五章 視点の転回 (2)
一方その頃、リーファは城に駆け戻っていた。
門をくぐり、広い前庭の縁をかすめるように横切って、礼拝堂へ向かう。正面ではなく裏手の神官居住棟へ回って、体当たりせんばかりの勢いで扉を叩いた。
返事を待たずに中へ飛び込むと、キュクス神官とアラクセスが共に驚いた顔で振り返った。
「どうしたんだね、リーファ」
「父さん、眠り薬を飲み食いじゃなく摂らせる方法、分かった?」
前置きなしに訊ねたリーファに、アラクセスが目をしばたき、返答に詰まる。代わってキュクスが説明してくれた。
「ちょうど話していたところです。ケシの汁を乾燥させたものなら、香のように焚いて煙を吸うことでも、眠気を催し感覚を鈍らせる効果がありますな」
やはり、とリーファが納得したところで、アラクセスが口を挟む。
「そう、それで思い出したが、私が読んだのも似たような記述だったよ。その本では、咳止めの一処方として“飲煙方”が紹介されていたが、同時に眠りを誘うので慎重に用いるように書かれていたかな」
「咳止め……ってことは、誰でもその薬は手に入れられる? キュクス神官、たとえば今、私が下さいって言ったら出してくれますか」
真顔で訊いたリーファに、キュクスはなんとも言えない複雑な顔をした。
「くれと言われてどうぞと渡せるものではありません。ケシ汁は激しい痛みを和らげたり、アラクセス殿がおっしゃった咳止め、あるいは下痢止めとしても使われますが、危険な薬ですから、神殿の管理地以外の場所で作ることはもちろん、売買も禁じられております」
「売買禁止なんですか? でも、薬師や治療師が神殿から買うことはあるんじゃ?」
「必要な場合は神殿の治療師が出向きますから、まずありませんな。やむをえない事情があり、かつ間違いなく信用の置ける買い手であれば、例外的に売らなくもないようですが。しかし高価ですぞ」
言われてリーファは唸り、考え込んだ。
司祭の話を聞いて思い当たった、『扱いに専門知識を要する高価な薬を使える』犯人、それは貴族であった。大商人でもなく、薬師や学者の類でもない。ケシ栽培を管理する神官が噛んでいる可能性もなくはないが、自分がやりましたと宣言するようなものだから、普通はしないだろう。
貴族であれば、知識と経済力に加えて人脈もある。薬を最初は所持していなくとも購入する伝手はあろうし、それを隠しておけるだけの交渉術や、他者に対する強みを持ってもいる。
そして目的は小金ではなく、自家の領地に何かしら利益・不利益をもたらす情報や物品の筈。見るからに貧乏であっても、異国人が道中せっせと何やら書き留めているとなったら、鞄の中身を検めたくなるのが統治者の思考だろう。
まさか後で持ち主が行き倒れかけ、王城に保護されるとは予想外だったろうが、そうと分かれば盗んだものをこっそり返して、火の粉がかからないようにするに違いない。だからシンハは、探すまでもなく出てくるかも、と言ったのだ。
今のところ最も怪しいのは、乗合馬車事業を監督しているというアリオ=ヴェーゼである。しかし前提となる眠り薬が売買禁止となると、さて。
(モラーファの神殿は、レウスさんが神官長に遺言状を預けたぐらいだから、きっとかなりカタいんだろうな。となると……)
購入資金はあっても、相手を納得させられる“事情”を捻り出せそうにない。下手なことを言えば露見してしまう。買わずに済ませようと思うなら、盗むか自作するかだ。
「神殿に内緒で作ることは出来ますか。それとも、作り方やケシの種は門外不出?」
「……粗悪なものであれば、素人でも作れます。残念なことですが。ケシはそもそも昔から、熟した種を食べるために各地で広く栽培されてきましたからな。ただし、売って儲けの出る品質と量を作ろうと思ったら、一面のケシ畑に大勢の人手と、精製の器具や技術をもつ人材を揃えねばなりません。秘密裏に、というのはほぼ不可能でしょうな」
「少しだけ作って自分達で使うのは、出来ない話じゃない。そういうことですね」
リーファが念を押すと、キュクスは陰鬱な表情でうなずいた。横からアラクセスが首を傾げつつ言う。
「どうやら、犯人の目星がついたようだね? 魔術ではなかったということかい」
「うん、魔術であれこれするより、やっぱり薬が確実だろう、って話でさ。吸い込ませるとかこっそりどっかに貼りつけるとか、そんな方法で効果があるなら、飲ませなくてもいいわけだし。ただ、そういう薬は高いだろう、って司祭様がおっしゃって……」
そこまで言って、リーファはおっと、と口をつぐんだ。これでは暗に、黒幕が貴族だと示唆するも同然だ。高価な薬を購入できる資金があるか、土地と人手と器材を揃えかつ秘密を守らせることの出来る人物、となれば必然的に層が限られる。
まだ何の証拠も掴んでいないのに、軽々しいことを言うべきではない。そう考えて黙ったリーファに、キュクスがふむとうなずいた。
「厄介な相手、というわけですな。そういうことでしたら、乾燥末の実物と、ケシの図版をお見せしましょう。薬になるケシと、観賞用あるいは種子を食用にするため栽培されるケシは、見分けのつく相違がありますのでな。ただ、今の時期ですと、ちょうど種を蒔いたばかりでしょうが……一部を魔術で育成すれば判別できましょう」
淡々と言いながら、彼はベルトに提げた数本の鍵を手繰り、奥まった所に造り付けられている戸棚を開けた。しばらくごそごそやって、少量の黒っぽい塊と一冊の書物を取り出し、テーブルに広げる。
「こちらがケシ汁を乾燥させたものです。そして……これが図版」
言いながら頁をめくり、ケシの花が描かれた箇所を示す。リーファは礼を言って、じっくりと観察した。もしこの黒っぽい塊が見付かったら、動かぬ証拠となるだろう。
見分け方や、栽培から採取・精製までに必要となる器材を頭に入れて、リーファは勢い良く立ち上がった。
「ありがとうございました、キュクス神官。また後日ご意見を伺いに来るかも知れませんが、その時はご協力よろしくお願いします。父さんも、ありがとう。おかげで助かったよ」
「私は何の役にも立っていないような気がするがね」
苦笑したアラクセスに、リーファは本気で驚いて目を丸くした。
「なに言ってるんだよ、父さんが覚えててくれたから、今オレがここにいるんじゃないか!」
反論してから、もう一度、ありがとう、と繰り返してぎゅっと抱きつく。それから彼女は、慌しく礼拝堂を後にした。
再び庭を走って、今度は館に駆け込むと、階段を一段飛ばしで駆け上り、走っているのと変わらないぐらいの大股歩きで国王の執務室へ向かう。確かめたいことがあった。
――が、手前でロトに遮られてしまった。
「待った、リー。今は駄目だよ」
廊下で通せんぼをされ、リーファは渋面になった。執務室の扉は閉ざされている。
「厄介な客?」
リーファが小声でひそっと問うと、ロトは首を振り、彼女を控え室の方へ連れて行った。
「頭を冷やす時間をくれ、って言われてね。僕も同感だから退散した」
「喧嘩したのか!?」
驚きのあまり、思わず大声になる。リーファが慌てて口を押さえると、ロトは苦笑をこぼした。
「違うよ。まぁ、いつも僕が一方的に文句を言ってる節があるのは認めるけど。……モルフィス侯爵家にやった使いが、追い返されたんだ」
「えっ」
「もちろん、昨日葬儀が済んだばかりだから、こちらも不躾ではあるんだけどね。でも、爵位継承の承認だとか、色々進めなければならない事もあるし、夫人……じゃないか、前侯爵夫人の意向も確かめないといけないから。それで、短時間でいいから訪問させて欲しい、って使いをね、出したんだけど」
立場で言えば、彼らを王城に呼びつけるのが当たり前。王がシンハでなければそうしていただろう。だが当主を亡くしたばかりの親族に気を遣って、こちらから出向く、と申し出たのである。結果は拒絶であったのだが。
「追い返された、って……来るな、って言われたのかい?」
「そんな所だね。昨日の今日で屋敷も取り散らかっているし、国王陛下をお迎えできる状態にない、落ち着き次第すぐにディノス殿が登城するから待ってくれ、とまぁ、やんわり断られた。それだけなら仕方ないと諦めるんだけど、付け足された部分がね」
そこで一旦ロトは言葉を切り、難しそうな表情で小さく首を振った。
「とりわけ前侯爵夫人は非常に深い悲しみに沈んでおり、一切誰とも会いたくないと言っている、――だそうだ」
複雑な声音で伝えられた内容に、リーファもまた眉を寄せて不可解げに唸る。
表面だけを捉えるなら、不自然ではない。これが全く自分にかかわりのない人々の間での出来事であったなら、リーファも「ふうん」で済ませただろう言伝だ。しかし、何回かマリーシェラと会って話した身には、どうにも噛み合わない印象が残った。
「わざわざ言ってきたのかい、それ」
とりわけ、非常に、一切誰とも。そこまでしつこく強調されたら、嫌でも分かる。夫を亡くしたばかりの寡婦に厚かましく近寄るな、という警告だ。マリーシェラ本人から発せられた言葉とは思えない。案の定ロトは「うん」と肯定した。
「とても強く念を押すように言ったそうだよ。陛下は聞くなり『馬鹿な』と一蹴したけど、後で、感情的になって判断力が鈍っているかも知れないから頭を冷やす、って言われたんだ。それで、僕もそうする事にしたんだけど……やっぱり君もおかしいと感じたか」
ふむ、とロトが唸る。リーファはうなずき、改めて自分の記憶を辿ってみた。
「そりゃ確かに、実際にマリーシェラさんから『今はお会いしたくありません』とか言われちまったら、しょうがないかなとは思うよ。特にシンハに会うのは……その、色々複雑かも知れないし。でもさ、ロトもあの時、シンハと一緒に聞いてたろ? マリーシェラさんからの伝言。これ以上、庇ってもらわなくてもいい、っていうアレ」
「ああ、確かに聞いたよ」
「あの台詞は本人も、強がってるのは認める、って言ってたんだけどさ、でも……覚悟はしてるように見えたんだ。それにオレの勝手な想像だけど、やっぱりあの人、なんだかんだでレウスさんが一番大事だったんじゃないかなぁ。裏切りだとか後ろめたさを感じるような、そんな余地なんか全然ないぐらいに」
礼拝堂の前で交わした言葉が、晴れやかに笑ったマリーシェラの顔が、脳裏によみがえる。あの時確かに、彼女は自身にとって最愛の人物が誰であるか、はっきりと自覚したように見えた。
(オレがシンハをどう思ってるか、あの人は理解したみたいだった。その後で、ああ言ったってことは……あの人のレウスさんに対する想いは、オレと同じか、少なくとも良く似たものだってことだ。だったら、シンハにちょっと惹かれてたとしたって、それでぐらつくようなものじゃない)
シンハの方が罪悪感を抱くのなら分かる。だがマリーシェラは?
(絶対、とは言い切れないけど)
他人の気持ちを完全に理解するなど不可能だ。それに彼女の心には深い傷もある。
腕組みをしてつくづくと考え込み、リーファは結局、ため息をついて頭を振った。
「駄目だ、想像ばっかりで根拠に乏しいや。何にしろ落ち込んで悲しいのは本当だろうから、せめて二、三日待ってみたらどうかな」
「……そうだね。まだモラーファから神官長も到着していないし、焦ってごり押ししない方がいいかも知れない、か……」
ロトもいまいち煮え切らない口調ながら同意する。遺言状の開封に立ち会ってくれ、というレウスの遺志がある以上、その時には流石に向こうも断れないだろう。それまで猶予を与えて、家族で内々の相談をさせる方が、もめずに済むかも知れない。
あれこれ考えてリーファも黙り込んだ。
そうして二人共に口をつぐんだので、不意に室内が静寂に覆われる。そうなるとリーファは急に落ち着かなくなった。ほかに誰も居ない、入ってくる予定もない、控え室でロトと二人きり。並んで腰掛けたソファに少しだけ空いた隙間が、体温で暖まって感じられる。
(う……わ、わわわわ)
どうしよう。
考え耽っているロトの横顔を正視できず、しかし気になって仕方なくて、火照った顔に両手を当てつつちらちらと盗み見る。じきにロトが気配を察したか不審げに振り返って、
「……あ」
唐突に彼もまた二人きりの事実に気付いた様子で赤面した。
「な、なんだよっ、その反応はっ」
リーファは自分の事を棚に上げて、そっちが照れるからこっちまで恥ずかしくなるんだ、とばかりの声音で文句を言う。ロトは言い返さず、こほんと小さく咳払いして目を逸らした後、ゆっくりひとつ呼吸をして向き直り――片手をそっと、リーファの頬に添えた。
(うわっ、わ、わあぁぁぁ!?)
内心動転しすぎて大慌てしつつ、逆に体の方は緊張のあまり彫像と化してしまう。それでも、ゆっくりと顔が近付き、互いの息がかかるほどになると、彼女は自然に仰向いて相手を迎え……
――コトン。
かけたところで、扉の向こうで物音がして、二人は同時にぴたりと止まった。一瞬でその場の空気の質が変わる。二人は揃って胡乱げな顔になり、執務室に続く扉を睨んだ。
「あのさ、ロト。言いたくないけど、迂闊だったんじゃないかな」
「僕もそんな気がしてきたところだよ」
ロトは唸り、すっくと立ち上がるやつかつかと扉に歩み寄って、
「陛下!」
怒鳴るように呼びつつ勢い良く開け放った。
果たせるかな、中はもぬけのからである。開け放しの窓辺で揺れたカーテンが、何かに当たってさっきの音を立てたらしかった。
「――っっ、ああもう!!」
神々に訴えるかのように両手を天に掲げ、次いで怒り任せに振り下ろす。リーファを振り返った表情は、いつも通り、胃痛に苛まれる秘書官のものだった。
「まさか侯爵家に乗り込んでやしないだろうな」
「それはないだろ」
リーファは苦笑しつつ否定する。
「頭を冷やすって言ったくせに、頭に血が上ったまんまの行動はしねえって。内情を確かめたいと思ったんなら、オレかセレムか、こっそり調べられる奴に相談するさ。多分、厩の方だと思うね。賭けてもいい、今頃とっくに城壁の外を走ってるよ」
「それじゃ追いつけないじゃないか!」
「待ってりゃ帰って来るって。その間にロトも、ゆっくり休憩してたらいいじゃん」
悲鳴を上げたロトの肩をぽんぽんと叩き、リーファは同情的に慰めた。面白がっている風情なのは、隠しきれていなかったが。
「……そう言えば、そもそも君だって陛下に何か用があって来たんじゃなかったのかい」
ロトが恨めしげに言い、リーファは思い出して天を仰いだ。
「あー、そうだった。あいつに訊こうと思ったんだっけ」
馬車の盗人が貴族なら、盗品を波風立てずに取り返す方法に心当たりはあるのか。それとも、政治的に厄介なことになろうとも、明るみに出して裁きをつけたいのか。
「でもま、いいや。どうせあいつが帰って来ないとどうにもならないんだし、のんびり待つよ」
折角の機会だし、と小声で言い足して、リーファは悪戯っぽく笑うと、ロトの横に並んで肩をくっつけた。一呼吸ほどの戸惑いの後、ロトも笑みをこぼし、そっとリーファの背中に腕を回して抱き寄せる。
そのまま二人は何を話すでもなく、ただお互いの温もりを楽しんでいた。