霊だとか。最後のは勘弁してほしいが。
案の定、すっと温度が下がるような沈黙の後、シリルは真顔になって静かに切り出した。
「実は、同じ教授の下で学んでいる女子学生の行動がどうも不審なんです。名前はリタ=フィール。昨秋から入室した後輩ですが、教授との折り合いが悪く、何かと厳しく当たられていまして。目に余る時は私も何度か仲裁しましたが、改善せず……このまま私が卒業してしまったらどうなるかと、懸念しているところです」
「耐えかねたその子が教授を刺しそうな気配があるとか」
「いいえ。そういう方向でなく」
シリルはひとまず否定し、それから悩ましげに眉を寄せた。どう説明したものか、論理的かつ明晰な思考が身上の司法学院生でも難しいらしい。
「以前は確かに、そういう危険を警戒しなければならない雰囲気でした。傷害沙汰になるか、彼女が爆発して部屋をめちゃくちゃにするか、という。ですがふと気付くと、いつ頃からか妙に大人しくなっていたんです。その……これはあくまで印象ですから、予断は持たないで欲しいんですが。まるで何かの薬で感覚を麻痺させているか、そうでないなら神々か幽霊に語りかけられているかのような、奇妙な様子なんです。落ち着いたなら良いじゃないか、と片付けてしまうには、あまりに極端なもので」
どうにか説明したシリルは渋面になっていた。なるほど、とリーファは納得する。
「リタ嬢の私生活、寮の部屋なんかを探る必要があるから、わざわざオレんとこまで来たわけだ。うーん、だけど『なんか様子がおかしい』ってだけで部外者が踏み込んでいいのかい? 今のところ具体的に問題が起きたわけじゃな……あるのか」
言いかけて察したリーファに、シリルはなんとも沈痛な面持ちでうなずく。
「備品がなくなるんです。ままある紛失、とは言いきれない頻度で。本当に些細な物ばかりなんですが、教授はリタがくすねていると決め付けていましてね。何かなくなるとすぐ彼女に訊くんです。あれを見なかったか、さっき使っていたやつはどうした、と。もちろん、知りませんとか棚に戻しましたとかいった返事なんですが。それでとうとう、私に悪事を暴くように要求されました」
はあ、とため息をつき、憂鬱げに頭を振る。
「本来我々は公正に調べられた結果にもとづき法の裁きを下すのが役目です。先に裁いておいて後から証拠を『見付け出し』てはならない。日頃は教授自身がそう言っているのに、よほどリタが気に食わないようなんです。……まあ、彼女にも落ち度はありますが」
最後の一言は、ほとんど聞き取れないほどのつぶやきだった。だからこそリーファはそこに引っかかりを感じた。
会話につれてよみがえった五年前の記憶。シリル少年はいかにも司法学院生らしい潔癖さで、容疑者を非難していた。あの性格がそう大きく変わったようには見受けられない。
(ということは……シリルはあくまで『正しく』あるためにこの問題を持ち込んできたけど、本当のところ大人げない教授にうんざりだし、リタ嬢のことも嫌いだって感じか。窃盗を疑われても仕方ないと思うぐらいに)
リーファは心中で当たりをつけ、念の為の確認を装って鎌をかけた。
「大体わかった。問題にされてるのは備品の紛失だけ、その子のしわざかそうじゃないかをはっきりさせればいい、ってことだな?」
リタをはっきり容疑者と位置づけた発言に、シリルは微かに怯んだ様子を見せた。嫌いではあるが、有罪と断ずるには気が引けるらしい。その上で彼は追加の容疑を白状した。
「実は、もうひとつ。寮でリタと同室の学生が、どこから教授の疑いを聞きつけたのか、情報提供してくれました。ここ数ヶ月、リタは頻繁に外出しているそうです」
「それは正規の手続きを踏んで、ってことかい」
司法学院の学生は卒業するまでかなりの不自由を強いられる。ちょっと気晴らしに、とそこらへ飲食しに出ることさえ七面倒。伝統的な抜け道は残されているものの、克己心向上心のない学生は要らない、という厳しさは例外を許さないはずだ。
ところがシリルの返事は意外にも「はい」だった。
「こっそり抜け出しているのではないと。リタ本人は神殿に行くと言ったらしいのですが、だとしてもそう頻繁に参拝の許可は下りないはずです。学内にも礼拝所はあるんですから。……とまあ、随分漠然とした話で我ながら馬鹿馬鹿しいと思うんですが、調査をお願いできませんか」
勉学だけに励んでいたいのに、こんなことで神経をすり減らすなんて――という本心が聞こえそうな、げんなりした声音。リーファは同情の苦笑を浮かべると、ひとつうなずいて請け負った。
「あんまり警備隊の仕事って感じじゃないけど、あんたも随分疲れてるみたいだし、何よりオレのこと忘れずにいて五年ぶりに訪ねてくれたんだしな。ちょっとやってみるよ。ただし、解決は期待しないでくれよな」
*注)人名
キュクス:城の礼拝堂に住む神官兼医師
アラクセス:城内にある王立図書館の司書。リーファの養父
大神官:城下町にある大神殿の長(『智慧の守護者』)
テア:女中頭
ヘイン:家令
サウラ:北国サラシアの国王。生命神の化身(『そのもの人に非ざれば』)