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蜂蜜色の風が生温く頬を撫でる。今はまだ夕暮れ時には暑熱が冷めるので、ほっと一息つけるのがありがたい。
リーファは王城の庭の端をてくてく歩き、いつものように館に入ると、国王の執務室を目指した。
「よっ、お疲れさん。ただいまー……って、あれ、ロトは?」
いつも大抵国王とセットになっている秘書官にして夫の姿がない。室内を見回したリーファに、シンハが皮肉っぽく笑った。
「なんだ、俺は用無しか」
「いい歳して拗ねたふりすんな、可愛くねーぞ」
リーファも苦笑いで応じ、歩み寄って執務机の端にちょいと腰掛ける。小首を傾げた彼女に、シンハは疑問の内容を察して答えた。
「書類仕事の都合でよそを回っているだけだ。厄介事があったわけじゃない」
「そっか。ならいいんだ」
ほっと息をついたリーファに、シンハは何か言いたそうな微苦笑を浮かべたが、そこで気付いて手を伸ばし、彼女の顎に軽く触れた。
「どうした、引っかき傷があるぞ」
「え、血が出てる?」
「いや、赤くなっているだけでもう塞がっているが。猫でも追いかけたのか?」
猫、と言われてリーファはふきだした。
「まさに、でっかい猫だなぁ」
苦笑いしつつ、昼間の一件を話して聞かせる。
「ああいう時は、おまえみたいな馬鹿力があればいいのにって思うよ」
「災難だったな。店長がホルトなら、リース花店だろう。伝手が多くて、どんな季節でもそれなりの花材を仕入れられるから、城でも宴や園遊会の時には頼むことがある」
「へえ、大店なんだな。それで従業員も大勢いて……だからこそ中で色々いざこざも起きるってわけか」
「あれも一種の人気商売だからな、争いは熾烈だろうよ。俺にはよく分からんが」
正直で無骨な感想に、リーファも同意する。
「ははっ、オレもオレも。そりゃ、花はきれいだと思うけどさ。その辺に咲いてるの見てるだけで充分だよ」
ちょっと笑ってから、彼女はふと口をつぐんだ。シンハはやや怪訝な顔をしたものの、問うたり急かしたりはせず、黙って待っている。そのことが嬉しくて、リーファは自然と笑み崩れた。
「あー、やっぱりおまえといると落ち着くなぁ!」
「そんな事を言うのはおまえぐらいだぞ」
シンハは呆れたふりをしたが、それでも、声に喜びが滲むのは隠せない。リーファはにやつく顔を強いて引き締め、深刻ぶって応じる。
「可愛い嫁さんはどうしたんだよ、もう見捨てられたのか?」
「馬鹿。シェラは別だ」
照れ隠しの苦い顔。リーファが口笛を鳴らして冷やかすと、シンハはずいと手を伸ばして乱暴に彼女の頭をわしわし掻き回した。
「うわっ、ちょっ、やめろよ!」
「うるさい、余計な事を言うからだ」
ちょっとからかっただけだろう、と抗議しながらもリーファが笑う。シンハが仕上げに額を指で弾いたのと同時に、戸口でえへんと咳払いがひとつ。二人が揃って振り返ると、ロトが立っていた。
「ああ、戻ったか」
「お帰り……いや、ただいま? ん?」
リーファはくしゃくしゃにされた髪を撫でつけつつ、よく分からない挨拶をする。ロトが苦笑しながらやって来て、抱えた書類を机に置いた。
「ただいま、お帰り。何か面白い事でもあったのかい」
「いやまぁ、いつものことだよ。シンハが面白かっただけ」
おい、とシンハが不満の声を上げたのをよそに、ロトは「そうかい」と納得する。シンハは唸っただけでそれ以上は抵抗せず、不名誉な言葉を甘んじて受け入れた。
諦め顔の国王陛下に対し、ロトは書類の説明を簡潔に済ませてから、改めてリーファに向き直った。
「笑っているということは、仕事で厄介なこともなかったようだね」
「うん。でっかい暴れ猫を捕まえたぐらいかな」
リーファはおどけて、花屋の顛末をロトにも聞かせた。
「でもなー、座長も悪いよ。いくら美人だからって、恭しく手にキスしたり、旦那がいなきゃ口説きたいとか言ったら、そりゃ好みの女ばっかり贔屓してると思われても仕方ないよなぁ」
「あの人は昔からああだからね。きれいな女性に目がないというか……美女を見ると称賛せずにおれないんだと思うよ。学院時代にはたまに観劇にも行ったけど、客が連れている美女を口説いて喧嘩騒ぎになった事があったなぁ」
ロトは懐かしそうに言ってから、何か思い当たったように目をしばたたいた。
「その花屋の女性は、そんなに美人なのかい?」
「うーん、美人っていうか……なんだろうな、色っぽいんだよ。ことさらそういう化粧をしてるってわけでもないんだけど、単に美人だっていうより……」
表現が難しいな、とリーファが唸る。聞いていたロトはふむと考えてから言った。
「もしかしたら、加護持ちなのかもしれないよ」
「えっ?」
「女神ミュティアの加護を受けていると、本人の意志に関係なく、異性を惹きつける魅力が備わっていることがあるからね。それで喜ぶのも迷惑するのも本人次第だけど、学院の知り合いに一人、そういう性質の子がいたから」
「……もしかして」
胡乱げな半眼をしたリーファに、ロトは決まり悪げに目をそらした。
「ああ、うん、まぁ……そういうこと」
ごにょごにょと言葉を濁して逃げを打ったロトに、横からシンハが余計な口を挟んだ。
「おまえも人並に付き合った女がいたか」
「付き合ったって言っても子供のごっこ遊び程度ですよ! やめて下さい、なんですかその顔は!」
途端にロトは真っ赤になる。妻帯者とも思えない純情ぶりに、シンハはますます意地の悪い笑みを広げた。
「ほほぅ、随分と動揺するな。どう思う、リー」
「怪しいなぁ~?」
「リー、君まで悪乗りしないでくれ。……陛下、人のことをつつく前にご自分の過去を振り返ってみられては如何ですか。シェラ様にある事ない事ぶちまけますよ」
「おいやめろ、俺が悪かった」
反撃されてあっさりシンハが撤退する。思わずリーファはふきだし、ロトと一緒になって笑った。苦い顔の国王陛下をさんざんつつき回して気が済むと、リーファは軽く伸びをして話を戻した。
「にしても、加護持ちって可能性は考えなかったな。花を飾るのが上手いっていうのも、そのせいか。やっぱこっちはそういうの、普通にごろごろいるんだなぁ」
西方の生まれ育ちであるせいか、あるいは飛びぬけて強力な加護を授かっているシンハと一緒にいるせいで感覚が鈍っているのか、ささやかな加護持ちにはまったく気付かない。普通に暮らすぶんにはそれで支障ないだろうが、警備隊員としては要注意だろう。リーファは両手で頬をぺちんと叩いて気を引き締めた。
「受け持ちの界隈に加護持ちがいたら、今度からちょっと気をつけよう。余計な揉め事の種になりそうだし……そういうの、一目で分かる道具があれば便利なんだけど」
「ふむ。いちいち魔術師を呼んで解析を頼むわけにもいかんし、携帯出来る程度の小さな道具で加護の有無を調べられたら、何かと便利だろうな。解析手法の簡略化については学院で研究が進められているが、そうした道具の開発をさせてみても面白そうだ」
シンハが興味深げに同意する。と、ロトがやや不安げに眉をひそめた。
「反発もありそうですがね。魔術師でなくとも解析だけなら出来るとなったら、誰がどんな加護を授かっているか簡単に暴かれてしまう。それを望まない人もいるでしょうし、道具が悪用されないとも限らない」
「加護がバレたら何か困るのか?」
リーファはきょとんとして問うた。誰が何の才能に長けているかを試験するのと同じようなもので、何の問題があるのか分からない。
いまだ東方の事情に馴染んでいない彼女に、ロトは噛み砕いて説明した。
「加護を授かっているからといって、その力を望んで積極的に使う人ばかりではないよ。極端な話、ミュティア女神の加護持ちの女性を売春宿で働かせたら、相当な儲けが見込めるだろう?」
「――あ」
「もちろん加護は本人の意志や行い次第で消えることもあるから、あまり無茶なことはさせられないだろうけど。でも、加護持ちの子供を攫って都合の良いように教え込んで、盗みや売春や人殺しをさせるように育てる、なんてこともあり得る。誰でも簡単に加護の有無を判別できるというのは、そういう危険もはらんでいるんだ」
「あー……うぅ、そうか、そりゃ難題だなぁ。道具が出来たとして、予め許可とか登録とかした人間しか使えないようにする、って仕組みを作っても、結局は万全じゃないだろうし」
仕組みがあれば、それをすり抜ける方法を編み出すのが悪人というものだ。リーファはため息をついた。
「あれば便利だと思ったんだけどな」
「発想は悪くないさ」シンハが慰めた。「作れるかどうかもまだ分からん。とりあえず、そのあたりの保安措置も含めてセレムに話を振ってみよう」
そう気を落とすな、と苦笑しつつ、リーファの頭をぽんぽんと撫でる。
「当面は、その花屋の女に気をつけてやれ。一度誰かと揉めたとなったら、ほかにも日頃の鬱積した妬み嫉みが出てくるかも知れん」
「……だな。わかった、ありがとう」
何はともあれ、現状のままでも自分に出来ることがある。励まされたリーファはにっこりしてうなずいたのだった。
そんな話をした、ほんの数日後のこと。
「リーファ、君にお客さんだ」
班長からさも当然の顔で回されてきたのは、花屋の従業員アリアだった。思わずリーファは渋面になり、あんたも関係者だろ、と無言でセルノを睨みつける。だが相手はこんな時だけ目が悪くなるようで、さっさと奥に引っ込んでしまった。
リーファは鈍い頭痛を覚えつつ、受付に向かう。アリアは既にカウンターに身を乗り出し、挑むような目つきで詰所の中をねめ回していた。
「……えー、何の御用でしょうか」
ごほんと咳払いして、リーファは白々しく事務的に質問する。アリアは平手でカウンターを叩きつけた。
「あの女を捕まえて!」
「は?」
リーファは正直に困惑顔をした。わざととぼけたのではない。『あの女』がドナを指すというのは分かるが、いったい何の嫌疑で捕まえろと言うのか。
「だから、あの女を捕まえてって言ってるのよ! 泥棒なんだから!」
「何か盗まれたんですか」
「あいつ、店の花を盗んでるのよ。知ってるんだから。こっそり花を抜き出して持って帰るところ、何回も見てるのよ! なのに店長も取り巻き連中も、知らんふりしてさ」
アリアは鼻息荒く言い切ると、苛立たしげにカウンターを拳で小突いた。
「どんなにちやほやされてたって、才能があったって、盗みをすれば罪になる、そう言ったでしょ。早く捕まえてよ」
どうやらリーファの言葉をしっかり覚えていたらしい。自分に都合のいいように改変し、アリアはせっかちに爪先をトントン踏み鳴らした。これは一旦了承しない限り、大人しく帰らないだろう。リーファはちらっと天井に目をやってから、諦めて応じた。
「分かりました。調べに行きますから、ひとまずお引き取り下さい」
「ちょっと!? 何よそれ、調べるって! 捕まえなさいよ、泥棒だって言ってんでしょ!」
「盗みのまさに現場に居合わせたのならともかく、『あいつは泥棒だ』という言葉だけで人を逮捕するわけにはいきませんよ。事実関係を調べて明らかにするのが警備隊の仕事です。本当に彼女が盗みをはたらいていれば捕まえますし、被害者である店の方から届けが出されたなら、裁判所にも回します。あなたの時と同じようにね」
リーファは冷ややかに応じ、チクリと皮肉を付け足した。途端にアリアは憎々しげに顔を歪め、何か罵詈雑言を吐き出そうと口を開く。だが他の隊員が成り行きを見ているのに気付くと、苦しそうにそれを飲み込んだ。
口の中でこね回すように、クソアマ、あんな店潰れちまえ、どいつもこいつも、といった呪いの言葉をつぶやきながら、アリアはどす黒いまなざしを残して出て行った。
「……はー、やれやれ」
思わず知らず、ため息がこぼれる。居合わせた隊員も一様にふうっと息を吐いた。
「お疲れさん」
何人かがおざなりな慰めを寄越す。リーファも苦笑でぞんざいな敬礼を返した。警備隊員などやっていると、感謝されるよりも憎まれ罵倒されることの方が多い。日常茶飯事だ。
さりとて、泥棒だ、との訴えがあったのは事実なので、聞かなかったことにもできない。気をつけておいてやれとシンハに言われたことでもあるし、その後の経過観察も兼ねて、リーファは調査に出向くことにした。
花屋の店舗へ行く前に、思い立ってすぐそばの大劇場を覗いてみる。新作劇が始まって、一日一回の公演中は押すな押すなの大盛況であるが、今日はもう終演しており、出入り口も閉められていた。ひっそりしたものだ。
裏に回って関係者用の通用口を通り、中に入ると、外から見た静けさとは打って変わって喧騒に満ちていた。
舞台がはねた後も、劇場は休まない。俳優はその日の内容を反省し、変更や修正を議論し稽古する。大道具は装置の点検に忙しく、衣装や小道具はどこか傷んでいないか入念に調べて修繕する。
こうした活気に満ちた喧騒はリーファも好きで、居心地が良かった。最前の不愉快な気分がすっかり吹き払われ、足取りも軽くなる。
ロビーに出ると予想通り、何人もが掃除や飾り付けの手直しに忙しそうにしており、そのなかに花屋の姿もあった。
「どうも、こんにちは。ホルトさん、でしたっけ」
歩み寄って会釈したリーファに、花屋の店主は一瞬怪訝な顔をしてから、商売用の笑みを浮かべてお辞儀を返した。
「先日はどうも、うちの者がお騒がせしまして」
「いえいえ、仕事ですから。それで……そのことで、少しお話が」
今いいですか、と心持ち声を低める。近くに人が寄って来ないよう、リーファは清掃が済んだ一隅を選び、ホルトを連れて行った。
「実は先ほど、詰所にアリアさんが来られまして」
「えっ?」
ホルトは驚きの声を上げ、次いで渋面になった。
「まさか、そちらに何か言いがかりをつけに行ったんですか。それとも、逆恨みして私どもの悪口でも? あんな事をしたんだから、解雇されて当然なんですがね」
「クビにされたことについては、何も言ってませんでしたよ。ただ、いささか不穏な告発をしてくれまして。……ドナさんが、店の花を盗んでいると言うんですが」
「――!」
リーファがひそっとささやくと、ホルトは息を飲み、さっと顔色を変えて身をこわばらせた。驚きの反応ではなく自己防衛だ。おや、とリーファは眉を上げる。
「どうやら、ご存じだったようで」
「それは、その」
鋭く突っ込まれてホルトはしどろもどろになる。リーファは相手の様子を観察しながら、白々しい口調で続けた。
「まあ、店員が売り物の花をこっそり失敬しているのを、知っていて見逃しているというのなら、我々が首を突っ込むまでもありませんがね。ただ、他の店員にやっかまれたり、客が花の値段に不審を抱いたりして揉め事になれば、こちらの仕事になりますので。きちんとしておいて頂きたいんですが」
店の釣り銭をちょろまかすだとか、商品をこっそり私物化するとかいった小さな窃盗は、悲しいかな、人を雇っている店ではままあることだ。いちいち警備隊を呼べば、無関係の客の間でも店のイメージが悪くなるし、人を雇いにくくなってしまうから、注意や解雇など内々で処理されているだけの話である。
しかしそれが原因で、警備隊が介入せざるを得ない大事になっては、元も子もない。
そこをリーファは指摘したのだが、ホルトは困り顔で目を逸らし、助けを求めるようにロビーを見渡した。運よくその視線の先に、救いの神が現れる。
「あっ、座長! ちょっと、すみません、こちらへ」
ほっとした様子でホルトが呼ぶ。座長は一緒にいた数人にてきぱきと指示を出してから、急ぎ足にやって来た。
「おお、これはお嬢さん。今日も制服姿が凛々しいですな! して、何か事件でも?」
おどけて滑稽な敬礼をした座長に、リーファは思わず笑いをこぼす。敬礼を返してから、なんとか真顔を取り繕って用件を告げた。
「先日のアリアさんが詰所に来たんですよ。ドナが店の花を盗んでいるから捕まえろ、と息巻いて」
「ほう、それはまた災難でしたな」
座長は他人事のように笑い、それからホルトと視線を交わしてうなずくと、静かに口を開いた。
「お嬢さんには余計な手間をかけてしまいましたな。ドナが花をこっそり持ち帰っておるのは、わしも知っております。そもそもわしが、目こぼしすると暗に約束してやったんですよ。……彼女が活ける花は、一風変わっとりましょう? わしも最初はただ感心しとったんですがな、ある時ふと気付いたんです。ああ、これは薬草だな、と」
「薬草……?」
「ドナの旦那さんは、もう長く胸を患っとりましてな。軽い作業ならできるが、長時間まともに働くことはできんのです。具合が悪い時は寝込みっきりにもなる。だから生活が苦しいのだと、ホルトから聞いておりました。だからすぐ分かった。ドナは、注文された花に薬草を紛れ込ませておいて、余りをこっそり持ち帰って旦那さんに飲ませとるんだ、とね」
しみじみと語る口調には慈愛がこもっている。アリアが邪推したような、色欲に眩んだ情ではない。
「それで、彼女に言ったんですよ。こういう花を活けるのには、どうしても無駄が出ますな、用意したもの全部をすっかり使い切るのは難しいでしょう。半端や余りは芸術につきものかも知れませんな……そんな風にね。ドナも、わしの言いたい事を察したのは間違いありません。礼を言われましたよ。ははっ、美女に感謝されると気分が良いものですわい」
せっかく美談だったのに、最後で余計な軽口を叩く座長。これも一種の照れ隠しだろうか。リーファはやれやれと苦笑した。
「店長さんだけでなく、買い手の座長も容認しているのなら、『余り』の代金込みってことも承知の上なんですね?」
「ええ」ホルトが小声で肯定した。「そもそも座長が提案して下さったことですからね。そういう面での行き違いはありませんから大丈夫です」
「七面倒なことをしなくても、ドナさんの花に高値をつけて、そのぶん彼女の手取りを増やせば、薬草を自分で買えるでしょうに」
そうすれば、泥棒呼ばわりされる心配もない。
リーファはいたって合理的に考えたのだが、座長に失笑されてしまった。
「いやはや、お嬢さん、それはちと無粋というものでしょうが」
「え……はぁ」
粋とか無粋とかいう問題なんだろうか。リーファは釈然とせず、曖昧に小首を傾げる。ホルトが急いでとりなすように言った。
「実際、花として買うのと、乾燥させたり煎じたりした薬を買うのとでは、値段がかなり違うんですよ。神殿付きの薬師なら良心的な値段で売ってくれるでしょうが、それにしたって無料じゃありませんし、ほかの薬師だとぼったくる奴もいますからね」
「ああ、なるほど」
リーファが納得すると、座長は少しばかり諦めの風情になった。
「お嬢さんにとっては、回りくどくてすっきりせんように見えることでも、それがこの劇場街の流儀というものです。実際それで上手くはたらいておるし、何よりこの街では無粋が嫌われる。形はどうあれ盗みは盗み、と考えられるのは、法と秩序の守り手には相応しいかも知れませんがの、それでは要らぬ軋轢を生むだけのこともありますぞ」
「ああ、いや、そういうわけじゃないんですが」
慌ててリーファは否定した。さきほどアリアに嫌な形で自分の台詞を流用されたことを思い出し、しかめっ面になる。
「私は元が盗人ですからね。別段、窃盗になるから止めた方がいいって言ってるわけじゃないんです。だからそれはまぁ、いいんですが。やるならやるで、他の店員に気付かれて騒ぎ立てられないようにしてもらえませんか」
「そうですな、それはこちらの手抜かりでした。対処しましょう」
座長はしかつめらしく謝罪し、頭を下げた。それから、ちょうど近くにあった花瓶に歩み寄り、色とりどりの花を見上げる。彼はつと手を伸ばし、すらりと直線をつくる花を指し示した。まっすぐの茎に沿って葉が茂り、薄桃色の柔らかそうな花がついている。ウスベニタチアオイだ。
「最初に気付いたのはこれを見た時でした。昔の下宿屋の裏庭にも、勝手に生えとりましてな。物知りの友人が、これは花や葉を湯に浸すと咳止めの薬になる、と教えてくれたんですわ。素人療法で効いたのかどうか、今でもよく分かりませんが」
懐かしそうに言い、座長は葉を一枚、軽く撫でた。花屋が先を続けた。
「本当は、良くないことだというのは承知しております。おっしゃる通り、他の店員に示しがつきませんからな。ですが病気の家族がいるからという理由で表立ってドナを援助すれば、それこそ不公平というものです。色香に惑ったのどうのと、酷い憶測を呼ぶでしょう。アリアは……まぁ、放っておくしかありませんな。相手にしなければ、そのうち諦めるでしょう」
「あんまりしつこく言ってくるようなら、こっちでなんとかしますよ」
リーファは請け合ってから、はたと気付いて問うた。
「この件はそれでいいとして、ドナさんは誰に薬草のことを教わっているんです?」
思いもよらない質問に、座長と花屋は顔を見合わせた。
「さて、そこまでは」
「私も聞いてませんねぇ。気になるのなら、本人に尋ねてみられては? 今日はもう帰りましたが、家の場所を教えますよ」
花屋が親切に申し出てくれたので、リーファは礼を言って劇場を後にした。