三章 王家と侯爵家と伯爵家 (3)
翌日、まだ体力の戻らないザフィールは城に残して、リーファ達はモルフィス侯爵の屋敷を訪ねることになった。達、というのは、シンハとロトまでが一緒、ということである。
「何事かね、物々しい」
出迎えた当主レウスが呆れ顔になったのも、さもありなん。リーファは今更ながら、国王と秘書官の二人に、警備隊員などがくっついていることの不自然さを痛感し、身の置き所がなくなってそわそわした。
「使いの者から、もったいなくも陛下御自らお越しあそばすと聞いた時にも、また急な事をと呆れたが。まったく……その、自分勝手に物事を進める癖はどうにかならんのか? 犬でも『待て』ぐらいは覚えるぞ」
園遊会と違って周囲に他家の耳がないので、レウスも言いたい放題である。シンハは苦笑いで挨拶し、それから、落ち着かない様子のリーファを振り返って言った。
「侯爵領内のことについては、俺とロトで聞いておく。おまえは夫人のところへ行ってくれ、丁度おまえに会いたがっているそうだ」
オレに? と思わず聞き返しかけ、危ういところでそれを飲み込む。レウスが国王に対して遠慮しないものだから、自分までつられていつもの調子になってしまいそうだ。気を引き締めて、リーファは堅苦しさも最大級に一礼した。
「御意、承りました」
「……そこまでしなくていい」
「はて何のことでしょう」
リーファは白々しくとぼけ、レウスがにやりとしたのを見届けてから、召使の案内で夫人の部屋へと向かった。
「リーファ!!」
ドアを開けるなり駆け寄って飛びつかれ、予期せぬ歓迎にリーファはウッとうめいた。視線の先では侯爵夫人が「あらあら」と微笑んでいる。リーファのみぞおちに一撃くらわしたのは、伯爵令嬢だった。
「お久しぶりです、ミナ様」
「本当よ、いつ以来だと思ってるの? ちっとも家に来てくれないんだもの!」
つい先日噂をしたばかりのミナ=リュードが、相変わらず弾けんばかりの元気良さで抗議する。全身から発散する活発な生気が、光の粉になって見えそうなほどだ。
「お父様ばっかりずるいと思っていたら、今度はお姉様まで抜け駆けして! 今日はいっっぱい、おしゃべりするのよ! でなきゃ帰さないから!」
「ミナ、そんな風にあれこれおねだりするなんて、はしたないわよ。それに、お客様にはまず、ご挨拶から、でしょう?」
「はぁい」
たしなめられてミナは口を尖らせたが、反抗はせず、スカートの裾をつまんでちょんとお辞儀をした。
「ようこそいらっしゃいませ、リーファ=イーラ様。ご機嫌麗しゅう」
「……そこまでしなくていいです」
最前言われた台詞を自分でつぶやき、リーファは苦笑しつつ礼を返した。
「ミナ様も、ご健勝のようで何よりです。侯爵夫人、今日はお時間を割いて頂きありがとうございます」
「こちらこそ。どうぞゆっくりお寛ぎ下さいまし」
夫人も優雅にお辞儀をすると、途端に妹と良く似た、悪戯っぽい笑顔になった。
「本当はあなたはお仕事でいらしたんでしょうけれど、ちょうどミナが来る日と重なったものだから、是非にとお願いして、お招きしたの。ご迷惑でしょうに、ごめんなさいね」
「いえ、どうせ侯爵に色々とお訊きするのは、あの二人の方が適任ですから。そちらの領内のことは、王都警備隊の管轄外ですしね。えっと……園遊会の後、お変わりありませんか?」
「もうっ、リー姉さまとは一昨日会ったばかりでしょ?」
ミナが割り込む。その呼び名にリーファは驚いて夫人を見たが、彼女は微笑んで小さく首を振った。後で、ということらしい。ミナはそれを強引に無視して言い募る。
「あなたは色々“お変わり”あったみたいなのに、私だけ知らないのよ! ねえ、教えて、警備隊では今、何をやっているの? どうして園遊会に出ることになったの? いよいよ陛下のお妃様になるの?」
思わずリーファはがくりと膝が抜けそうになったが、なんとか堪えて笑みを作った。そして、ミナの旺盛な好奇心に応えるべく、ひとつひとつ丁寧に話をしていく。
いつの間にか用意されていた茶を飲み、焼き菓子をつまみつつひたすらしゃべり、ポットが空になってお代わりまで持って来られて。ようやくミナが落ち着くと、それまであまり口を挟まずにいた夫人が、やんわりと時間切れを告げた。
「ミナ、せっかくこちらに来たのだから、お父様に持って帰るお花を、庭で選んでいらっしゃいな」
「もうそんな時間?……はぁい。ねえリーファ、今度は私の家にも来てね! 一緒に屋根に登りましょう」
「まだそんな事やってるんですか!?」
リーファが驚き呆れると、ミナはぺろっと舌を出し、姉に叱られる前にと、走って部屋から出て行った。召使を呼んで、花を選ぶのを手伝って、と快活に頼む声が、遠ざかってゆく。
「元気なのよね、ミナは」
侯爵夫人が面白そうに言ったので、リーファは振り返って苦笑した。
「伯爵家のお嬢様にして、ちょっと元気すぎますね。……多少、芝居も入っているようですが」
「芝居?」
「ただの想像です。でも、お二人はかなり歳が離れてらっしゃいますから。彼女は昔からずっと、“小さな子”の役回りだったんじゃありませんか? 元気で明るく、大人の心配事から自由な、可愛い子。実際ご令嬢は元気な性質だと思いますが、伯爵やまわりの者が、そうあって欲しいと願っているのを感じ取り、演じているのかも知れませんよ」
「……そう、かも知れないわね。やっぱり、外部からの目の方が、物事を正しく捉えるものなのかしら」
つぶやいた夫人の顔に、翳が落ちる。リーファは急いで頭を下げた。
「すみません、差し出た事を申しました」
「いいえ、気にしないで。どのみち、あなたには知ってもらいたいと思っていたから。あの子があなたに懐くのは、昔の私と同じ呼び名だから、というのもあるでしょうけど……」
「リー姉様、って呼ばれてましたね」
「ええ。長い名前だから」
夫人は懐かしそうに笑い、次いでまた、沈んだ表情になった。
「もしかしたら、あの子にも、自由への憧れがあるのかも知れないわね。私があの子に、伯爵家を押し付けて逃げてしまったから」
「…………」
何とも言えずにリーファが沈黙すると、夫人は穏やかに彼女を促して、ソファに腰を下ろした。
「私とミナは、母親が違うの。私の母は、私を産んだ後、あまり経たずに亡くなったそうよ。お父様はそれで長い間お独りだったのだけれど、ふさぎこまれたお父様を慰め、励ましたのが、母の妹だったの。実際、私も物心付いた頃には、叔母様がお母様だと思い込んでいたわ。私が十を数えてしばらくして、やっと心の整理がついたのか、お父様と叔母様が結婚して……数年して、ミナが」
そこまで言い、夫人は両手を膝の上で握り締めた。リーファは余計な事を言わず、黙って続きを待つ。話し難い内容のようだが、それでも彼女は聞いてもらいたがっているのだ。
「その出産で、母が……また、亡くなったの。私、その場に居合わせてしまって。本来なら私があの部屋に入る筈はなかったのに、声と騒ぎで、私……じっと待っていられなくなって。大混乱だったから、誰も私を止めなかった」
夫人はゆっくりひとつ息を吸い、ぐっと顎を引いて眉を寄せた。
「凄惨、の一言だったわ。血の海だった。部屋に向かう前、私は、赤ちゃんが無事に生まれますように、と祈ったけれど……お母様のことも祈れば良かった。その後しばらく、自分で言うのもなんだけれど、私はおかしくなってしまったの。ようやく少しまともになったかと思った頃に、初潮が来て」
つぶやくように言って、彼女は小さく首を振った。拳に握った手を開き、また握って、また開いて。
「……とにかく、酷かった。自分には、夫を迎える義務があると理解できる歳だったのも、災いしたわね。惨憺たる毎日で……本当に終わりが来るなんて、とても信じられなかったけれど、でも。お父様とレウス様が、終わらせて下さったの」
夫人は顔を上げ、リーファを振り向いて、こわばった笑みを見せた。
「このまま未婚で家に引きこもっていても、伯爵家の長子である以上、何らかの働きかけからは逃げられない。だから、決して子供を作らないことを条件に、レウス様が妻に迎えて下ったのよ。信じられない話でしょう?」
「……辛い経験をされたんですね」
痛ましげに言ったリーファに、夫人は「ええ」と短く応じてうなずいただけで、それ以上は語らない。
どうすれば良かったのか、誰のせいだったのか。己の弱さが悪いのか、少女を止めなかった者の落ち度か、それとも不運に懲りず後妻を迎えた伯爵のせいか。そんなことは、苦しい日々の間にさんざん考えたに違いない。今はもう、それは――解決したかしないかはともかく――問題ではなくなっているのだろう。
リーファは充分な間を置いてから、そっと口を開いた。
「侯爵は、良い方みたいですね」
「ええ!」
今度は夫人の答えも明るかった。重い雲の間から陽が射すように、ぱっと笑みが輝く。
「レウス様は素敵な方よ。まあ、あの、つまり……本当の夫婦ではないのだけれど、でも、私の事をちゃんと侯爵夫人として扱って下さって、館にいても気後れせずに済むよう守って下さったわ。先の奥方様と引き比べるようなことは一度もおっしゃらないし」
言葉はただ恩義を並べているが、声にも表情にも、それを越えた敬慕と親愛の情が溢れている。リーファは妙に照れ臭くなって、わずかに話の行方を逸らせた。
「お父上の辺境伯とは、古いご友人だとか?」
「何度も肩を並べて戦ったんですって。お父様やレウス様がお若い頃は、よく東から攻められて、小さいけれども頻繁に戦があったそうだから。それでレウス様は武人としての経歴を買われて、王都でしばらく国王軍の士官を務めていらしたのだけど、その間にシンハ様ともお知り合いになったみたい」
言って、夫人はくすくす笑った。リーファもつられてにやりとする。
「随分しごかれたみたいですね。シンハはレウス様が苦手みたいですよ」
可笑しそうに暴露してから、国王陛下を呼び捨てにしたのはまずかったかな、と小首を傾げる。侯爵には敬称をつけたのに。夫人はちょっと目をしばたいてから、思い当たったように言った。
「言葉遣いのことなら、気にしなくていいのよ? 流石に、私のことも呼び捨てにして、と言っても無理でしょうけど……」
「それはちょっと」
リーファは苦笑いで応じてから、ふと気付いて問うた。
「マリーシェラ、って、変わった名前ですね。レズリアの名前は、あまり伸ばしませんよね?」
姓には長音が多いものの、名前の方は抑揚に欠けると言おうか、いささかリーファの耳には素っ気なく感じられる。夫人も「そうね」とうなずいた。
「草原の民の言葉なの。月のように美しい、って意味なんですって。私が生まれた頃は、丁度ひとつの部族と友誼を結べていたから。……だから、びっくりしたわ」
「え?」
「陛下があなたを呼んだ時。ミナのほかには誰も私のことを愛称で呼んだりしないのに、一瞬、私が呼ばれたのかと思って」
飛び上がっちゃった、と子供のように白状して、夫人はくすくす笑う。その目元がうっすらと赤い。
リーファは複雑な気分で視線をそらし、曖昧に、はあともへえともつかない相槌を打った。
(あいつ、声だけは無駄にいいからなぁ)
口下手な上に音痴でもあるのに、声質だけは持ち腐れの極上。気構えのないところへ名前を呼ばれたら、心が揺れても仕方がない。とは言え。
なんとなくリーファは、これ以上踏み込んだ話をするのがためらわれ、ちらっと扉の方を窺った。
「なんだか随分、話し込んでしまいましたね。しかもかなり立ち入った事まで」
「そうですわね。そろそろレウス様と陛下のお話も終わる頃合でしょう」
答えたマリーシェラは、侯爵夫人の顔に戻っていた。優雅で温和ながらも、まなざしには芯の強さが宿っている。その双眸で、彼女はリーファを見据え、言った。
「色々お聞かせしたのは、今から言う事を陛下にお伝えして欲しいからです。私は、もう“可哀想な子供”ではありません。もし今の暮らしが失われることがあれば、後の事は自分で決められます。侯爵家を出て、他家の白眼視などものともしない奇特な方に再び嫁ぐか。あるいは実家に戻って独り身のまま、ミナを跡継ぎとして共に辺境の地を守ってゆくか。いっそ神殿に入って神々にお仕えするという道もありますわね。いずれにせよ、それはもう、私の人生です。父に続いて夫に守られ、この上まだ陛下にまで雨避けになって貰おうなどとは思いません」
穏やかな口調で、しかしきっぱりと決意を告げた侯爵夫人に、リーファは絶句するしかなかった。石のように固まってしまった彼女に、夫人は目をしばたき、悪戯っぽく微笑む。
「あら、私が何も考えていない小鳥さんだと思っていて? レウス様が陛下に後を頼むとおっしゃった時、私もそばにいたのよ。今日あなたが陛下と一緒に来たのも、私の思いを確かめるように頼まれたからでしょう。そのぐらいは、警備隊員でなくとも分かるわ」
「あ……失礼、いえ、そうではなくて。その……無理を、されてはいないかと」
リーファはしどろもどろに弁解する。と、夫人はやや寂しげに微笑んだ。
「強がっているのは否定しないわ。でもそれは助けについてではなくて、レウス様のこと」
「…………」
「ああ、そんな顔をしないで。レウス様はこの頃よくあんなことをおっしゃるけれど、実際には陛下のお言葉の通り、百二十歳までだってお元気でいらしそうだもの、ね」
まるで逆にリーファを慰めようとするかのように、夫人は笑顔を見せる。
「そうですね」
ぎこちない笑みで肯定するよりほかに、リーファが出来ることはなかった。
間もなく夫人の推測通り、召使が二人を呼びに来た。暇を告げたリーファに、玄関まで見送ると言って夫人も付いて来る。
少し歩いたところで、廊下の角を曲がってきた誰かとぶつかりそうになった。
「っと……」
たたらを踏んだその人物に、侯爵夫人が頭を下げる。
「ディノス様、不注意で申し訳ありません」
「いや」
短く答えて姿勢を正したのは、四十代らしき男だった。身なりの立派なところからして、一族の者だろう。案の定、彼は感情の読めない複雑な顔で、侯爵夫人に言った。
「義母上こそ、お怪我は」
「大丈夫です。ありがとう」
ぎこちない会話だったが、しかしその堅苦しさまでもが既に様式化されていると見えて、二人の間に緊張感はない。複雑な事情と年齢を考えると親しくなれなくて当然だが、それでも、敵対してはいないようだ。
リーファは小首を傾げ、口をつくまま疑問をこぼした。
「園遊会にいらしたのは、別の方でしたね?」
レウスに手を貸そうとして拒まれた男を思い出す。侍従という雰囲気ではなかったから、息子だろうと踏んでいたのだが。
するとディノスと呼ばれた男はリーファを振り向き、眉をひそめた。
「弟が何か?」
なぜ警備隊員が、と質すでもなく、初対面の挨拶をするでもなく。いきなり、そんな不穏当な問いを返してくる。慌ててリーファは頭を下げた。
「あれは弟君でしたか。失礼しました。申し遅れましたが、私はリーファ=イーラ、警備隊員です」
「ああ、聞いている」
ディノスはうなずいただけで、名乗り返さない。自分のことは知っていて当然か、さもなくば、わざわざ身元を告げる必要を認めない、というわけだろう。その証拠に彼はもうリーファを無視して、夫人に向き直っていた。その目顔での問いかけに、夫人は小さく首を振って答える。
「何も心配するようなことはありませんでしたよ。アリオ様も、場は弁えていらっしゃいます」
「だと良いんですがね」
ディノスは苦々しくそれだけ言い、では、と大股に歩み去る。その背が見えなくなってから、リーファはひそっとささやいた。
「今のが長男ですか?」
「ええ。普段は彼がこの屋敷に住んで、会議だとかあれこれ、政治の場に出ているの。今は奥様もこちらにおいでになっていて、園遊会にご夫婦で出席される予定だったのだけど、生憎、体調を崩してしまわれて」
「問題児の次男が代役になった、と」
「問題だなんて」夫人は苦笑しながら否定した。「男兄弟だから、難しいところがあるのでしょうね。昔からあまり仲が良くないの、それだけよ。実際に何か問題を起こしたわけではないわ。アリオ様も普段は私達と同じでモラーファの館に暮らしているのだけれど、彼なりに色々と頑張っていらっしゃるもの。土地を継ぐことは出来ないから、どれか事業を引き継ぐか、新たに興すことになるのだけれど」
レズリアの法では、貴族の土地は分割相続が認められていない。伝統的に長男がすべて受け取り、次男以下や未婚の女は長男に養われるか、あるいは領内の事業を委譲されるという形になるのだ。兄弟仲が悪いと、これが何かと面倒の種になる。
「モラーファに……そうだ、あなたも何か知りませんか」
案内役の召使に、待ってくれと手振りで頼み、リーファは声を低めて夫人に問うた。
「シエナとモラーファを結ぶ乗合馬車で、カリーアの司祭様が荷物を盗られたんです。馬車に関係する事とか、それとも西方人が街にいたらしいとか、何か耳にされた事はありませんか?」
仕事の顔つきになったリーファを見て、侯爵夫人は少し眩しそうに微笑んだが、こちらもすぐに真顔になって考え込んだ。それから、慎重に首を振る。
「私の方では、変わった話は聞いていません。乗合馬車の認可や管理などは、今はアリオ様のお仕事で、レウス様は報告を受けられるだけですし。モラーファの警備隊については、レウス様がまだ時々ご自身で出向かれて、様子を見ていらっしゃるけれど……西方人の話は、出ていないのではないかしら。珍しい出来事があれば、いつも私にも聞かせて下さるから」
「そうですか。ありがとうございます」
ふむ、とリーファはうなずいて一礼した。再び召使の後について歩きながら、もしシンハが次男に確認を取っていないようなら、どうやって切り出そうかと考える。
客間に通されたと同時に、その心配は無用だったと分かり、ほっとした。室内には侯爵とシンハとロトの他に、もう一人、先ほどの長男によく似た男がいたのだ。但しこちらは、無愛想で気難しそうな雰囲気だった兄と違い、女二人が入るとすぐに立ち上がって笑顔を見せた。
「義母上、心ゆくまでお話し出来ましたか? リーファさん、先日はご挨拶もせず失礼しました。アリオ=ヴェーゼです、お見知り置きを」
平民相手なのでくだけた物言いではあるが、それでも彼は愛想よく自己紹介して一礼した。リーファも慌てて頭を下げる。
「こちらこそ。リーファ=イーラです、宜しくお願いします」
顔を上げた時にはもうシンハとロトが席を立ち、辞去の意を態度で表していた。アリオはすぐそれに気付き、そつなく言葉を続ける。
「お名前を伺っただけでお別れというのも寂しい限りですが、乗合馬車の件もありますし、今日の所は残念ながら諦めましょう。また王都滞在中にお会いする機会もあるでしょうが、その折には是非、色々とお話を聞かせて下さい。義母上も楽しみにしているでしょうから」
ね、と同意を求めるように笑顔を向ける。侯爵夫人がうなずくと、アリオは自ら先に立って一同を玄関まで案内した。
互いに無難な、またの機会を楽しみにしております、だの、お体ご自愛のほどを、だのといった挨拶を交わし、三人は侯爵家を後にする。普通なら貴人は馬車で訪問するものだが、この三人は徒歩なもので、見送る側はいささか困惑気味の様子だったが、むろんシンハは気にしない。
当然の顔をして歩いて行くシンハの横――さりげなくロトとは反対側――に並び、リーファはひそひそささやいた。
「そっちの首尾はどうだった?」
「可もなく不可もなく、だな。俺はこの後ロトと一緒に、認可を出した乗合馬車の業者を抜き打ち調査に行って来る。おまえは本部に行って、特段の事件がない限りは司祭の鞄探しを優先させてくれ」
「了解。あ、でも……えっと、侯爵夫人から伝言があるんだけど」
「うん?」
シンハは道端で足を止め、こちらを見下ろす。リーファはこんな場所で言っていいのかな、とためらいながらも、忘れない内に伝言を済ませた。
聞き終えたシンハは考える風情で沈黙し、ややあって「そうか」と短く応じた。その表情からは、何を思ったのか窺い知れない。
彼もまた侯爵夫人を気にかけている、それは恐らく間違いない。だがそれは彼女が、“可哀想な子供”だから、なのだろうか。それとも他の感情が――?
じっとリーファが見つめていると、視線に気付いたシンハは苦笑をこぼし、ごまかすように彼女の頭をくしゃっと撫でた。
「やめろよ、これから仕事だってのに」
「お貴族様に拝謁するわけじゃないんだから、いいだろう」
「そういう問題じゃない! まったくもう」
ぶつくさぼやきつつ、リーファは適当に髪をいじくると、怒ったふりをして本部へ足を向けた。
それ以上一緒にいると、訊いてはならないことを訊いてしまいそうな気がした。