七章 想いの証 (2)
翌朝、夜が明けてじきにリーファは館を出た。警備隊への連絡はシンハの方から遣ってくれるというので、そちらは任せて魔法学院に向かう。
と、いくらも行かないうちに、後ろから切れ切れに呼ぶ声が飛んできた。
「リーファ、さん……待って、くだサい~」
かすれた悲鳴のような声に、リーファはぎょっとなって振り返る。城の前庭を、ふうふう言ってよろけながら、ザフィールがやって来るところだった。
「どうしたんですか、司祭様」
慌ててリーファが駆け戻ると、ザフィールは両手を膝に当てて肩で息をしながらにっこり笑った。
「魔術を、かけてもらいに、行く……聞きまシタ。ぜひ、見せて、もらおと」
「その為に、わざわざ?」
思わずリーファが呆れ声を出すと、ザフィールは逆に驚いたように目をぱちくりさせ、それからゆっくり深呼吸して、やっと背を伸ばした。
「はぁ……ふぅ、やっと、落ち着きまシタね。やれやれ、お城は広くて、いい運動なりまス。あなたはもう、魔術が珍しくないでスか? 私はまだ、ちゃんとしたのは一回も見たことナイですね」
言われてリーファは「あ」と気付き、自分に苦笑した。ここで暮らすようになって早五年、しかもフィアナやセレムとも親しくしているので、魔術と聞いても何とも思わなくなっていたが、着いたばかりのザフィールは違う。
「すみません、そうでしたね。それじゃ一緒に行きましょう」
彼の呼吸がすっかり整うまで待ってから、リーファはゆっくり歩き出した。そこでふと思いつき、『ところで』とサジク語に切り替える。
『ほかに人がいなくて、二人だけで話すのなら、サジク語でも構いませんよね? たまには使わないと、私も忘れそうなんですが』
『ああ、そうですね』ザフィールは微笑で応じた。『確かに、私もエファーン語を学ぶことばかり一生懸命で、うっかりサジク語が出て来なくなる時もありますから、丁度良いでしょう。私のエファーン語がおかしい時は、あなたが教えて下さいね』
穏やかに頼まれて、リーファは途端にカアッと赤面した。
『や、いやいや、司祭様に教えるとか、オレなんかそんな……っと、あ、失礼、ええと。地がこんなのですから、あんまり良くないと思うし……』
あたふた言い訳するリーファを、ザフィールは優しいまなざしで見つめる。逃げ切れずにリーファはお手上げし、降参した。
『えぇと……あの、まぁ、ぼちぼちで良ければ。参考程度に』
『はい、よろしくお願いします』
にっこり笑顔で駄目押しされ、リーファは赤い顔のままがくりとうなだれた。
そうこうして学院に到着すると、昨日のうちに話が通っていたらしく、受付係がすんなりフィアナの居場所を教えてくれた。
「ぅはよー、フィアナ。早くに悪いな」
「お早う、姉さん。……司祭様も」
入室しながら挨拶したリーファにフィアナは愛想よく答え、次いで後ろのオマケに気付いて曖昧な顔になった。その反応に、あれ、とリーファは目をしばたたく。
「司祭様は見学だけど、まずかったかい?」
「いいえ、支障はないわ。もう準備も出来てるし」
続き部屋を示されて、リーファは首を捻りながらそちらへ向かう。フィアナのことだから、司祭様が来たら腕の見せ所とばかり張り切りそうなものなのだが、やけに素っ気ない。対して司祭は何やら意味ありげな苦笑を浮かべている。
リーファは二人を見比べ、遠慮がちにザフィールに問うた。
「……何かあったんですか?」
「フィアナさんは、私が思ったより若くて、ガッカリらしいです」
「え?」
思わぬ答えにリーファが目をぱちくりさせると、フィアナがやや不機嫌に口を挟んできた。
「別に、がっかりはしてませんけど」
「そうでスか? お年寄りの言う事は聞けても、若いの言葉は価値がナイ思ってませんか。まあ、二十八はそんなに若いと違いますが」
くすくす笑いながらザフィールが意地悪く言った。途端にフィアナが渋面になり、リーファはぽかんと口を開ける。
「二十八!? って……え、暦が違うとか数え間違いとか」
「残念ながら」ザフィールが首を振った。「本当の年齢でス。あなたもガッカリですか?」
「まさか! 違いますよ、ただびっくりしただけで。あー……ええとですね、司祭様、フィアナはちょっとそのー」
「ええ、聞きまシタ。叔父さんがとても、立派な人だそうでスね」
「……あはは」
なんとも言えずに乾いた笑いでごまかすリーファ。ザフィールはちらりと面白そうな顔をしたが、すぐ真面目な態度に戻ってフィアナに一礼した。
「お邪魔はしまセン。静かに拝見いたしまス。良いですか?」
「もちろんです」
フィアナは何かに耐える風情で応じると、気を取り直してリーファを手招きした。
「姉さん、こっち。あ、その線は踏まないでね。で、そこの中央に立って」
「ん、ここかな……よっ、と。こうかい?」
床に描かれた模様の中央にぽかりと空いた場所がある。リーファは爪先立ちで線を踏まないように進み、そこに立った。ザフィールが部屋の壁際から、興味津々と図形を眺めている。フィアナは早くも集中に入っており、静謐な表情になっていた。
床にしゃがんで最後の部分をつなぎ、魔法陣を完成させる。それから愛用の杖を取り出し、軽くサッと一振りした。つぶやかれた古代語に呼応して、杖が仄かに白い光を帯びる。
トン、と杖の一端で陣の一部を突き、フィアナは詠唱を始めた。
凛とした声と口調は、呪文と言うよりは誓いの儀式のようだ。聞きなれない古代語の間に、リーファの名前が一度だけ挟まる。
さして長くない言葉の後、フィアナは杖の端で、タン、タン、と図形の要所要所を突いた。最後にカツンと強くひとつ。直後、魔法陣が一度に輝きを放った。
ほう、とザフィールが静かに感嘆の吐息をもらす。リーファも改めて色彩の乱舞に見入り、その美しさを堪能した。ちらちらと光の欠片が身にまとわりつくと同時に、何か柔らかいものがふんわり被せられたような感覚がして――消えた。
我知らずホッと息をついたリーファに、フィアナも肩の力を抜いた風情で微笑みかける。
「はい、終了。もう動いてもいいわよ。司祭様のお帰りには学院の誰かをつけるから、先に戻ってくれて構わないわ。忙しいんでしょう? あ、分かってると思うけど、陛下のそばに寄っちゃだめよ」
「そう言やそうだった。どのぐらいまでなら大丈夫かな? もっぺん段取りの打ち合わせしなきゃいけないと思うんだけど……」
「そうね、そこからあっちの扉ぐらい離れていたら大丈夫だと思うけど。もし解けてしまったら、もう一度やり直すのは大変だから、陛下には姉さんを使うのを諦めてもらうわ。本音を言えば、姉さんにはあまり危ない事をして欲しくないんだけどね」
フィアナが顔をしかめた。リーファはおどけて肩を竦め、わざと軽い口調で応じる。
「今回は危なくないって。危ない目に遭わされそうな人を見守って、いざとなったら連れて逃げるだけだからさ」
「その“いざ”が危ないんじゃない。あのね、姉さん、警備隊員として一人前の仕事をする、っていうのは、何も男と張り合うぐらい肉体的に厳しい仕事をこなさなきゃいけないって意味じゃないのよ? 世の中にはそう誤解してる人もいるけど、どう頑張ったって、女の体は根本的に男より弱いんだから」
「はいはい、分かってますって。心配してくれてありがとな」
リーファは苦笑し、フィアナの金髪をくしゃくしゃ撫でて説教を中断させると、不満そうな義従妹から追撃される前にと退散した。
が、逃げたふりで廊下に出てから、そっと戸口に戻って中の様子を窺う。術の効果か、二人とも彼女に気付く様子はない。フィアナが魔法陣の後始末をしながら、ザフィールと何やら魔術について話しているのが聞こえた。術をかけた後の“終わり方”にも手順があって、それをきちんとしなければ神々に対して不敬となり、次から手を貸して貰えないこともある、とかなんとか。
聡明な聞き手である異国の司祭に、教えるフィアナの方も言葉に熱がこもっている。先日のように愛想の良い笑顔ではないが、彼女が本心から楽しんでいることは、張りのある声と表情からして明らかだ。
ザフィールの方も、終始穏やかな態度ではあるが、本来は国を飛び出すほどの熱意と探究心の持ち主である。色々と突っ込んだ質問をして、拙いエファーン語に時折もどかしげな顔をしつつ、話に熱中している。
(なんだかんだ言って、結構気が合ってるんじゃないのかね?)
頭の良さと自他への厳しさが災いして、フィアナには友人と言えるほどの存在がいない。対等に議論が出来、かつ異なる文化価値観で育った人物に触れて、彼女の頑なさが少し和らげば良いのだが。
リーファは一人面白そうな顔をしてから、今度こそ本当に、こっそりその場を後にしたのだった。