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王都警備隊・4  作者: 風羽洸海
想いの証
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五章 視点の転回 (1)


 宿酔という名の重石を頭に載せたまま、リーファがもそもそ朝食を口に詰め込んでいると、扉を叩く音がした。一緒に食事をとっていたアラクセスが、怪訝な顔をしつつ「どうぞ」と答える。

 と、入ってきたのは意外にもザフィールだった。ロトが一緒なのは案内のためだろう。

「お早うございます、司祭様。どうされたんですか」

 慌ててリーファはパンを水で流し込み、立ち上がる。ザフィールはにこやかに一礼し、挨拶を返した。

「おハヨございマス、今日はちょと、お願いがあって来ました」

「私に、ですか?」

 それとも図書館司書の方にだろうか、とリーファは父親をちらっと見る。ザフィールが「ハイ」とうなずいた。

「魔法学院に、案内して欲しいのです。イトコさんがいらシゃると聞きました」

「それは、その……司祭様が魔術とかなんとかってのも平気なら、もちろんご案内します。今日すぐとはいきませんが」

「それが、今日これから、頼みたいんだ」

 ロトがやや恐縮そうに言ったので、リーファは不審顔になった。緊急に必要な理由が生じたのだろうか、と訝る彼女に、ロトは片手で拝むふりをして続けた。

「先に話しておくべきだったんだけど、色々あって忘れていたんだ。しばらく前に、アデン司祭から魔法学院訪問の段取りを頼まれてね。学院長やフィアナに予定の空きを調整して欲しいと言っておいたんだけど、それが突然、今日なら何とか、ってことになって。案内と通訳を頼めないかな。警備隊の方にはこっちから連絡しておくよ」

「えぇー?」

 流石にリーファは顔をしかめた。司祭を案内するのは喜んで引き受けたいのだが、自分の仕事をないがしろにされては気分が悪い。こちらにも都合があるし、いつでも予定変更できる程度の軽いものだと思われているのだとしたら、半日ぐらい説教したいところだ。

 ロトは再び「ごめん」と頭を下げ、今度は両手を合わせた。

「本当に悪かった。どうしても今朝、片付けなければならない件があるのなら、司祭様を案内だけして、一度本部に行ってやっつけてから、学院に戻ってくれるかい。僕が案内できたら良かったんだけど、侯爵の急逝で立て込んでいてね。それに、司祭様の用事は神学的な興味だけではなくて、鞄の盗難に関することでもあるから、出来れば君も一緒に聞きに行って欲しいんだ」

「……? あ、もしかして、乗合馬車で何か仕掛けられたかも、ってことか!」

 リーファはぽかんとしたものの、すぐに思い当たって表情を改めた。ザフィールも真顔でこくりとうなずく。

「そうでス。あれから頑張って思い出そうとしまシたが、やっぱり、街に近付いた辺りからぼんやり眠くなってしまって、何も覚えてナイです。モラーファからシエナまでは、ほとんど何も口にしてまセンし、馬車の人から食べ物を貰ってもいないです。だから、魔法ではないかと思うのですよ」

 なるほど、とリーファは納得してうなずく。そこへ、黙って聞いていたアラクセスが口を挟んだ。

「僭越ながら、私もお手伝いしようかね」

「えっ、父さんが?」

「リーと司祭様が学院に行っている間、私はキュクス神官に特殊な作用をする眠り薬か何かがないか、訊ねておくよ。昔読んだ書物のなかに、内服する以外の方法を記したものが確かあったと記憶しているんだがね……蔵書をひっくり返してもいいんだが、多分そうすると横道に逸れて本来の目的を忘れてしまうだろうから」

 言葉尻で苦笑したアラクセスに、ザフィールは面白そうな顔をしつつ「宜しくお願いしマス」と頭を下げた。

 そんなわけで、しばしの後、リーファはザフィールと連れ立って魔法学院の門をくぐっていた。

 相変わらず頭に重石が載っているので、ザフィールとの会話も途絶えがちだ。元気だったら、魔法学院について色々と知る限りの情報を聞かせたかったのだが。

 とは言えザフィールは事前にロトから一通りの説明は受けているようで、あれこれ質問するでもなく、大人しく後からついて来る。あちこち興味津々と見回してはいるが、それだけだ。

 受付で名を告げると、すぐに学院長の応接室に通された。

「久しぶりですね、リーファ」

 銀髪の学院長は例によって無駄に魅力たっぷりの上品な微笑で挨拶し、次いでザフィールに一礼した。

『ようこそ、お目にかかれて光栄です、アデン司祭。王立魔法学院の学院長を務めております、セレム=フラナンと申します。どうぞお見知りおきを』

 流暢なサジク語で自己紹介したセレムに、ザフィールは驚いて目を丸くした。

『これはご丁寧に。ザフィール=アデン、カリーア教会の司祭を務めております。この度はご多忙のなか、お時間を割いて頂きまことに恐縮です』

 両手を胸の前で合わせて聖職者の礼をしたザフィールに、リーファはちょっと目をしばたいた。怪しいエファーン語でなく丁寧なサジク語で話し、司祭らしいふるまいをするザフィールの姿は、彼女の胸に切ないものを呼び起こす。

 ふいと顔を背けると、室内にいたもう一人の人物と目が合った。おや、と思う間もなく、セレムが紹介する。

「アデン司祭、こちらがリーファの義従妹、フィアナです。彼女はサジク語が分かりませんので、エファーン語で失礼します」

「初めまシテ、宜しくお願いしまス」

 ザフィールがぺこりとそちらにも頭を下げる。フィアナは珍しくやや恥らう風情で礼を返した。

「フィアナ=イーラです。初めまして、司祭様」

 随分大きな猫を被ったものだ、とリーファは苦笑を噛み殺した。

(そうか、司祭様も父さんと雰囲気が似てるもんな)

 学究的で穏やかな雰囲気をまとい、物静かな男。フィアナが敬愛してやまない叔父ほどの年齢ではないだろうが、恐らくは三十代も半ば過ぎ。とくれば、フィアナがときめくのも驚くには当たらない。

 リーファとザフィールがソファに並んで腰掛けると、向かいにセレムとフィアナが座った。間にあるテーブルには、既に茶が用意されている。

「早速ですが、本題に入りましょう」

 客の二人が茶に口をつけるのを待ってから、セレムが切り出した。

「陛下から聞いたところでは、乗合馬車で盗難に遭われたとか。その際に魔術が使われたかどうか、意見を聞きたいという話でしたが」

「そうでス。私は魔法のこと、あまり知りません。人を眠らせる魔法があるのか、それをかけるには何か儀式が必要なのか、教えてください」

 ザフィールはそう答えてから、少し残念そうに言い添えた。

「こちらの神々と魔法とのかかわりなども、大変興味があるのデスが、それだけ時間はないですね。もし出来たら、いつか、学院の授業を聴かせて下さい」

「歓迎しますよ」

 セレムは社交辞令を越えた温かな返事をしてから、さて、と表情を改めた。

「人を眠らせる、という術そのものは確かに存在します。死と眠りの神ユヌの力を借りて行うもので、眠りの深さや時間も調節が可能ですが……実際には、どんな術であれ、行うには呪文を唱える必要がありますね。呪文は古代語ですから、もし馬車の中のように狭い空間で誰かがあなたに術をかけたとすれば、恐らく気付かれたでしょう。耳慣れない言語で話しかけてきた者や、独り言をつぶやいている人物がいましたか?」

「……イエ、多分、いなかったと思いまスね」

 ザフィールが難しい顔で記憶を掘り起こす。リーファは横から身を乗り出して訊いた。

「声を出さずに魔法を使うのって、無理なんですか?」

「まったく無声で、というのはかなり難しいですよ。神々にこちらの願いを聞いて頂かなくてはならないのですから、黙っていては届きません。たとえ声を出せない人物であっても、吐く息にあわせて口を動かし、言葉を形作る方法をとります。やむをえない場合は、言語の代わりとなる身振り……指文字を用いることも可能ですが、そうなると声に出すより格段に複雑で煩瑣な動きになります。非常に目立って怪しいことになりますし、成功よりも失敗する方が多いでしょうね」

「んじゃ、先に何かに魔法を詰めといて、それをこう……たとえば蓋を開けるとか、ぶつけて割るとかしたら術がかかる、とかいう細工は?」

 いつぞや、学院の生徒にその手で仕掛けられた記憶がよみがえる。フィアナも同じ事を思い出したらしく、眉を寄せた。

「理論上は可能だけれど、眠りの術はあの時みたいな“儀式”ではないから、相当な勉強と練習をしなければ、そんな道具は用意出来ないわ。もしそれほど腕の良い魔術師が関っているとなったら、もっと効率よく荒稼ぎしているでしょうし、必ずどこからか情報がこっちに回ってくる筈よ」

 フィアナの言葉に、おや、とザフィールが目をしばたいた。

「この国では、魔術師をみんな、見張っていまスか?」

「ロスキオンのような登録制度はありませんが」答えたのはセレムだった。「学院の卒業生のうち魔術師として独立した者とは、全員、定期的に連絡を取り合っています。それぞれの研究成果や新発見の発表・検証を行うのが一番の目的ですが、各地に存在する学院とは無縁の魔術使用者の実態把握にも努めているのですよ。この辺りでは魔術はまだ迷信と分離されていませんし、自己流で魔術を行う才能のある者もいれば、魔術ではなく単に神の加護によって異能を授かっただけの者もおり、それらが一緒くたにされていますからね」

「学院長サンは、レズリアの人ではないデスか」

「ええ、ロスキオンの出身です。まあ、それはさて置き……状況を伺った範囲で言えば、魔術ではない可能性の方が高いですね」

「魔法ではナイですか……」

 あれこれ考えた末に出した結論を否定され、ザフィールが目に見えて落胆する。セレムが不思議そうに問いかけた。

「カリーアには、意識を朦朧とさせたり眠らせたりする薬はないのですか? 気付かれないように飲ませる方法は何なりとあるでしょうし、口から摂らずとも効力を発揮する物もあるのでは?」

「あります、もちろん」

 ザフィールはふうっとため息をつき、困り顔で思案しつつ答えた。

「私もはじめ、何か薬を使われたと考えまシた。でも、そういう薬はとても高価でス。取り扱いも、専門の勉強をしないと駄目ですね。そんな薬を使える人が、貧乏な異国人の鞄を泥棒する必要、あるでしょうか?」

「それは……確かに」

 ふうむ、とセレムが唸り、リーファもはてなと首を捻って、

「――あっ!!」

 いきなり叫ぶや、弾かれたように立ち上がった。

 扱いに専門知識を要する高価な薬を使える泥棒――だから、だ。

(だから、金目当ての普通の盗人と同じように探しても、手がかりひとつ見付からなかったんだ!)

 ばらばらだった欠片が瞬く間に組み合わさり、ひとつの絵柄を描き出す。

(あの時シンハが、探すまでもなく出てくるかも、ってったのは、そういう事だったのか)

「どうシましたか?」

「姉さん、何か分かったの?」

 ザフィールとフィアナに呼びかけられ、リーファはハッと我に返る。見回すと、怪訝な顔の二人とは別に、どうやら同じ可能性に気付いたらしきセレムの厳しい表情が目に入った。慌ててリーファは、口から出任せに言い訳する。

「あっ……と、その、本部で片付けなきゃいけない用事があったんだ、大至急の!」

 いささか白々しくはあったが、言葉の内容はともかく、どうしたいかは的確に伝わった。セレムがうなずき、「行きなさい」と穏やかながらも強い口調で応じる。

「司祭様のことは引き受けます。学院をご案内して、お疲れにならない内に城までお送りしましょう。あなたは自分の仕事をして下さい」

「ありがとうございます!」

 リーファは頭を下げると、ザフィールとフィアナにも詫びてから、ドアを壊しそうな勢いで飛び出して行った。

 取り残されてぽかんとするザフィールとフィアナに、セレムは穏やかな声をかける。

「鞄のことは、彼女に任せておけば大丈夫でしょう。さて、私の方はこれから会議がありますので、申し訳ありませんが失礼します。フィアナ、後は頼みましたよ」

「あ……はい、喜んで」

 ぽろりと本音が転がり出て、おっと、とフィアナは口を押さえる。ザフィールの方はそれに気付かず、セレムに対して丁寧に頭を下げた。

「お忙しい中、ありがとうございまシタ。また機会があれば、色々とお話を聞かせて下さい」

「こちらこそ、是非お願いします。カリーアの方とお会いできる機会は滅多にありませんからね」

 では、とセレムが席を立ったのにあわせ、ザフィールとフィアナも立ち上がって部屋を辞した。


 廊下に出ると、フィアナはザフィールを促して一旦正面玄関へと戻った。

「こちらへどうぞ、司祭様。一般的な見学者向けのコースをご案内します。途中で何か気になることがあれば、いつでもご質問下さい。食堂や休憩室もありますので、お疲れになったらご遠慮なくおっしゃって下さいね」

 にこやかな笑顔は余所行きの極上品だ。ザフィールは目をしばたたき、はいとうなずいたものの、すぐに苦笑してしまった。

「フィアナさんはとても優秀と、リーファさんから聞きました。無知な客の相手は、迷惑ないでスか」

「まさか」

 ほとんど反射的に、フィアナは否定した。次いでそんな事を言われた理由を察し、小さく首を竦める。

「取り繕っても、お見通しですか。正直に言って、確かに、見学者の相手をしなければならないのは煩わしいです。今は庶務の人に任せられるようになりましたけど、昔は私や何人かの院生で案内していたので……先入観の塊みたいな人達も多くて、うんざりさせられました。でも」

 そこでフィアナは言葉を切り、今度は本物の笑みを広げた。

「司祭様はそういう困った“お客様”ではありませんから。喜んでご案内します」

「ありがとうございます。それでは宜しくお願いしまスね」

 ザフィールも安心したように微笑み、改めて一礼すると、フィアナの後について歩き出した。

 玄関で簡単な沿革の記された銅板を読み、講義室から各学部の実験棟を回りつつ、それぞれの学生が学ぶ内容、目指すものについて一通りの説明をする。

 ザフィールは静かな集中力でもって聞いていたが、学内を一巡したところで、すれ違う学生達の様子に目を留め、ふと首を傾げた。

「ここの人達は、バラバラですね」

「ばらばら……ですか?」

「まとまって移動していたり、似たような歳だったり……学院とはそういうものかと思ったデスが」

「ああ、司法学院ならそんな感じです。カリーアでも、そういう聖職者の学院があるんですか?」

「ええ。『神学校』といいまス。とても規律に厳しくて、皆、かたまって……かしこまって? 生活していまシたね」

 懐かしそうに言ったザフィールに、フィアナは笑みをこぼした。

「司祭様も真面目に勉強されていたんですね。この魔法学院は、そういう場ではないんです。入学時期も決まっていませんし、一人一人が学びたい事を決め、講義を選び、知識や技を修めて、もういいと思ったところで卒業していきますから」

 説明されて、ザフィールは「ほう」と驚きの声を上げた。学院という場所に、そのようなあり方が許されるとは予想外だったのだろう。

「では、皆が魔法使いになるわけではないですか」

「正式な知識と技を修めた者は“魔術師”と呼んでいます。この国では魔法使いと言うと、おとぎ話の登場人物と変わらない、色々ごっちゃになった存在ですから。その魔術師ですが、ええ、数は少ないですね。神々のお力を借りられる程度は、人の資質によって決まります。ですから、おとぎ話の魔法使いのように嵐を呼んだりしてみたくても、その資質が無ければいくら努力しても不可能なんです」

「なるほど。神に愛されているか否か、という違いでスか」

「そうとも言えますね。ですから学院にも、最初から知識だけ得るために入学する人が大勢います。ここでは神殿と協力して薬学の研究も行っていますから、既に神官としてお勤めの方や、将来神殿に入ろうと思う人、あるいは薬師や治療師になろうという人も来ます。……中には目的意識もなく、司法学院に入るのは難しいけれど、魔術が使えたら何かちょっと良い職に就けるんじゃないかと甘い夢を見て、ふらっと入学してくる子供もいますけどね」

 説明の途中でフィアナは何かを思い出したらしく、渋い顔になった。ザフィールは興味深げな表情になり、目顔で先を促す。フィアナは肩を竦め、座って一休みできる中庭のベンチにザフィールを誘いながら平静なふりを保って言った。

「個人的には、そういう浅はかな学生には簡単に魔術を教えるべきではないと思っています。今回のことは、たまたま魔術ではないようだという結論になりましたが……神々のお力を借りているのだという意識もなしに、魔術を便利な小手先の技と履き違え、己の欲の為に利用する愚かな半端者は実際にいて、学院のまともな魔術師や各地の警備隊を煩わせてくれるんです」

 態度は落ち着いていたが、声には隠しようのない苛立ちと嫌悪が現れていた。ザフィールは陽射しで温もった石のベンチに腰かけて、ふぅむ、と思案する。フィアナは隣に座って、すみません、と詫びた。

「お客様に聞かせることではありませんね。失礼しました」

「いえ、どんな事でも、私にとっては新鮮な知識でスよ。……フィアナさんは、とても賢いですね」

「……?」

 ザフィールの口調は穏やかだったが、何か含むところがありそうで、フィアナは謙遜も出来ずに妙な顔で瞬きする。ザフィールはちょっと微笑んで、小さくうなずいた。

「賢いから、馬鹿な人に腹が立つ、その気持ちは分かります。でも、あー……さきほど、人のシシツ、とおっしゃいまシタか。賢いのも愚かなのも、シシツではないですか?」

「愚か者は生まれつき愚かだから仕方がない、とおっしゃるんですか? どうしようもないから馬鹿の愚行を許してやれ、と?」

 途端にフィアナは嫌そうな顔をする。ザフィールは苦笑し、手振りで待ったをかけた。

「落ち着いて。私の言葉が下手で、すみまセン。ゆっくり聞いてくれますか? あー……そう、たとえば、リーファさん。彼女は、生まれはとても……良くないですが、今は違いますね」

「ええ、人並み以上に努力してきたからです。本当に長い間、何年も続けて」

「もちろん、そうでしょう。でも、元が真面目でなかたら、努力しようとすることも出来ない。違いますか? そして、カフィラ司祭に出会わなければ、やっぱり努力を始めることもなく、無知で愚かな泥棒のままだった、かもしれまセン」

 そこまで言って、ザフィールは考えをまとめるように瞑目した。深呼吸をひとつ、それから彼は静かに続けた。

「生まれつき、と、きっかけ。人には、ふたつのものが必要です。フィアナさん、人は皆、元々は愚かです。間違えるし、失敗する。思い上がり、傷付け合い、嘘をつく。もっと悪い方へ落ちるのも、良い方に上がるのも、そこには何かきっかけがあるのではないでスか。それも、一度転がったら終わりでなく、二回、三回、人生で何度もそういうきっかけが訪れる。……だから、今、腹の立つ愚か者でも、ずっとそうだと決めないでくだサイ」

「……おっしゃることは、分かりますけど……」

「私も、国を出る前は、とても馬鹿な子供でした。とてもとても、思い上がって、無知で、愚かでした」

 ザフィールは苦笑をこぼし、彼方の故郷を思うまなざしを空へ向けた。

「国を出て、七年ぐらいなります。その間に、知らなかった事をたくさん経験して、それまで持っていたモノをたくさん失って、……ようやく少し、賢くなれまシタね。あなたを怒らせない程度には。でも、まだまだ私は、愚かでス。だからあんまり厳しくされると、ちょと辛いですね」

 言葉尻でおどけ、彼は胸が痛いとばかり手を当てる。フィアナはつられて失笑し、咳払いしてごまかした。

「本当に愚かな人は、自覚なんてありません。賢しらぶって己は愚かだと言いはしても、何がどう愚かなのか理解していなければ、それが言動に出ますしね。司祭様は違います。それにしても……七年、ですか」

 長い旅ですね、と言いかけて、フィアナは不意に眉を寄せた。

 何か、と訝しげになったザフィールに、フィアナは突然、不審な顔になって問うた。

「失礼ですが、司祭様、お幾つですか? 七年前が“子供”だった、というのは……言葉の綾ですよね?」

「あァ、えーと……子供、というか、若い? オサナイ? そう言いたかったでス。国を出た時は、まだ二十歳でしたから」

「っ!? じゃあ、今は」

 あからさまにフィアナがぎょっとしたので、ザフィールは恥ずかしそうに首を竦めた。

「今年の誕生日は過ぎたので、二十八です。ああ、そんな顔をされると、さすがに悲しい……まあ、色々苦労したので、随分、落ちぶれ……面やつれ? で、歳とったみたいのは、自覚ありますが。故郷の仲間も、きっと今の私は誰だか分かりまセンね」

「そ……そんな……」

 フィアナは打ちのめされた風情でまじまじとザフィールを見つめた。

 痩せた顔には苦労の痕が刻まれ、笑うと目尻や口元に皺が寄る。手の指も骨ばって皺が多い。どう見ても、学院長より年下とは思えない。なのに。

「二十代……にじゅう……」

 がっくりうなだれて頭を抱えたフィアナに、ザフィールは目をぱちくりさせながら、何とも言えずにただ首を傾げていたのだった。


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