後日談 (2)
王城には、少なくない人数が住み込みで働いている。館を手入れし維持する家令や女中・下男の大半、実家が遠い政務官、昼夜警備を務める近衛兵、城内の菜園や厩舎の管理人、鍛冶屋に礼拝堂の神官。
この度そこへ新たに、毛色の変わった住人が加わった。はるか西国の、異教の司祭ザフィール=アデンである。
中身まですべて無事に鞄を取り戻した彼は、国王直々の命により聖典のエファーン語訳を著すことになったのだ。シンハが養父から学んだのは原典の写し、それも部分的なものであり、エファーン語の完訳版は未だかつて世に出たことがない。
大陸のほぼ西端と東端、間に広い砂漠や険しい山脈をいくつも挟んだ国と国とは言え、同じ世界に住む以上、相手の事を何も知らないでは済まされない。
それはザフィール自身の思いでもあったので、この命令は願ったり叶ったりだった。何せ、翻訳作業の間は衣食住の面倒を見て貰えるのだ。もう行き倒れる心配はない。
というわけで、城館の一隅に部屋を与えられた彼は、毎日嬉々として仕事に打ち込んでいた。その合間に、聖十神信仰や魔術について学ぶ自由も許されていたので、城の礼拝堂や城下の学院にも足しげく通い、気付けばすっかり顔なじみになっていた。
――であるからして。
「こんにちは、司祭様、お邪魔しま……」
「姉さん! 良い所に来たわ、姉さんからも言ってやって!」
司祭部屋の扉を開けるなり、学院の研究員たるフィアナが憤然と詰め寄ってくるのも、別段不思議な現象というわけではなかった。驚くか驚かないかは別として。
リーファは自力で敷居をまたぐより先に、従妹にぐいぐい手を引っ張られ、目を白黒させながら部屋に入った。
今日も勤勉に机に向かっていた司祭が、にこやかに顔を上げて「いらシャい、リーファさん」と歓迎する。あ、どうも、などとリーファが会釈を返すのを遮るようにして、フィアナが悲鳴のような声を上げた。
「姉さん、平気で挨拶してる場合? このざまを見て何とも思わないの!?」
「このざま、って」
「この人よ、ザフィール=アデン、司祭様!」
一語一語区切るようにしてフィアナは言い、きっ、と噂の当人を睨みつける。ザフィールはおどけた表情で首を竦めた。その動作で、司祭服の襟に、首周りの肉がちょっと食い込む。耐え難いものを目にしたように、フィアナは天を仰いで嘆息した。
「たった一月そこらで、こんなに丸々太るなんてどうかしてるわよ!!」
――そう、目の前の司祭はすっかりふくよかになり、一度は行き倒れかけたなどとは信じられない体型になっていたのだ。
何しろこの館の食事は美味だし、いまや壮絶に多忙な筈の国王までが息抜きと称してお菓子作りなどしてくれるものだから、栄養状態が改善を通り越して過剰に傾いてしまうのもやむなしである。
頬骨が浮き出てげっそりしていた顔は見事にころんと丸くなり、乾ききって皺の目立っていた肌も、磨いたようにつやつやである。
「国を出た頃と別人みたいになった、って言ってたのが、こういう意味だったなんて……」
フィアナはがっくりうなだれて頭を振り、特大のため息をつく。そして、いまだ何とも言えずに立ち尽くしているリーファに再度詰め寄るようにして訴えた。
「姉さんからも何とか言ってやって、私の言葉は聞いてないみたいだから!」
「聞いてマスよ?」
「聞いてるふり、でしょう。にこにこ笑ってるだけで、反省どころか自分が太ったってことを認めさえしないくせに」
「ああ、エート。あんまり太ったと思えないのですよ。国にいた頃は、もっと……丸かったので」
ザフィールはその発言がはらむ一触即発の危険性に気付いていないのか、おどけて言いつつ肩を竦めた。フィアナが眩暈を起こしたように片手を額に当て、それから不吉な声で聞き返す。
「もっと……? 今より、さらに?」
「そうでス。今は、広いお城を行ったり来たりしますし、学院にもよくお邪魔しマスから、あんまり太ってまセンね」
「歩き回ってなかったら、それこそ故郷にいた頃並に戻ってたってことじゃないの、危機感を持ちなさいよ! こんなに急激に太ったら、体に悪いでしょ!?」
きゃんきゃん吠える子犬のように叱りつけるフィアナ。珍しい従妹の姿に、リーファは目をしばたきつつ、うっかり口を滑らせた。
「なんか世話女房みたいだなぁ」
途端に、全身総毛立つほどの殺気を一睨みで叩きつけられ、リーファは縮み上がった。一瞬両足が宙に浮いたほどだ。
フィアナは怒りの冷気を漂わせつつ、地を這うような唸り声で言った。
「いくら姉さんでも、今のは聞き捨てならないわね。世話女房? 冗談じゃないわ、女房に世話されなきゃ発酵しすぎたパンみたいに膨れ上がる男なんて、軽蔑するわよ」
そもそもが、年配の落ち着いた男を理想とする彼女の好みとは、手のかかる子供じみた所のない、自分の面倒は自分で見られる人間という条件によるのだ。大人だろうと、己の父親のように癇癪持ちで、靴下が箪笥のどこにあるかも知らないような男は真っ平ごめん、というわけである。
「キツイなぁ」
流石にリーファも、ややたしなめる声音になる。少しは険が取れたら良いと願ったのに、逆効果だったろうか。前より言う事に容赦がない。
「発酵しすぎは面白い喩えでスが、ちょとヒドイですねぇ」
一方で当のザフィールは、さほど傷ついた様子もなく苦笑する。その穏やかな口調に毒気を抜かれたように、フィアナはふうっとため息をついて彼に向き直った。
「やっと真面目に取り合ってくれる気になりました? そこまで言われたくなければ、少し食事の量や内容に気を遣って下さい。私はあなたを軽蔑したくはありません」
「おやおや、これは大変でス。それでは、真面目に取り組んでみましょう……明日から」
悪戯っぽく付け足された一言に、がく、とフィアナとリーファは揃って脱力する。ザフィールはくすくす笑って席を立ち、小卓に置かれていた茶器を中央のテーブルに運んできた。
「ナゼなら、今日はもう素敵なお菓子が用意されていて、お客サマもいるからでスよ。リーファさんも、こちらへどうぞ」
「やたっ、ありがとうございます!」
リーファは反射的に歓声を上げてしまい、一拍遅れて、おっと、とフィアナの様子を窺う。従妹は複雑な顔をしていたが、じきに肩を竦めてソファに腰を下ろした。どうやら一日分の苦言を出し切ったらしい。
二人が座ると、ザフィールは火鉢の上から小さな薬缶を取ってきて、ポットに湯を注いだ。紅茶ではなく、庶民がよく飲む雑穀の焙煎茶だ。香ばしい湯気が立ち昇り、空気に残っていた小さな棘を溶かしてゆく。
茶器と一緒に置かれていたのは、栗のタルトだった。大きな一切れを皿の上で切り分け、予備の小皿に移す。ザフィールの分が心持ち小さいのは、決心の表れらしい。
「いただきまーす」
リーファが嬉しそうに言い、他の二人もそれぞれフォークを取る。
「んー、うまっ」
「本当。いつもながら、すごく美味しいわよね。これを我慢しろって言われたら辛いわ」
「全然食べないは難しいでスが、減らすのは我慢できます……たぶん。カリーアにはこういうお菓子はなかったので、もっと色々伝わると良いですねぇ」
しばし他愛の無い会話が続いた後、ふとリーファが「そういえば」と切り出した。
「さっきの、世話女房って話で思い出したんですけど、司祭様は結婚は?」
既婚でないのは、単身国を飛び出したことからして明らかだ。だがこのままレズリアに住み着くなら、この国で結婚するという事もありえる。その場合、信仰の違いなどは問題にならないだろうか。はたまた、故郷に帰るまで待っている誰かがいるのだろうか。
そんなあれこれをひっくるめての疑問だったのだが、ザフィールはあっさり首を振った。
「司祭は結婚しまセン」
「えっ」
リーファがぽかんとし、フィアナが顔をしかめて鼻を鳴らした。
「聖職者の結婚を禁止するなんて、預言者カリーアは何を考えて聖典を書いたのかしら」
聖十神信仰が一般的な東方でも、一部地方には古い部族宗教が残っており、中には神官や巫術師の婚姻を禁じているものもある。男女の交わりによって神聖な力が損なわれるからだとか、もっともらしい理由がつけられてはいるが、大方は差別意識に由来するただの迷信だ。
が、ザフィールは穏やかな微笑のまま、再び首を振った。
「聖典には書かれてまセン。『教会典範』……エート、教会内部の決まりです。私達は、神様と教皇猊下にお仕えするのが使命でスから」
そこまで言い、彼はちょっと考えて「失礼」と断り、リーファに向けてサジク語で話しかけた。
『通訳してもらえますか? 私達は皆、教会に奉仕し、それを通じて主に仕え、主の威光を世に広めてゆくのが使命です。その為には危険を冒さねばならない事も少なからずあり、自らをなげうつ必要があります。家族が、とりわけ守るべき妻や子がいれば、それが難しくなるでしょう。だから私達は、結婚しないのですよ』
「――だってさ」
リーファが通訳する間、フィアナは難しい顔で聞いていたが、ややあって首を捻った。
「でもそれ、おかしくありません? この国でも、貴族達はすべてをなげうって王に忠誠を尽くすべしとされているけれど、だからって結婚を禁じたりしませんわ。ええもちろん、本当にすべてをなげうつ貴族なんていませんし、領地を継ぐ子が必要だから結婚しないわけにはいかないんですけど」
「いいトコロを突きましたね」
にやっ、とザフィールが諧謔めかした笑みを作る。
「領主が王に“すべてをなげうつ”ことがないのは、領地や財産と家族があって、ソレが大事だからでしょう。教会で司祭が同じことをしては、ブッチャケ偉いの人が困るから決められたことデスね」
「……」
えもいわれぬ沈黙が落ちる。おや、とザフィールが目をしばたいていると、リーファが眉間を押さえつつ唸った。
「司祭様……事情はわかりましたけど、“ぶっちゃけ”は止した方が」
「間違いでシたか?」
「いえ、文脈からして正しいと思いますが。『実は』って意味ですよね。ええ、合ってますけど、あんまり良い言葉ではないので。そこは“実を言うと”とか“正直なところ”とかを使った方が無難ですよ」
「ほう」
他ならぬリーファに言葉遣いを修正され、ザフィールがおどけて驚きの声を上げる。次いで彼はふむふむとうなずいた。
「良くないですか、残念でス。ブッチャケは言葉の響きが面白くて気に入ったですが……。仕方ありまセン」
そこで彼は、笑いを堪えているフィアナをちらっと見てから、リーファに同情的なまなざしを向けた。
「私が悪い言葉を使ったら、きっとあなたのせいにされますネ。行儀良くシてましょう」
「あはは……そうして貰えると助かります」
リーファが乾いた笑いを返すと、ザフィールはこほんと小さく咳払いして、話を戻した。
「そう、“実を言うと”昔はそんな決まりはなかったのでスよ。でも、自分の奥サンや子供の為に、教会の財産を盗んだり、位の審査をごまかしたりということが、あまりに多くなったので、結婚は禁止されまシタ」
「それなら、あなたは別に結婚しても問題はないのでは?」
フィアナがごく自然に問い、茶を一口飲む。リーファも同感のしるしにうなずき、その後ちらっと横目で従妹を盗み見た。が、案の定、今の質問は純然たる論理的帰結らしく、下心や言外の意図は一切読み取れない。
ザフィールは束の間、遠い目をしてから寂しげに微笑んだ。
「そうでスね……当分、国には帰れまセンし、帰っても、こんなに異教かぶれした司祭は、教会には戻れないでしょうからね。でも」
ふ、と沈黙が降りる。窓外で枯葉が舞い、冬が近いと知らせる風の声を宙に紡いで落ちた。
『それでも、私は司祭ですから』
ささやきは遠い西方の言葉だったが、フィアナもそれを聞き直したりはしなかった。