六章 食い違う思惑 (3)
今日明日にもモラーファの神官長が到着する。そうと分かっていても、否、そうだからこそ、ただ待つだけでは不安だ。
というわけでリーファは翌日、独自に探りを入れることに決めた。隊長室の前でゆっくりひとつ深呼吸し、意を決して扉を叩く。
入れ、の声を聞いてすぐ、決心の鈍らない内に「失礼します」と敷居をまたいだ。
リーファの顔を見た途端、ディナルは机の向こうで強烈なしかめっ面になった。
「何もそこまで」
思わずリーファが抗議すると、彼は奥歯で言葉を挽くようにして唸った。
「貴様がそんな顔で入って来たのに災厄を予感せん奴がおったら、ただのぼんくらだ。やめろ、言うな、わしは何も聞かん、却下だ以上!」
「ええっ!? ちょ、せめて話ぐらい……」
「どうせ貴族絡みの厄介事だろうが、わしらが首を突っ込むことじゃない!」
厳しく一喝され、リーファはぐっと言葉を飲み込んで背筋を伸ばす。ディナルは警戒のまなざしをひたと彼女に当てたまま、低い声で続けた。
「そうでなくとも貴様は王城で暮らして、何かと言っちゃ陛下に贔屓され、しょっちゅう権威を借りて好き放題しとる」
「っ!? ふざけんな!!」
カッ、と頭の芯で火花が弾けた。その勢いのままに、口をついて怒声が飛び出す。握りしめた拳がわなわな震えた。
冗談ではない。そう思われない為に、どれだけ努力してきたか。それをこの熊男は何ひとつ見ていなかったのか、ただリーファを気に入らないという私情だけに囚われて!
衝撃に立ち尽くした彼女に、ディナルは上回る大音声をお返しした。
「黙れ!!」
バン、と机を叩き、ふーっと荒々しいため息。それから彼は、盛大な舌打ちをして苦々しくつぶやいた。
「まったく、頭がいいのか悪いのか……。連中にはそう思われとる、という話だ!」
「へ?」
予想外の言葉を聞いて、リーファは怒りのやり場を失い、気の抜けた声を漏らした。途端にディナルは「やかましい」と噛み付かんばかりに吠える。次いでまた声を低め、唸るように続けた。
「つい昨日も伯爵家に呼び出されてコソコソやっとったろうが、余計な動きを見せて貴族連中の反感を買うな! 警備隊の頭はいつから雌犬になった、なんぞと厭味を言ってくる阿呆もおるんだ、忌々しい!」
「え……っと。そんなに目立ってた……のか?」
リーファは呆気に取られ、ぽかんとなる。入隊以来、地道に仕事を頑張ってきたのは確かだが、華々しい活躍というほどの事はしていない。紅一点として知られてはいるが、仕事の成果については部外者の興味を引くほどではない筈だ。
少なくとも本人は、そう思っていたのだが。
案の定、ディナルはフンと鼻を鳴らして椅子にふんぞり返った。
「貴様がじゃない、貴様の背後にいる御方が、だ。警備隊員として云々というのでなく、貴族連中はそれが気になってしょうがないから、貴様の動きにも目を光らせとる。くそ忌々しい馬鹿どもが、よく見りゃ注目に値する奴ではないと分かりそうなもんだがな!」
いつもの調子に戻った隊長に、リーファは安心と倦厭と不満のあいまった複雑な苦笑を浮かべる。まったくこの熊親父は、いつまで経っても軟化する気配がない。
「まあ、それならともかく、私は動くなということですね。実は相談に来たのは、私ではなくジェイムに出て貰いたい件でして」
「なに?」
「おっしゃる通り、私が動くと背後の影がちらつきます。ですから、あくまで警備隊の事務的な確認として、ジェイムをモルフィス侯爵家に行かせて欲しいんですよ」
「何の確認だ」
ディナルの眉間がどんどん険しくなる。リーファは一呼吸の間だけ考え、結局すべて正直に話すことに決めた。言いくるめて許可を貰うことも出来るだろうが、せっかく地道に築いたなけなしの信用を損なうのは、後々を考えると下策である。誠実さは時に一番の武器にもなると言うではないか。
「前侯爵夫人が無事かどうか、です」
リーファは鋭くささやき、いっそう渋い顔になったディナルに反論の隙を与えず、立て板に水の勢いで説明を始めた。
「葬儀の後、夫人に対する面会はすべて断られています。悲しみに打ちひしがれているから、というもっともらしい理由でね。昨日私が伯爵家に呼ばれたのは、実家の妹でさえ拒まれたのは流石におかしいという相談だったんですよ。軟禁されているのではないかと、強く心配されています。ですから、せめて安否を確かめるぐらいはした方が良いと考えたんです」
「どうやって、だ? お得意のこそ泥の手で行くのか」
ディナルが厭味をくれたが、リーファはそれを受け流した。ここで挑発に乗ったら、怒鳴られて追い出されて終わりだ。
「正攻法で行きます。ジェイムにヘレナを連れて行ってもらい、葬儀屋の話を聞いてレウス殿の死に疑問が生じたので最期を看取った夫人に質問したい、という理由で面会を要請したらどうでしょうか」
「おい待て、何を考えとる。下手なことを言うと名誉毀損で……」
「ええ、だから彼らもごねて騒ぎを大きくはしないでしょう。そうでなくとも、乗合馬車の件でアリオ=ヴェーゼの立場は怪しくなってます」
「むぅ」
唸って考え込んだディナルに、リーファはさらに畳み掛けた。
「もし本当に、他人の前に出せないほど夫人が錯乱しているのなら、それこそ辺境伯やミナ嬢の助けが必要です。ですがそうではなく遺産を巡ってもめているのなら、侯爵家の跡取りは今、かなり切羽詰まっているでしょう。何しろ今日明日にも、遺言状が届いてしまう。その前に思い切ったことをやらかさないよう、警備隊が注視していることを知らせておきたいんですよ」
そこまで言い、彼女はひとつ深呼吸して背筋を伸ばした。
「王都にいる限り、貴族も庶民も、警備隊にとっては同じです。誰かが危険に晒されているなら助けるし、犯罪をたくらむ者がいるならそれをくじくのが警備隊の役目でしょう。お願いします、隊長」
「…………」
これだけ言ってもまだ、ディナルは首を縦に振らない。リーファは切り札を出した。
「頼れる夫を失った若い未亡人がドラ息子の食い物にされるのを、黙って見てるんですか」
実際は二人の息子について何を知っているわけでもないのだか、この決め付けは効果があった。女は弱いものであり、大人しく家庭にあって守られているべき、と考えているディナルにとっては見過ごせない罪悪だろう――との読みは的中したようだ。彼はぎゅっと目を瞑って眉間を揉んでから、ため息をついて小さくうなずいた。
「安否を確認するだけだぞ。余計な波風は立てるな」
「ありがとうございます!」
うっかりディナルに抱きつきそうな勢いで礼を言い、リーファは勇んで隊長室を飛び出した。
次なる難関は、使命を託す相手である。部屋に入るとリーファは挨拶も省いて、ジェイムに侯爵家への訪問作戦を説明した。
「頼むよ、この通りっ。ジェイム様!!」
両手を合わせて拝むリーファを、崇め奉られた当人は極めて不機嫌な顔で睨みつける。
「なんで僕が」
短い返事には、限界まで濃度を高めた苦味渋味エグ味がこれでもかと詰まっている。リーファは更に頭を低くした。
「オレが行ったら警戒されるのは目に見えてるだろ、王城の関係者なんだからさー。本っ当、頼む、お願いします! 引き受けてくれたらお礼に無花果のタルトとか、せしめて来るから!」
誰から、とは言うまでもない。リーファにそんなつもりはないのだろうが、暗に国王陛下という圧力をかけられて、ジェイムは余計にこめかみをひきつらせた。
しかし実際、リーファが本部に週の半分来るようになって以来、たまにこっそり持ち込まれる菓子は、一度食べたら夢に見て枕をヨダレで汚すぐらいの絶品である。現に今も、聞いただけでジェイムの口には唾が湧いてきた。もちろんそんな気配は、微塵も悟らせはしないが。
彼はぐらつく内心を隠すため極端に渋い顔を作り、厭味なため息をついた。
「……そう上手く行くとは思えないけどね。ただ心証を悪くするだけに終わるんじゃないの」
「大丈夫、元々お貴族様の心証なんて悪いもんだし!」
「せめて脳みそ通してから発言してくれないか」
「うぐっ」
ジェイムは容赦ない一撃をくれたが、それでも最終的には引き受けてくれた。そもそも隊長のお許しがあるとなったら、断れる道理も無い。とは言え、「成果は保証しないよ」と釘を刺すことは忘れなかったが。
ヘレナにも事情と作戦を説明し、二人を送り出したリーファはとりあえず一安心して、机に向かうと書類の整理にとりかかった。じってとしていられる気分ではないのだが、留守番が必要だから仕方ない。名目上、室長はディナルが兼任しているが、彼は報告書を読むだけだ。
あれこれ書類を分類しまとめつつ、手引書にも記すべき事柄があれば書き写す。遺留品の記録に気になる点があれば、壁にびっしり並んだ抽斗を探して確認して。
そんな作業に集中していたところ、不意に清涼な香りが鼻をくすぐり、リーファはくしゃみをした。
振り返ると案の定、戸口にセルノが立っていた。足音を立てずに階段を上がってきたようだが、相変わらず薄荷の香りを振りまいているのでは、気配を消しても無意味だ。
「そっちで何かありましたか、班長」
「ご挨拶だな。部下の様子をわざわざ見に来てやったのに、もうちょっと嬉しそうな顔をしたらどうだ」
「何事もなきゃ、忙しい班長が持ち場を離れてこっちまで来るとは思えませんので。そんな状況は喜べませんね」
リーファは減らず口を返し、書類を揃えて置くと立ち上がった。セルノが無言で突き出した紙を受け取り、ああと気付く。彼女が書いた報告書だが、不明な点があったので確認を取りに来たらしい。
書き込まれた質問にリーファが答えを添え、インクを乾かしている間、セルノは室内をぶらぶら見回っていた。
「やはりこっちの方が設備が良いな。広場に面した二階とは贅沢なものじゃないか、居心地が良さそうだ」
「……」
うっかり呻きを漏らしかけ、リーファは辛うじてそれを飲み込んだ。おかげで酷い顔になってしまい、しかも振り返ったセルノに目撃されてしまった。
「なんて顔をするんだ、失敬極まりないな君は。上司と離れていたいのが本心であっても、露骨に顔に出すものじゃないぞ」
「いや、その、そういう意味じゃ……えーと。班長に分析室は似合いませんよ。爽やかな香りとは縁遠い部署ですから」
死臭消しの役には立つかも知れないが、こんな状態で検死などされたら、何か遺体から特殊な匂いがしていても気付けないではないか。
遠回しの牽制に対し、意外にもセルノは言い返さなかった。肩を竦めただけで、曖昧な表情のまま顔を背ける。どうやらあまり、この香りについては突っ込まれたくないらしい。
何か理由があるのかな、とリーファは小首を傾げたが、詮索するのはやめておいた。ろくな話になりそうにない。
(しっかし、旧都ってとこは、警備隊員なんかが香水使ってても違和感ないぐらい、洒落た街なのかねぇ)
胡散臭げにセルノを見やり、次いでリーファは今更ながら彼の前任地を思い出して声を上げた。
「あっ! そうだ班長、ラウロにいた頃、西方人の噂を聞きませんでしたか?」
「君のことか?」
「いえ、そうじゃなくて。カリーアの司祭様なんですが」
リーファは言って、ザフィールのことを説明した。いつ頃ラウロに入ったのかは分からないが、しばらく交易商の店に滞在していたのなら、領主はともかく警備隊の目にはつきそうなものだ。
話を聞いたセルノはちょっと考え、首を振った。
「いや、知らないな。ラウロと一口に言っても広いし、そのシサイ様とやらが身元を隠そうとしていたのなら、地区担当の警備隊でも気付いていなかった可能性はある。隊商と一緒に街に入ったのなら、城門でもひっかからなかっただろう。私と入れ違いになったかも知れないしな」
セルノがこの王都に移ってきたのは、およそ一年前だ。リーファはふむと唸って首を捻った。ザフィールの話では、ラウロでは通訳の必要がなかったし大神殿を見たかったから、という理由で交易商人と別れている。ということは、あまり長くはラウロにいなかったのだろう。
「もしも、ですけどね。もし、班長がラウロにいた頃、西方人が街に滞在していると知ったら、誰かに教えますか。その……領主様、とか」
「私がラウロス公に、か? まさか。それは隊長の仕事だ」
セルノはわざとらしくとぼけた後で、さらりと言い足した。胡散臭い異国人がいれば、それは必ず領主の耳に入るのだ、と。リーファは頭痛をおぼえて眉間を揉んだ。
(いくら司祭様が、領主の“招待”を受けたくなかったとしても、警備隊に全く知られず滞在するのは難しいはずだ。貧民街に潜入したのならともかく、まともな商人に通訳として同行していたのなら、どこかから噂が漏れる。……公爵は気が付いていて、わざと泳がせてたのか?)
だとしたら、ラウロからモラーファまでの馬車にいたという“片手だけの男”も、怪しくなってくる。
リーファが難しい顔で考え込んでいると、セルノが見透かすような目をして言った。
「ラウロは古い街だ。悪党も、伝統のある一味から新参者まで、あらゆる勢力が複雑に絡み合っている。そういう場所で治安を保つのは容易じゃない。だったらどうするか?――利用するのさ。持ちつ持たれつ、というわけだ。いかに君が元盗人で今は国王陛下のお気に入りでも、関るとろくなことにならないぞ」
「別に、乗合馬車の営業所を片っ端から家捜しするつもりはありませんよ。ラウロまで鞄ひとつを探しに行くわけにもいかないし、第一そこはもうシンハが手を打ったって言ってるし」
リーファは半ば独り言のようなぼやきで答える。しがない庶民が首を突っ込める世界じゃないのは分かってますよ、と不貞腐れた彼女に、セルノは小さく鼻を鳴らした。
「分かっているなら、頭を切り替えて自分の仕事をしたまえ。報告書に手抜かりがあるようでは、よその街にまであれこれ気を回すなど身の程知らずとしか言いようがないぞ」
「……仰せの通りです。以後注意します」
むっつりと陰鬱にリーファが唸ると、セルノは皮肉たっぷりに笑みを浮かべ、リーファの額を指で弾いた。
「素直なのは良いことだ。叔父上が褒めるだけはある」
「――っっ!! な、何言っ……、ど、誰からっ」
途端にリーファはかあっと真っ赤になり、詰め寄りながら怪しげな呂律で質す。だがセルノはおどけた仕草でそれをかわし、無闇に爽やかな笑い声を残して素早く逃げ去ってしまった。
思いも寄らない側面攻撃にリーファは赤面したまま立ち尽くし、
「おっ……おのれぇぇっ……」
無人の部屋で一人呻いて、机に拳を振り下ろしたのだった。